2024年 12月5日 木曜日

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【137話】女官メイドの寡黙な一日〈お昼休み〉

NOVEL亡国の女王セラフィーナ【137話】女官メイドの寡黙な一日〈お昼休み〉

 

「ユリアナ先輩! 今日、一日! よろしくね!」

「⋯⋯⋯⋯」

 女官が寝起きする私室は相部屋が基本である。

 役職付きの上級女官は希望すれば、専用の個室が与えられる。軍隊における士官クラス、すなわち幹部階級の特権であった。皇帝の秘密を守るユリアナは課せられた職責の性質上、女官長と同等の待遇だった。

「僕は見習いの研修メイドって感じでいいよね?」

 一人部屋であるはずのユリアナの部屋に灰色髪のメイドがいた。

 ただの一度も同僚を招いたことがないユリアナのプライベート空間に初めて足を踏み入れたのは、メガラニカ帝国の皇帝ベルゼフリートであった。

「いい出来栄え。化粧の力ってすごいや」

 ――しかも、メイド服で女装している。

 警務女官の装いに身を包み、長髪のウィッグも装着していた。動きやすいミニスカ、漆黒のタイツ、黒革の手袋。化粧を施した幼顔は本物の少女と何ら相違ない。

「この長髪のウィッグ。すごいよく出来てると思わない? 本物の髪みたいだよ。お~。女の子みたい。ほら、ユリアナ先輩も触ってみて?」

「私のことはと呼び捨てにしてください。陛下」

 年明け後、最初に発したユリアナの言葉だった。

「了解! じゃあ、ユリアナも僕を陛下って呼ぶのは禁止ね!」

「そ⋯⋯それは⋯⋯できません⋯⋯。陛下を呼び捨てにするなど⋯⋯不敬です⋯⋯」

 室内にはユリアナとベルゼフリートしかいない。二人きりなら誓約の例外となる。まさか自分が寝起きしている部屋に皇帝を招く羽目になるとは思ってもいなかった。

「ダメ、ダメ。今日の僕は見習いメイドの警務女官だよ? ユリアナは先輩なんだから、僕を陛下って呼ぶのは禁止だよ」

「ですが⋯⋯!」

「ちゃんと僕を後輩として扱ってくれないと困っちゃうな」

(困るのは私の方です。でも、陛下と今日は二人っきり。悪くないです。⋯⋯しかし、どうしたものか⋯⋯困りました)

 悪乗りにもほどがある。ユリアナは皇帝を独占できる嬉しさと面倒臭さの両方に悩まされていた。

「ヴァネッサの許しはもらってるんだ。帝城ペンタグラムをお忍びで歩き回る。護衛がユリアナだけなら、きっと僕の正体に誰も気付かないね」

「そうだといいですが⋯⋯」

 普段からベルゼフリートの間近にいる警務女官であれば、おそらく気付いてしまうはずだ。変装にも限界がある。特に声は誤魔化しようがなかった。変装や偽装を見破る異能スキル持ちの女官も幾人かいる。

「大丈夫。この完成度の高い変装を見てみなよ? 三皇后だって騙しきれるね。スカート捲られたら生えてるのがばれちゃうけどさ」

 メイドに扮した皇帝の後ろに警務女官がぞろぞろと行列で付き添っていたら、すぐさま正体を見破られる。そこでベルゼフリートはユリアナだけを護衛に指名した。

 本来、皇帝近衛の警務女官は最低でも四人以上。これは最低の人数であって、通常時は数十人の護衛が引っ付いている。

 皇帝の身辺警護を一人で受け持つことはまずありえない。しかし、皇帝の秘密を守るユリアナは数少ない例外だった。

「陛下。帝城ペンタグラムは安全な場所です。陛下に危害を加える者は一人もおりません。しかし、事故は起こりえます」

 平均的な警務女官を上回る戦闘能力、応用性に富む影を操る異能スキル、双方の力を併せ持つユリアナはおおよその事態に対処できる。だが、規格外の実力者とまではいかなかった。

