魔都ヴィシュテルを覆っていた不可侵領域の結界が破られてから約一時間。帝嶺宮城に異変は起きていない。集結させた魔物達には戦闘の許可を与えている。
無論、許可などなくとも人間の侵入者を見つければ魔物達は襲いかかったであろう。だが、レヴェチェリナは指揮系統の存在にこだわった。烏合の衆である魔物をまとめ上げるには、暴力に基づくものであれ、何らかの支配が必須である。
粗暴な魔物が大半である中、命令通りに動ける個体は貴重だった。知能の高い魔物には、重要な役割が与えられる。
情報伝達と索敵能力に優れる影の魔物は、屋上で侵入者の気配を探っていた。
(結界を破られてから一時間弱、こちらの予想に反して急襲は来ずか⋯⋯。人間側も様子見といったところでしょうか⋯⋯? ともかく私は、自分の仕事を終えました。あとは人間達がどう動くかです。長期戦は歓迎しますよ。我慢比べは得意です)
影の魔物に下された指示は二つある。
一つは周囲を警戒し、侵入者の存在を探ること。影の触手を地面や壁に這わせ、生物を探知する。大陸南端の絶海を縄張りとし、多くの船舶を海底に引きずり込んできた海魔にとって、人間の気配を辿るのは容易であった。
(影による生命探知は術式でも誤魔化せません。侵入してきた人間達は、まだ私の探知範囲には入っていない)
影の魔物はもう一つの仕事に注力した。敵は少数精鋭で攻めてくる。メガラニカ帝国の全軍集結には二ヵ月以上の時間がかかる。その選択を三皇后はしない。
(レオンハルト・アレキサンダーを筆頭とする最高戦力の投入⋯⋯。数ではなく質で勝負を仕掛ける。しかし、人間側が使える手札は他にもあります)
不可侵領域の護りは淀んでいる。一度亀裂が入った結界は脆い。魔物側の警戒心は別働隊に向けられた。時間的な制約で全軍こそ動かせないが、帝国軍には余力がある。
(帝国軍の精鋭はアレキサンダー公爵家だけではない。それに加えて、国家に属さぬ冒険者や魔狩人も動いているのなら⋯⋯。とにもかくにも、戦力が限られている我々は混戦を望んでいません)
過去の交戦経験で、冒険者と魔狩人の厄介さは身に染みている。
(始まりましたね。人間達が根城としている駐屯地への強襲⋯⋯! 私の転送能力を使えば機雷原の突破は簡単です。さて、どれだけ殺せますかね)
魔都ヴィシュテルに侵入した皇帝一行を孤立させるため、影の魔物は駐屯地に向けて落し子を放った。
(尖兵はキュレイが産んだ魔帝の子供達です⋯⋯。妖術で急成長させた牛頭鬼のデーモン。生まれたてでも侮れませんよ。なにせ、生母であるキュレイから遺伝したのは、肉体的強さだけではない。記憶や技量、落し子達は百戦錬磨の経験を受け継いでいます)
母胎の強さを吸い尽くして生誕した落し子は、牛頭鬼のキュレイと同等の戦闘能力を有している。上位種の魔物を量産できる魔帝の力にピュセルは感嘆していた。その一方で、影の魔物は戦慄を覚えた。
(本当に恐ろしい。私と同程度の力を誇っていたキュレイが、出産を終えてからは人間並に衰えてしまった。戦力は増強できましたが、母胎となった魔物は著しく衰えるデメリット⋯⋯。胎児に力を吸われた後遺症なのでしょう)
それなりに親しくしていたキュレイが辱められても、影の魔物は同情や憤りを抱いたりはしない。どれほど知能の高く、人語を使おうとも、他者への共感性は皆無。人間と魔物には大きな違いがある。
(気をつけねばなりませんね。ああなりたくはありません。レヴェチェリナやピュセルには弱味を見せないようにしましょう)
影の魔物は探知範囲を拡げる。駐屯地付近に転送させたキュレイの落し子達は、人間達と接敵した。帝嶺宮城の武器庫に残されていた大斧を持たせている。駐屯地で牛頭鬼の軍団を暴れさせ、血に飢えた魔物達を逐次投入する。
(戦力の逐次投入は愚策とされますが、目的は時間稼ぎと後方の攪乱。私達はレヴェチェリナの指示通り、自陣の防衛に徹すればいい)
影の魔物は味方の動きを探る。祭壇の間にいるピュセルは、胎児の移植を終わらせていた。出産で衰弱しきったキュレイの子宮に、自分の子供を産み移した。
(牛頭鬼の角が粉々に折られている⋯⋯。もはや戦闘要員としてキュレイを使う気はないのですね)
捻れた両角を切除したようだ。頭部から生えた牛頭鬼の象徴は砕け散った。祭壇に横たわるキュレイは、溢れ流れる目汁で美貌を濡らしていた。肉体に宿る魔素は消えかけており、生命力の反応は弱々しい。
(殺す気なのでしょうか? 胎に移した胎児は魔帝とピュセルの子⋯⋯。衰弱しきったキュレイが出産に耐えられるとは思えませんが⋯⋯。ピュセルの目的は子供に母胎を喰わせること?)
