物質に実体はない。
偉大なる真言、明々たる真言、究極の真言、至高の真言。
無心こそが真理の本質である。
「――けれど、人は妄執を捨てられない。私もそうだ」
荘厳な大広間に不釣り合いな木製の椅子があった。見窄らしい出来栄えで、背もたれは傾いている。接合部は釘を打ち直したかのような跡がある。
それもそのはずである。子供が作った粗雑で貧相な腰掛けだった。この場に相応しくない代物。しかし、レヴィアはずっとこの椅子を愛用していた。
「これから先も人類は妄念に囚われ続ける。分かっていたことではありました⋯⋯。お互い、失敗ばかりの人生でしたね?」
膝上に置いた頭蓋骨を撫でる。侵入者の存在には気付いている。だが、警戒するまでもなかった。
レヴィアに戦意はない。仮に叩き潰す場合であっても、警戒に値する強者はいないと断じる。取るに足らない虫螻。自分の台詞が威迫的だと思ったレヴィアは、あえて笑みを見せる。
「貴方達の行動を非難はしていませんよ。私も囚われた小さき人間の一人ですから⋯⋯。放任していたのは事実。止めようともしませんでした」
攻め入ってきた侵入者は、衝撃的な現実を受け入れきれず、呆然と立ち尽くしていた。
その中で唯一、毅然とレヴィアに挑む勇者がいた。
「ふざけるな⋯⋯!!」
尖り帽子を被った女魔法使いは、燃え滾る炎眼でレヴィアを睨みつける。現代では魔女のトレードマークである衣装。彼女こそが魔女の始祖にあたる人物だった。
「止めようと思えば止められたとでも言いたいのか? どの口で⋯⋯!!」
人類では到達できぬ第九魔法〈大いなる業〉に至った偉大な魔法使い。杖に填め込まれた虹色の宝玉は、尋常ならざる魔力を放っている。
「その宝玉は賢者の石ですね。人類魔法体系では得られぬ神秘。第九魔法の領域に入門した者だけが錬成できる魔法物質。歴代の竜帝が成し遂げられなかった究極至高の錬成物。よくぞ辿り着きました」
弟子を褒めるかのような口調でレヴィアは言い放った。
「全て分かっていたのか!? 知ったうえで⋯⋯私を⋯⋯!」
「まあ、貴方にはそれなりに期待していました」
魔女の憤怒は計り知れない。髪の毛が逆立ち、凄まじい憎悪を向けている。だが、相手に発散するわけにはいかなかった。怨恨を飲み込むために、凄まじい自制心が必要だった。
「すべて⋯⋯思い通りか⋯⋯?」
「私がそんな賢い女に見えますか? さっきも言ったでしょう。失敗ばかりの人生だったと⋯⋯。この惨状が全てです。私の思い通りには進まなかった。そして、貴方達は知りすぎたがゆえに⋯⋯。本来の目的を果たせずにいる」
「⋯⋯⋯⋯ッ!!」
魔女が抱く憎悪は八つ当たりだった。魔女は杖を握り締める。疑惑は変わってしまった。もはや仲間達に戦意はない。前衛の剣士は武器を下ろし、後衛は弓の弦から手を離している。
どうしようもない感情を誰かにぶつけたい。しかし、それを行えば弁明の余地がない悪業だ。正義を掲げて戦ってきた自分自身を否定する。
「魔法⋯⋯。そう、魔法が世界を歪めた。こんなものが世界になければ、もう少しはよい未来が⋯⋯。いや、だとすれば、私がこれまでやってきた行為は⋯⋯。どうすれば我々は救われるのでしょうね⋯⋯?」
レヴィアは頭蓋骨に問いかける。死者は返事をしない。それでも声をかけ続ける。
(あぁ⋯⋯。失敗した。もはや私に手は残されていない。それでも諦めきれない。もう一度だけ⋯⋯。一度だけでいい。貴方に会えるのなら⋯⋯)
いつかまた会える。その願いだけを希望に失意の底で生きていた。
「お、おっぱいが⋯⋯くるしい⋯⋯!」
レヴィアは目を見開いて驚愕する。
強く抱きしめていた頭蓋骨が呻き声を発した。
「⋯⋯?」
「緩めて⋯⋯! レヴィア! 腕の力⋯⋯! きつい! マジできついの! 力を込めすぎ!!」
腕の力を緩めてみる。
「はぁはぁ⋯⋯はぁ⋯⋯。おっぱいで溺死するところだったぜ」
白骨化した遺骨は深呼吸を始める。
(⋯⋯⋯⋯喋った?)
