白月王城の地下階層。華やかな王城において、太陽光が届かない暗部。そこには罪人を捕らえる地下牢があった。
物取りなどの一般的の刑事犯は収監されない。王城の地下牢に収監されるのは政治犯だ。
以前はアルテナ王家直属の近衛騎士団が牢の管理をしていた。しかし、帝国軍の占領下にある現在、地下牢獄の管理者は帝国軍の憲兵である。
「釈放だ⋯⋯。さっさと地下牢から出ろ」
赤髪の女騎士ロレンシアに釈放が言い渡されたのは、調印式の翌朝だった。たった一夜で牢から解放され、ロレンシアは驚きを隠せなかった。
ロレンシアは逃亡したヴィクトリカ王女の影武者として、講和条約の調印式に出席し、女官に正体を曝かれてしまった。捕らえられたロレンシアは、そのまま地下牢に収監された。
「へえ、いいのかしら? 私を解放してしまって。自身を王女と偽った罪で、処刑されると思ってたのだけど? 取り調べすらせずに自由の身? 帝国軍は杜撰なのね」
特殊な薬品で染毛剤を剥がされ、ロレンシアは久しぶりに赤い地毛に戻っていた。赤毛の彼女が影武者に選ばれた理由は、顔立ちがヴィクトリカ王女に似ているからであった。
王女の演技をやめたロレンシアは、いつも以上に強気な態度で憲兵を威圧する。しかし、帝国の憲兵は面倒そうに言い放つ。
「帝国は貴様の罪を問わない。皇帝陛下の寛大な御心に感謝するように。出て行け。向こうの部屋で貴様を待っている者がいるぞ」
看守の女憲兵はぐずぐずしているロレンシアを地下牢から追い出した。
自分を待つ者がいると聞かされ、心が浮き足立つ。先ほどとは打って変わり、ロレンシアは駆け出した。
「もしかして⋯⋯!」
収監されたのはたった一夜。けれど、処刑される覚悟を決めていた。死に対する恐れはない。しかし、心残りはある。それは幼馴染みのレンソンに別れを告げられなかったことだ。
「レンソンっ! 私も会いたかっ⋯⋯あ⋯⋯えっ、あ⋯⋯!」
「ご期待に添えず申し訳ありません。貴方の想い人であるレンソンさんは、近衛騎士団の宿舎に軟禁中です」
釈放されたロレンシアを出迎えたのは上級女官のリンジーだった。
「し、失礼いたしました! お見苦しい姿を⋯⋯。その⋯⋯申し訳ありません⋯⋯!!」
「構いません。心情は察しております」
先代からアルテナ王家に仕える古参の女官リンジー。執政すら頭が上がらない影の支配者。
リンジーは影武者で帝国を騙す作戦に大反対していた。
「お恥ずかしい限りです。結局、リンジーさんが恐れていた最悪の事態となってしまいました」
「終わったことです。結果論に過ぎません。それよりも今後について考えるべきでしょう」
影武者作戦を発案者は、執政と近衛騎士団だった。だが、結果を見れば、リンジーが懸念した通りだ。
ロレンシアは頭を下げるしかなかった。
「ですが⋯⋯」
「謝罪すべき相手がいるとすれば、私ではなく女王陛下でしょう。しかし、だからといって、女王陛下に跪いてはなりませんよ。これ以上、女王陛下に心労をかける真似は控えるように」
謝罪で気が楽になるのはロレンシアだけだ。
影武者を立てたのは祖国を案じての行為。優しいセラフィーナ女王が忠臣を咎められるはずもない。
「よく聞きなさい。帝国の女官長ハスキーと交渉し、ロレンシアさんの解放をお願いしました。お疲れとは思いますが、私の私室まで来ていただけますか?」
「はい。ここでは誰かに盗み聞きされてしまうかも」
リンジーの私室に連れてこられたロレンシアは、地下牢に収監されていた一夜の間に起こった出来事を教えてもらった。
皇帝によってセラフィーナ女王が辱められたこと。リンジーが女官ハスキーと交わした取引についてもだ。
老獪なリンジーが伝えた情報はそれだけに留まらない。セラフィーナ女王を亡き者にして、アルテナ王国の一致団結を図る不穏な動き。その可能性が高まっているとロレンシアに打ち明けた。