影の魔物は強い違和感を抱いた。ピュセルは太古の時代から生きる古き魔物。〈神喰いの羅刹姫〉と呼ばれたピュセル=プリステスは、おぞましき捕食者。その血を引く子供も同様の性質を引く継ぐはずだ。
(これ以上は近づけない。私の探知を勘付くかもしれ⋯⋯っ⋯⋯!)
服を着直したピュセルは、後退する影の触手にニッコリと微笑みかけた。
(覗き見に気付きましたね。長く生きてきたつもりですが、この化物は底が見えない⋯⋯)
栄大帝の時代、アレキサンダー公爵家の当主を殺した魔物。強大な神族を食い殺した羅刹姫は、影の魔物に警告する。
「お客様が来ているわ。影の魔物、頭上に注意しなさい。余所見していると死んじゃうわよ? それと、もう一つだけ助言してあげる。帝国元帥レオンハルトの剣は必ず避けること」
影の魔物は何度も自分に名前はないと言ってきた。影は影でしかない。人類文明に生来的嫌悪を抱く影の魔物は、名前など必要としていなかった。しかし、ピュセルは名前を押し付けてくる。
「――はッ!」
異変に気付いた。空間が歪んでいる。ピュセルの警告がなければ見過ごしていた。屋上に生じた渦巻く次元の淀み。影の魔物は探知用に伸ばしていた触手を引っ込める。
(これは空間の歪み⋯⋯!? 不味いッ! あの女が来るッ!! 次元操作による転移⋯⋯!! 防御を⋯⋯!! いや、回避しなければ⋯⋯!!)
刹那の判断が生死を分ける。
大剣の刃先が影を切り裂いた。生命核を狙った必殺の一撃を間一髪で躱す。回避ではなく、防御していれば、あっけなく影の魔物は滅ぼされていた。
「しくじったか。やけに勘が良いな」
突如として現れた帝国元帥レオンハルト・アレキサンダーの剣撃は、凄まじい衝撃波を発生させた。屋上が崩壊し、帝都に破壊音が轟く。落下する瓦礫に隠れて、影の魔物は距離を取ろうとする。
(ぐぅっ⋯⋯!! なんて威力だ! 身体の半分を削られてしまった⋯⋯! 直撃したら即死。危なかった。これが帝国最強の――)
影の魔物は危難を逃れたと思った。油断は捨てている。これまで多くの冒険者や魔狩人を葬り去ってきた。
強力な異能、卓越した戦闘技能、魔物に対する知識、その全てを兼ね揃えた猛者達を返り討ちにしてきた強い自負。強い人間の殺し方は熟知している。だが、アレキサンダー公爵家の人間は、人類の枠では括れない。
(は? 予備動作も無しで時間停止ができるのか!? しまった⋯⋯!!)
時間が凍結した。崩落する瓦礫が空中で静止している。影の魔物に思考する猶予を与えぬ追撃。次元操作の力は、アレキサンダー公爵家の血統に宿る異能である。
(かろうじて意識は保てている⋯⋯! だっ⋯⋯! だが⋯⋯! 動かせない⋯⋯!! 停止した時空に身体を囚われた⋯⋯!!)
レオンハルトの力は歴代最強の域に達している。意識の凍結を免れた影の魔物は、それだけ賞賛に値する。上位種の魔物にふさわしい強き者だ。しかし、強さは相対的な尺度である。
(せめて核の転送を⋯⋯! くっ! できないっ! 生命核を砕かれる!)
