冥王は日夜、新薬の研究に励んでいる。以前、シルヴィアの尻穴に投与した自白剤はルキディスが独自開発した薬剤だ。最弱の魔物である冥王が人類に対抗するためには、頭を使っていかなければならない。
かつて存在した魔王は絶対的な力を持っていたという。しかし、勇者という超絶対的な力によって、この世から消滅させられた。
冥王は魔王と同じ轍を踏まない。暴力は可能な限り使わず、知略で人類を滅亡させるつもりであった。
「上手くいきそうですか?」
「シルヴィアの協力で試作品が完成した。どれほどの効果があるかは人間で試してみないと分からない」
このところのルキディスは、シルヴィアの眷族化と並行して、ある新薬の研究に力を注いでいた。
「にゃにゃ? またお薬? どんな効果があるのニャ?」
ユファはルキディスが持っている小瓶を指差す。硝子瓶の中は半透明の薬液で満たされている。
「これは魔素汚染の耐性を上げる新薬だ。投与された人間の免疫力と基礎代謝を底上げし、魔素に対する抵抗力を増強する。シルヴィアの血液から生成した。眷族化したばかりのシルヴィアは、人間の性質を残している。その血液を使えば魔素耐性をあげる薬ができるのではないかと考え、ずっと研究をしていたわけだが、ついに完成したぞ」
「魔素の耐性をあげる薬……? 魔物退治をするものには有用かもしれませんが、ご主人様のお役に立つのでしょうか?」
シェリオンは薬の用途を想像できず首を傾げる。魔素の耐性を上げる効果は、人間にとって有益である。けれど、魔物である自分達にとっては使い道がないと思えてしまう。
「人間の雌が眷族化に失敗して苗床化してしまうのは、肉体に宿る魂魄が冥王の魔素や瘴気に耐えられないからだ。それを俺達は眷族適性がないだとか、器がないと呼んでいる」
理屈上は魂魄が自壊しなければ眷族に転生するはずであった。それなら薬などを使って、眷族適性の要素を増強してやれば良いとルキディスは考えた。
「この新薬が正しく作用すれば、魔素汚染の耐性が上がる。苗床化してしまうような人間であっても、薬を投与すれば眷族となるかもしれない。とはいえ、眷族化の条件は未解明だ。耐性を弄くれば眷族化すると考えるのは安易過ぎるかもしれない……。だが、何事も試してみなくてはな」
「なるほどニャ~。その薬をカトリーナに使う気にゃのね」
「これで下準備が整った。ここからはカトリーナを堕とすことに注力するぞ」
冥王ルキディスの狙いはカトリーナ・アーケン。家族構成は夫イマノル・アーケンと6歳の息子ジェイク・アーケン。家族3人で仲むつまじく暮らしている人妻である。
失踪しても怪しまれない娼婦や天涯孤独だったシルヴィアとは違う。カトリーナは家庭を持つ妻だ。買い物帰りに拉致するような荒業は使えない。
後始末が重要なのだ。特に鍛冶職人のイマノルは、サピナ小王国へ移住してもらう予定だ。失踪した妻を探すイマノルを殺害して、どこかに埋めるような事態は避けたい。
妻のカトリーナだけを社会から抹消し、夫のイマノルはサピナ小王国で新しい人生を歩んでもらわないと困るのだ。
「――まずはカトリーナとの接触からだ」
ルキディスの瞳が怪しく輝いた。
貞淑な人妻カトリーナを簒奪するのは手間のかかる。けれど、絶対に成し遂げる自信がルキディスにはあった。
冥王は雌を堕落させることに特化した魔物だ。聖女の如く清廉で、身持ちの固い女性であろうと冥王の魔手からは逃れられない。
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カトリーナ・アーケンが歩んできたこれまでの人生は、とても平凡なものだった。他人と違うのは結婚したのが、同世代より早かったことくらいである。
17歳のときにカトリーナはイマノルと結婚した。
