ヘルガが魔術で生み出したチェシャー・キャットについて、テレーズは「冒険者の相手でよく使われる召喚霊です。探索能力が高く、諜報活動にも使えます」と意味有り気に説明してくれた。
隠された通路や仕掛けなどの匂いを嗅ぎつけ、肉球型の足跡を残す。しかし、猫型の召喚霊は気ままな性格だ。
命じた仕事をさぼる習性があるという。その性質が改善されない限り、帝国軍の索敵で運用されることはない。
軍関係者にあまり知られていないのは、教本非掲載の民間魔術であるせいだった。
「一流の魔術師でも召喚できるのは数匹だけです。これだけの数を従えているのは、さすがとしか言いようがありません。二足歩行で奇妙な踊りをさせているのは謎ですが」
帝国最高の魔術師はチェシャー・キャットの怠け癖を召喚数で補った。数百匹の猫軍団に囲まれながら、鈴蘭離宮の奥に進む。
(広い離宮ですわね)
鈴蘭離宮は黄葉離宮よりも広い建物だった。
セラフィーナに下賜された黄葉離宮は、立場の低い愛妾を住ませる場所である。不自由はしていないが、妃達が暮らす広大な離宮に比べればとても小さい。
(側女用の別棟が二つもある。これだけ大きな離宮なら隠し部屋があっても普通は分かりませんわ⋯⋯。掃除が大変そうですわ。栄大帝時代の建築は⋯⋯なんというか⋯⋯。実用性よりも見栄を優先していますわ⋯⋯)
栄大帝時代のメガラニカ帝国は複数の天空城を運用していた。
今ではたった一つ、アースガルズのみが現存している。残された遺産を見れば、栄華の絶頂を極めた皇帝の散財ぶりがよく分かる。
最盛期を築いた栄大帝は偉大な人物であったが、浪費家としても有名だった。国が傾かなかったのは、大宰相ガルネットの手腕があり、なおかつ散財する金額以上の収入があったからだ。
「天空城アースガルズは栄大帝時代に建造された。当時の帝国は、天空城を量産できるほど、富が有り余っていた。羨ましいね。地表部分の建造物は当時のままだ。木造建築は百年と経たず朽ちてしまったが、良質な石材で建てられた離宮は一千年の風雨に耐えた」
ヘルガは広間の壁を指先で小突いた。
周囲にはチェシャー・キャットの足跡が残されている。清掃に訪れた庶務女官が目撃したのは、この肉球の痕跡に間違いない。暗がりで見ると淡赤色に発光しているのが分かる。
事情を知らなければ、化猫の霊障と勘違いする人間も出てくるだろう。
「一千年前に建てられた割には綺麗ですわね」
「改修は行われているよ。鈴蘭離宮もそれなりには手を入れた」
「ですが、ずっと使われていなかったのでしょう?」
「一度だけ、私が資材置き場に使ったことがあった。妃達が一斉に入内した頃だ。引っ越しで運ぶものが多くてね。住所が天空にあるものだから、嫁入り道具を地上から引き上がるのも一苦労さ」
ヘルガは結晶灯のランタンを魔術で空中に浮かせる。
日が暮れて、窓から差し込む太陽光は乏しくなり、室内は薄暗い。窓ガラスだけがやけに綺麗なのは、女官達が定期点検で、割れた窓ガラスを交換しているからだ。
(空気が濁っておりますわ⋯⋯)
セラフィーナとロレンシアは口と鼻を袖口で覆う。冒険業を経験したテレーズは平然としている。
空気は砂埃の匂いがきつく、快適な居住性を取り戻すには時間がかかりそうだった。締め切られた室内は、換気が行き届いていない。
「さて、さて! まずは聖堂教会の僧侶から試そう。テーレズ、この壁の前で祈りを捧げてくれ」
「承知いたしました」
壁の前でテレーズは両手を組んで祈祷する。祈る姿勢は教会と何ら変わらない。聖堂教会は過激な皇帝崇拝で知られているが、開闢教の教義を原点としている。
「こっ! これは! 感じますわ! ヘルガ妃殿下の仰る通りです! 異教の気配がいたします!」
「そんな気配は微塵も感じ取れないがね⋯⋯」
「いいえ! この壁には穢れきった神術式が施されておりますわ!!」
「穢れてはいないと思うがね⋯⋯。ともかく聖堂教会の信徒では無理なようだ。それでは選手交代! セラフィーナとロレンシアで試してみよう!」
気乗りしないセラフィーナとロレンシアは、慎重な足取りで壁に近づいた。
(困りましたわ。あ、あれ? 祈り⋯⋯? 作法をすっかり忘れてしまいましたわ。⋯⋯隣りにいるロレンシアも口ごもってる。私と同じみたいですわね。手元に聖典があれば⋯⋯)
聖職者のテレーズと違って、一般的な祈祷くらいしかできない。
