その頃、騎士兜の妊婦は闇樹館に帰宅していた。馬から鞍と手綱を外し、自由にしてやる。レーヴェ家の馬は賢い。荘園の厩舎に一人で戻ってくれる。訓練の賜物だ。
闇樹館にも厩舎はあるが、越冬の面倒を見る人間がいない。御主人様のお世話が最優先、大切な娘達の子育ても大変な時期だ。乳離れしたものの、今度は走り回るし、お喋りも止まらない。
「もうすぐ夕暮れなのに、まだ中庭で遊んでいるのかしら。もう初雪も降っているのに……」
長女のダザリーヌに比べ、次女のアヴェロアナは大人しい。活発な姉よりも内向的な妹のほうが扱いやすく思える。だが、本当に油断ならないのは、アヴェロアナだ。騎士兜で素顔を隠した妊婦は、身に染みて知っていた。
成長したダザリーヌは分別を弁えた人物になる。きっと幼少期の行動を恥じるはずだ。けれど、アヴェロアナは大人びていながらも、幼稚な冒険心を燃やし続ける。
見た目だけが淑女のように成熟するのだ。まさに母親とそっくりだ。
(お父様とお兄様の油断が今なら分かりますわ)
騎士兜の妊婦は長旅でついた汚れを落としす。薄汚れた姿で御主人様のお世話はできない。怒られてしまう。旅用に自作した妊婦服を脱ぎ、タオルで汗ばんだ身体を拭く。桶に溜めた湯が白い蒸気を上げていた。
「…………」
爆乳の谷間は汗がにじむ。昔からそうだった。
厚着をする冬場は真夏と同じくらい蒸れてしまう。乳房を覆っていたブラジャーが外れると、心地よい解放感に満たされる。
茶黒の乳輪からミルクが湧いている。乳離れした娘達はもう母乳を吸わない。それでも母胎は乳汁を生産する。これから生まれる三人目のために。
(胎動が強くなっているわ。旅の間……ずっと……。外が気になるの? お姉ちゃん達と遊びたい? ごめんなさい。貴方を産むわけにいかないの……。その代わり、ママのお腹でずっと愛してあげる)
臨月のボテ腹を優しく抱きしめる。子宮に宿る胎児を慈しむ。母親としての愛情はあった。どんな形で授かった命であれ、お腹の赤子に罪はない。
「…………」
騎士兜の妊婦は左手を眼前にかざした。薬指をじっと見る。指輪の跡が残っている。ここで銀色の結婚指輪が二十年以上も光り輝いていた。夫の生まれ故郷で結婚式を挙げてから、ただの一度も外さなかった。
永久の夫婦愛を誓った指輪。今の自分が身に着けることは許されない。十五年前にこの世を去った夫への冒涜だ。
(もっと早く結婚指輪を外すべきだったわ。ヴォルフ坊ちゃんの赤ちゃんを宿したときに……。娘を産んでしまったときに……)
英雄の妻は死んでしまった。だから、我が身の代わりに夫が眠る墓所に葬った。
(天国にいる夫は今の私をどう思うかしら? 自分が死んだら良い男を見つけろだなんて、強がって言っていたわね……。私だったら若くて格好いい男を捕まられるって……。本当にそうなってしまったわ)
夫以外の種で孕んだ。自分が再び赤子を授かる。そんな日は絶対に来ないと思っていた。だが、大きく膨らんだ胎にはレーヴェ家の子供がいる。骨盤が広がり、下腹部がボテっと出っ張る。乳房の張りは痛みを感じるほどだ。
まごうことなき妊婦。命の揺籃を抱く孕女。母胎となった艶姿を、生きていた頃の夫に見せたら、どんな悲しい貌をさせてしまっただろう。
(死んだら再婚しろ……。嘘ばっかり。貴方にそんな気なんてなかったくせに……。焦ってるときは、いつも耳が真っ赤。私は分かってた。格好つけなんだから。私だって本当は……ずっと貴方だけを……。あぁ……貴方がこの世を去っていて……本当に良かったわ。こんな身体は見せられない)
未亡人は涙を流せない。けれど、良心の咎めが突き刺さる。
(――愛していた貴方に失望されたくない)
夫と死別して十五年が経った。未亡人の貞操を捨て去り、新しい恋を始めても許容される。だが、彼女自身が後ろめたさを覚えた。
夫は英雄だ。大冒険の偉業は帝国史で燦然と輝くだろう。その栄光を妻であった自分が穢したくない。
