家で留守番中のシルヴィアとシェリオンは、遊技盤で暇つぶしをしていた。
メイドに遊技盤の相手させているシルヴィアは、さながら妊娠中の貴族夫人であった。事情を知らない者からすれば、身重の身体で外出できない貴族夫人の遊び相手をメイドがさせられていると思うだろう。
シルヴィアの妊婦腹は、日を追うごとに成長していた。膨れ上がる腹の大きさに合わせて、着ている黒絹のマタニティ・ドレスを緩めなければならない。腹の重みのせいで歩くのも辛かった。
「なんていうか、その……すごく暇……!」
冥王の眷族になると人間だったころと比べ、使える時間が増える。魔物は睡眠を必要としない。眠ることなく一日二十四時間、不眠不休で活動ができる。だが、それだけの時間があっても、シルヴィアにはやることがなかった。
家の外に出してもらえず、異空間化された地下室で過ごす毎日を送っている。
「シルヴィアは身重の妊婦ですよ。眷族の肉体は丈夫ですが、妊娠中は身体能力が落ちます。ご主人様の赤子を産むことに専念し、養生してください。今回が初産なのですから」
「……はぁ。赤ちゃんね。大きくなっているけれど」
「胎児の身体が出来上がってくる大切な時期です。さっきみたいに暇だからといって筋トレはしないでくださいね」
シェリオンは盤面のどこに駒を移動させれば、自軍が有利になるか必死に考えている。
「時間を潰すのも苦労しちゃうわ」
シルヴィアはこうした頭を使うゲームが苦手だった。それはシェリオンの方も同じだ。二人の実力は拮抗している。お互いが悪手を打つので、絶妙なゲーム展開になっていた。
この手のゲームを得意とする冥王がこの盤面を見たら、「別の意味で高度な戦い」と酷評しただろう。
「にゃにゃのにゃ~♪ ただいまニャ! 帰還したのニャ〜!」
妻役を終えたユファが王立劇場から帰ってきた。
「おかえりなさい、ユファ。ご主人様の計画は順調に進んでいますか?」
「滞りなく! とっても順調ニャ~。そろそろ押し倒して人妻をオチンポでアヘらせてると思うニャ」
シルヴィアはルキディスが何をしているのか知らされていない。
この数日、冥王に相手をしてもらっていないので、少し寂しかった。フェラチオをしていたときにルキディスが話していた内容を思い出そうとする。だが、覚えている記憶はおぼろげで、断片的な内容しか浮かんでこない。
鍛冶職人が欲しいとか言っていたような気がする。しかし、具体的に何をしようとしていたのかは、まったく頭に残っていなかった。
「孕んだ私を放置して、あの人はどんな悪巧みを遂行しているの?」
警備兵のシルヴィアなら、ルキディスのさらなる悪行に憤慨していたはずだ。しかし、魔物化したシルヴィアは、主人である冥王に怒りを向けられなかった。
自分を放置してまで一体何をしているのか。それだけが気になってしまう。
「人妻の魅力的なお尻を追っかけてるニャ。僕が昨日と今日、根暗なら女の演技練習してたのは、人妻を拐かすお手伝いだったのニャ。不味い料理を食べなきゃいけないから、本当に苦痛だったニャ~。人間の振りはいつも疲れるニャ!」
「本当にお疲れ様でした」
シェリオンはユファに頭を下げる。演技は得意でないし、人間の食事をしながら妻役を演じるのは難しい。そう思ったので、シェリオンはユファに仕事を任せてしまった。
「気にしなくていいニャ! 適材適所ってやつなのにゃんっ!」
その点に関してシェリオンはいつも申し訳ないと思っていた。
「んにゃ? シルヴィアは退屈そうな顔をしてるニャ。愛しのダーリンに構ってもらえなくて不満にゃの?」
「ふんっ。そんなはずないでしょ。それで、いつになく控え目なドレスを着ているけれど、どこに行っていたのよ?」
ユファは、露出多めの挑戦的な服装を好んでいる。そのことをシルヴィアは知っていた。しかし、今のユファが着ている黒のドレスは彼女らしくない地味なファッションであった。
「王立劇場だにゃん。『勇者と機械のなんたらかんたら』ってオペラが公演中ニャ」
「王立劇場……!?」
王立劇場と聞いてシルヴィアは驚く。ラドフィリア王国でもっとも裕福な人間たちが集う場所だ。そんなところに魔物が平然と入り込んでいるのだから、変な笑いが出てしまう。
警備兵や憲兵は魔物の堂々とした暗躍に気付いていなかった。ラドフィリア王国の余命は長くないかもしれない。「そんなことはありえない」という先入観があるから、国防を担う者達は冥王の存在に気づけていないのだ。
兵士達は魔物を野蛮で知能が低い存在だと決めつけている。実際、その認識は概ね正しい。大多数の魔物には知能がない。壊して、殺すだけの害悪。知性らしいものはなく、あっても動物程度の思考能力だ。しかし、この世には人間化けられる上位の魔物も存在する。
現にシェリオンとユファは人間同然に振る舞っている。今となってはシルヴィアもその一人と成り果ててしまった。
「退屈な演劇をだったニャ。内容もよくわからにゃいし……」
「おや? ユファは人間だった頃、王宮のそういう場所で働かされていたのでしょう? 歌劇は詳しいと思っていました」
「まったく詳しくないニャ。だって、あのサピナ小王国ニャ。高尚なオペラ劇は好まれないニャ。僕がやらされてたのはサーカスに近いニャ。火の輪を潜ったり、剣山の上で綱渡りとかニャ。あれは劇じゃなくて、単なる見世物ニャ」
「シェリオンとユファはサピナ小王国の出身らしいけど、そんなに酷い国だったの?」
「良い思い出は一つもありません。最悪の国でしたね」