触れた感覚もおかしかった。頭蓋骨の表面がぷよぷよと柔らかい。生暖かい体温を感じる。汗ばんだ湿気の香りも匂った。
「まだ⋯⋯苦しい⋯⋯。もう離してくれ。逃げたりしないから⋯⋯!」
「あぁ、これはもしかすると⋯⋯? ああ、なるほど。これは夢かもしれませんね」
「そう。夢! なんかヤバい夢を見てる!!」
「あまり良い夢でないのは確かです。しかし、こうして、シオンとお話できるのは嬉しい。なんだか気持ちよく眠れそうです」
「ちょ! 夢の中で寝るんじゃあない! 現実に戻ってきて!! レヴィアは俺を現在進行形で裸絞にしてるの! 早く起きて! 起きてください!! このままだと俺が永眠する!! 大っきなオッパイに押し潰される!!」
レヴィアの胸中から逃げだそうと頭蓋骨は必死に暴れ回っていた。周囲の光景が崩れ去っていく。絵の具が洗い流されるように消えていった。
◆ ◆ ◆
「とても古い記憶。不思議な夢を見ました⋯⋯」
レヴィアはぽつりと呟いた。
なぜ今さらあの時の記憶が蘇ったのかと首を傾げた。
(ああ⋯⋯。あの怒りっぽい魔女は、ジェルジオ伯爵家のご令嬢にそっくりだったかもしれない。私に苛立ちを向ける姿がよく似ている気がする。ひょっとしたら子孫だったりするのでしょうか?)
ジェルジオ伯爵城の一室、使用人に与えられた寝起きするだけの狭い部屋は大部分がベッドで占領されている。二人が同棲するには窮屈だった。机とクローゼットのせいで、床に寝ることも難しい。
レヴィアは抱きしめたシオンが脱出しようと藻掻いているのに気付いた。
「起きた!? 起きたよな!?」
「はい。起きました。まだちょっと眠いです」
「二度寝するのはいいけど、その逞しい上腕の筋力を緩めてくれ!」
「⋯⋯抱き心地が最高です」
「最初は居心地が良かったけど、途中から命の危機を感じるレベルの抱擁になったんだよ。力の加減をミスってるぞ! 頭蓋骨がぱーんってなっちゃう! ちょ、ほんとに! これ冗談抜きでやばい! やばいって!!」
「ごめんなさい⋯⋯。寝惚けてたみたいです」
室内は薄暗い。まだ日の出の時間にすらなっていない夜明け前だった。寝室のベッドで横たわるレヴィアは、シオンの小さな身体を抱き込んでいた。乳房の谷間と両腕で、しっかりと頭部を挟み上げている。
「暑苦しかったですか?」
「いや、窒息系だったぜ⋯⋯」
乱暴な飼い主を嫌がる愛玩猫のように、シオンはレヴィアから離れようとした。しかし、脱出はできない。腕の力は緩まったが、今度は両足が絡み付いてきた。
「うぅ⋯⋯! 俺を離す気がないのは分かった。自分の非力さが悲しくなるぜ。⋯⋯で? どうしたんだ? 恐い夢でも見たのか?」
「恐い⋯⋯? いえ、気不味い夢でしょうか?」
「気不味いってどんな?」
「⋯⋯⋯⋯」
シオンは聞き返すが、レヴィアは微笑むだけで何も教えてはくれなかった。
「まあいいや。それなら別な質問。伯爵様の依頼、受けてくれるの?」
「帝都カリスラまでの護衛ですね。国家の諍いに首を突っ込みたくはありませんが⋯⋯。シオンが行くのなら、火の粉は払っておくべきでしょう」
「そいつは良かった。新なる魔法使いが仲間なら心強い。まあ、国家転覆とかマジかよって話だけどな」
「私は国政についてよく知りません。シュトラル帝国は荒れているのですか?」
「先帝が男子の後継者を遺せず亡くなった。それで、まあ、いろいろとあったらしい。ジェルジオ伯爵領は田舎だから、中央の政争とは無縁だった。隣国のシュトラル帝国とは仲が悪くて、いつか戦争になるって噂を聞いた。本当かどうかは知らない」
「シュトラル帝国の魔法教育に不満を抱く者がいると耳にしました。今回、国家転覆を企んでいる勢力、神秘結社ドラゴノイドは改革を主張しているそうですね?」
「んー。まあ、俺みたいな魔力が扱えない無能力からすれば、魔法教育の制度なんてどうでもいい。だけど、才能がある奴からすれば気に入らないだろうさ。魔女のロザリーとかがまさしくそうだった。貴族に生まれてさえいれば、魔法学院で立派な魔法使いになれるんだからな」
「⋯⋯魔法教育は他国でも貴族だけの特権なのですか?」
「いいや、帝国だけ。魔法は貴族の特権なんだ。でも、以前は改革が進んでた。魔法学院の推薦入学だって、最初は才能ある平民を入学させる制度だった⋯⋯。えーと、七代目校長のなんちゃらかんちゃらって人が皇帝に認めさせたんだ」
