クロヴィス帝国が新大陸に派遣した調査団は壊滅し、狂海を越えた学者と冒険者は一人も帰ってこなかった。
悲劇が忘れかけられた約八年後、一人の女冒険者が生還を果たした。
粗末な小船に乗った女は、〈大瀑布の灯台〉に漂着し、自分を「新大陸調査団に参加した冒険者セドナ」と名乗った。奇跡的な生還劇をクロヴィス帝国は国威発揚の道具として使った。巨額を費やした大遠征の失敗を誤魔化すため、セドナは英雄に祭り上げられたのだ。
――しかし、公には語られていない事実もある。
人類圏の境界とされてきた〈大瀑布の灯台〉に漂着したセドナは、お腹を膨らませた妊婦の姿だった。胎児の父親が誰であるかは聞かずとも分かった。
新大陸の蛮族、リュカテオコル族にセドナは辱められていたのだ。
セドナは〈大瀑布の灯台〉で双子の女児を出産した。金髪白肌の母親から生まれるとは思えない真っ黒な姉妹だった。新大陸を支配する蛮族の遺伝子が色濃く現れていた。
セドナは手ぶらで帰ってきたわけではない。貴重な霊草の苗木を持ち帰ってきた。
それは心臓病を完治させる霊薬の原料ともなる代物だった。生まれつき心臓に疾患を持つ夫と息子を助けるため、セドナは新大陸を脱出してきたのだ。しかし、既に手遅れであった。
セドナがクロヴィス帝国に帰国したとき、ラファエルの寿命は尽きかけていた。霊薬の効果で心臓は快調に向かったが、衰弱しきったラファエルの身体は限界だった。死に瀕した愛夫から、残酷極まる不幸を告げられた。
息子は八年前、セドナが新大陸へ旅立った翌月に病死していたのだ。夫婦の愛し児は夏風邪をこじらせ、あっけなく命を落とした。
クロヴィス帝国に戻ってきたことに後悔はない。しかし、新大陸の調査団に参加していなければ、愛する息子と最期の時間を過ごせた。その後悔は一生拭えないだろう。
「夫の死に目には立ち会えたわ。それだけでも十分よ。⋯⋯私しか生き残れなかった。こうして祖国に帰ってこれたのは奇跡みたいなものだわ」
冒険者を引退したセドナは、帝国辺境の農村で余生を送っていた。
愛用の大斧は壁に飾られ、刃は錆びついている。自慢の筋力もすっかり衰え、薪割り程度で息切れするようになった。しかし、今の生活に不満はない。
花壇で彩られた庭には、夫と息子の墓標が並んでいる。
「クロヴィス帝国は新大陸に第二次調査団を派遣する予定です。セドナ殿のご助力をいただきたい。冒険者組合からの要請です」
親しくしていた受付嬢ミーギャンが突然訪問してきた理由は分かっていた。
「私、もう冒険者ではないわ」
セドナが持ち帰ってきた霊草の苗木は、夫と息子を救ってくれなかったが、クロヴィス帝国に巨万の富をもたらした。
心臓病だけでなく、様々な臓器の疾患を癒やす万能薬。今ではエリクサーと呼ばれている。
「二度目の遠征はやめたほうがいいわ。他の国も失敗したばかりでしょ。最初の遠征で狂海を越えられたのは運に恵まれたからよ。実際、隣国の大船団は大渦に巻き込まれて壊滅したと聞いたわ。新大陸の海は時間の流れが狂っている。ダンジョンの深層と同じよ」
「多くの国々が新大陸を目指しましたが、辿り着いたのはクロヴィス帝国の第一次調査団だけ⋯⋯。そして、無事に帰ってきた人間はセドナ殿のみです。貴方は狂海を二度も越えた」
「表向きはそうなってるわね。唯一の生還者セドナ。⋯⋯でも、この私が『無事に戻ってきた』なんて言えるのかしら? 私が慰み者にされてた事実は世間で知られないのよ」
セドナは木製のベビーバスケットに寝かせた乳児を眺める。すやすやと寝息を立てる漆黒肌の双子姉妹。リュカテオコル族の血筋を受け継いだセドナの愛娘達だ。