 ユリアナは己の限界が常人の範疇にあるとよく理解している。

「うん。ユリアナが守ってくれるから安心。大船に乗った気持ちだよ」

「信頼してくださって嬉しい限りです……」

「嬉しいならもうちょっと笑顔になろーよー。ユリアナは笑顔が可愛いのにぃ♪ ほら、にっこり。笑ってみて? キスしちゃうぞー」

 ユリアナは戯れ付いてくるベルゼフリートの頭を撫でる。年下の妹が出来た気分だった。

「とにかく⋯⋯私の側から絶対に離れないでください」

「べったり張り付くよ。くすくすっ! ユリアナは役得だったね。ハスキーはすっごく悔しがってた。でもさ、警務女官長を引き連れてたら、僕だって丸分かりだよ。ユリアナが適任でしょ。こういうのは」

(ハスキー様は良くも悪くも目立つ。人選として私を選んだのは正しいけれど⋯⋯)

 今日の夜までユリアナはベルゼフリートをたった一人で独占できる。

(⋯⋯他の警務女官から僻まれそう)

 同僚からの妬みは相当なものだった。皇帝を連れ回せるのは三皇后や女官総長だけの特権。特殊職の上級女官とはいえ、ユリアナは宮人に過ぎない。

「もし私の手に負えない事態となったら、警務女官長をお呼びし、即刻、禁中に戻っていただきます」

「はい、は~い。それとさ、ユリアナの部屋って、思ったよりも散らかってるんだね。ハスキーの部屋よりは大分ましだけど。あっちは足の踏み場がなかった」

(こうなると分かっていれば綺麗に掃除していたのに⋯⋯。ちゃんと掃除しよう)

「ちょっと意外だ。物なんか置いてないタイプだと思ってた。ベッドの下にエッチな本があったりしないかな」

「ありません。その本は人体急所の解説本です」

「じゃあ、この本は何なの?」

「夜伽の技巧書です⋯⋯。エッチな本ではありません」

「エッチな本じゃん。僕も勉強したいからあとで貸してよ。おぉ。こんなアクロバティックなセックス体位もあるんだ。妊娠しやすい姿勢⋯⋯。へえ⋯⋯。ふむふむ」

「⋯⋯⋯⋯」

「あ! これハスキーと同じハンドクリームだよ。お揃いだ。警務女官御用達の品なの?」

「⋯⋯ハスキー様に貸して返ってこなかったから、仕方なく新しいのを買いました」

「忘れられてるね。それ」

「はい。そうだと思います。気にはしていません。⋯⋯そういえば陛下も同じを物を使われていましたね」

「うん。僕がハスキーから借りたんだ」

(⋯⋯だったら、それは私が貸したハンドクリームですよね⋯⋯?)

「手先の皺を気にしてたからカティアに貸したんだ。喜んでたよ。でも、ちょっと前に大神殿に行ったときはアストレティアの部屋にあった気がする。カティアが貸してあげたのかな」

(私のハンドクリームが返ってこなかったのはそういう理由だったのですか。今さら返して欲しいとも思いませんが⋯⋯)

「備え付けのバスルームとトイレは警務女官長の部屋とまったく変わらない。やっぱ秘密の番人は待遇がいいね。部屋が女官長と同等だ」

 皇帝が上がり込んでくるとしっていれば、もっと整理整頓していたが、今となっては手遅れだ。不衛生とまではいかないが、雑然と散らかっているのは事実だった。

「おー、猫娘コスプレの僕だ。この写し絵って、ハスキーが財務女官の誰かに描かせて出回ったんだよね。ユリアナも手に入れてたんだ」

 入手に苦労したが、何としてでも入手したかったユリアナは方々に頼み込んだ。言葉が使えないので、身振り手振りと筆談を駆使し、苦労の末に現物を手にした。

「――この絵の陛下はとっても可愛いです」

 ユリアナは満面の笑みで答えた。雑然とした私室を見られた以上、もはや壁に貼り付けた写し絵を隠す必要がなかった。猫娘に扮したベルゼフリートを見ていると心が癒やされる。

「じゃあ、食堂に行こう。朝ご飯を食べてないから、お腹が空いちゃった」

「本当に行く気ですか?」

「いざ出発! 恥を忍んでスカートまで穿いてるんだよ? ほら、下着だって女の子。ブラジャーは付けてないけどね」

 当人はそう言うが、恥じている様子が微塵も感じられない。女物のショーツを着込む念の入れようだった。

(恥じるどころか、威風堂々しているではありませんか⋯⋯)

