ウィルヘルミナは宰相府の執務室に現われた人物を凝視する。警備の者達が侵入に気付いた様子はなかった。美貌の淫魔は苦々しい表情を浮かべる。
「私から三頭会議を開くと言った覚えはありませんが?」
書面で忙しなく走らせていた羽根ペンを止め、スタンドに立てかけた。
「人目を忍んで、何の御用です? 見ての通り、私は宰相府の仕事で忙しい。もし三皇后の閣議が必要なら金緑后宮で陛下と戯れているレオンハルト元帥をご自分で呼んできてください。⋯⋯私からはしませんよ」
絶対に自分ではレオンハルトを呼び出したくないとウィルヘルミナは突き放す。
当然の話だった。レオンハルトはベルゼフリートと過ごす時間を作るために、必死になって軍務省の仕事を片付けていた。
もしこのタイミングで閣議を正当な理由なく緊急召集すれば、レオンハルトの大きな恨みを間違いなく買う。
「辛辣じゃのう。じゃがな、閣議の誘いではないぞ」
老人口調のハイエルフは首を横に振った。見た目こそ若々しいが、その実年齢はウィルヘルミナの数十倍。長命種といえども、彼女ほどの歳月を生きた女性はいない。
「深夜徘徊で宰相府の執務室に迷い込んだと? ご老人になるとよくあるそうですね。出口はあちらです。なんなら道案内をつけてさしあげましょうか?」
ウィルヘルミナの暴言はカティアの口元を引き攣らせた。
「無礼じゃのう。儂がこうして出向いた理由は、帝国宰相の思惑が知りたかったからじゃ」
大神殿の神官長カティアであれば、帝国宰相の護衛を潜り抜けるのは簡単だった。外見上は小柄なハイエルフの少女。しかし、その実力は百戦錬磨の手練れである。
カティアが切り抜けた死線の場数は、アレキサンダー公爵家の七姉妹に勝る。誰よりも実戦経験を積んだ神術師。表立って口にはしないが、死恐帝を鎮めた英雄パーティーの一人である。
(宰相府の警備態勢は強めていたのですが、このご老人が相手では仕方ありませんね)
帝国宰相ウィルヘルミナは政治家としての行政能力は飛び抜けているが、神官長カティアや帝国元帥レオンハルトと異なり、自身の戦闘能力は皆無。カティアが部屋に侵入しても、しばらくは気付けなかった。
「神官長猊下は非公式の会談を求めているのですね。しかし、既に私の考えは伝えております」
突如として現われたカティアに驚きの表情をまったく見せず、淡々と応対するのは、大帝国の舵を握る宰相の胆力であろう。淫奔なサキュバス族
にそぐわない生真面目な性格にくわえて、何事にも動じない度胸を兼ね揃えていた。
「前回の三頭会議で話し尽くされています。ご期待に添えず申し訳ありません」
「あれが全てではなかろう?」
「なんのことやら⋯⋯。カティア神官長の意図をはかりかねます。まるで私が陰険な策謀を巡らせているかのような口ぶりです」
「とぼけよってからに。この儂を見くびっておるのか?」
「私はいつも年長者には敬意を払ってきました」
「⋯⋯昔の旧友に其方と似ている男がおった。腹黒い知恵者の振る舞いについて、儂は有識者じゃ」
「ラヴァンドラ伯爵家を復興させた帝都の大商人クザマですか?」
大商人クザマは約半世紀前、英雄アレキサンダーに請われて、メガラニカ帝国を救う旅に同行した偉人である。頭脳明晰な知恵者と知られ、必要であれば非情に徹する実利主義者。廃都ヴィシュテル奪還戦で命を落とした。
「英雄アレキサンダーが率いた仲間の一人⋯⋯。言い伝えでしか存じませんが、私の性格はそこまで悪くないつもりです」
「両方を知っておる儂から言わせれば、五十歩百歩じゃ」
「五十歩と百歩では倍差の開きあります。私は五十歩のほうですね」
「ふむ。彼奴も皮肉が好きじゃったのう。裏であれこれと策略を巡らせるのが得意であった。味方となれば心強いが、秘密主義に困らされたものよ」