本当はこんなに早く結婚する気はなかった。しかし、イマノルの子を妊娠していると分かり、迷う暇もなく結婚が決まってしまった。
いわゆる“デキちゃった婚”である。授かり婚なんて言い方もあるらしいが、カトリーナに言わせれば「デキちゃった……」が表現として正しいと思う。
意図して懐妊するつもりはなかった。けれど、イマノルとの結婚が嫌だったわけではない。
カトリーナが妊娠したとき、イマノルは24歳。独り立ちして間もない鍛冶職人だった。仕事の腕を磨くイマノルを妻として側で支えたいと思っていた。だが、厳格な両親がイマノルとの結婚を認めてくれるかが心配で、結婚に踏み切れなかったのだ。
カトリーナの両親は、末娘を裕福な商家に嫁がせようと、当人が知らぬところで色々と画策をしていた。娘を良家に嫁がせれば一家は安泰である。カトリーナは整った容姿を持っていて、幼少期から近所で噂が立つほどの美少女だった。
父母はカトリーナを兄達よりも可愛がってくれた。しかし、カトリーナは両親を好いていなかった。容姿が美しいから褒めてくれるだけで、本当の意味で自分を愛していないと気付いていたからだ。
牛飼いが家畜を大切に世話するのと同じだ。出荷の時期になれば、本人の意思などお構い無しに高値で売り払う。誰かが高く買ってくれるから大事にしているだけなのだ。
カトリーナが7歳年上のイマノルに惹かれたのは、父性を求めていたからかもしれない。イマノルは粗暴な男のように見えるが、とても紳士的で優しい男性だった。鍛冶職人らしく体格は大きい。作業音に負けないように大声で喋る癖がある。そのせいで誤解されがちだが、心根はとても優しい人物だ。
「昨日のサムはとても落ち込んでたわ。ねえ、貴方? 強く言い過ぎだったのはなくて?」
「バカ弟子に物を教えてやっただけだ。まだまだ半人前のくせに、サピナ小王国に行きたいなんていうから、怒鳴りつけてやったんだ。アイツは何も分かっちゃいない! 革命が起こって国が荒れているんだぞ。新しく即位した王が頑張っているらしいが、危険なことに変わりはない。そもそも弟子入りして1年足らずの小僧が、サピナ小王国で何ができる?」
「それはそうかもしれないけれどね。言い方ってものがあるでしょう? まだ、サムは子供なのよ」
「ふん! もう立派な男だ。どこかで移民の話を聞きつけて来たんだろうが困ったもんだな。私の工房で泣きべそかいているような半人前は、どこに行ってもやっていけない! 俺が弟子入りしたところの親方はこんなもんじゃなかったぞ」
少し言い方がきつかったのはイマノルも自覚していた。しかし、半端な技術しか修めていない愛弟子を異国に送り出す気にはなれなかった。そもそもサピナ小王国が求めているのは、技術者を育成できる人材だ。
サムはすぐ泣きベソを掻く気弱な少年だったが、同い年だった頃のイマノルに比べれば覚えがいい。あと数年じっくりと経験を積めば独り立ちできる。それまで待てばいいのだけのことだ。しかし、あの年頃の少年は生き急いでしまいがちだ。
「仕事のことに関しては、あまり口出ししません。けれど、家庭のことも忘れないでくださいね。そうじゃないとジェイクは父親の顔を忘れてしまうかもしれないわ」
「それに関しては悪いと思ってる。仕事が立て込んでるんだ。しばらくは工房に篭りっきりになる。こればかりは勘弁してくれ。閑散期になったら、家族サービスはちゃんとやる」
「はあ、まったくもう。以前にも、似たような台詞を聞きましたわ……。家の場所を忘れて、工房から帰ってこれないなんてことにはならないでちょうだい」
カトリーナだって夫の立場は分かっていた。
イマノルの稼ぎは悪くない。夫が工房に篭もる時間に比例して、アーケン家の収入は上がるのだ。