「ここまでやったんだ。もう僕は引き下がれないよ」

「⋯⋯分かりました。下級女官用の食堂にご案内します。私の顔を知っている下級女官はほとんどいません。昼前の時間帯は混んでいるかもしれませんが、むしろ好都合です。混雑しているほうが気付かれにくい」

「よし! 潜入開始! なんだか大浴場に忍び込んだときを思い出すねえ。楽しくなってきた」

「乱交パーティーに発展した二年のアレですか。言っておきますが、あんな大騒動は起こさせません」

「えー。あれは楽しかったよ? お祭りみたいだったしね」

「風紀が乱れていると三皇后から諫言がございました」

「ああ。あのときのね。でも、ヴァネッサは気にしてないよ。そんなの」

(確かにその通りではあります。少しは風紀を気にした方が良いとは思いますが⋯⋯)

 女官長とユリアナのような最上位の女官は個室が与えられ、備え付けの専用浴室もある。だが、帝城ペンタグラムで働く大多数の女官は、大浴場を使う。露天風呂や薬湯などもあるため、ハスキーのように個室の小さな湯船を使わない女官も多くいる。

 禁中には皇帝専用の浴場がある。わざわざ女官の大浴場をベルゼフリートが使う必要はない。しかし、二年前にどうしても女湯を覗きたかったベルゼフリートは、ハスキーに連れていってもらったのだ。

(帝城地下二階の大浴場で起きた乱交騒乱事件。あれの顛末は本当に酷かった)

 不特定多数の女官がベルゼフリートとセックスする乱交パーティーと化し、何人かは幸運にも子を孕んだ。騒ぎを聞きつけて、大浴場に女官が詰め寄せる事態になり、乱交騒乱事件と今では言われている。

 女官達の間では笑い話。しかし、妃達からすると、面白くないエピソードなのだ。

(非貴族の女官が孕んでしまったから、あれだけの大事になってしまった)

 皇帝の妻である自分達を差し置き、使用人に過ぎない女官が皇帝の御子を産んだ。宰相派、軍閥派、長老派。いずれの派閥においても妃は貴族出身の令嬢であった。平民出身者が多い女官とは根深い対立関係にある。

(今回は私がしっかりと眼を光らせておかいないと⋯⋯。女官の暮らしぶりを知りたい陛下のお気持ちは私も嬉しく思う。護衛は私一人。騒動を起こさせず、今日の夜には禁中へお帰りいただく⋯⋯)

 ユリアナは気を引き締める。何事もなくこの一日を終える。そのために全力を尽くす。ベルゼフリートの正体を誰にも悟らせてはならない。

「陛下。女官の働きぶりを見るだけにしてください。下級女官はいわば下働きの下女。陛下とは言葉を交わすことがない者達です。目の前にいきなり陛下が現われたら、パニックを起こす者もいるでしょう」

「分かってる。そのあたりはちゃんと気をつけるよ」

(陛下が本当に分かってくれているとは思えません。はぁ⋯⋯。それにしても、どうしてヴァネッサ様はこんなことをお許しになったのでしょうか?)

 ◇ ◇ ◇

「さすがに甘やかしすぎな気がします。私も陛下には甘いほうですが、今回は大盤振る舞いされましたね。女官総長殿」

 女官総長ヴァネッサの執務室を訪れたハスキーは、警務女官長として苦言を呈した。機嫌を損ね、むくれ顔だった。

「随伴の警務女官はユリアナだけ。警務女官長は護衛を外されて不機嫌のようですね」

 部屋にはもう一人、医務女官長アデライドの姿があった。半蛇娘ヒュギエイアは椅子に座らない。長い蛇腹の胴体を渦巻状に巻いている。

「帝城ペンタグラムから出さなければ問題ないと私は思いますよ。陛下にとっては良い気晴らし。目くじらを立てるほどのことではないでしょう」

「アデライドはそう言いますが、ユリアナは昨年にグラシエル大宮殿で⋯⋯いや、もういいです。過ぎ去った失態をどうこういうのは筋違い。そもそも温室御苑での一件は私にも手抜かりがありました」