「⋯⋯⋯⋯」
「すくすくと育っているわ。とても生命力が強い。私達とは違う黒曜石の艶肌。お医者様が言っていたわ。遺伝子が大きく異なる雑種のほうが個体としては強いって⋯⋯」
椅子から立ち上がったセドナは、腹を痛めて産んだ双子の娘達を撫でる。父親の遺伝子がとても強い。だが、瞳の色、目元は母親にそっくりだった。
体調を崩してばかりだった最初の子供に比べ、双子の姉妹は意気軒昂な乳飲み子だ。旺盛な食欲でセドナの母乳を吸い付くし、四つ這いでそこら中を歩き回る。
「新大陸では酷い目に遭ったと聞いています。だからこそ、相手に復讐したいとは思いませんか?」
「復讐? リュカテオコル族にってこと? 私は十数年も新大陸にいたのよ。産んだ子供は二人の娘だけだと思う? そんなわけないでしょう」
セドナは下腹部を撫でる。愛する夫ではない男に孕まされ、黒肌の子供を何人も産み落とした。
事情を話せばラファエルは許してくれただろう。だが、愛する男が傷つく姿をセドナは見たくなかった。だから、死に際のラファエルには何も伝えなかった。
「男の子や女の子⋯⋯蛮族の赤ちゃんを沢山産んでしまったわ。あっちに残した子供達が不幸になってほしいとは思わない」
母親としての自覚はある。我が子の幸せを願っていた。どんな経緯であれ、自分が産んだ子供には違いないのだ。新大陸を脱出し、クロヴィス帝国に帰ってきたのは優先度の違いでしかない。
新大陸で一生涯を過ごす選択肢もあった。しかし、もっとも愛している家族をセドナは捨てられなかった。
「望まずに産んだ子供だとしても?」
「不思議に思う? それが母親という生き物よ。ミーギャンも子供を産めば私の気持ちが分かるわ」
「⋯⋯私はたぶん結婚しませんし、子供も産まないと思います」
「そうかしら? 人生どうなるか分からないわよ」
「セドナ殿は⋯⋯。こんな人生でいいんですか? 尊厳を傷つけられたままで⋯⋯!」
「ええ。私はもういいの⋯⋯。だって、ラファエルには知られずに済んだわ。あのお墓で眠る夫にとって、私は新大陸から生還した偉大な冒険者。でも、死んでしまった息子には、もっと母親らしいことをしたかったわ。それだって私が原因⋯⋯。新大陸の遠征に参加したのは私の意思よ。誰かを恨むのは八つ当たりでしょ?」
「本当に? 隠遁生活で一生を終えられるおつもりですか?」
「そうよ。持ち帰った霊草のおかげで大金が手に入ったわ。生活で苦労はしてない。母親として娘達の成長を見守るわ。⋯⋯本当は私だけで帰るつもりだった。あの子達は意図せず、こちらに連れてきてしまったわ。きっと外見で苦労する⋯⋯。だから、母親として守ってあげたいの」
「セドナ殿⋯⋯。新大陸進出はクロヴィス帝国の国是となってしまいました」
「責任を痛感してるわ。私が霊草を持ち帰ったせいで、誰もが新大陸を楽園だと勘違いしてる⋯⋯。そんな場所ではないのに⋯⋯」
「二度目の大遠征は皇帝陛下の勅命に基づく決定事項です。帝都の冒険者組合は第二次調査団も成功させなければならない」
「私に何を期待しているのかしら? 冒険者としての全盛期は過ぎたわ。もう斧を振り回す気力だってない。娘達の子育てで手一杯よ。お墓の手入れもしなきゃいけない」
「――私も第二次調査団に参加します」
「冒険者だけでなく、冒険者組合の職員まで動員するっていうの?」
「私は医術の心得もありますから。帝都の冒険者組合は総力を結集して、今回の依頼に挑む方針です。お願いします。大遠征の成功率を高めるためにも、セドナ殿のお力が必要です」