「完全同意ニャ! 獣人にとって、革命前のサピナ小王国は地獄だったニャ。魔物になって悪さをしてる僕が言うのはアレだけど、ラドフィリアは天国みたいな良い国ニャ。獣人への差別が酷くないニャ! 以前のサピナ小王国は、冥王ですらドン引きするくらいヤバイ暴虐国家だったニャ……」
「そんなに……?」
「眷族になってから、色々な国を巡ったけど、僕らの生まれ故郷ほど狂った国家はなかったニャ。マジで終わってる国だったニャ!」
獣人を虐げる差別国家がほんの一年前まで崩壊しなかったのは、ラドフィリア王国の支援があったからだ。
ラドフィリア王国は緩衝国を必要としていた。国防上の理由で、サピナ小王国の滅亡を恐れていた。
また、サピナ小王国から売られてくる獣人は安価な労働力となっており、ラドフィリア王国で働く奴隷の供給源だった。
サピナ小王国の存続はラドフィリアの国益と合致していたのである。しかし、ついに限界が訪れた。
一年前に起こった革命に際し、ラドフィリア王国はサピナ小王国を支えきれないと判断した。
それが革命成功の決め手となった。腐敗した支配者層を切り捨て、革命軍を支援したのだ。「他国の内政とはいえ、悪政を看過できない」という名目で革命軍側に付いてくれたが、実際は損得勘定で見切りを付け、革命軍に取り入っただけだ。
革命後の現体制においてもサピナ小王国とラドフィリア王国は友好関係を維持している。革命軍も地域大国のラドフィリア王国に喧嘩を売る気はない。
事実上の属国。しかし、大国からの経済援助がなければサピナ小王国は崩壊する。それほどガタガタの国家だった。
三人の眷族が交わす会話は、多愛のない内容だ。人を殺すと気分が爽快だとか、物騒な話題が出てくることを除けば、微笑ましい美女三人の談笑風景である。
「ルキディスが人妻に買い与えた白いドレスは、あとで譲ってもらうニャ。どうせ子を孕んでしばらく着られなくなるから、代わりに僕が着てあげるニャ~!」
「自分が着たい衣装を買わせるなんてユファは策士ですね」
「楽しみにゃん♪ 胸回りは調整しないといけなさそうニャ。僕よりもオッパイが小さい人妻なのニャ!」
ユファはルキディスが狙っている人妻について話してくれた。
孕まされることは確定している。冥王の子を孕んだ女は魔物化し、苗床か眷族になる。
苗床に墜ちてしまったら、眷族シルヴィア達と違って人格を保てない。死ぬまで子を産む、繁殖母体と成り果ててしまう。
「――その人妻は眷族になれそう?」
シルヴィアはカトリーナをよく知らなかった。自分と同じ境遇になるかもしれない相手のことが気になって、ユファに質問してみた。
「分からにゃい。薬を投与して試行錯誤しているはずだけど、結果は創造主のみぞ知ることニャ」
「私は買い戻す予定の狐族の雌が気になりますね。初物で売り出されるのなら、処女ということでしょう。その人妻と比較できる良い材料になると思います」
「多分そっちは手を出さないと思うニャ。大使館のお金を使って購入しようとしてるから、失踪させるわけにはいかないニャ。帰国事業の一環だから、ちゃんとした記録が残ってるニャ。買い戻した奴隷は帰郷してくれないと困るニャ」
「記録などいくらでも誤魔化せるではありませんか?」
「ルキディスは妙なところで真面目ニャ。よっぽど気に入らない限り自国民には手を出さないようにしてるっぽいニャ」
「ご主人様は身内に甘いですからね。お優しすぎる。少しだけ心配になってしまいます」
「ああ、やっぱり? あの人は私が眷族になったとき、無邪気に喜んでたわね。あれって、素の性格なのね……」
三人の眷族は主人の帰りを待ちながら、夜通しお喋りを続けた。
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――ちょうどその頃、鍛冶職人のイマノルは工房の灯りを消そうとしていた。
頭の中にあるのは、妻カトリーナや息子ジェイクではなく、自分が手掛けている作品だ。最高傑作ができようとしていた。
日中は工房で作品の製作にひたすら力を注いでいた。
今日こそは、一度家に帰って家族と顔を見ようと考えていた。けれど、気づけば夜になっている。しかも、太陽が沈んでから、王都には小雨が降り注いでいた。服を濡らしてまで家に帰るのが億劫になった。
妻にはしばらく帰れないと伝えてある。不服はあるようだったが、妻は理解してくれているとイマノルは信じていた。だから、今日もイマノルは自宅に戻らず工房の床で眠りに付いてしまう。
一方、アーケン家で留守番をしている弟子のサムは、ジェイクを寝かしつけていた。出かけていったカトリーナは戻ってくる気配がない。カトリーナが帰ってくる前に、サム達は眠ってしまうことにする。
鍛冶職人は朝早くから働く職業だ。見習いのサムも早寝早起きの習慣がついている。ジェイクが眠ってすぐに、サムも眠ってしまった。
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ラドフィリア王国には伝書飛脚と呼ばれる手紙の配達人がいる。値段は高くつくが、王都内であれば伝書を速達で届けてくれる便利な配達屋だ。
ルキディスからの伝書が主人の帰りを待つ眷族達に届いたのは、日付が変わった深夜であった。汗だくの伝書飛脚が伝書を手渡した。
三人の眷族は顔を見合わせ、ルキディスの送りつけてきた伝書を開く。
伝書に書かれた文はたった一行のみだ。走り書きで『今夜は家に帰らないが心配をするな。必要なときは呼ぶ』とだけ書いてあった。
――その夜、ルキディスとカトリーナはどちらも家に帰ってこなかった。