 ハスキーは途中で反論を止めた。

 ベルゼフリートがヴィクトリカと情交した温室御苑での一件。制止しきれなかったユリアナには責任はある。しかし、ヴィクトリカが潜んでいたと気付けなかった警務女官長ハスキーの責任が最も大きい。

「まさしく過ぎたことです。グラシエル大宮殿の警備は帝国軍が管轄していました。ヴィクトリカ・アルテナの異能スキルが飛び抜けていた。結果論ではありますが、陛下の行動は国益に適っておりました」

 髪を整え直し、ヴァネッサは上座の椅子に腰掛けた。膨らませていた双乳を調整し、バストサイズを縮める。肉体の部位をいじくれるのは、不定形の身体を持つショゴス族の利点だ。

「さて。ハスキーの質問に答えましょう。業務担当の執務女官長にしか話していませんが、先だって三皇后から通達がありました。夏季の巡幸を今年も見送る可能性が出てきました」

 皇帝がメガラニカ帝国の各地を巡る定例行事。通常は夏季と秋季に行われてきたが、バルカサロ王国やアルテナ王国との戦争で、近年の行幸は中止されていた。

「おや。それは不味いですね。陛下が拗ねちゃいます。今年の夏は地下都市ラビュリントスの迷宮を見に行くと息巻いていました」

「地下都市の迷宮ですって? そんな危ない場所に陛下を連れてはいけません! いつものように安全な沿岸地域を巡れば良いでしょう。大切な年次の行事ではありますが、陛下の御身を危険に晒すなど⋯⋯」

「アデライド。それは言い過ぎです。ラビュリントスの迷宮は観光地化されています。ほとんどが攻略済みで魔物だって湧きませんよ。未攻略の最深部を除いてですが⋯⋯」

「私が気にしているのは治安です。犯罪多発地域との噂を耳にしています。そもそもラビュリントスは流れ者の掃き溜めではありませんか。私はラビュリントスへの巡幸は絶対反対です」

「酒場での喧嘩が犯罪の八割を占めていますよ。冒険者は荒くれ者が多い。凶悪犯罪はむしろ少ないほうです」

「⋯⋯だとしても巡幸すべき土地ではありません」

「土地柄の善し悪しはともかくとして、巡幸の取り止める理由は何なのですか? 陛下が希望しているとはいえ、三皇后なら宥められるはず。ラビュリントスを巡幸地から外して、格式高い領主が治める西海の沿岸部を巡れば問題はないと思います」

 巡幸の訪問地は三皇后が決定する。皇帝の慰安旅行も兼ねているため、ベルゼフリートの希望も考慮される。しかし、希望が通るかは三皇后のさじ加減であった。

 メガラニカ帝国でもっとも安定している地域は、西海の沿岸部だ。広大な領土を誇る帝国は内需だけで経済を回せる。内陸の帝都アヴァタールに匹敵する交易地が西海の貿易港であった。災禍が収まった近年は、大陸外との交易も再開し、活気付いている。

「西海の貿易商はかなりの大金をばら撒いて、招致活動に励んでいたと記憶しています。国民議会の議員のみならず、西海出身の妃も宮中で動いていました。なぜ中止しようとするのですか。ヴァネッサ様?」

「反対しているのは大神殿です」

「ほう。カティア猊下がね」

「大神殿は民衆の人気取りをする必要がありません。慎重論のハイエルフらしい。陛下の御身を思ってのことですから、私は歓迎いたしますが⋯⋯、宰相府と軍務省は受け入れたのですか?」

 アデライドは大神殿の主張が理解できた。神官は基本的に皇帝を国政から遠ざけようとする。

 神官長カティアが率いる長老派の妃には郷里がない。幼少期に親元から離され、大神殿の巫女としての教育を受けて神官となる。領民を背負う帝国貴族とは異なる立場だった。

「宰相府と軍務省は煮え切らない態度のようです。大神殿に同調はしていませんが、意見を留保しております」

 ハスキーとアデライドは顔を見合わせた。神官長カティアを筆頭とする大神殿の派閥は長老派と呼ばれるように、エルフ族などの長命種が大半を占めている。

 ――長老派の妃は石橋を叩いて渡らない。

 そんな揶揄がある。神官長のカティアが慎重論を言い出すのは珍しくない。しかし、帝国宰相や帝国元帥まで足踏み状態となるのは異例だ。行政と軍事は即決即断。今回の反応はウィルヘルミナとレオンハルトの性格に合致しない。

