アルテナ王国の都を出発した帝国元帥レオンハルトは明日、麾下の帝国軍を引き連れ、帝都アヴァタールに帰還する予定となっている。
帝国内ではアルテナ王国の戦後統治を巡った対立が発生していた。しかし、軍務省の働きで得た勝利そのものは、万民が評価するところである。
戦争を勝利に導いたレオンハルト元帥の帰国に合わせ、帝都で盛大な戦勝式典が計画されていた。
作戦参謀のユイファン少将をはじめ、今回の戦争で昇進した軍関係者は数多くいる。
戦勝式典には皇帝ベルゼフリートが出席し、このほか帝国宰相ウィルヘルミナ、神官長カティア、各省の幕僚が顔を揃える。
戦場で戦った勇敢な帝国軍に名誉を授ける儀礼。皇帝による勲章授与は、数百年ぶりの吉事であった。
死恐帝の暗殺後、メガラニカ帝国では空位の時代が長く続いた。皇帝が出席する戦勝式典は、長命種の記憶にすら残っていない。
破壊帝、哀帝、死恐帝は災禍の時代だった。
華やかな儀礼は行われておらず、今回の戦勝式典は、栄大帝以来の祝典だと指摘する歴史学者もいた。帝国の市民にとって、かつての栄光を想起させる喜ばしい祝宴だ。しかし、神経質になっている者がいる。
――まず警備を担当する女官達である。
警務女官長ハスキーは精鋭の侍女隊を編成し、皇帝の近辺を固めることにした。当然であるが、女官だけで全域の警備は不可能だ。
人手不足を補うため、犬猿の仲である帝国軍と協力体制を敷かねばならなかった。
また、宰相府から警備計画に注文を付けられた。
「凱旋門での出迎え後、レオンハルト元帥自身がベルゼフリート陛下を護衛するべきです」
帝国宰相ウィルヘルミナは高圧的な態度で警務女官長ハスキーに厳命した。
「帝国兵は詰め寄せた群衆の誘導、警務女官は陛下の身辺警護に専念させるべきでしょう。各所の連携より、役割分担を明確にすることが肝要です」
ダメ押しの保険として、帝国最強のレオンハルト元帥を皇帝の近くに配置する。綿密な連携が期待できない女官と帝国軍を切り分ける護衛案は、誰もが納得する最善策だった。軍務省側は反対する理由がなかった。
ハスキー自身も無能ではない。最初から女官総長ヴァネッサに同様の案を提示し、警備計画を進めていた。ところが、ウィルヘルミナからの横槍で、あたかも宰相府の計画案を飲まされたかのような印象が生じてしまった。
――女官達は不快だった。
経緯はともかくとして、ウィルヘルミナによる事実上の命令が下され、警務女官長ハスキーは渋い顔をしつつ、意向に沿った警備計画案を関係各所に提示した。
極論に近しいものの、帝国最強の武人を隣席させてしまうのが、もっとも安全な護衛体制だ。疑いの余地はない。
愚かしい動機による暗殺事件を発端として、〈死恐帝の災禍〉が起こった。その暗い歴史を、メガラニカ帝国の人々は覚えている。
——戦勝式典の開催日が迫り、周囲が気を張り詰める中、警護対象となっている当の本人、皇帝ベルゼフリートは暢気なものだった。
「え? ネルティも一緒じゃ駄目なの? 帝都に降りるなら、お忍びで色々なところを遊びたいよ。戦勝式典が終わったら抜け出して城下で屋台巡りしない? ねえ、一緒にいこうよ」
「そんな自由勝手が許されるわけあるか。陛下の警護にどれだけの予算と人員を割いてると思ってるんだ。自分の身分を弁えろ。身分を」
「身分……? ネルティ、僕は皇帝陛下だよ?」
「だから駄目なんだろうが! 陛下に何かがあったら国どころか、大陸の危機なんだからな! もっと皇帝としての自覚を持て! 何があっても元帥閣下の側から離れるな!」
「そっか。うん。分かった。じゃあ、お忍びの屋台巡りはレオンハルトも一緒に連れて行こう」
「あー! 違う! そういう意味じゃない!!」