「ああ⋯⋯。やっぱりそうなのね。貴方は今すぐ冒険者組合を辞めたほうがいいわ。万が一、新大陸に辿り着いても⋯⋯。私よりも酷い目に遭うわよ」
「もちろん、覚悟の上です」
「リュカテオコル族は未開の蛮族。文明レベルはクロヴィス帝国の足元にも及ばないわ。けれど、新大陸の呪術や薬草は私達の想像を凌駕する⋯⋯」
セドナは胸元を指先でなぞる。かつては朱色の刺青が全身を覆っていた。奴隷巫女の呪縛から解き放たれたが、自由を手にするまでの苦労は子宮に刻まれている。
「ミーギャン⋯⋯。貴方にだけ特別に教えてあげるわ。話したところで誰も信じない。これから新大陸に向かう貴方なら実感するだろうから。⋯⋯私が調査団に参加したのは何歳だったか覚えてる?」
「当時のセドナ殿は十八歳だったかと思います」
「さすが私担当の受付嬢だわ。よく覚えているわね。クロヴィス帝国を旅立って八年、こっちに戻ってきて一年⋯⋯。十年も経ってない。でも、私の実年齢は三十路を越えているわ」
「え⋯⋯?」
「新大陸で私は十五年以上の歳月を過ごしたわ。こちらでは八年しか経っていなかった。新大陸とこちらでは時間の流れが大きく異なっているのよ。次元の渦みたいなものが狂海にある。航海中、私のお腹が急に膨らんで、半月足らずで臨月を迎えた」
「そういえば、全滅した隣国の大船団は食料が腐ったと⋯⋯。まさか時間の流れが速いせいで⋯⋯?」
「クロヴィス帝国の調査団が狂海を越えたときは逆だったわ。食料が傷まなかったのよ。当時は気候が涼しいからだと勘違いしていたわ。あの海は理屈じゃ説明できない⋯⋯」
「セドナ殿は十五年以上も新大陸に囚われていた。それでも帰ってきたのですよね」
「ある占い師が教えてくれたのよ。私が夫に会う最期の機会だとね⋯⋯。貴方も占いが趣味だから、分かってくれるでしょ」
「セドナ殿は占いを信じないタイプだと思っていました」
「ええ。昔の私はそうだったわね。今は違うわ。貴方が新大陸に赴くのを私は止めたい。でも、きっと運命だから変えられないわ。⋯⋯このお守りを貴方にあげるわ」
セドナは翡翠のペンダントを手渡した。
「このお守りは?」
「占い師からもらったお守りよ。世界の運命が不変なら、きっとミーギャンを導いてくれるわ⋯⋯。私は娘達と残る。私が乗船していたら、狂海は越えられず、第二次調査団が新大陸に到達することはない」
予言めいた台詞をつぶやき、セドナは悲しげに顔を俯かせた。
(新大陸到達を阻む狂海では時間の流れが歪む。因果すらも捻じれ狂う。私がラファエルと再会するためには、占い師の予言が必要だった。あの予言を聞かなければ、クロヴィス帝国に帰る決心が定まらなかったわ。 だから、この翡翠を貴方に渡す。これは運命の道筋⋯⋯)
翡翠のペンダントは、受付嬢ミーギャンを新大陸にいざなう道標となる。
(ごめんなさい。私は話していない秘密が沢山あるわ。だって、海を越えた先で貴方は私と再会する。私にとっては終わった過去、ミーギャンにとってはこれから始まる未来⋯⋯。本当に不思議だわ)
意図せぬ時間遡行が運命を決める。狂海の先は時間の流れが捻じ曲げられているのだ。
(ミーギャン、貴方も新大陸でコヨトルの子供を産む。そういう運命と決まっている。だから、翡翠のお守りは返すわ)
クロヴィス帝国の第二次調査団は三ヶ月後、新大陸に向けて〈大瀑布の灯台〉から出発した。第一次調査団を上回る規模の大船団は冒険者組合が全面的なバックアップを請け負った。補助人員として受付嬢ミーギャンも旅立った。
そして、誰一人として帰ってくることはなかった。