「⋯⋯⋯⋯。長老派の首魁であるカティア神官長が秘密主義を非難するとは驚きです。大神殿が速やかに公安総局の捜査情報を開示してくだされば、宰相府や軍務省の苦労は少なかったのですが?」
「痛いところを突くのう。こちらも事情があったのじゃ。女仙に内通者がいれば一大事。捜査は内密に行わなければ意味がなかろう? 幸いにも裏切り者はいなかったがのう」
「公安総局の調査報告書には目を通しています。ところで、時間を持て余したご老人の話し相手をしているほど、帝国宰相は暇でないとご存知でしょうか?」
「とことん慇懃無礼じゃのう。サキュバスのくせに宰相閣下は愛想が欠けておるぞ」
「接待をお望みでしたか? 歓楽街のサキュバス嬢ではありませんので」
「其方から話すつもりがないのなら、儂のほうから問いかけよう。アレキサンダー公爵家の件じゃ」
「それこそ私の管轄外です。アレキサンダー公爵家のことはレオンハルト元帥に聞いてください」
「前当主のヴァルキュリヤが身籠もったそうじゃ」
「⋯⋯⋯⋯」
ウィルヘルミナはヴァルキュリヤの懐妊を聞き、静かにほくそ笑んだ。
「アレキサンダー公爵家には大神殿の巫女が常駐しておる。医療は全て大神殿の仕事じゃ。情報はすぐに上がってくる。ヴァルキュリヤは内密出産を希望しておる」
「そうなのですか。初耳です。八人目とはヴァルキュリヤ殿もまだまだお若い」
「白々しいのう。陛下の胤で孕んだ子供じゃろ? 引退していたヴァルキュリヤが今頃になって子産みに励む相手。すぐに答えは思い浮かぶ」
「年始の訪問で騒動があったと聞いています。陛下が子を仕込んだのは、そのときでしょうか⋯⋯? 陛下には困らされますね。女仙でない者を孕ませたとなれば、いろいろと問題が起こってしまう」
「まだ誤魔化すつもりとは、面の顔が厚いのう。帝国宰相の指示⋯⋯いいや、この場合は命令じゃろ」
「命令? なぜ?」
「昨年の戦勝式典で陛下はヴィクトリカ王女と接触し、女仙以外の者が孕んでしまう異常事態に発展した。お付きの女官による監視体制は強化されたはずじゃ。陛下の戯れによる結果とは思えぬ」
「私の命令で女官が黙認したとでも?」
「女官総長に命令を下せる者は皇后だけじゃ。儂は何もしておらぬ。レオンハルト元帥が母親と陛下の姦通を許すものか。あの性格じゃ。――となれば、消去法で命じた相手は帝国宰相しか残らぬよ」
「思い出しました。許可を与えました。どうしても陛下の子供を産みたいとヴァルキュリヤ殿にせがまれたのです。いたし方なく⋯⋯ね」
ウィルヘルミナは眉一つ動かさず、これまでの主張を翻し、ベルゼフリートにヴァルキュリヤを孕ませるように命じたと認めた。
「⋯⋯それをレオンハルト元帥の前で言ったら、大変なことになるじゃろうな」
「アレキサンダー公爵家は功労者です。隠遁された大御所とはいえ、ヴァルキュリヤ殿のご両親は救国の英雄。父母が身命を賭したと思えば、我が侭の一つくらいは叶えてあげるべきでしょう」
「それだけの理由か? そうは思えぬぞ。其方が最愛の夫を貸し出すほどのお人好しとは初めて知ったのう」
「はぁ⋯⋯。独占しているつもりはありませんよ。ですが、分かりました。腹の探り合いはやめましょう。ここから先の話はレオンハルト元帥に秘密でお願いします」
「無論じゃ。聖職者は口が堅いぞ。安心せい」
「私自身、国内で不穏な気配を感じていました」
「陛下を誘拐しようとした者達の動向を掴んでおったのか?」
「いえ、天空城アースガルズに侵入者が現われるとは予想できませんでした。懸念していたのは副都ドルドレイで起きた軍事クーデターの再来です」
「⋯⋯過ぎ去った出来事じゃ。関係者は処断したじゃろう。恩赦で自由になった者は多いが⋯⋯連中が再び蜂起するとは思えぬぞ?」