「教えてください。近衛騎士団の若手騎士が暴挙にでるとか。ありそうな話ではありませんか?」
「ありえません! 近衛騎士団にそのような大逆を考えつく背信者はおりません⋯⋯!! たとえリンジーさんでも⋯⋯それは近衛騎士団に対する侮辱ですよ!」
「そうでしょうか? 主君に忠義を尽くす騎士の考え方に習えば、大逆とは思わないかもしれませんよ。国主の尊厳を守るために安らかな死を与えた。そういう美談にも仕立て上げられるのですからね」
「そん身勝手な理屈は騎士の道理に反しています。絶対にありえません」
「帝国軍が王都ムーンホワイトを陥落させる前であれば、女王陛下に自決を促すのは有効な手段でした。しかし、今となっては、周回遅れです」
「え⋯⋯それは⋯⋯どういう?」
「帝国軍がセラフィーナ女王を手中に収める前であれば、死んでもらっても国益だったと言っているのです。しかし、これこそ結果論でしょう」
「その発言こそ⋯⋯平時であれば裏切りです」
「終わったことよりも、次を考えるべきです」
正直に告白するなら、ロレンシアは女官リンジーに対して好感を抱けなかった。
リンジーが私心を持たず、アルテナ王国に絶対の忠誠を誓っているのは尊敬に値する。しかし、そうだとしても、リンジーは騎士の考え方とは相反する思想の持ち主なのだ。
(この人の言い様は、さながら氷の刃⋯⋯)
セラフィーナ女王の殺害を目論む勢力が現れるとリンジーは言う。しかし、国家のために女王を斬り捨てる者がいるとすれば、それはリンジーなのではないか。その疑念を抱いてしまう。
「セラフィーナ女王陛下は、帝国領の後宮に連れ去られてしまいます。私は女王陛下の従者として、ロレンシアさんを推薦するつもりです。同行できる従者はたった1人です。ロレンシアさん。貴方に覚悟はありますか?」
「質問の意図は何でしょうか? 私は女王陛下に忠誠を誓った騎士。私の忠誠心を疑っているのなら心外だ。リンジーさんは私をお疑いなのですか?」
「血酒を飲むことなります。得体の知れぬ仙薬で、資質のない女が飲めば死に至ると聞きました。私のような年老いて醜い女は、血を吐いて死に至る劇薬だと」
「⋯⋯女王陛下や王女殿下には及びません。しかし、容姿には自信があります。自惚れのようで気が引けますが、私以上に適性を持つ者が城内にいるでしょうか」
「いないでしょうね。帝国の後宮に上がっても恥ずかしくない容姿、女王陛下への忠誠心。その2点だけを考えるのなら、貴方以上の適格者はいません。しかし、貴方には夫のレンソンがいるでしょう。新婚なのですから、迷いがあるのでは? 」
「それは⋯⋯っ! でも⋯⋯っ、レンソンには分かってもらいます。夫婦である前に、私達は近衛騎士団の騎士なのですから」
ロレンシアには幼馴染みの夫レンソンがいた。
講和条約の調停式でロレンシアを助けようとして、ハスキーに刃を向けられた青年貴族である。2人は同い年で、18歳を迎えた今年に婚姻した新婚夫婦だった。
帝国軍が王都ムーンホワイトを包囲し、長い籠城戦になると予想されたことから、ロレンシアとレンソンは簡素な結婚式を挙げた。
戦争が終わってから結婚する約束は、どちらかが戦死する前触れと古来から伝わっている。ならばと戦時中に結婚した。
「帝国の後宮がどのような場所であるかは、知っていますか?」
「そんなことを聞くなんて⋯⋯勘弁してください。色事に長けているとは言いませんが、私でもそれくらいは知っています」
「皇帝に夜伽を命じられたとき、反感を顕さず、女として皇帝を悦ばせる覚悟は? 従者だろうと後宮で暮らすのなら、貴方は皇帝の端女となるのですよ」