私的な会話だとしても、皇帝を怒鳴りつけられるのは旧友のネルティだけだ。馴れ馴れしい態度を快く思わない者は宮廷に数多くいる。だが、寵姫という一点で、全ての無礼が許されていた。
何者も、それこそ皇后であったとしても、手出しできない。ネルティは一種の聖域だった。
戦勝式典の前日、皇帝ベルゼフリートはユイファンの住む光芒離宮を訪問した。
ユイファンの職位は帝国軍少将であるが、宮廷では妃位を持たぬ愛妾だった。
下賜された住まいは、セラフィーナの黄葉離宮とさして変わらない広さだ。特色があるとすれば、至る所に本棚があり、一見すると魔術師の工房や書庫に見えてしまうことだろう。
「陛下が来てくれると賑やかになっていいね」
鷹揚に笑う離宮の主人は、皇帝と側女の痴話喧嘩を眺めていた。対照的にハスキーは苛立ちを隠さない。
「即位以前からの付き合いだとしても、あのような態度は好ましく思えません。貴女の側女なのですから、陛下との付き合い方を指導すべきではありませんか?」
「目くじらを立てることかな? 陛下は皇帝である前に年頃の少年だ。ネルティはウィルヘルミナ宰相に次いで、陛下との付き合いが長い。それにだ。私がネルティを叱りつけたら、従者に嫉妬していると悪評が立つ。それは困るよ」
宮廷における愛妾ユイファンと側女ネルティの立場は特殊だった。特に皇帝との付き合い方において、口を挟める者はいない。
警務女官長のハスキーも寵姫の一人に数えられている。しかし、ネルティは即位以前からベルゼフリートと親しい人物だった。
「私の側女に対して、陰険な眼差しを向けるのは程々に願いたいね。聞き苦しい妬み話より、例の話を聞かせてほしい。女官は独自の情報網を持っている。それは知っていたよ。だけど、それが宮廷外に及んでいるとは思わなかった」
「……出し惜しみしていても仕方ありませんね。死んだとされているヴィクトリカ王女ですが、王都ムーンホワイトで目撃例がありました」
「参謀本部が血眼で探し回り、足取り一つ掴めなかったヴィクトリカ王女が王都に現れたと? それは驚きだね。その情報の確度はいかほどと考えればよろしいかな?」
「確実な情報です」
「自信満々だね。その根拠は?」
「アルテナ王家に長年仕えていた者が、交易商人の隊商に紛れ込んだ王女の姿を見たと言っています。その隊商はレオンハルト元帥が率いる帝国軍と同行しているはずです」
「これまた驚きだ。無謀というべきか? はたまた勇敢というべきか……? 帝国軍の追跡を掻い潜っている事実を鑑みれば、勇猛と賞賛するべきだね」
「敵に賛辞を送っている場合ですか?」
「母親を助けにきたというのなら殊勝な娘だ。よりにもよって帝国本土に来るとは……」
「レオンハルト元帥に連絡し、同行する商人達を調べれば簡単に捕まえられます」
「それでは王女を取り逃がす。断言できるよ。ヴィクトリカ王女は引っかからない」
「なぜ言い切れるのですか?」
「これは理屈じゃない。そういう異能もしくは加護を持っていると、参謀本部は断定している。帝国軍の索敵術式すら掻い潜っているんだ。集団に紛れたヴィクトリカ王女は捕まえられない。通常の手段では絶対に」
「軍務省はそこまで手こずっているのですか? にわかには信じられない話です」
「二度も三度も取り逃せば、確信せざるを得ないよ。生まれつきの異能か、伝説級の宝具を所持しているのか……。どちらにせよ、尋常ならざる恩寵が働いているのは事実だ」
「まさか放置するのですか? それは我が国にとって危険だと思います」
「このまま消えてくれるのなら、見逃しても良かった。だけども、そうもいかないだろうね。ヴィクトリカ王女は勇敢な少女だ。王女が騒動の発端となり、足下で火が付くのは望まざるところさ」