「ええ。そうは思います。しかし、軍閥は脅威です。戦力面を見ればアレキサンダー公爵家が飛び抜けている。帝国軍の最高戦力、レオンハルト元帥を筆頭とする七姉妹が結託すれば、現状の体制をひっくり返せます」
「アレキサンダー公爵家が反旗を翻すとでも言いたいのか? そんな暴挙をしでかす一族ではないぞ」
ドルドレイ騒乱でアレキサンダー公爵家は中立を保った。ケーデンバウアー侯爵家も軍事クーデターには反対し、旧体制派はウィルヘルミナに破れる結果となった。
帝国軍に近しい軍人貴族達は、アレキサンダー公爵家とケーデンバウアー侯爵家の静観を見て、クーデター派と距離を置いた。
「分かっています。けれど、メガラニカ帝国の現体制を崩壊させる手段があるとすれば、アレキサンダー公爵家を抱き込む以外にない。私がヴァルキュリヤ殿と交わした密書は、国防体制に対する保険です」
「むぅ⋯⋯。儂には不要な保険に思えるがのう」
カティアは渋い表情を浮かべる。大神殿とアレキサンダー公爵家の繋がりは深い。ウィルヘルミナの画策が、むしろ余計なわだかまりを生じさせるのではないかと懸念した。
「保険なんてものは掛け捨てです。敵が何をしようとしているのか、我々はあらゆる可能性を考慮しなければなりません。無駄になったとしても、損はありません」
「損はないか⋯⋯。アレキサンダー公爵家の母娘関係は険悪になったじゃろうな。七姉妹は酷く立腹していたと聞くが⋯⋯」
「皇帝陛下の敵――メガラニカ帝国の脅威を考えれば必要な処置でした」
「敵というのは、天空城アースガルズに侵入した女じゃな」
「ええ。我々が予想しなかった方法で帝城ペンタグラムの一画を吹き飛ばした」
「⋯⋯まさか城の動力炉に棲み着いていたとはのう。盲点じゃった」
「敵の目的は間違いなく皇帝陛下の御身です。破壊者ルティヤの転生体を狙った計画的犯行。動力炉に最低でも五〇〇年、もしかすると一〇〇〇年以上も潜んでいた敵が、なぜこのタイミングで動き出したのか⋯⋯ずっと考えを巡らせていました」
「帝国宰相はどう見ておるのじゃ?」
「私が敵であれば、アレキサンダー公爵家を最大の障害と考えます。陛下を力づくで奪取するのなら、レオンハルト元帥の不在を狙うか、どうにか共犯に抱き込むかの二択です」
ウィルヘルミナは敵の動きが解せなかった。
長年に渡って潜んでいた敵が目覚めたとき、レオンハルトは天空城アースガルズにいた。不在を狙うべき帝国最強の猛者は健在だった。
(帝国元帥は軍務省の指揮監督を行うため、必ずしも天空城アースガルズにいるとは限らなかった。なぜ不在の時期を見計らわなかったのか⋯⋯)
案の定、警務女官ユリアナはベルゼフリートを金緑后宮に移送し、帝国軍の精鋭部隊による厳重な警戒態勢が敷かれた。
「帝国元帥レオンハルトを倒す選択肢があるじゃろ」
メガラニカ帝国の最高戦力。アガンタ大陸で最強の存在。救国の英雄を凌駕するアレキサンダー公爵家の最高傑作。正攻法で倒す手段は存在しない。
「私は戦闘に関しては素人です。しかし、戦力分析はできます。レオンハルト・アレキサンダーが敗北するとは考えにくい。もし倒せるというのならば、回りくどい真似をせずに攻めてくればいい」
敵がレオンハルト以上の強者なら、メガラニカ帝国は物量で時間稼ぎをするくらいしか対抗策がない。
(実際、我が国との戦争に敗れたバルカサロ王国やアルテナ王国がまさしくそうでした。ユイファン少将の奇策で短期決戦となりましたが、戦場にレオンハルト元帥を参戦させた時点で、勝負は決まっていました)
圧倒的強者がいれば、必ず作戦目標を達成できる。
「相手が強硬手段を使ってこないのは、戦力面でこちらに劣っているからです」