「なんちゃらかんちゃら?」
「アルヴァンダート先生かルフォン先生が知ってるよ。教わったけど忘れちまった。でも、貴族の学校に平民を入学させても、上手くいくわけなかったんだ。魔法学院に入学した平民は、後にも先にも一人だけ。卒業できなくて、除籍されちまったオチさ」
「唯一の魔法教育機関が貴族だけを受け入れている。差別的な運用だと思いますが、反発はないのですか?」
「反乱を起こした地域はあるよ。サファイ=フィンデイル連合王国。名前くらい聞いたことない? 二百年前に独立した。元々はシュトラル帝国の一部だった。っていうか、帝国側は独立を認めてないから、今も地図上では国土の一部。でも、実際はもう他国だ」
「サファイ=フィンデイル連合王国⋯⋯。その国では魔法教育をどのように?」
「シャンキスタ王国と同じだよ。才能があれば魔法教育を受けられる。そもそも独立戦争の理由が魔法教育の制度関連だった気がする。難しい話はよく分からんけど、もしかしたらシュトラル帝国が時代遅れなのかもなぁ。でも、大きな利点もある。魔法の犯罪利用が帝国じゃ少ない」
「貴族しか魔法が使えないからですね」
「ロザリーみたいに非合法な手段で魔法を学んだり、他国から入ってきた魔法使いって例は少数だ。帝国内での魔法犯罪の九割は、魔導具みたいなマジックアイテムの悪用。権力者側の魔法使いが犯罪者になることはまずなかった」
「神秘結社ドラゴノイドは魔法使いの集まりです。帝国の貴族が反乱を起こそうとしている。私にはそう思えてしますのが?」
「⋯⋯あ! 言われてみればそうじゃん。ん? じゃあ、神秘結社ドラゴノイドの上層部って貴族? ん? んん? 貴族反乱じゃね? やばくね?」
「他国の魔法使いが蠢動している可能性もありますが、帝国中枢の国家機密を盗み出した者がいる時点で、構成員は内部に入り込んでいます。と言うより、むしろ内部の人間が反旗を翻したと考えるべきです」
「もしかして、いや、もしかしなくても⋯⋯シュトラル帝国って⋯⋯めっちゃ傾いてない?」
「屋台骨が腐り落ちた状態だと思います」
「うわぁ⋯⋯。手心とか一切無い指摘じゃん」
「ジェルジオ伯爵領は領主に恵まれて平穏ですが、他の地域は不満が溜まっているのでは? 案外、神秘結社ドラゴノイドが企む国家転覆は現実味のある計画かもしれません。こういう国は脆いです」
「えぇ⋯⋯。やめてくれよ。俺の将来設計が不安になるんだけど⋯⋯」
「私は帝国の人間ではありませんし、愛着もありません。なので、客観的に言ってしまいますが⋯⋯」
「遠慮せずに、どぞどぞ。俺は国粋主義者じゃないんで」
「国家の最重要機密が盗み出された挙げ句、国外流出した時点で相当な終わり具合です」
「⋯⋯それはアルヴァンダート先生も嘆いてた」
「先を見据えるのなら、もっと良い国に移住してはどうです? 魔法が使えないシオンでも暮らしやすい国に」
「いや、それがさぁ。実はシュトラル帝国は無能力者に優しい国なんだぜ。だって、魔法の才能があっても貴族じゃなければ意味ないからな。無能力者だからって馬鹿にもされない。だって、大多数が魔法を使えねえんだもん」
「なるほど。それは盲点でした」
「それに帝都カリスラにはシャーロットお嬢様がいる。神秘結社ドラゴノイドは大規模な破壊活動をする気なんだろ。政治改革はご自由にって思うけど、暴力や破壊は⋯⋯ちょっと違うだろ。絶対に止めるべきだ」
「⋯⋯⋯⋯。シオンはジェルジオ伯爵家のご令嬢を好いているのですか?」
「好きと恐いが半分ずつかな。それは領地の皆が同じだ。慕っているけど、覇気がえげつないもん。生来の支配者って感じさ。⋯⋯あのさ。帝都に行くとして、お嬢様に会ってもロザリーの件は秘密にしてほしい」
「分かりました」
「お嬢様が帝都に旅立った後、何度もアイリスと会ってた件も秘密で⋯⋯」
「はい」
「⋯⋯レヴィアとずっと同棲してたのも伝えちゃダメだ。お嬢様に送った手紙で、レヴィアとは違う部屋で寝起きするようになったって嘘を書いたんだ」
「⋯⋯⋯⋯」
「だって、そうしないとお嬢様、絶対に返事をくれないじゃん」
「つまりジェルジオ伯爵家のご令嬢には何も教えない。そういうことですね?」
「うん。お願い⋯⋯。怒られるのやだ」