――カトリーナはサムの申し出を受諾してしまった。
理由は2つある。
1つ目の理由は、サムを叱りつけていたイマノルが、あまりにも大人気なかったので、サムに対する哀れみからだ。
2つ目の理由は、隣国からやってきた放浪学徒の話を聞いてみたかったからだ。
サピナ小王国への移民は断るつもりだ。カトリーナには6歳になったばかりの息子がいるのだ。革命が起こったばかりの危険なサピナ小王国に幼い息子を連れて行く気にはなれない。
そもそもラドフィリア王国での暮らしに不満はなかった。夫の収入は、3人で暮らすのに十分過ぎるくらいある。
カトリーナの人生は駆け落ち同然の早婚を除けば平凡そのもので、今の生活は安定しているが退屈だった。主婦としての生活には満足している。けれど、変わり映えのしない日常を過ごす中で、異国の学徒と会えるのだ。
サピナ小王国に行きたいとは思わない。けれど、何が起こっていたのかを知りたいとの好奇心は抱いてしまう。
サムの話によると、ルキディスと名乗っているその学徒は貴族出身でありながら、地位を捨てて革命に参加するなど、波乱万丈の人生を送ってる人物だという。
革命に成功すると、国費でラドフィリア王国に留学し、祖国を復興させるために様々な活動をしている。職人の招致もサピナ小王国を復興させるために行っていることらしい。
どんな人物なのか気にならないはずがない。冷やかしで家に迎え入れてしまうのは気が引けたが、好奇心には勝てなかった。
「はじめまして。俺はルキディスと言います。家名は革命のときに捨ててしまったので性はありません。ルキディスと呼んでください」
来訪したのは黒髪の美青年だった。黄金色の瞳が特徴的で、年齢は20歳前後だろう。今年でカトリーナは23歳となる。歳の離れているイマノルは三十路を越えている。放浪学徒のルキディスは、夫よりも年齢が近い異性であった。
学徒は貴族の次男や三男坊が多い。資産に余裕のあり、暇を持て余している貴族がなる職業だ。学問一筋で生きることが大半だ。学者を目指す者も多く、平均年齢はかなり高い。
サムから若いと聞いてはいた。しかし、夫と同じくらいか、少し上だと思っていたカトリーナは、若い青年の登場に意表を突かれた。
「はじめまして……。私はカトリーナ・アーケンですわ」
ルキディスは笑みを浮かべる。やっと獲物と接触できた。見目麗しい幼妻と聞いていたが、想像していたよりも若く美しい。
6歳の息子がいる母親には見えなかった。けれど、カトリーナの口調は実年齢以上に大人びている。奥方と呼ぶに相応しい、落ち着いた雰囲気の女性だった。服装も同年齢の若娘に比べ、控え目なファッションだった。
ルキディスは気取られないようにカトリーナの身体を視姦する。髪は赤味のあるベージュ色。切らずに背まで伸ばしている。髪の手入れは欠かしていないようだ。毛先は乱れておらず、こだわっているのが一目瞭然だ。
肉付きは中庸といったところ。冥王の眷族達が巨乳揃いであるせいか、カトリーナの胸は控え目だと錯覚してしまう。けれど、カトリーナは一般的なバストサイズであった。小さいわけでもなく、大きすぎるわけでもない。
胸部よりは腰のくびれに意識を向けてしまう。服装で隠されているがキュッと突き出た美尻を揉みしだきたくなる。また、端整な容貌は夫のイマノルが妻を自慢し、ひけらかしたくなるのも納得がいく美しさだ。
カトリーナとイマノルは、美女と野獣と揶揄されることが多い。カトリーナに手を出そうと近づいてきた不届きな者は、過去に少なからずいた。しかし、全員が撃退済みだった。夫と息子を捨て去ってまで、その身を許してしまいたくなる異性は現れなかった。
(こんなに若くてハンサムな人だとは思わなかったわ……)
ルキディスの美男子ぶりに惹かれてしまうものの、カトリーナは母親であることを思い出し、劣情を抑制する。今のカトリーナがルキディスに対して抱く感情は「若くて、かっこいい人」というだけだ。
ルキディスは〈誘惑の瞳〉を使わなかった。失敗する可能性が高すぎると判断したからだ。
瞳術が失敗したときの代償は、相手の抵抗値を高めてしまうことである。
一度失敗したら、次に〈誘惑の瞳〉を使ったときに失敗しやすくなる。連続で失敗すれば、相手はルキディスを警戒するようになってしまう。〈誘惑の瞳〉を使うのは、ここぞという場面でなければならない。
「サムから話は聞いていると思いますが、俺がカトリーナさんに会いに来たのは説得するためです」