敵は表立った行動を避けている。帝城ペンタグラムで爆発を起こしてから、まったく音沙汰無しの状況だ。
「見立ては正しいのう。しかし、レオンハルト元帥を無敵とまで言い切るとは⋯⋯。其方も信頼しておるのだな」
「お世辞や媚びではありません。客観的な事実です。そういうカティア神官長はレオンハルト元帥を倒せますか?」
「答えは分かっておるくせに⋯⋯。儂はそもそも聖職者じゃぞ? アレキサンダー公爵家は、皇帝陛下の敵を討ち滅ぼす戦士じゃ。比べる相手が間違っておる」
「大神殿の兵力を全て注ぎ込んだとして、レオンハルト元帥に軽傷を与えられるかすら怪しいでしょう」
「そうじゃのう。儂が捨て身で挑んでもまず無理じゃな。攻めてきたのを防衛するのなら手段はあるが⋯⋯。こちらから攻めるのは論外じゃな」
「それほどの戦力差がある。⋯⋯となれば、次に考えるのはレオンハルト元帥の姉妹です」
「姉妹じゃと?」
「アレキサンダー公爵家は七人の姉妹。レオンハルト元帥には血の繋がった姉と妹が六人います」
「ヴァルキュリヤは励んだからのう。胎違いなら警務女官長のハスキーを加えれば一人増えるのう」
「ハスキーは優秀な女官ですが、頭数には入りません。次元を操る異能はアレキサンダー公爵家の血統に宿っています。レオンハルト元帥を打倒するには、同じ異能を宿した姉妹六人と戦わせるしかない⋯⋯と最初は考えました」
「まず無理じゃな。儂は全員を知っておるが、一対六でもレオンハルト元帥が圧勝するぞ。⋯⋯長女と六女は手傷を負わせるかもしれぬ。じゃが、地力の差は覆せん」
「私も同感です。情に流されでもしない限り、姉妹の六人が徒党を組んでも結果は同じ⋯⋯。レオンハルト元帥の勝利は揺るがない」
「むぅ。考えていてなんじゃが、やはり無意味な想定じゃ。アレキサンダー公爵家の人間が裏切るか? 前提からして大きく間違っておる気がするぞ」
「私が悩んでいるのはそこです。絶対に起こりえない仮定を積み重ねても、レオンハルト・アレキサンダーという障害を取り除けない」
口には出さなかったが、メガラニカ帝国の全兵力を注いでもレオンハルトは殺せなかった。
(可能性があるとすれば一つだけ⋯⋯)
超常的な災禍の力、破壊者ルティヤの暴走であれば殺せるかもしれない。しかし、レオンハルトがベルゼフリートを守っている限り、その可能性も消える。
「レオンハルト元帥が倒せずとも、陛下を誘拐されてしまったら儂らの負けじゃ。敵の狙いはそこじゃろう」
「⋯⋯敵の行動が矛盾しています。陛下の誘拐を目論んでいたのなら、帝城ペンタグラムに侵入した瞬間こそ、最大の好機だったはず。もっと入念に計画を立てて、警務女官を出し抜くべきです。しかし、敵はあっけなく失敗した」
敵が失敗したとは思えなかった。周到に組み込まれた作戦の一部、何らかの意図が隠されているとウィルヘルミナは感じ取った。
「敵がわざと失敗したか⋯⋯。三頭会議で其方は言及しておったのう」
「私達に存在を知られた時点で、敵の計画は破綻します。なぜなら陛下の護衛体制を強化するからです。これから先、敵が一掃されるまで、私はアレキサンダー公爵家の七姉妹に陛下を護衛させ続けます」
天空城アースガルズの臨検について三皇后の意見は分かれた。しかし、レオンハルトを含めた七姉妹の一人を皇帝の護衛につける件は意見が一致した。
「我々が陛下の護衛態勢を固めた時点で、敵には打つ手が残されていません。そんなことは分かりきっています」
「ふむ。なるほどのう。儂にも分かってきたぞ。敵が考え無しの阿呆とは思えぬ。アレキサンダー公爵家の七姉妹を排除する手段がある。其方はそう考えておるのだな?」