カトリーナは専業主婦で副業などはやっていない。収入に関しては夫に頼り切りであると自認している。だが、幼いジェイクが父親と触れ合えていない。そのことが母親として残念だったのだ。
カトリーナとイマノルの結婚は駆け落ちに近いものだった。予想通り、カトリーナの両親は結婚に大反対した。裕福な商家に嫁がせるはずだった可愛い末娘が、独り立ちしたばかりの若い鍛冶職人と結婚するというのだ。
嫁入りの計画を破綻させられた両親は大激怒した。
結局、両親とは何度も話し合ったが和解できなかった。最後は人格者として評判が高かった修道女を交えて話し合ったが、喧嘩別れに終わった。
現在も両親とは疎遠なままだ。カトリーナのほうも両親への愛想は尽きていた。孫のジェイクを会わせる気はさらさらない。
そういう経緯と事情があるからこそ、息子のジェイクは家族の愛で満ち溢れた環境で育ってほしかった。
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その日、ルキディスは単独で動いていた。シェリオンとユファは護衛が必要だと騒ぎ立てたが、女連れで女を堕としにいくわけにもいかない。
他にも理由があった。冥王であるルキディスにはスキル〈変幻変貌〉がある。目立たない容姿に変身しても隣にシェリオンやユファのような美女がいたら、群衆の視線を集めてしまう。美女を連れていたというのは、人々の記憶に残りやすい。
単独で動くのが合理的だった。心配するシェリオンとユファを説き伏せて、2人にはシルヴィアのお守りを任せてきた。
「なるほど。確かにそれはイマノルさんが正しい……。サムが焦るのは俺だって分かるさ。だが安心してくれ。現在のところ、人材はまったく集まっていない。俺としては残念なことだが、サムにとっては好都合だろう? あと数年修行を積む余裕はある。それにだ。今すぐに来たところで、サムに任せられる仕事はない。単純な肉体労働をするためにサピナ小王国に来る気か?」
「たしかに……、それは……、そうだと思います」
ルキディスは、イマノルの弟子サムと接触していた。少年の相談に乗るふりをしながら、アーケン家の情報を集めている。既にサムとの会話でアーケン家の事情を把握していた。
カトリーナは、夫と息子を愛している理想の良妻だった。〈変幻変貌〉で好みの男性に化け、〈誘惑の瞳〉で誘惑するような作戦では寝取れない。
〈誘惑の瞳〉は意思が強靭であれば、一般人ですら弾き返せる程度の瞳術だ。
その代わり、どんな防具や護りを使っても無効化することはできない。魔道に精通した大魔術師であっても、その人物が意志薄弱な女であれば効果覿面だ。ところが、何ら能力のない町娘であっても、強い精神力があるのなら〈誘惑の瞳〉を無効化してしまう。
今のカトリーナに瞳術を使用したら、確実に弾かれてしまうだろう。
(セックス中に発動すれば、確定で〈誘惑の瞳〉が成功する。一度でも性的な関係を結べば、俺に対する恋心を植え付けられるが……。どうするかな。やはり最初が難問だ。夜道でいきなり強姦というわけにもいかないし……)
純粋無垢なサムはルキディスのことを疑わず、ペラペラと情報を教えてくれる。無論、サムに対しても〈誘惑の瞳〉で、〈信頼〉の感情を植え付けていた。
印象操作は戦闘で役に立たない。その一方で、工作活動においてはとても役に立つスキルだ。サムはルキディスを心から“信頼”している。何の疑いも抱かず、ルキディスの質問に答えてくれていた。
狡猾な冥王は少年の功名心をくすぐって心の隙間を作り出し、〈誘惑の瞳〉で感情を巧みに操作する。
人間の行動を完全に支配できるわけではない。だが、方向を誘導することはできる。サムが師匠のイマノルに対して、「サピナ小王国へ行きたい」と言ってしまったのは、操作された感情が暴走してしまったからだ。
煽りすぎた結果、予想外の行動に出てしまった。