「重ねて申し上げます。私が女である前に、近衛騎士団の騎士です。主君を守るためなら、身を差し出す覚悟です。むしろ、我が身を捧げて、女王陛下と祖国をお守りできるのなら、望むところであります」
「分かりました。私もロレンシアさんの覚悟を信じましょう。処女が望ましいと帝国からは言われていました。しかし、容貌が優れているだけの貴族令嬢を送るのは不安です。女王陛下と親しい貴方を送るのが適任でしょう」
手飼いの貴族令嬢を従者とする案は、最初から採用する気がなかった。リンジーはロレンシアを選んだ。
従者がセラフィーナと親しく、支えてくれる存在でなければ、同行させる意味がない。
美貌と忠誠心を兼ね揃える人材。ロレンシアが最適解であった。
「それでは身体を清めて、上物のドレスに着替えてください。近衛騎士の格好は無骨過ぎます。衣装はヴィクトリカ王女のドレスを使わせていただきましょう。着替えの準備は整えてあります」
「その前に、1つだけお願いをしてもいいでしょうか」
ロレンシアはリンジーに一つだけ頼み事をする。ロレンシアは夫のレンソンに別れを告げるため、面会の機会を設けてほしいと頼んだのだ。
「分かりました。私が取り計らえば、面会くらいはできるでしょう」
ひょっとしたら、二度と会えないかもしれない。わずかな間とはいえ、夫婦となった間柄だ。別れを告げて、新しい人を探すように促すのが、離縁を突きつけるうえでの責任だとロレンシアは思った。
◇ ◇ ◇
「待ってくれ⋯⋯。他の誰かだっていいはずだ。どうして、どうして君じゃなければ駄目なんだ! そんなのはあんまりじゃないか!?」
レンソンの悲痛な慟哭に対し、ロレンシアは返す言葉を見繕えなかった。
夫婦である前に騎士。ロレンシアはそう考えている。けれども、レンソンの認識は違っていたのだ。
「頼む行かないでくれ⋯⋯っ! 女王陛下の従者なら⋯⋯女官の中から選べばいい! 君がメガラニカ帝国に行く必要はないはずだろ!」
「何を言っているのよ。我が侭を言わないで。近衛騎士の使命は、王の側に仕えることでしょう。レンソンだって騎士の誓いを立てたじゃない」
「それは⋯⋯そうだが⋯⋯だからといって⋯⋯、こんなことがあっていいはずがないだろ!」
「本当にごめんなさい。振り返ってみれば、軽率に貴方と結婚をしてしまったわ。私のことは綺麗さっぱり忘れて、もっといい人を見つけて。それこそ私が嫉妬しちゃうくらい可愛い子をね」
「待ってくれ! ロレンシア!」
消え入りそうな声で、ロレンシアは別れを告げた。
これ以上はお互いのためにならない。覚悟を決めたはずのロレンシアにも迷いが生まれかねなかった。
「必ず⋯⋯ッ! 必ず君を助け出す! 絶対に⋯⋯!! 絶対にだ!」
ロレンシアは振り返らなかった。レンソンと違ってロレンシアは一粒の涙も流さない。今のレンソンは近衛騎士の自覚を失っている。
本来、彼が救うべきは、囚われの主君であるべきだ。しかし、レンソンは別れを告げ、去って行こうとする愛妻に縋ってしまう。
「さようなら。レンソン⋯⋯っ!」
◇ ◇ ◇
夫との短い別れを済ませたロレンシアは、リンジーと共にセラフィーナ女王の寝室に向かう。
(女王陛下に会えるというのに、とても陰鬱になる。これも全て帝国のせいよ⋯⋯)
屠殺場に向けて行進させられる畜牛と同じ気分だ。
本来なら近衛騎士が立哨しているべき場所で、帝国軍の鎧を着た兵士が警備にあたっていた。
我が物顔で城内を警邏する彼らに、近衛騎士のロレンシアは苛立ちを覚える。しかし、これから皇帝と会うことを考え、精神を落ち着かせた。
「皇帝陛下とセラフィーナ女王は寝室におります。ですが、今は入室の許可が下りません」
王城の警備は軍務省の管轄だ。しかし、皇帝の身辺警護は警務女官が取り仕切っている。
皇帝への面会は、女官の許しを得なければならない。
