「眠い⋯⋯。ふわぁ~。結局、搾り取られたな。先祖にエルフ族がいるそうだけど、本当はサキュバスなんじゃないのか?」
シオンは重たい目蓋を擦る。アイリスの自宅を抜け出せたのは、夜明けの直前だった。
くたくたの身体を引きずって、ジェルジオ伯爵城に帰った。城門で会ったレイナードに「破戒僧め。女のところから朝帰りか? 胸元のキスマークは隠しておけ。大聖女様に説教をくらうぞ」と揶揄われた。レイナードは〈囀る古鳥亭〉で働くアイリスが休みだったのを知っている様子だった。
シオンは言い返す気力すらなかった。急いで身を清めて、暗色の聖職衣に着替えた。寝不足の状態で日課の祈祷を礼拝堂で執り行う。
祈りは欠かさない。経典の聖句を諳んじている最中も、アイリスの囁きが頭から離れなかった。
本当はベッドで眠りたい。しかし、本来の用件を済ませる必要があった。食料庫の鍵を預かってきている。シオンは井戸の冷水を一気飲みして、眠気を吹き飛ばした。
図太い神経のアイリスは食料庫の幽霊騒ぎを笑い飛ばしていたが、誰もが彼女ほど豪胆になれるわけではない。啜り泣く女の声に怯えて、年若い女給仕は食料庫に行きたがらないのだ。そのせいで〈囀る古鳥亭〉は困り果てている。
「幽霊が出そうな雰囲気あるけどさ」
古くからある自然洞窟を利用した食料庫の気温はひんやりとしている。風の流れはない。奥に通じる道は埋められていた。蝙蝠や野鼠などの害獣を侵入させないために、出入口は一つだけになっている。
「声なんか聞こえない。まさか反響した自分の声を幽霊だと勘違いしたんじゃないだろうな?」
とてつもなく眠たいのでそのまま帰ってしまおうかとも思った。しかし、頼まれた以上はお祓いくらいはしておくべきだろう。
「⋯⋯⋯⋯」
祈るためにタリスマンを掲げたとき、シオンの耳は女性の声を聞いた。泣いている女の幽霊。アイリスは聞いたことがないと言っていたが、噂は本当だった。
「まさか本当に⋯⋯? まいったな。浄霊は初めてだ」
死者の魂が現世に囚われるのは稀だ。肉体の死は魂魄の崩壊を意味する。尋常ならざる未練は残留思念となり、霊障を引き起こす亡霊となる。しかし、それは死者が生きているわけではない。
(霊体は魔力の残滓。死者は現世に留まれない。アルバァンダート先生はそう教えてくれた)
魔力は世界の理法を惑わす。しかし、死者を呼び起こすことは、偉大な大魔法使いであっても成し遂げられなかった。
亡霊と呼ばれる存在の正体は、生前の人間に宿っていた魔力の欠片だと言われている。死者の姿や形、強く想っていた感情を魔力は記憶する。魔力が引き起こす超常であれば、聖職者の祓魔は効果覿面である。
「これって魔力の淀み⋯⋯か? 熱っ⋯⋯!!」
タリスマンが発熱し始めた。触れていられないほどの熱が籠もっている。思わずシオンはタリスマンを地面に落としてしまった。
「どうなってる。ただの幽霊じゃない? やばいな。俺の手に負えない感じだ。アルバァンダート先生が帰ってくるのを待つか⋯⋯」
シオンが持っていた木製のタリスマンは炎上し、燃え尽きてしまった。アルバァンダートから死霊について習ったときは、墓所で酒盛りの騒ぎを起こす酒豪の話だった。度数の強い蒸留酒を与えてやったら満足して眠ってくれたという。
「おいおい。どんな未練を抱えて死んだら、こんな強い思念になるんだ?」
啜り泣く女の声が洞窟全体に響いた。
「我が祈りは折れぬ剣。我が信仰は砕けぬ盾。我が救済は断ち切れぬ鎖。偉大なる大聖女よ。我を邪悪なる者から守りたまえ⋯⋯」
祓魔掌印を結び聖句を唱える。普段の行いをもっと良くしておくべきだったと悔いた。
「おいおい。出口が消えてる。冗談だろ! ここにあった! 確かに扉があったのに⋯⋯!! くそ! 迷宮創成は第七魔法だぞ!」
うろ覚えの知識だが、ダンジョンを造るには第七魔法の時空魔法が必要になると聞いた。空間を捻じ曲げるのは本物の魔法使いだ。物を浮かせたり、火を出したり、水を生み出したり、その程度の子供騙しとは比較にすらならない。
(ここは単なる洞窟だったはずだろ。自然にダンジョンが生じたのか? いや、魔力が集中していれば気付いたはずだ。奥に入るまでは何も感じなかった。くそ。ドジを踏んだ。誰かが魔法をかけていたんだ⋯⋯!)