(この一年間、まともに祈った覚えがありませんわ。最後に祈ったのは⋯⋯いつ⋯⋯? 思い出せないわ。もしかするとベルゼフリート陛下に犯されたあの夜⋯⋯? まあ、なんてこと! 子供を身籠りたくないと願ったとき以来ですわ)
あの当時は必死に祈りを捧げた。まだセラフィーナはガイゼフを愛する貞淑な妻であった。しかし、ベルゼフリートの精子はセラフィーナの卵子を射止め、胎に三つ子を孕んでしまった。
この世に生を受けてから三十年以上、教会の信仰を守り続けたが、アルテナ王国の女王は恩寵を受けられなかった。最初の凌辱で懐妊したのは、ベルゼフリートの赤子を産むのが運命だと言わんばかりだ。
ロレンシアも渋い顔で手を合わせている。祖国を支配した帝国に天罰を与えてほしい。かつては怨嗟と復讐の滲んだ祈りを捧げる日々だった。しかし、今となっては負の感情がない。
ベルゼフリートの性奴隷に堕ちた瞬間から、ロレンシアの心中で渦巻いていた憎悪は消えた。敗北を受け入れ、勝者に心身を差し出した。
背を向けた者達への負い目がある。近衛騎士団の美人騎士に崇敬を向けていた貴族令嬢達は、変わり果てたロレンシアを見て明らかに失望していた。
轡を並べて戦っていた騎士団の仲間も、豊胸で膨れ上がった超乳に目を奪われ、真っ赤な長髪がなければフォレスター辺境伯の娘ロレンシアだとは気付かなかった。
(今の私やセラフィーナ様は教会に疎まれているはずだわ。淫行に耽るふしだらな女ですもの。隠し部屋の扉は開かれず、ヘルガ妃殿下を落胆させてしまうかも⋯⋯)
セラフィーナとロレンシア、どちらも教会の祈りを忘れ去っていた。しかし、壁に変化が起きる。
「壁が光を反射していますわ。まるで水鏡のよう⋯⋯。綺麗⋯⋯」
「これは一体⋯⋯? 私とセラフィーナ様の姿だけが明瞭に映っています」
鏡面状態の真っ白な石壁は、愛妾と側女を映し出す。
黄金髪の爆乳美女、赤毛の超乳美女。どちらも見惚れる絶世の麗人である。山のように盛り上がった下腹部は力強く胎動している。
大帝国の後宮に召し上げられ、清らかな気質は消え失せた。異性を誘う妖艶な肉付きは、たった一人の少年を愛すために使われる。
「ほほう! やはりだ。私の見立ては正しかった。教会の洗礼を受けた女仙に反応する仕掛けだ。隠し部屋の扉は開かれた!」
鏡に変貌した石壁は波紋を生じさせる。螺旋模様を描いて回り始め、ヘルガが指先を触れさせた途端、アーチ状の入口が現れた。
「隠し部屋を拝見するとしよう。何があるかな。楽しみだ。栄大帝時代の宝物が見つかったら山分けにしよう。取り分は均等に四等分だ。私は鑑定の知識もある。自慢じゃないがね、地元で開催したお宝鑑定団の座長を務めたこともあるのだよ」
意気揚々とヘルガは入っていった。
「どうしましょう? 私は宝物があってもいらないわ」
「セラフィーナ様、もう馬車に戻りませんか? 私達は用済みですよね⋯⋯?」
セラフィーナ達は扉を開ける役目を終えた。さっさと黄葉離宮に帰りたいところだったが、多少の知的好奇心がくすぐられていた。
「ちょっとだけ興味があるわ。隠し部屋に何があるのか⋯⋯。ああ、でも、勘違いしないでほしいわ。お宝目当てじゃなくて、歴史のほうよ? ロレンシアは戻っていてもいいわ」
「いえ、お供いたします。私はセラフィーナ様の側女です」
「セラフィーナ様、ロレンシアさん。誰かお忘れじゃありません? 私もおりますよ」
もう一人の側女は腰に下げていた聖杖を手に取る。
非戦闘員のセラフィーナ、戦えない身体のロレンシア、この二人と違って聖職者のテレーズは護身の神術が使える。
テレーズも臨月が近い妊婦だが、問題なく神術を使っている。ベルゼフリートの赤子を授かってからは信仰心が高まり、今まで以上に能力が向上していた。
「ご安心ください! 私は帝都で名を馳せた冒険者! いわば遺跡探索の専門家です!! しかも、先頭を進むのは首席宮廷魔術師のヘルガ妃殿下! 邪教の巣窟に何が潜んでいようとお守りいたします!」
胸を張ったテレーズは、自信たっぷりに乳房を揺らす。
教会を邪教と侮蔑しているのは引っかかったが、帝都で活躍した一級冒険者の実力を信頼することにした。
「よろしくお願いしますわ。テレーズ。何かあったら私達を守ってください」
「はい!」
心強い。――と、この時は思っていた。