死んだはずのヴィクトリカ王女に再登場されては困るのだ。アルテナ王国の地方貴族と進めている交渉は、王女の死が前提にある。
「王女をどう処理するかは、私たち女官の与り知らぬ事情です。しかしながら、女官から軍務省に有益な情報を提供した。その事実だけは覚えていてほしいですね」
「もちろんだよ。借りは返す。ヘルガ王妃やレオンハルト元帥の耳に入れるつもりだよ。何らかの形でお礼はさせてもらう」
「この件、皇帝陛下にはお伝えするのですか」
「皇帝陛下に聞かせる話ではないかな……。最近はセラフィーナ女王と親しくしている。随分と長く黄葉離宮に滞在していたらしいね。うっかり口を滑らせるかもしれないから、陛下には秘密にしておくよ」
「その言い振り。やはり王女は始末するのですね」
「殺す理由はないけど、生かしておく理由はそれ以上にない。それとも捕まえて、女官総長殿の貢ぎ物にしろと?」
「その手の冗談は好みません。それに殺すには捕まえる必要があります。捕まえられない王女をどう見つけ出して、始末する気なのです?」
「向こうから来てもらう。明日の戦勝式典にはセラフィーナが出席する」
セラフィーナは戦勝のトロフィーとなっている。ベルゼフリートの子を身籠もり、妊婦となったアルテナ王国の女王。公衆の面前で女王の懐妊を見せつける目的があった。
「母親の姿を見に来るはずだと?」
「敵国に奪われた母親が妊娠させられたんだ。仲の良い母娘だったと聞いている」
「さすがは参謀本部の情報将校。悪辣な計画を考えていると想像できます」
「褒め言葉だと受け取っておくよ。王女が帝国に来る理由はひとつ。囚われている母親を助け出す以外にない。悲しいかな。母親が解放を望んでいるとも限らないけれどね」
ハスキーは妊娠したセラフィーナの内心を想像する。連れてこられた当初と異なり、セラフィーナの態度は目に見えて変化している。
セラフィーナは女官総長ヴァネッサと取引するなど、軍務省の統制から離れつつあった。ハスキーはその状況をユイファンにあえて明かしていない。
(もっとも重要なのは……)
ハスキーは外に視線を向けた。光芒離宮の庭でネルティとイチャついている。
皇帝には実権がない。とはいえ、無邪気に戯れる白髪の少年こそが、メガラニカ帝国の中心にいる人物だ。
宮廷の女達は、13歳の幼い少年の寵愛を求めて、醜悪な戦いを繰り広げている。警務女官長の地位を掴み、宮廷の上澄みで暮らすハスキーの耳にも、成り上がろうと権謀術数を駆使する妃の噂話は耳に届く。
「ああ、そうそう……。夕食の件だけど、私の食事は軽めでお願いしたい。夜に陛下との約束があるから、胃に残るものは口にしたくなくてね。厨房を占拠している料理係の女官には、そう伝えておいてほしい」
「陛下のお相手を? 明日の式典、ユイファン少将も参列する予定なのですよ? 本当に大丈夫なのですか?」
アルテナ王国戦において、ユイファンはイリヒム要塞の陥落や王都ムーンホワイトの占拠で多大な功績がある。
総大将のレオンハルトに次いで、褒賞を受ける立場にあった。
「無理はしないさ。明日の式典には父母が、私の娘を連れてやってくるんだ。久しぶりに愛娘の顔を見たい。それにヴィクトリカ王女の件もある。陛下には優しく、手加減してもらうつもりだよ」
明日、8月15日の戦勝式典では、セラフィーナの従者であるロレンシアが下界に降り立つ。ロレンシアは式典終了後、ベルゼフリートの過去を探るため、天空城アースガルズに戻らない。
セラフィーナの独断専行はいずれユイファンをはじめ、軍務省の知るところとなるが、それは先の話である。