帝城ペンタグラムの御苑で優雅な昼食を楽しんだセラフィーナ達は、食後の運動も兼ねて湖の遊歩道を散策していた。
貯水槽の役割を担う広大な人工湖は、妃達の暮らす離宮に生活用水を供給する心臓部だ。
天空城アースガルズには水源がない。大気中の水蒸気から水を生成している。生活用水は帝城ペンタグラムに貯えた後、濾過や消毒などの浄水処理が行われてから、張り巡らせた水道管で離宮に供給される。
必要不可欠な生活インフラであるため、浄水施設は工務女官が日常的にメンテナンスを行っている。
「あれは何をしているのかしら?」
両目を細めたセラフィーナは、怪訝な顔つきで遠方を見つめる。三隻の小船が湖の真ん中でなにやら悪戦苦闘していた。
最初は溺れている誰かを救助しているのかと思った。しかし、工務女官達は爆竹を破裂させたり、鉄網を投げ込んだりと物騒なことをしている。
「あの女官達⋯⋯。本当に何をしているのでしょう?」
工務女官達は、湖上で誰かを捕まえようとしていた。湖畔を囲む柵には「遊泳禁止」の看板が掲示されている。関係者以外の立ち入りは厳禁、誰も湖に入ってはならないのだ。
セラフィーナの疑問にリアが答える。
「ブライアローズ様だと思います。お出かけ先で姉君のシャーゼロット様と大喧嘩されたらしいです。それで⋯⋯。その⋯⋯。金緑后宮に戻らず、帝城ペンタグラムで居候していると聞きました。⋯⋯よくある家出です」
リアはどう説明すればよいものかと苦笑いしていた。
「湖上で起きている騒動との関連が、よく分からないのだけれど?」
「ブライアローズ様は夢遊病を患っています。色々なところで寝てしまうんです。帝城ペンタグラムを抜け出して、湖の上で寝てしまったのかもしれません」
さらにリアの説明をロレンシアが補足する。
「今朝方、湖面に水死体が浮かんでるという騒ぎがありましたわ。眠っていたブライアローズ様を見間違えたのでしょう」
ロレンシアは慎重に言葉を選んでいた。素行に問題はあれど、相手はアレキサンダー公爵家の高貴な側女である。
メガラニカ皇帝の後宮では弁えるべき当然の礼節。しかし、騎士時代のロレンシアには見られなかったへりくだった態度だ。
セラフィーナが愛妾の振る舞いを覚えたように、ロレンシアも側女の自覚が強く芽生えていた。
「あら? あの服装は警務女官かしら?」
セラフィーナからすると、工務女官よりも警務女官のほうが馴染み深い。工務女官では引き上げられず、ついに薙刀を構えた警務女官が登場した。
警務女官は多種多様な武装を扱っているが、正式な武具は薙刀である。鋭い矛先でブライアローズの腹部を突く。だが、刃先がぐにゃりと曲がってしまった。
相手は強力な異能持ちであり、デタラメな身体能力を誇るアマゾネス族の女傑。下級女官の力では対処できない。
警務女官は激怒し、何やら怒鳴りつけている。工務女官は慌てて暴言を止めようとした。
「あれはダメそうですわ」
他人の苦労だと思えばこそ、セラフィーナは笑ってしまう。湖の管理を任された女官達からすれば、たまったものではない。
「ブライアローズ様はお強い御方ですし⋯⋯女官の手には負えないでしょう」
心優しいリアは女官に同情的だった。御苑の湖は天空城アースガルズの生活水を支える水瓶だ。頑強なブライアローズが取水口に吸い込まれたら、壊れるのは浄水施設のほうだろう。
「無防備に寝ているのに、まったく攻撃が通じていない⋯⋯。控えめに表現しても怪物です」
寝込みを襲われて無事で済む人間はいない。そう思っていた時期がロレンシアにもあった。メガラニカ帝国で暮らすようになってから、ありとあらゆる常識が通用しなくなった。特に後宮は外界と何もかもが異なる。
「女官達も苦労が多そうですわね」
距離が遠すぎて激昂した女官達の口汚い罵倒は、セラフィーナ達には聞こえない。湖上で夢見心地のブライアローズの耳にも届いていはいないだろう。