シオンは食料庫に閉じ込められた。逃すつもりはないらしい。
「落ち着け。考えろ。俺。冷静になれ。ダンジョンには必ず出口がある。アルバァンダート先生はなんて言ってた⋯⋯。そうだ。経典だ! 大聖女様は弟子達に魔法を教えた。ダンジョンについては⋯⋯。どこだ。どこかに、六章だったか? 違う。七章だ! あったぞ。『入口は出口を兼ねる』これだ。いかなる魔法も世界との繋がりは絶てない!」
持っていた教会の経典だけが頼りだった。問題は出口を探し当てられるか。そして、辿り着けるかが問題だ。
「祈るしかないよなぁ。大聖女様、助けてください。これからは朝帰りを控えますから⋯⋯! はぁ。困ったときだけ助けを求めるのは虫が良すぎるか⋯⋯? 出口はどこだ?」
自分を奮い立たせるための軽口だった。しかし、予想を越えた結果が起きた。迷っていたシオンの行く手を遮っていた洞窟の壁が光り輝いた。
「教会の紋章と魔法陣⋯⋯? まさか俺が祈ったから? 嘘だろ。こんな都合のいい展開⋯⋯あるわけが⋯⋯」
浮かび上がった紋章は、シオンが抱えている経典の表紙に記された聖印と酷似している。発光する魔法陣は古代語だ。シャーロットの部屋にある分厚い辞書があれば読み解けそうだった。
「ルフォン先生から古代文字を習っておくべきだったな。何の魔法だ? さっぱり分からない」
シオンは魔法陣が邪悪な効果を発するものだと思わなかった。教会の聖印は助けを求める祈りに反応した。指先で触れると、壁が崩れ落ちた。まるでシオンを導くように、道が示された。
「はははは⋯⋯。こんなことってある? まあ、起きちゃってるんだけどさ。やった。風が流れてきてる。外に続いてる通路だ。大聖女様が救いの手を差し伸べてくれた! 感謝します! ⋯⋯でも、慈悲深すぎません?」
シオンは魔法が一切使えない。その代わり、大聖女の強い恩寵を授かっていた。本格的な修行をしていない読師見習いが、魔法を祓えるのは大聖女がシオンを気に入っているからだ。そうとしか言えないとアルバァンダートも説明に困っていた。
「外には出たけど⋯⋯。どこだ? ここ?」
現われた隠し通路は外に繋がっていた。しかし、行き止まりだった。巨大な縦穴の底でシオンは空を見上げた。周囲は急峻な崖になっていて、上れそうにない。
「古い遺跡っぽい」
草木が繁り、苔類に覆われているが、石柱らしきものを発見した。ほかにも石像がいくつかあった。
「教会の聖像? でも、大聖女様のお姿じゃないな。教えを広めた聖使徒かな? それとも有名な守護聖人? 砕けちゃって分からないや。雨風でこんなに劣化するなんて、何百年前の遺跡なんだろ」
地面は落ち葉が積もって腐葉土になっているが、底は真っ平らだった。大穴の底を誰かが平らに均した痕跡だ。少なくとも百年以上は誰もここに足を踏み入れていなかった。
「まただ。女の声⋯⋯。啜り泣く声が聞こえる。あっちからだ」
閉じ込められたときは、悪霊かと思い込んだ。しかし、耳を澄ませて聞いてみると、迷子の少女が親を探しているような声だった。
「石棺だ。じゃあ、ここは古い墓所か。すごい昔に建てられたみたいだ。誰も気付かなかったのは、魔法でずっと隠されていたんだ。ってことは、あれか? 俺は墓荒しと勘違いした?」
相変わらず、女の泣き声は石棺から聞こえてくる。膝を付いたシオンは質問する。
「あー。それとも⋯⋯。誰も墓参りにこないから、寂しいとか? そういうこと? 一人が寂しいのはよく分かるよ。ここって集団墓地じゃなさそうだ。えっと、希望するならジェルジオ伯爵領の墓園に引っ越ししようか?」
石棺は静かになった。
「幽霊さん? 聞いてる? 聞いてます? これでも俺は聖職者の卵なんだ。お葬式をやってもいいよ。教会式のヤツね。俺は他のやり方は知らないんだ」
シオンは優しく語りかける。