「あぁ……。湯がもう冷めてしまったわね」
生涯最後の墓参りで亡夫に別れを告げた。結婚指輪を外し、レーヴェ家の闇樹館に帰ってきた。これから先、きっと先立たれた夫への愛情は薄れていく。だから、ありったけの愛情を指輪に念じて夫の墓に埋めた。
(墓所で村の司祭様とすれ違ってしまった。きっと怪しまれてるわね。ヘンテコな姿の妊婦だもの。でも、好都合。私だと気付くはずがないわ。貌だって見られていないのだから……)
騎士兜の妊婦はメイド服に着替えようとする。
メイド服は妊婦の体型に合うように寸法を調整した。着替えでちょっと手間取るが、使用人は服装が大事だ。伯爵家の家臣達も衣服には気を使っていた。
貴族社会では地位を服装で示す。偉い人間は偉そうな格好を、下僕は下僕らしい格好を。それが秩序なのだ。
「物音? 書斎から聞こえたわ。まさか、坊ちゃん……!?」
胸騒ぎがした。全裸のまま、騎士兜の妊婦は書斎に急いだ。何かが地面に転がる音が聞こえた。
物が落ちただけかもしれない。もしレーヴェ家の当主が五体満足の健康な青年だったなら、素肌を晒した姿で駆け付けるメイドは過保護が過ぎる。
書斎に扉を勢いよく開く。床を這いまわる芋虫のような青年がいた。
五年前に両手両足を失ったレーヴェ家の若き当主。一人では生きていけない弱々しい御主人様。車椅子に戻ろうと奮闘していたが、また転げ落ちた。全裸で書斎に突入してきた妊婦を見て驚いたからだ。
「坊ちゃん!!」
騎士兜の妊婦は御主人様を抱き上げた。
「ベロニカ!? もう帰ってきてたんだね。今日か明日とは聞いてたけれど……。えっと、なんで裸なんだい? 寒いだろうに」
レーヴェ家の当主ヴォルフガングは、親し気にベロニカの名前を呼んだ。
四年前に忽然と失踪したカレンティアの実母。冒険者組合と帝国軍が探し回っても手がかり一つ掴めなかった行方不明者は、闇樹館の使用人になっていた。
カレンティアが拒絶した予想は当たっていた。英雄の命日、墓所に結婚指輪を葬った騎士兜の妊婦はベロニカ本人だった。娘とそっくりの爆乳、柔らかな媚肉の巨尻、四十四年の歳月で完熟しきった肢体。蠱惑的な色気にそそられる。だがしかし、肉体の若さは修道院で削ぎとされた。
――そのはずだった。
「湯浴みで旅の汚れを落としていました。メイド服に着替えようとしたら、書斎から音が聞こえました。私はヴォルフ坊ちゃんが心配で……」
ベロニカはヴォルフガングに全裸を見せても恥ずかしくない。主人と使用人、それだけの関係ではない。
「嬉しいよ。心配してくれ。でも、だからって、走るのはやめよう。僕よりも転んだら不味い身体だ。お腹には僕らの赤ちゃんがいるんだよ」
ヴォルフガングは肘先までしかない右手で、ベロニカの腹部をさすった。
この事態をいったい誰が予想できただろう。先立たれた英雄の夫を深く愛し、修道院で隠居していた未亡人の貞操は、両手両足を失った青年に奪われた。
帝国辺境で荘園を営む准男爵は、帝都の伯爵家からすれば取るに足らない相手だ。仮にベロニカが再婚させられていても、家格がまったく釣り合っていない。
年齢も離れている。
ヴォルフガングは若々しい十八歳の男子。ベロニカは老いを感じさせぬ美熟女だったが四十四歳。
奇しくもヴォルフガングはベロニカの娘カレンティアと同い年だ。
二倍差を超える年齢の開き。ヴォルフガングの子種で妊娠したとき、ベロニカはとても恥ずかしくなった。息子のような若者との淫行に溺れ、ものの見事に孕まされた。妊娠さえしなければ、腹を痛めて子供を産まなければ、自分自身への言い訳も立っただろう。
未亡人ベロニカの子宮は敗北した。夫ではない男の精子で、胎の奥底に隠した卵子を射止められた。
「ヴォルフ坊ちゃんが心配で……。気付いたら身体が動いてしまって……。とても考え無しな行動でしたわ。私の悪い癖です」
――そして、心までも掴まれている。