こうなってしまったら上級女官の応援を呼ぶか、軍閥派の実力者に引き取ってもらうかの二択だ。おそらくはタイガルラとキャルルが駆り出されて、金緑后宮に連れ戻されるだろう。
王妃や公妃、側女から目の敵にされる女官であるが、天空城アースガルズの生活インフラは彼女達によって支えられている。
苦労話は事欠かない。ロレンシアは帝城市場で聞いた奇妙な噂を思い出していた。
「宮中の騒動といえば⋯⋯。この前の買い出しで化猫騒動の噂を耳にしました。セラフィーナはご存知ですか?」
取るに足らない宮中の噂話を嬉々として話題に上げる。そんなありふれた行動も、ロレンシアが宮中の暮らしに染まった証だ。
俗世から隔離された天空城アースガルズは変化が乏しい。暇を持て余した女仙達はお喋りのネタに飢えている。
かつてのロレンシアは無意味な雑談を嫌悪するタイプの無骨な女騎士だった。けれど、古い諺にある「朱に交われば赤くなる」とはよく言ったものである。現在のロレンシアは、お喋り好きの立派な側女になっていた。
「化猫騒動? 聞いた覚えがありませんわ」
興味津々な様子でセラフィーナは詳細を知りたがった。
「鈴蘭離宮に化猫の幽霊が現れるという噂です。軍務省の管轄下にある離宮ですが、現在は空き家で誰も使っていません。そうした主人のいない離宮は女官が清掃をしているのですけど⋯⋯」
「そこで女官が幽霊を見たっていうのかしら?」
幽霊話の怪談はセラフィーナの好みにやや反する。好奇心旺盛な元冒険者の側女と違って、王家の温室で育てられた女王は恐怖に魅力をちっとも感じない。
「清掃で訪れた女官達は、鈴蘭離宮の廊下で猫の足跡を見つけたそうです」
「足跡?」
「はい。猫らしき肉球の足跡が床や壁に⋯⋯」
空き家に野良猫が住み着く。珍しくもない話に聞こえるが、天空城アースガルズに野生動物は存在しない。
女仙が発する瘴気は猛毒である。迷い込んだ野生動物は衰弱死してしまう。
それでもペットを飼いたがる女仙はいる。一番有名なのは食用魚を大規模養殖しているウィルヘルミナであろう。瘴気の蔓延する天空城アースガルズでも魚類の飼育は可能だった。星嵐后宮の池では釣りが楽しめる。
この他にも昆虫や植物、菌類を愛育する変わった妃もいる。しかし、猫や犬は飼えない。
「後宮に猫⋯⋯? おかしいですわ。だって、天空城アースガルズで猫は生きていけないでしょう? 私達が有害な瘴毒を撒き散らしているのだから」
瘴気で満ち溢れた後宮は皇帝と女仙だけの聖域。ベルゼフリートの実子ですら、女仙と臍帯で繋がれている胎内にいる間だけしか耐性を持っていない。
セラフィーナ達の胎内に宿った赤子達も母胎から分娩され、臍帯の繋がりが絶たれた瞬間、瘴気の毒に犯される。
「化猫の怨霊が鈴蘭離宮に住み着き、足跡を残しているのだと女官達は噂しています」
その噂話を教えてくれたのは、帝城市場でランジェリーを専門に扱っているショゴス族の庶務女官だった。
ロレンシアは体型が大きく変わり、持ち込んだ衣類が着用できなくなった。それでも踏ん切りがつかず、出産前はクローゼットに昔の服を入れて残していた。
使えない古着を捨てる決意を固めたのは初産を終えて、黄葉離宮に戻ってきた日だった。
ショゴス族の肉体改造を受けたロレンシアは、産後も腹が膨れ上がった臨月状態のままである。宮中随一の超乳巨尻に加えて、巨大なボテ腹に合った衣服を探し出すのは苦労が多かった。
帝城内の市場を歩き回り、ついに見つけたランジェリー専門店は、格安でロレンシアの下着を作ってくれている。ちょっとした取引の結果だ。
ロレンシアの立派な苗床腹を見た店主は「私の卵子を寄生させてくれるのなら格安で下着をお作りします。時間をいただけるならドレス類だって仕立てますよ」と持ちかけてきた。
市場の店舗で下働きをしている下級女官がベルゼフリートの子を孕む機会は皆無だ。しかし、ロレンシアに卵子を預ければ、代理出産してくれる可能性がある。
ロレンシアは少し迷った。
