(はぁ⋯⋯。泣きたくなるわ。今回の大遠征じゃ、必要額の半分も稼げちゃいない。どこぞの誰かと違って、愚痴を表立って口にはしないけど、新大陸の調査団なんかに加わるんじゃなかったわ⋯⋯)
セドナの夫はクロヴィス帝国で薬屋を営んでいる幼馴染だった。元々が病弱な男でどうにも放っておけず、気付けば夫婦となって、可愛い息子が生まれていた。
病気がちな夫に似て、幼い息子もよく体調を崩した。医者に診せると、生まれつき心臓が弱いと言われた。セドナは病とは無縁の人生だった。心臓病は父方からの遺伝病に違いなかった。
責任を感じた夫は、息子の医療費を稼ごうと仕事で無理をした。自分も同じ病を抱えているという自覚を欠いていたのである。病状が悪化した夫は、自力で薬草を採取できなくなった。
薬の調合と店番くらいはできるが、素材は商会からの仕入れとなってしまう。無論、仕入れを外注にした分だけ経費が増し、稼ぎは悪くなっていった。実に本末転倒な話である。
夫と息子の心臓病を治すには大金が必要だった。セドナは高額報酬の依頼だけを受けるようになった。
(こういう仕事は当ればデカいのだけどね。今回は大外れ⋯⋯。本土を離れて一ヵ月以上、帰路はもっとかかるかもしれない)
愛する旦那と可愛い息子のために、長期の大遠征にセドナは名乗りを上げた。帝国本土から遠く離れた新大陸に上陸し、御用学者の護衛任務をこなしている。だが、見込んでいた大金は得られそうになかった。
「それにしても薄気味の悪い壁画だわ。あれは犬? それとも狼かしら⋯⋯? 人間を食い散らかして⋯⋯。悪趣味⋯⋯。グロテスクね。あまり良い題材とは思えない。あれが部族で祭ってる精霊さん?」
「違う! あれは人狼だ! リュカテオコル族の戦士が唯一恐れる怪物の邪神! 夜の森を支配する凶獣⋯⋯。何百年も前に現れた呪狼を当時の部族王が封じたんだ。それ以来、ここは禁足地になった」
「人狼? ああ、人間に化ける狼ね。知ってる。伝説上の魔物だわ。この話、学者先生に話せばご褒美に甘いお菓子がもらえるたかもしれないよ?」
「魔物じゃない。⋯⋯邪神だ。実在する」
「ははーん。なるほどねぇ。坊やは邪神が恐ろしいわけ? あっはは! んふふふふっ! 年相応に可愛げがあるわね。坊やの名前は? 私は冒険者のセドナ。どうせやることもないし、リュカテオコル族について教えて」
「なんで話さなきゃいけない!」
「なぜって、そりゃあ、ね⋯⋯。旦那と息子への土産話にしたいから」
セドナは夫と息子に冒険譚を聞かせている。大金を稼げなかった分、せめて新大陸に住む原住民の逸話を持ち帰り、喜んでもらおうと考えた。
「馬鹿な女め! だけど、どうせ死ぬんだしな。冥土の土産話に教えてやる。俺はコヨトル。癒し手のアポセカリーだ」
「アポセカリー?」
「薬の調合をする。癒し手だ」
「えっと、それは薬師よね? ああ、だから毒矢を持っていたのね。奇遇だわ。私の夫も薬屋を営んで――」
セドナは反射的に大斧を構えた。
(なに? 今の尋常じゃない気配⋯⋯! 背筋がぞくっとした。殺気だわ。どこかに魔物が潜んでいる⋯⋯? 道中では一匹も現れなかったのに⋯⋯!!)