「ええ。サムからちゃんと聞いていますわ。夫を説得するために、まず私を説得したいのでしょう?」
サムは家に来ていなかった。ルキディスはサムに小遣いを渡して外で遊ばせている。そのときに息子のジェイクを連れて行くように誘導しておいた。素直なサムは思惑通りに動いてくれた。今ごろはジェイクを連れ出して街中で遊んでいるはずだ。
ルキディスは息子のジェイクと顔を合せたくなかった。
大人であれば失踪させることができるが、子供は失踪させられない。たった一人の大切な息子がいなくなれば、イマノルは必死に探すだろう。そうなってしまったら、イマノルという優秀な鍛冶職人をサピナ小王国に移民させることはできなくなる。
妻のカトリーナと弟子のサムだけを消す。余計な人間に手を出すのはリスクだ。標的としていない相手とは、極力接触しないように努めなければならない。
「まずはサピナ小王国のことから話しましょうか。我が国の現状を知ってもらわないことには始まりません。カトリーナさんは国外に出たことはありますか?」
「いいえ。私はラドフィリアの王都生まれて、お恥ずかしながら王都を出たことが一度もありませんの……。だから、ルキディスさんが、どんなお話しをしてくれるのか、楽しみにしていましたわ」
カトリーナがルキディスを家に迎え入れたのは、異国の珍しい話を聞くことが目的だった。
夫に内緒で家に異性を家に招き入れてしまった。褒められた行為ではない。しかし、カトリーナは変化に乏しい日常に飽きていた。夫のイマノルは仕事ばかりで相手をしてくれない。
鍛冶職人の婦人同士での集まりはある。だが、結婚したばかりの頃、カトリーナは若すぎて上の世代の会話についていけなかった。始まりでコミュニティに入り損ねたため、婦人同士のつながりは今も薄い。
息子のジェイクが6歳となり、最近は話し相手になってくれていた。けれど、さすがに幼すぎて難しい会話はできない。
「まずは俺が参加していた革命のことから話します。自分で言うのもアレですが、受けはいいですよ」
カトリーナにとってルキディスは最良のお喋り相手となった。
隣国からやってきた美青年が語った革命の話は1つの冒険譚だった。暴君の手先となっている憲兵を欺き、革命の同士を集めながら、時には王宮の内情を知るためにスパイを送り込み、軍事機密である兵の配置を盗み出す。
さらには王族になりすまして、誰にも気付かれぬまま備蓄してあった軍の物資を盗み出すなど、カトリーナの期待を上回る話を聞かせてくれた。
「サピナ小王国の新しい王様は、どんなお方なのかしら?」
カトリーナは気になっていたことを質問した。革命軍の主要なメンバーは王となっていない。普通は革命の首謀者が新たな王として即位するものである。しかし、サピナ小王国では違った。
「サピナ小王国の新王は、ハーフエルフの女王です。圧政で国を乱していた先王は、事もあろうにエルフ族の女性を誘拐して、自分の妃にしていました。絶望したエルフ族の女性は自殺してしまったのですが、実は自殺する前に娘を産んでいたんです」
「まぁ……それは……」
「革命軍は王家の血を引くハーフエルフの少女を保護し、新王に就かせました。革命軍の幹部が王となったら、私欲で王権を簒奪したと思われかねない。……まあ、ぶっちゃけた話をすると、革命に納得できない国内勢力を黙らせるために、王家の血を絶やさせるわけにいかなかったのです」
さらなる真実を述べると、即位したハーフエルフの女王とは〈変幻変貌〉で化けたルキディスだ。
先代の愚王がエルフ族の美女を誘拐して、実娘を産ませたのは事実だ。しかし、人間の王に強姦されて、望まぬハーフエルフの娘を産んだ母親は絶望して自殺。そのとき、幼い娘と心中してしまった。
革命を先導していたルキディスにとってこれは計算外だった。娘は生きていると思って王城を攻め落としたら、後宮の裏庭に母娘の墓があったのだ。
仕方なくルキディスは、〈変幻変貌〉でハーフエルフの少女に化けて、サピナ小王国の王に即位した。
「女王陛下は父親と違って賢い方です。母君に似られたのでしょう。女王陛下が旧支配層の勢力を説得してくれたおかげで、国の混乱は収まりました。地方の農村では、まだ革命に納得できていない貴族が悪さをしているようですが、近いうちに安定します」
普段はルキディスがハーフエルフの女王を演じている。留守の間は変身能力を持つルキディスの子供で誤魔化していた。
眷族の産む魔物は、人間並みの知性や特殊な能力を得ている。強い子を産むには、長い妊娠期間が必要となる。ルキディスがサピナ小王国を1年間離れられなかったのは、女王を演じる魔物を作るのに1年かかったからだ。