「帝城ペンタグラムに侵入した敵は私達の意表を突いた。陛下から護衛を引き剥がす手段⋯⋯。たとえば空間転移のような罠を⋯⋯いえ⋯⋯それはないですね」
「転移系の罠は儂でも見抜ける。大がかりな術式は痕跡が残りやすい。そもそも時空を操るアレキサンダー公爵家の者達にその手の搦め手は通じぬ。ふむ。しかし、ダンジョンであれば可能性があるかもしれんのう」
「⋯⋯陛下は地下都市ラビュリントスの迷宮に行きたがっています。全ての問題が片付くまで近寄らせないように手を回しておきましょう」
「ラビュリントスの地下迷宮は攻略済みじゃ。今は観光地になっておる。もはやダンジョンと言えるかは怪しいぞ。用心は必要じゃがな。近寄らせぬほうが良かろう」
「そもそも今年の行幸は中止です。仮寓帝殿にグラシエル大宮殿を選んだのは、陛下を帝都アヴァタールに留めておくためです」
ウィルヘルミナの明晰な頭脳をもってしても敵の出方が分からなかった。レオンハルトを倒す方法はない。次に考えたのは内通者の存在だ。
先代の皇帝は臣下の裏切りで殺されている。死恐帝の暗殺を主導したのは、帝国宰相と帝国元帥だった。
裏切りはもっとも容易に思い浮かぶ手段だ。しかし、公安総局の内部調査で女仙に裏切り者はいないと分かった。
(敵は情報を得ている節があります。メガラニカ帝国に協力者は潜んでいる⋯⋯。女仙ではないようですが、軍務省や宮中の情報を得られる誰かが⋯⋯)
裏切りが発生したとしても些細な問題ではあった。レオンハルトを筆頭とするアレキサンダー公爵家の七姉妹がいれば、帝国軍の全てが寝返ってもベルゼフリートを守り切れるからだ。
(人質交換の可能性は⋯⋯。それもありえません。メガラニカ皇帝の価値は唯一無二。破壊者ルティヤの転生体が絶命した瞬間、帝国の滅びは確定する。たとえ私が敵に拉致されたとしても、皇帝陛下を引き渡す選択はありえない)
メガラニカ帝国で皇帝ベルゼフリート以上に重要な人間は存在しない。
どんな犠牲を払おうとも絶対に死守すべき主君。他国であれば、君主よりも民が優先される場合もあるだろう。しかし、メガラニカ帝国ではありえない。
国民全員が犠牲になるとしても、メガラニカ帝国が瓦解しても、ベルゼフリートの身命が最優先。破壊者ルティヤの災禍は、大陸全土を破壊しかねない。
(帝国宰相である私ですら陛下と比べれば安い命。⋯⋯とは言うものの、自身の安全を軽んじてはいません)
ウィルヘルミナは軍務省から渡された手のひらサイズの匣を見詰める。
三皇后のなかで唯一、ウィルヘルミナは自衛ができない。敵に襲われたとき、この小さな匣が守ってくれるはずだった。
(カティア神官長が私の執務室に入ってきたのに、まったく反応していませんね⋯⋯)
サキュバスの尻尾をくねらせ、疑心の視線で睨む。
(軍務省のお墨付きですが、よりにもよってヘルガ・ケーデンバウアーの発明品⋯⋯。いざというとき、本当に役に立つのでしょうか?)
帝国随一の魔術師が作った逸品ではある。匣を届けにきたヘルガは自慢げに説明を述べていた。
――ここ数年の最高傑作だとも! 空間を折り畳む驚異の新技術、さらに軽量化の魔術式を半永久化する革新的技術!! 試作品ではあるものの、量産化に成功すれば物流に革命が起きる発明品だ! んん~? 開発費が高すぎる? はっはははは! 笑える冗談だ。微々たる額ではないかね。進歩には投資が必要なのだよ。ケチはいけないぞ、宰相閣下。技術開発予算の増額を期待している!
ヘルガの製品は当たり外れが激しい。不安を覚えたウィルヘルミナは試しに転がしてみる。だが、匣は特に反応を示さなかった。
(帝国金貨二〇〇〇枚を浪費したとは考えたくありませんね。貴重な血税を湯水のように⋯⋯)
匣からは穏やかな寝息の音が聞こえていた。