「宰相府と軍務省まで慎重論を? 宰相府は昨年、実施を強く要請したくせにですか? それに軍務省も変ですね。巡幸の護衛には帝国軍も加わります。戦争が終わった今なら賛成に回ると思いますが⋯⋯」

 メガラニカ帝国の実権を握っているのは、帝国宰相のウィルヘルミナである。皇帝の巡幸は年次の定例行事で、宰相府は中止を快く思っていなかった。

 昨年までは戦争の影響があり、大神殿と軍務省の声が強く中止となった。そもそも当時はベルゼフリートも気乗りしておらず、女官総長のヴァネッサはその旨を三皇后に報告していた。

 夏季と秋季の巡幸は中止され、代わりに行われたのが、皇帝ベルゼフリートがアルテナ王国に赴き、帝国軍の将校を慰労した昨年の電撃訪問であった。

「国内に不穏な気配が漂っています。近頃の三皇后は情報交換を熱心にされている。おそらく例の噂が原因です」

「噂? どんな噂です?」

 アデライドは訊ねる。既に噂の内容を知っていたハスキーは目を細めた。これからヴァネッサが話す噂話は信じがたい内容だったからだ。

「廃都ヴィシュテルの近郊で魔狩人が灰色の濃霧を見たと言っています。屍者の群れを目撃した。そんな噂が出回っています」

「よくもそんな流言を⋯⋯! いくら国に属さぬ魔狩人とはいえ⋯⋯」

 ベルゼフリートの即位で死恐帝が起こした災禍は終息した。五百年続いた暗黒の時代はメガラニカ帝国を滅亡の淵に追いやった。

「不敬にもほどがあります! 陛下の正統性を疑っているようなものではありませんか!!」

 アデライドは激昂する。災禍の終息によってベルゼフリートの皇統は証明されたのだ。

 ベルゼフリートの皇統を否定する者は一人として存在しない。莫大なエネルギーを必要とする天空城アースガルズの起動も、破壊者ルティヤの器であるベルゼフリートから抽出したマナがなければ不可能。ほかにも正気を宿した女仙の存在自体が、ベルゼフリートの正統性を証明している。

「陛下がご健在である限り、災禍は起こりません。リバタリアの災禍は終息したのす。普通の霧を見間違えたのでしょう。馬鹿馬鹿しい。世迷い言です」

 医務女官長のアデライドは冒険者や魔狩人に不信感を抱いている。皇帝への忠節に欠けた自由人を信用していなかった。

「⋯⋯しかし、三皇后の動きが気になります。真相が明らかになるまで、陛下を天空城アースガルズから出したくない。そういう結論に至ったのでは?」

 魔狩人や冒険者に一定の理解があるハスキーは、噂を単ある流言だと見做さなかった。特に魔狩人が発した警告は重要視すべきだと考えた。魔物の動向に関して、彼らほどの専門家はいないのだ。

「ウィルヘルミナ宰相とレオンハルト元帥は臣下を説き伏せているようです。巡幸中止を快く思わない妃が、皇帝陛下に告げ口する可能性も考えられます。しばらく帝城ペンタグラムから出さないでほしいと要請されました」

「私は釈然としませんが、そういう話なら陛下には帝城ペンタグラムで健やかに過ごしていただきましょう。今月は健康診断の採血があります。どこぞの離宮に逃げられる心配もなさそうで何よりですわ」

「アデライド⋯⋯。今回の話と別件ですが、頼んでいた例の調査はどうでしたか?」

「陛下の皇血は全て保管しております。逸失はありませんでしたよ」

「そうですか。良かったです」

 調査は大神殿からの要請によるものだった。意図は不明だったが、神官長カティアはベルゼフリートの血酒が外部に流出していないか徹底的に調べて欲しいと依頼してきた。

 三皇后と女官総長が保管する血酒は盗まれていなかった。そうなると次に考えられるのは、健康診断などでベルゼフリートの血液を入手できる医務女官。だが、皇帝の診療は医務女官長アデライドが専属で行っている。