(いい加減、俺以外に演じさせたいのだがな。女王役は精神的に疲れる……)
冥王は人間の雌を孕ませる存在、生物学上は雄だ。ルキディスの精神は人間の男性に近い。〈変幻変貌〉を使えば完全な女性を演じられるが、精神的不一致は苦痛であった。
「今まで話したのが、サピナ小王国の現状です。我が国では優秀な人材を求めています。イマノルさんのような鍛冶職人が移住してくれるのなら、庭付きの立派な屋敷を提供しますよ」
「招致に応じてくれる人は少ないのでしょう?」
「ええ。残念ながら、今の生活を捨てるには勇気が必要です。本音をいえば、俺がイマノルさんだったら応じないでしょう。妻子がいて、ここでの暮らしが順調であれば、サピナ小王国に移住するメリットがありません」
「あらら? そんなことを言ってよろしいの。私を説得して、夫を動かすつもりだったはずではなかったのかしら?」
「不真面目だと笑ってもらっていいですが、俺は仕事をしているように装っている部分があります。成果が出せないと過去の栄光を誰かに自慢したくなるんですよ。俺の話は、楽しんでもらえましたか?」
カトリーナは、ルキディスが言わんとしていることが分かった。
彼は説得することを途中で諦めて、カトリーナを楽しませることに専念したのだ。見込みがない相手に移民の話をしても仕方がない。それなら存分に楽しんでもらおうと、革命軍の冒険譚を聞かせてくれたのだろう。
(さすがは貴族の生まれだわ。とっても頭が回る人だと分かるわ。私が冷やかしで、家に迎え入れたことに気付いていたのね)
「それじゃあ、俺はそろそろ帰ります。いつまでも上がり込んでいたら邪魔になってしまう。そろそろサム達が帰ってくる頃合いかな?」
ルキディスは勝負に出た。ここでしくじったら、計画を大きく修正しなければならない。
――黄金の瞳が、カトリーナの瞳を覗き込む。
ルキディスは〈誘惑の瞳〉を発動した。冥王の瞳術がカトリーナの紫の瞳を囚える。
植え付ける感情は、『好奇心』だ。
カトリーナがルキディスを招き入れたのは、異国のことを知りたいという好奇心からだ。
その好奇心を煽り立てる。〈愛情〉や〈好意〉は植え付けない。家族のことを愛しているカトリーナに、非倫理的な〈恋愛感情〉を差し込もうとしたら、おそらく瞳術は弾かれてしまう。だが、〈好奇心〉は、家族への裏切りにならない。
「もう帰ってしまうの? まだ時間は大丈夫よ」
(よし。食らいついたぞ……!)
ルキディスは成功を確信した。小さな布石である。だが、次の成功の基礎となる重要な足掛かりだ。
「俺の話を聞きたいのなら、また時間を作りますよ。今度はサムも呼びましょう。サムは好奇心が強くて、俺に外国の話をしてくれと、会う度にせがんで来るんです。次はサムにも話していない話をしますよ」
「それは、どんな話なのかしら?」
「西の大国『アミクス帝国』の話です。エリュクオン大陸で、最大の勢力を誇る西の覇権国家に、俺は1度だけ行ったことがあるんです」
〈誘惑の瞳〉を発動させるまでもなかったかもしれない。
カトリーナは再び会う約束をルキディスと交わした。二人っきりで会うと言ったら警戒されただろう。しかし、狡猾な魔物は、サムという弟子を介在させることで、カトリーナに警戒心を抱かせなかった。
「時間は……、明後日の午後は大丈夫ですか?」
「私はいつでも大丈夫。専業主婦はとっても暇なのよ。ジェイクは手がかからないようになってきたから、時間を持て余しているわ。サムのほうも時間は大丈夫だと思う。最近は任せられる仕事がないって、主人から暇を出されているから」
「明後日の午後、また来ます。サムによろしく伝えておいてください」
ルキディスは焦らない。友好的な関係を築くことができたので大成功だ。今は精々が友達同士の関係だ。しかし、男女の友情は遅効性の猛毒に似ている。ゆっくり確実に心を蝕んで、踏み越えてはいけない一線を越えさせる。
(のんびりはしていられない……。イマノルが工房に篭もりっきりで、家に帰って来ない今の時期が勝負所だ。夫が留守の間にカトリーナを寝取る! 肉体関係を結び、俺の子を孕ませてやるぞ……!!)
ルキディスは、次の計画を頭の中に描く。
魔物は殺戮と破壊にしか興味がない。けれど、冥王はその例外だ。食欲・睡眠欲・性欲がある冥王は人間に近い精神構造を持っている。人間から魔物に転生した眷族よりも、冥王のほうが人間らしい部分があるのはそのせいだ。