「ヘ、ヘルガ妃殿下⋯⋯?」
「ん? 理解できなかったのかな? 私だよ。私! 猫型獣霊を使役していたのは私だ! 驚いたかね?」
「⋯⋯あの⋯⋯どういうおつもりで? こんなことを?」
「反応がどうにも薄い。ふむふむ。ならば、君達にも見せてあげよう! 女官達がビクついていた化猫の正体をっ! これが知りたかったのだろう!?」
(私が問いただしているのは理由ですわ⋯⋯)
ヘルガ・ケーデンバウアーという王妃が帝城ペンタグラムの女官達に嫌悪される理由をセラフィーナは理解した。
化猫騒動の犯人は見せびらかすが如く、猫型の使役霊を大量召喚した。数十匹の化猫が周囲を二足歩行で踊り回っている。単なる猫ではない。ヘルガの指示通りに動く傀儡の霊獣であった。
「どうかね? 召喚主の私に似て愛嬌がある化猫だろう?」
「あの⋯⋯。ひとまず、理由を教えていただきたいですわ。鈴蘭離宮の清掃を担当した女官達もそうですが、私達は少なからず恐怖を感じたのですよ⋯⋯? イタズラの度が過ぎておりますわ」
ヘルガの階級は上級妃。しかも、困ったことに軍閥派の重鎮である。
セラフィーナは無位無官の愛妾。皇帝の寵愛を授かっているものの地位は低い。悪さをした首席宮廷魔術師を叱りつけるわけにもいかず、控えめに諌めるしかなかった。
「セラフィーナ様。さすがにイタズラではすみません。相手がヘルガ妃殿下だからこそ、この件は然るべきところに報告するべきかと⋯⋯」
ロレンシアはセラフィーナの耳元で囁き、冷たい視線でヘルガを咎めた。
「まあまぁ。落ち着いて聞いてくれたまえ。チェシャー・キャットを放った理由は調査だ。イタズラではないのだよ。元帥閣下と参謀本部は承知している。そもそも発案者はユイファン少将なのだぞ。私を責めるのはよしたまえ」
ヘルガの口からユイファンの名が出てきた。セラフィーナは嫌な気持ちになった。
(またあの人が⋯⋯。ベルゼフリート陛下に腹黒と称されるだけはありますわ。軍務省の陰謀には必ずユイファンさんが一枚噛んでいますわね。出産に備えて長期のお休みを取られているはずなのに⋯⋯)
「事の発端は帝城ペンタグラムの襲撃事件。大妖女レヴェチェリナを名乗った魔物の正体は破壊帝に仕えた女仙だった。一千年以上もの間、動力炉に分身を潜ませていたとなれば、すべての場所を調べ上げるべきだろう」
「工務女官を総動員して点検なされたではありませんか? 黄葉離宮にも工務女官が参りましたわ」
セラフィーナ達には覚えがある。工具を担いだ工務女官の一団が押し寄せてきて、黄葉離宮の建物を調べていった。
工務女官はドワーフ族ばかりと思い込んでいたが、羽根で飛び回る妖精も多かった。押し寄せた工務女官は念入りに調べ上げて「異常なし。安全!」と報告し、慌ただしく去っていった。
「天空城アースガルズの管理は女官に任せてある。しかし、任せきりにするのは不味い。それが軍務省の見解だ。前回のように、皇帝陛下の御身に何かがあってからでは遅いのだ」
「女官の安全確認だけでは信用できないので、独自に調査をなさっていたのですか?」
「ああ、その通りだ。しかし、私が表立ってやれば工務女官の面子を潰してしまう。何よりも私は女官の間で評判が悪い!」
(堂々と言うことですか? それはヘルガ妃殿下が帝城ペンタグラムで過去に問題を起こしたから⋯⋯。身から出た錆ですわ)
「宮中で面子や誇りは大事だ。だがね、体面ばかりを尊重するのは不味い」
「それは分かりますわ」
問題行動を起こすとはいえ、メガラニカ帝国でもっとも優秀な魔術師には違いない。
「陛下の安全は何よりも優先される。だから、女官総長ヴァネッサは何も言ってこないのだ。上級女官は私の調査に勘づいているだろう。気付かぬ振りをすれば、無用な啀み合いを回避できるわけだ」
「政治ですわね⋯⋯。ああ、なるほど。分かりましたわ。それで事情を知らない下級女官や妃が化猫騒動で怯えることになったと⋯⋯」
「チェシャー・キャットは気まぐれでね。妊娠中の公妃が猫を目撃し、ちょっとした騒ぎが起きた。その直後に鈴蘭離宮でも女官が足跡を見つけ、化猫騒動に発展したようだ」
「妊婦を祟る怨霊はいないのですね。なんて人騒がせな⋯⋯。けれど、それなら安心ですわ」
「うん、うん! 安心してくれたまえ! 妊婦を祟る化猫などいない!!」