「私は女官長のハスキー殿と約束を取り付けています。私は貴方の上官に命じられて参ったのです。通していただけませんか」
「存じております。しかし、今はお通しできません。入室の許可が下りるまで、こちらの待機室でお待ちいただけますか?」
リンジーはハスキーの名前を使って語気を強めた。しかし、若い女官は物怖じしなかった。年齢はロレンシアと同じか、少し上くらいの見た目だ。しかし、毅然とした態度を崩さなかった。
「昼過ぎには従者の候補者を連れていくと伝えていたのですが⋯⋯。こうなったら仕方ありません。待ちましょう」
面会の許可が下りるまで2人は待機室で待つことにした。
「⋯⋯リンジーさん。その⋯⋯女王陛下は⋯⋯、ご無事なのですよね⋯⋯?」
自分達の主君と会うために、敵国の許しを得なければならない。敗戦国の現実を突きつけられ、ロレンシアは不甲斐なく感じていた。
「精神に深い傷を負っているでしょう。しかし、肉体的に甚振られるわけではありません。帝国も今はセラフィーナ女王に死なれたくないはずです」
リンジーが明朝に寝室を訪れたとき、セラフィーナは淫臭が充満した部屋で眠っていた。
乱れたベッドシーツの上で、絡み合う男女が2人。セラフィーナの身に何が起きたのかは、容易に想像が付く。しかし、殴られた痕跡はなく、直接的な暴力は振るわれていなかった。
(時間通りに訪れたのに、待たされている⋯⋯。女王を気に入ったのでは⋯⋯? 皇帝が女王に惚れ込む。そんな事態がありえるのでしょうか⋯⋯)
計算高いリンジーは、むしろそうなってくれたほうがアルテナ王国の利益になると考えていた。
幼少の皇帝であっても、その意向には少なからず影響力がある。しかし、リンジーが考えは、帝国の重臣たちも分かりきっている。
(そうそう都合良くはいかないでしょう。何にせよ、私はアルテナ王国を守るために保険をかけるだけです。セラフィーナ女王には、国主の責任を果たしてもらいます)
リンジーはロレンシアにも冷たい視線を向ける。
赤毛の女騎士は、近衛騎士団の人気者だ。フォレスター家の令嬢で、家柄も悪くない。
男勝りな言動で周囲を驚かせることはある。しかし、女性らしい格好をさせて、化粧で彩ってやれば、非の打ち所のない美少女となる。
なにせ、ヴィクトリカ王女の影武者を演じられる美形の娘だ。優れたポテンシャルの持ち主である。
(王都ムーンホワイトが制圧され、国内の要所を押さえられた今、メガラニカ帝国に武力で反抗するのは愚の骨頂。ロレンシアさんには、騎士としてではなく、女として国のために戦ってもらいますよ)
ロレンシアが皇帝の子を産む。そんな状況を作れれば子供を利用して、アルテナ王国を守れるかもしれない。セラフィーナ女王の子供を帝国が利用するように、王国もロレンシアの子供を利用すればよいのだ。
(国土の分割だけは、何としてでも避けなければ⋯⋯)
ロレンシアはフォレスター辺境伯の娘。彼の一族は広大な農園を所有している。忠臣と名高いフォレスター辺境伯の領地が、帝国に奪われればアルテナ王国としても大損害だ。
ロレンシアが皇帝の後宮に入っていれば、どうであろう。フォレスター辺境伯の財産に手を出せるだろうか。ロレンシアが皇帝の子を出産すれば、フォレスター家の財産はその子供に受け継がれる。
「ロレンシアさん。私は貴方に期待しています」
リンジーは全てを明かさない。内実を伝えるとしても、それはロレンシアの父親、フォレスター辺境伯だけでよい。
老練な女官リンジーは、ロレンシアの胎に大きな期待を寄せる。隠された打算ゆえに、既婚者のロレンシアを従者に推薦した。
事情を知らないロレンシアは、騎士の顔で意気揚々と返答する。
「はい。必ず女王陛下をお支えいたします。騎士の誓いをけして忘れたりはいたしません!」