(幼さの残っているガキは操りやすい。だが、気を付けないとな。こいつは近々消す予定だ……。居なくなる前に奇行なんてやられると、失踪したときに騒がれてしまう。俺がアーケン家に探りをいれてることをこのガキは知っている。計画が完了したときには必ず始末しなければいけない……)
サムを殺すことは確定していた。ルキディスが殺意を抱いているなんて、サムはちっとも考えていない。
「実は、何度かイマノルさんとも話をさせてもらった。弟子や家族がいるから難しいと断られてしまったよ。サムはサピナ小王国に来る覚悟があるんだろう。なら、家族の了解さえとれれば、イマノルさんは首を縦に振ってくれるかもしれない。奥方の名前はカトリーナさんだったかな? 師匠に怒られたばかりのサムには悪いが、奥方を説得する機会を作れないか?」
「師匠は許してくれないと思います……」
その返答は予想通りである。サムは怒られたばかりだ。師匠にそんな提案ができるはずがない。ルキディスは、サムの内心を見越している。
「奥方とだけ会うのなら大丈夫じゃないか? イマノルさんは仕事で忙しいそうだ。弟子を教育する暇もないくらいで、最近は家にも帰らず工房に篭っていると聞いている。先に奥方と話して、見込みがあるかを確かめたい。イマノルさんにはちょっと悪いが、内密でことを進めよう」
「それって、外堀を埋めていくということですね?」
「言い方が辛辣だな。だが、間違ってはいないよ。サピナ小王国は人材不足で手段を選んでいられない。それと、共犯者には口止め料を払っておかないとな」
ルキディスは、ポケットから銀貨3枚を取り出した。
「え……!? いいですよ! お金なんて!!」
「迷惑料とでも思ってくれ。サムがイマノルさんに怒られてしまったのは、俺に責任がある。今回の頼みだって、イマノルさんに露見したら怒られるだろう。奥方への件、よろしく頼んだ」
ルキディスはサムに3枚の銀貨を押し付けた。鍛冶職人見習いの少年にとって銀貨3枚は大金である。
「分かりました! カトリーナさんに頼んでみます。日にちや時間帯はいつ頃がいいですか?」
「いつでもいい。実は招致活動は躓いていて、俺は暇なんだよ」
これは嘘だ。招致は上手くいっていないが、時間は足りていない。断じて暇ではなかった。
ヘッドハンティングのほかにも仕事が山積みだった。ルキディスは売り飛ばされた国民を買い戻す帰国事業にも関わっている。最近掴んだ情報によると、サピナ小王国出身の奴隷が娼婦として売り飛ばされるそうだ。幼い頃に売られた狐族の獣人と聞いている。
競りにかけられる前に手を回して買い付けるはずだったが、強欲な所有者は法外な値段を提示してきた。国費を浪費するわけにはいかないので、その奴隷は競売で買うしかなくなった。
オークションは値段が青天井だ。ルキディスは可能な限り安く買うために、その奴隷が病弱で数年以内に死んでしまう虚弱体質だという噂を流していた。情報工作して出費を少しでも抑える計画だ。
そして、裏ではシルヴィアの眷族化や新薬の開発を進めていた。シェリオンとユファの助けを借りてはいるものの、抱えている仕事が多過ぎる。
(頼むから頑張ってくれよ。サム。カトリーナと会わないことには、始まらない。しかも、今は繁忙期でイマノルが家に帰ってこない絶好の時期なんだ……)
冥王は創造主グラティアに祈りを捧げる。創造主は教会が信仰している唯一主だ。
魔物の王であるルキディスが、教会の信仰対象である創造主を信仰しているのは、矛盾しているようにも思える。だが、冥王ルキディスは〈人類の敵対者〉であっても〈世界の敵〉とはならない。
冥王は人類と同じように創造主が生み出した。ルキディスが創造主に祈りを捧げるのは当然の摂理であった。冥王は創造主の命令に従って、人類を滅ぼそうとしている従順な信徒だった。