「日暮れまでに帰らないと城の皆が心配する。ここから出してくれないか? もし引っ越すのも嫌なら、話し相手にはなれるよ。寂しいんだろ。毎日は難しいけど、週一くらいなら来るよ。満足するまで付き合う。約束する。それでどう?」
石棺の蓋が開いた。幾何学模様の複雑な魔法陣が蠢いている。複雑かつ高度な魔法だ。これまでシオンが見た魔法の中で、もっとも洗練されていた。祓魔のイメージすら分からない。神々しさに圧倒された。
「⋯⋯⋯⋯。えーと、おはようございます?」
石棺に眠っていた美しい女性は、泣き腫らした顔をシオンに向ける。漆黒の髪が乱れていた。どれだけの間、泣きじゃくっていたのだろうか。目は真っ赤に充血していた。
「寝覚めにしては血色は良さそう。本当に幽霊? それとも石棺で寝る奇特な趣味をお持ちとか?」
美女の両耳は細長い。左右均等に整った精緻な面貌は、偉大な芸術家が創り上げた美術品のようだった。
「エルフ族⋯⋯の人だよね?」
返事はなかった。黒髪の美女はシオンを見て驚愕している。
「⋯⋯⋯⋯」
まるで死人と邂逅したかのような表情だ。しかし、シオンからすれば、なぜそっちが驚いているのかと問い返したかった。
「あのー。もしもーし。俺の言葉が届いてる?」
上半身を起き上がらせた美女は、手を差し伸べてくる。
「友好の握手ってことかな?」
シオンは一先ず触れてみる。幽霊に実体はないはずだ。しかし、指先には血が通っていた。
「もしかしてエルフさんは冷え性? めっちゃ冷たいぞ」
「聞こえる。触れられる。暖かい。――生きている!」
黒髪の美女は歓喜している。声は震えており、瞳は潤んでいた。
「えっと。死んではないはずだよ?」
なぜそんなに嬉しいのかシオンには分からないが、安心して欲しかったので微笑みを返した。
「言葉通じてるんだ。良かったよ。安心した。これで会話の一方通行が終わるわけだ」
「やっと⋯⋯私は償えた⋯⋯。赦された⋯⋯」
「赦された? 何の話?」
「迎えに来てくれた。あぁ、私は⋯⋯ずっと待っていた。会いたくて⋯⋯ただ会いたくて⋯⋯!」
「会話が通じねぇ⋯⋯。って! うわぁっ!!」
号泣する美女は物凄い力で、シオンを引っ張った。石棺のせいで今まで気付かなかったが、美女の体躯はとても大柄だった。
(この人! めっちゃデカいぞ! 石棺のサイズが大きすぎて気付かなかったけど、エルフってこんなに背が高いもんなのか!?)
伯爵夫人付きメイドになったケイティよりも背が高い。上体を起こした座高だけでも巨躯だと分かった。
「えっ! ちょっ⋯⋯えぇ!?」
小柄なシオンの身体が浮かび上がった。いくら少年とはいえ、片手で持ち上げられる体重ではないはずだ。しかし、石棺の美女は手首の力だけで軽々と引っ張った。
不思議なことに関節が外れたり、痛んだりはしない。ふわりと飛んで、抱きしめられた。柔らかな乳房に顔面からダイブする。体躯に見合う豊満な乳房だった。
「私を迎えにきてくれた⋯⋯!」
「なんの⋯⋯こと⋯⋯? ちょっと⋯⋯あの⋯⋯俺の話を⋯⋯聞いて⋯⋯! おーいぃ!」
シオンを抱きしめたまま、美女は動かない。逃れようにも、物凄い力で抱きしめられている。乳間で窒息しないようにするのがやっとだった。
(え? なに? 何なんだ? これ?)
身動きが取れなくなった。黒髪の美女はシオンを離そうとはしない。この世の終わりまで抱きしめるつもりのようだ。
(⋯⋯こんな意味わからん状況だってのに、ものすごく眠たくなってきた。徹夜したせいだ。やっぱ仮眠をしとくべきだった。眠っちまう。やばい。意識が保てない。永遠に目覚めない系の罠とかじゃないよな? これ?)
美女に抱かれて死ぬ。悪くない最期ではあるが、もうちょっと長生きしたかった。不埒な想いを抱きながら、シオンは眠ってしまった。