向けられた殺意に反応しての行動だった。猛烈な悪意に晒されて心臓の鼓動が高鳴る。他の冒険者達も緊迫の面持ちで武器を握っている。急に風が吹き始めていた。
「目覚めた。目覚めちまった! 封印が解けた! お前たちのせいだ! 封印の祭壇に触れたから⋯⋯! くそ! くそぉ! もう終わりだぞ! 見ろ! 祭壇から呪狼が解き放たれた⋯⋯!!」
学者達が調べ回っていた黒曜石の祭壇から一匹の黒狼が現れる。半透明の霊体は、新鮮な血肉を前にして強酸性の涎を垂らす。
「ま、まものだぁ! 魔物が出たぞ! ぼっ、冒険者!! こっちだ! 来い! グズグズするなぁ! さっさと退治しろっ! は、はひゃく! ううぁっ! うぎゃあああああああああああああああぁぁぁぁああああ!!」
蘇った大狼の邪神は学者を無惨に引き裂き、床に飛び散った肉片から鮮血を啜る。学者達が腰を抜かして逃げ出す中、冒険者達は現れた怪物に武器を向ける。
「ちぃっ! だから、俺等に祭壇を調べさせろと⋯⋯! 頭でっかちの間抜け野郎め! モンスターめ! どうしてくれるんだ! 死者が出ちまった! 俺らの報酬が減るじゃねえかぁ!!」
「へへっ! おい、お前ら! いくぞ! 仕事だぁ!」
「おうっ! これ以上、報酬は減らせねえ! 先生方! 早く来い! 腰抜かしてんじゃねえ。這いつくばってでもこっち来い! 隠れてろ!」
「セドナ! お前は背後に回れ! あの魔物! かなり素早いぞ! 俺らが前衛になって学者達を守る!!」
「了解! 捕虜の坊やも忘れないようにっ!」
「はっ! さすが人妻冒険者! ガキに甘いな!」
「うっさい! 嫌がるあの子を私らが無理やり連れてきたんだ。死なせたら寝覚めが悪いでしょ!」
荒事専門の冒険者達は死傷者が出ても動じない。これが単なる魔物退治だと誤認していた。古代遺跡に封じられていた怪物は邪神の化身、人間には殺せぬ真なる呪狼だった。
その恐怖を思い知ることになる。
「ぎゃぁ⋯⋯あぎぃっ⋯⋯ァ⋯⋯!」
「なっ! なんだ! どうして剣が! 教会に祝福してもらった銀刃だぞ! 霊体には効果抜群の⋯⋯! ひぃっ! やばいっ! こいつ! 普通の霊体じゃない! やばぁああ! ぎゃああああああああぁ!」
「腕っ! と、とっ、取れちまった! 俺の腕がどこかに⋯⋯ぴゃぎゃあああああああああああああああぁっ!」
「なんだ!? このバケモノ! どうやれば傷を与えられる! 攻撃がすり抜けちまう! ダメだ! 勝てない! 逃げるぞ! 退却だ! 上の階層に移動し⋯⋯ぐぎゃあああぁ!」
「おい何してる! 冒険者ども! 高い金で雇っているんだ! 私達の安全を最優先にぃ⋯⋯ひぃっ⋯⋯! 来る! こっちに来たぞ!! 来るな! 来るな! 来るなぁぁああ!! ふぎゃあぁあああああああああああああああぁ! 痛い! 痛い! やめろおぉお! うぎゃあぁあああああああああああぁ!」
怪物の背後に回っていたセドナは命拾いした。前衛の屈強な冒険者達が食い散らかされていく。呪狼は剣や盾を通り抜けて、人体だけを破壊していった。
(――なんてこと! でも、霊体なら焔が有効なはずだわ!!)
戦線の崩壊を食い止めるため、セドナは近くに転がっていたランプを投げ付ける。
「これでもくらえっ!!」
燃料の鯨油が飛び散り、呪狼の体が燃え上がった。だが、ダメージを受けている様子はまったくない。
「うそっ! なんで!? 炎が効かない⋯⋯? 霊体でもないっていうの!? あの幽霊狼! どうなってるのよ⋯⋯!」
「おい! はやく何とかしろよぉ! ひぃいいっ!!」
「ちぃっ! さっさと逃げな! 私が時間を稼いでいる間に⋯⋯! 何してる! 坊やも早く逃げな!!」
セドナは原住民の少年に向かって叫ぶ。恐怖で青ざめた少年は一歩も動かない。怯えて逃げ出せないのかと思ったが、そうではなかった。手を握り締めて、踏み止まっている。
「異人女。名前を教えたろ。俺はコヨトルだ⋯⋯」
「とやかく言ってないで坊やも逃げなさい! あの狼に殺されるわよ!」
「逃げても無駄なんだよ。匂いを覚えられたら、どこまでも追いかけてくる。語り部の婆さんが言ってた。一秒でも長生きしたきゃ逃げるな。⋯⋯逃げる奴から先に殺されるぞ」
呪狼はコヨトルの目前に迫る。だが、襲われなかった。
呪狼は逃げ出した学者の背中に飛びかかり、背骨を引き抜いた。血の噴水を浴びて、凶獣は遠吠えを上げる。
「逃げる獲物を狩って愉しんでるのね⋯⋯。ふざけるな。来なさい! 怪物め! 私は死なないわ! こんなところで死んでたまるものか!!」
セドナは大斧を構える。
故郷に残した夫と息子がいるのだ。女冒険者は絶対に生きて帰ると誓った。