超越的な強さを誇るレオンハルトからすれば、蠢く影の魔物は低劣な雑魚だった。実際、助けが来なければ、あっけなく滅ぼされていただろう。
「――ぐうぅッ!」
剣先が生命核を貫く寸前、時間の凍結が強制解除された。影の魔物は転送能力を発動し、レオンハルトの前から消えた。
「ふふっ♪ 弱い者苛めは感心しないわよ。元帥閣下」
「邪魔が入ったか。しかし、探す手間が省けたぞ。神喰の羅刹姫⋯⋯!」
ほんの数秒前まで祭壇の間にいたはずのピュセルが現れる。次元操作による瞬間移動、凍結された時空の解除、いずれも神喰の羅刹姫でなければ為せぬ超常の御業であった。
「魔物に同族愛はないだろう」
「心外だわ」
「市街地を彷徨いていた魔物どもを始末してきたが、大した力はなかった。だが、あの影は停止した時間の中でさえ意識を保った⋯⋯。上位種の魔物だ。逃げる際には転移能力をも使った。重要な役割を担っていたららしいな」
「ええ。だから、貴方を行かせたりはしないわ。私の役割は帝国元帥の足止めよ。よろしくね」
無数の護符を展開し、巫女が祈るような仕草で両手を合わせる。
「くだらん。魔物が神事の真似事か⋯⋯。おぞましい悪鬼め。それも喰い奪った能力の一つだろうが、盗んだ力で私には勝てぬ。ここで栄大帝時代の不始末に決着をつけよう」
「ふふっ⋯⋯! 不始末ねえ。先祖の仇討ちってところかしら?」
「仇討ち? 違うな。栄大帝に詫びるためだ。皇帝をお守りし、帝国の敵を滅ぼすべきアレキサンダー公爵家が敗北した。恥ずべき汚名だ⋯⋯。魔物どもを鏖殺し、臣下の使命を完遂する」
栄大帝が築いた統一時代を生き延びた伝説の魔物。その能力は捕食した人間の才能を奪う〈魂喰らい〉。ピュセルが使う多才な力は、多くの犠牲者から会得したものだった。
(私が奪えるのは素質だけ⋯⋯。天才の魂を食べても、鍛えなければ素質があるだけの非才。能力を開花させるための努力は怠らなかったわ)
相手の能力そのものを奪えるわけではない。気が遠くなるほどの修練を積んで、やっと追いつける。次元操作の能力を使いこなすために、千年の歳月を捧げた。
「ほんと、人間の天才って卑怯よねぇ⋯⋯!!」
ピュセルは不満たっぷりに呟いた。レオンハルトの数百倍の修練をしている。相手は雛鳥のような未熟で若い人間。だというのに、圧倒されているのはこちら側だ。
(次元操作の能力勝負では、数秒で押し負けてしまうわ。レオンハルトと私では才能の格が違う。四女でありながら、長女を退けて当主の座に収まっただけはあるわ⋯⋯!)
ピュセルは非才の限界を痛感する。しかし、退くつもりはなかった。ここでレオンハルトを足止めしなければ、魔帝とレヴェチェリナが殺されてしまう。
「本音を言ってしまうとね。もはや勝敗はどちらでもいいの。私の計画は完了したから⋯⋯。でも、レヴェチェリナとは取引をした。義理堅い私は約束を守ってあげるわ」
「――戯れ言は聞き飽きた。さっさと死ね」
戯言に聞き飽きたレオンハルトは空間を爆縮させる。三次元の立体を圧壊し、ピュセルを粉微塵に磨り潰すつもりだった。
「まだ死にたくないわ。だから、こうするの。神域結界――相剋相殺の封陣!」
神事の鈴音が響いた。邪悪な魔物が発動したとは思えぬ清浄なる領域が周囲を包み込む。羅刹姫は聖なる神族だけに許された神域を展開する。
レオンハルトの異能発動を封じ込め、歪曲した空間を引き延ばした。
「残念でした⋯⋯。あとちょっとで私を殺せたのにね。結界発動が間に合った。祈りを欠かさずに捧げていた成果かしら? ふふっ⋯⋯! この封印結界内で、貴方の次元操作は発動しないわ」
「封印神ザクルケーラの能力封じ⋯⋯。伝承の通りか。それも奪った能力だな?」
「そんなに驚いてくれないのね。でも、分かるでしょ? アレキサンダー公爵家の人間と真正面から戦うつもりはないわ」
ピュセルは教会の聖神を喰らった。神喰の由来である。捕食された聖神は、封印神術に秀でた女神だった。
「⋯⋯確かに私の次元操作は使えないようだ」
「下調べはしてきたのでしょう? 私が自分の視界を封じれば、貴方は視界を失う。私が自分の聴覚を封じれば、貴方は聴覚を失う。それが神域に宿る相殺の犠牲封印。私は自分の次元操作能力を封じたわ。だから、貴方も同じように次元操作能力を発動できなくなった」
自分自身を神供とする究極封印。自分の力を削ぎ落とし、強大な敵の力を制限する。根本にあるのは概念の打ち消しだ。
「侮られたものだ⋯⋯。私が異能に頼りきった弱い女だと思っているのか?」
レオンハルトは生来の異能を封じられた。しかし、先祖と同じ轍を踏まない。栄大帝時代に当主を討たれてたから、アレキサンダー公爵家は異能頼りの戦法を捨てている。
(ここからが正念場ね。私の足止めは帝国元帥レオンハルトだけで精一杯⋯⋯! 皇帝ベルゼフリートと一緒に攻め入った人間のなかには神官長カティア、他にもアレキサンダー公爵家の姉妹がいるわ)
ピュセルは大量の護符を撒き散らし、振り下ろされた大剣を防ぐ。強烈な斬撃が頭蓋を叩き割ろうと迫り来る。安堵する暇を与えず、レオンハルトの追撃が叩き込まれる。腹部を蹴りあげられたピュセルは吹き飛ばされる。
「うっ⋯⋯! 痛いわぁ⋯⋯。はぁはぁ⋯⋯。内臓が破裂しちゃったわ。見て? ほら、こんなに血が沢山⋯⋯。ふふっ⋯⋯! 子宮が潰れちゃったかも⋯⋯♥︎ あぁ、良かったぁ⋯⋯。子作りを終えた後で⋯⋯♥︎」
口から血を吐き散らし、愉しげにニタニタと笑っている。不快感を露わにしたレオンハルトは大剣を構えた。