 アデライドが休みのときは、ヴァネッサが代行となる。女官総長の地位にいるヴァネッサだが専門は医術であった。

(陛下から採血できるのは私かアデライドだけ。大神殿が懸念しているのは⋯⋯)

 旧友のアデライドをヴァネッサは信頼している。厳重に管理している血酒の流出は絶対にありえない。しかし、大神殿は血液の保管が適切になされていたか疑っていた。

「ハスキー。念のため、陛下の護衛に付いてください。遠くから尾行すれば陛下や周りの者には気付かれないはずです」

「周囲に悟られないようにですか? 隠密は苦手ですが、遠くからならできなくはないです。しかし、私ではユリアナの警戒網は潜り抜けられません。ほぼ間違いなく勘付かれます」

「ユリアナに知られるのは問題ありません。ありえないとは思いますが、陛下に危険が及んだ際は動いてください」

「承知しました。では、護衛に付きます」

 立ち上がったハスキーはヴァネッサに一礼する。腰に下げた剣の柄頭つかがしらを撫でながら退室した。意気揚々といった雰囲気はなく、ヴァネッサが護衛を命じた理由を深く考えている様子だった。

「大神殿の妃達は疑心暗鬼に陥ったのですか⋯⋯? 私に命じた血液の調査も大神殿の要請でしょう。心穏やかではいられません。同じ女仙を疑っているように見えますわ」

 警務女官の最高戦力を向かわせた意味は明らかだ。帝城ペンタグラムといえども、皇帝に仇なす敵がいるかもしれない。

「五百年前、死恐帝を謀殺したのは帝国宰相と帝国元帥です。女仙だからといって、必ず信用できるとは限りません⋯⋯」

「死恐帝に仕えた女官に裏切り者はいなかったのです。暗殺を防げなかった女官総長アトラクの責任を指摘する者もいますが、終わった後でなら何とでも言えます。建国以来、我ら女官は常に皇帝陛下をお支えしてきました。皇后とはいえ、我ら女官の忠誠心を疑うなど⋯⋯あまりにも非礼です」

「メガラニカ帝国は息を吹き返し、かつての栄光を取り戻しつつあります。しかし、ベルゼフリート陛下が存在してこその繁栄です。カティア神官長をはじめ、長老派の妃は五百年前の当事者。彼女達の不安な気持ちを察してあげましょう」

 ベルゼフリートが殺されれば瓦解する。皇帝の死は大陸規模の災禍を招く。しかし、隣国の者達は破壊者ルティヤの存在を忘れ去っていった。メガラニカ帝国を滅ぼそうと皇帝暗殺を企む可能性はある。その被害が自分達にも及ぶとは知らずに。

「アデライド。内々の話に留めてください。国家機密です。廃都ヴィシュテルで目撃された灰色の濃霧⋯⋯、ケーデンバウアー侯爵の私兵団も確認しています」

「⋯⋯本当に?」

 魔狩人の報告を全く信じないアデライドだが、軍閥派の副官にして主席宮廷魔術師ヘルガ・ケーデンバウアーがもたらした情報には大きく動揺した。

「事態を重く見たレオンハルト元帥は、廃都ヴィシュテルに帝国軍の特殊偵察連隊を派兵しました。一昨日の出来事です。送り込まれたのはドルドレイ騒乱の内戦やアルテナ王国の王都攻略で活躍したユイファン少将の部下達です」

「しかし⋯⋯理屈に合わないわ。災禍は終わった⋯⋯! ベルゼフリート陛下がいるのに⋯⋯なぜ再び災禍が起こるのです⋯⋯!?」

「私達は大きな勘違いをしていたのかもしれません。灰色の濃霧はメガラニカ帝国にしか発生しなかった。破壊者ルティヤの災禍は大陸規模の厄災。しかし、死恐帝の死によって引き起こされたリバタリアの災禍はあまりにも局地的でした」

 隣国のバルカサロ王国やアルテナ王国にはまったく被害が及んでいなかった。災禍の拡大を防ぐため、メガラニカ帝国が多大な犠牲を払ったためだと考えられていた。

「灰色の濃霧は死恐帝が起こしていた災禍ではない。だから、新帝が誕生しても再び生じる。別の原因がある⋯⋯。そう考えれば辻褄は合います」


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