セラフィーナは流されそうになったが、まだ胸を撫で下ろすには早いと気づいてしまう。
「鈴蘭離宮の私達を呼びつけた理由をまだ聞いておりませんわ」
「驚かずに聞いてくれたまえ。鈴蘭離宮には隠し部屋がある」
「隠し部屋?」
「鈴蘭離宮を調査した工務女官が図面を制作した際、奇妙な空間があると気付いた。私のチェシャー・キャットも神術式の匂いを嗅ぎつけた。怪しい場所に肉球で目印を付けておくように命じていたのだ!」
「神術式の匂いとは何でしょう?」
「隠し部屋の扉を守る太古の咒いだよ。脳筋なレオンハルト元帥は、鈴蘭離宮を取り壊しを命じられた。しかし、私は隠し部屋を調べておきたくてね。そこで君達を呼んだ。扉を開く鍵になってもらう」
「私達が鍵⋯⋯?」
「旧帝都ヴィシュテルを訪れたセラフィーナなら身に覚えがないかね? 特殊な条件でのみ開く扉がある」
「帝嶺宮城の宝物庫がそうでしたわ」
「鈴蘭離宮の隠し部屋も同じ仕組みだ。人工精霊が組み込まれた帝嶺宮城の宝物庫ほどの代物ではないがね。鍵となるのは信仰心だ」
「信仰心? 宗教ということでしょうか?」
「メガラニカ帝国の国民は大神殿の教えに従っている。死恐帝の災禍が起きて以降、事実上の国教である大神殿は信者数を増やし続けた。しかし、セラフィーナとロレンシアの信仰宗教は違うだろう?」
セラフィーナとロレンシアは顔を見合わせる。アルテナ王国で生まれ育った二人は開闢教の信徒だった。
「私とロレンシアは教会の信徒ですわ」
「ここ最近、祈りを捧げておりません。それでも私とセラフィーナ様は教会の信徒と呼べるのでしょうか?」
「さあ⋯⋯? どうかしら? 破門はされておりませんし、教会にはベルゼフリート陛下との再婚を認めさせましたが⋯⋯。夫婦の誓いを破って姦通した事実は消えませんわ」
セラフィーナとロレンシアは開闢教の洗礼を受けている。しかし、後宮で淫奔な生活を送るようになってからは、創造主に祈る機会はなくなった。
そもそもセラフィーナとロレンシアは初婚の誓いを破り、簒奪婚でベルゼフリートに心身を捧げている。背徳的な恋愛、さらには一夫多妻。もはや教会の信徒と名乗れる立場にない。
「あのぉ、ヘルガ妃殿下? ちょっと、よろしいでしょうか?」
「テレーズ、何を言うつもりか予想はできる。だが、言論の自由を認めよう。言ってみたまえ」
「私は大神殿の古びた教義を国教とは認めておりません! ええ、もちろん! 信仰は自由であるべきですわ。誰もが自由な意思で! 強要されることなく! 皇帝陛下に愛敬を捧げるべきなのです!! そのために聖堂教会は教えを広げてまいります。全ての異端宗教を駆逐する日まで⋯⋯!!」
聖堂教会の女僧侶テレーズは、大神殿の古びた権威をけして認めない。
「そうか、そうか。公安総局に逮捕されない程度の頑張りで頼むよ。私は無関係を装う。テレーズは黄葉離宮の側女だ」
「はい! 黄葉離宮は一丸となって聖堂教会の教えを広めますわ!」
絶対的な皇帝崇拝を掲げる狂愛者。口元は微笑んでいるが、瞳の奥は仄暗い。たとえ相手が上級妃であろうと、自身の信仰心を曲げるつもりはなかった。
「だから、テレーズも連れてきた。ご覧の通り、彼女は聖堂教会の敬虔な女僧侶だ。筋金入りだ。本物だ」
「ヘルガ妃殿下、それは笑えない冗談ですわ。⋯⋯私、もう裁判にかけられたくありません」
セラフィーナは公安総局に捕まり、粛清されかけた苦い経験がある。こうして今も首が繋がっているのは、ベルゼフリートと三皇后の恩情だ。
「サンプルケースは多いほうがいい。大神殿の信徒では開かなかった。ならば、教会の信徒で試す」
「それが私達三人を鈴蘭離宮に呼び出した理由なのですね⋯⋯。取り壊すのなら、わざわざ調べなくても⋯⋯」
「栄大帝時代に建造された天空城アースガルズは歴史的な遺構だ。隠し部屋に貴重な品があれば回収したい」
「貴重な品⋯⋯。危険物がある可能性もございますか?」
脳裏をよぎるのは、大妖女レヴェチェリナを封じていた〈翡翠の首飾り〉などの忌物だ。しかし、処女膜を再生させる〈朱燕の乙女貝〉といった有益な宝具が眠っている可能性もある。
「安心したまえ。私は首席宮廷魔術師だ。そして、怪我をしても、そこに優秀な神術師がいるぞ。信仰心に問題ありだが、技量については問題なしだ」