既に十一人の卵子を寄生させている。だが、縫製職人のショゴス族と懇意になれば、衣服で困ることはなくなる。
一人分の卵子が増えても大した違いはない。決心したロレンシアは取引に応じ、新たな卵子を子宮に受け入れた。代償もあるが、魅力的な取引だった。
「皇帝陛下の寵愛を授かれず、悲嘆して自殺した妃が化猫になったという話です。懇意の店主から『身籠った女仙を妬んでいるから、妊娠中は鈴蘭離宮に近づかないでほしい』と警告されました。そして、つい最近、身籠った公妃の前にも化猫が現れたと⋯⋯」
「鈴蘭離宮に外で化猫を見た方がいらっしゃるのですか?」
リアは驚いた顔で聞き返した。
「⋯⋯軍務省は見間違いだと取り合ってくれなかったそうです。噂を教えてくれた女官も、どの公妃が化猫を見たのかまでは知らないようでした」
化猫の噂話を信じ切る気にはなれなかった。だが、寒気を感じたセラフィーナは、お腹を守るように抱いてしまう。不安な気持ちはリアやロレンシアも同様だった。
湖畔の辺で立ち話をしている三人の妊婦達は、大切な御子が宿るボテ腹を摩った。大きくなった腹部を妬ましい目線で睨む女仙はいる。
後宮には数多くの美女がいるものの、皇帝の御手付きは極々一部である。そのうえ、妊娠できるのは、さらに限られた寵姫だけだ。
嫉妬と羨望の眼差しをセラフィーナ、ロレンシア、リアの三人は常日頃から感じている。
「あれ? おかしいです。⋯⋯だって、自殺した妃様なんておられませんよ?」
リアの知る限り、自殺した妃は一人もいなかった。天空城アースガルズで不幸な死を遂げた女仙はいない。
過去において、有名な女仙の自殺者は、哀帝に仕えた寵姫アンネリーである。しかし、大妖女レヴェチェリナの暗躍が明らかになった今、それも歴史の再考証が始まっている。
「それに鈴蘭離宮はずっと使われていなかったはずです。私がヘルガ妃殿下の側女として入内したとき、軍務省の倉庫扱いされてました」
リアの語るところによれば、資材置き場に困った軍務省は鈴蘭離宮を物置扱いにしたという。立地は悪くなかったが、そんな離宮を貰いたがる妃はおらず、今の今まで空き家状態が続いていた。
「もしかするとロレンシアは揶揄われたのかもしれませんわ」
「そうでしょうか? 本気で私の身を案じているようだったのですが⋯⋯」
ロレンシアはがっかりした表情で溜息をつく。卵子を子宮に受け取ってからは、親しくしていた相手だった。
黄葉離宮の側女以外では初めて出来た友人である。最近は帝国流の化粧や髪の手入れなども指南してもらっていた。
「その女官も別の誰かに噂を吹き込まれたのでしょう。きっとそうに違いありませんわ。たとえば廊下の汚れを動物の足跡と見間違えたとか⋯⋯。噂に尾ヒレは付き物ですわ」
不気味な噂を払拭しようとセラフィーナは上品に笑い飛ばす。
ところが、噂の真実性を否定する話を教えてくれたリアが、今度は真逆のことを言い放った。
「ああ⋯⋯。でも、ヘルガ妃殿下が鈴蘭離宮を調査しておられました。化猫の噂は上級妃の方々もご存知みたいです。何かはあるのかもしれません」
王妃ヘルガ・ケーデンバウアーは主席宮廷魔術師であり、皇后に次ぐ実権を持つ上級妃だ。セラフィーナは嫌な予感を覚えた。
(多忙なヘルガ妃殿下が調査? いいえ、あの御方は変わり者だから興味があれば動きそう。けれど⋯⋯軍閥派の上級妃が出張るほどのことかしら?)
一昔前なら笑い飛ばせる怪談だった。しかし、大妖女レヴェチェリアは天空城アースガルズの最深部に分身を仕込み、もっとも警備が厳重な帝城ペンタグラムの一角を吹き飛ばした。
他にもアンネリーの首飾りなど、危険な忌物がメガラニカ帝国には伝わっていた。
「化猫の噂が真実だったとしても、鈴蘭離宮に近づかなければいいだけのことですわ」
セラフィーナは鈴蘭離宮に近づかないと心に誓った。しかし、その誓いは三日後に破られる。セラフィーナとロレンシアはヘルガの呼び出しを受けて、鈴蘭離宮の調査に同行を強いられる。