ベルゼフリートは山積みになった信任状の処理に追われていた。『論功行賞』『官吏任命』に関する認証はメガラニカ皇帝の重要な仕事だ。
行為の意味は知っているが、内容についてはよく分かっていない。書状に御名御璽を記すだけの形式的な公務。何度も繰り返していると腕が痛くなってくる。
実権のない幼帝は執務女官が仰々しく運んできた書状を指示通りに認証する。
「⋯⋯⋯⋯」
執務女官に信任状の内容を問えば、事細かに教えてくれるだろう。だが、ベルゼフリートは政治に対する興味が希薄だった。それは三皇后や女官総長の教育方針とも一致する。政治に熱心だから名君とも限らない。深入りしたせいで災禍を起こした皇帝は多い。
極論、メガラニカ皇帝のベルゼフリートは災禍を起こさず、滞りなく宮中祭祀を執り行ってくれるだけで国家は豊かになる。
分厚い御璽を押し当て、印章を捺す。
空位時代は国民議会によって指名された摂政が代理で認証していた。即位直後は御名御璽で栄典や地位の再認証を望む声が高まり、ベルゼフリートは凄まじい労苦を味わった。あの時に比べれば、今の業務量は許容範囲内だ。
「――なんかさ。おかしくない?」
手を止めたベルゼフリートは、ぽつりと呟いた。
両眼を見開いて驚いた執務女官は、手違いがあったかと机に置かれた信任状を慌てて確認する。
「あ、ごめん。こっちのことじゃなくてさ⋯⋯。ハスキー、ちょっと来てくれる」
ベルゼフリートは発言を訂正し、手招きで警務女官長ハスキーを呼び寄せる。
「どうされました? 休憩になさいますか? 寝室に行きますか? それともここで?」
満面の笑みを浮かべ、ミニスカを捲って淫艶な下着をチラ見せする。ベルゼフリートが望めばいつでも性奉仕に応じられる。しかし、誘いは断られてしまった。
「エッチじゃなくて真面目な相談事」
「残念です。しかし、皇帝陛下のお悩み事は重大事です。お聞かせください」
「ずっと考えてたんだけど、おかしいと思うんだ。黄葉離宮で引き取る婢女の件」
「例外的な入内ではありますね。私達も決定には驚きました。しかし、セラフィーナさんやロレンシアさんという前例があります」
「セラフィーナとロレンシアは正式な女仙だけどね。例外的な入内という意味じゃ、その通りかな。あれは軍務省が動いてた。今回は違うでしょ」
「宰相府の強い意向があったと聞いております。前例を作った軍務省の譲歩があったという話です」
「教会が献上してきた元聖女はまだ分かるよ。国外の敵ばっかり増やしてもしょうがないし、教会と関係を築く橋渡し役になるかもしれない。でもさ、バルカサロ王国から逃げ出したイシュチェルを後宮に入れる狙いは?」
「三皇后には深いお考えがあるのでしょう。陛下は考え込まず、退屈しのぎの玩具と思えば良いのでは?」
「頭を空っぽにしたほうが楽ではあるね。新しい玩具か⋯⋯。中古の年増好きってわけじゃないんだけど⋯⋯」
「ご不満ですか? ご所望とあらば女官から陛下好みの生娘を見繕いましょう」
「いいや。そういうんじゃないよ。だって、考えちゃうじゃん。バルカサロ王国の王妃を孕ませて何になるの? きっと裏で謀略を張り巡らせてる」
「三皇后の真意は分かりかねます。アストレティア妃殿下がグラシエル大宮殿に赴いたのは、イシュチェルを治療するためだったと聞きました。例のアーティファクトを持ち出したとも⋯⋯」
「アーティファクト?」
「アルテナ王国で見つかった〈朱燕の乙女貝〉です。現在は大神殿の管理下にあります」
「アルテナ王国にあったアレか」
処女を取り戻せる伝説のアーティファクト〈朱燕の乙女貝〉。ハスキーは何度か使用許可を求めたが、大神殿は許しをくれなかった。ハスキー以外にも二度目の処女喪失を体験したい性豪の女仙達は、強い興味を示している。
「もう血酒を飲ませて女仙化させたのかな。それで、僕の予定が変更されたんでしょ? 宮中祭祀の日程が後ろ倒しになった」
「入内の準備が整ったのでしょう。急な予定変更でしたので私も陛下の護衛を外れて、警務女官の人員調整に追われました」
「最近はお休みの日が何度かあったね」
「はい。延期になった宮中祭祀は重要行事でしたから。皇帝陛下の体調を慮っての処置⋯⋯。大神殿はそう言っておられましたが、本当のところは分かりかねます」
「余暇の時間を用意したから黄葉離宮に通えって意味だよね。あからさまに僕の公務が減らされてる。無理強いはしないって言われた。だけど、仕向けられてる」
「余暇をどう過ごすかは皇帝陛下の御心次第です。帝城に留まる選択肢もございますよ」
「ここまでお膳立てされちゃったら無理でしょ。僕はイシュチェルを孕まさなきゃいけない。⋯⋯他の妃達にはどんな説明をしてるんだろ。僕が黄葉離宮に行くのを嫌がってる人は多いよね?」
「入内する婢女は一部の者だけが知る秘匿情報です。下級妃や一般の女官には正体はもちろん、その存在も知らされていません。表向きはヘルガ王妃が用意した新しい側女となるようですよ」
「ヘルガの側女は多いし、セラフィーナに貸し与えたって言えば新入りを誤魔化せるか⋯⋯」
「実際、黄葉離宮は妊婦ばかりで働き手に困っておりますからね。良いタイミングではありました」
「僕らがイシュチェルを手中に収めた事実は、誰にも知られていない。バルカサロ王国に揺さぶりをかける材料になるかな?」
「どうでしょう。イシュチェルは王殺しで国を追われた大罪人となっています。内乱の終息後、バルカサロ王国で誰が実権を握るにしろ、国外逃亡した王妃の名誉回復は考えにくいです。王殺しの汚名は誰かが被らなければなりません」
バルカサロ王国の王チャドラックは殺された。他殺体がある以上、殺人犯は必要だった。ただし、その人物が真犯人である必要はない。
「実際に殺したかどうかは知らないけどさ、王殺しの大罪人を保護したらバルカサロ王国と揉めるよね? 女仙化させちゃったら、もう身柄を引き渡せない」
「世間に公表する気はないのかもしれません。だからこその婢女です」
「それもそっか。国外脱出に失敗したイシュチェルはグウィストン川で第六王子アーロンともども溺死。それが世間一般での認識だもんね」
「⋯⋯三皇后は『取り替え子』をする気かもしれません」
「取り替え子?」
「第六王子アーロンの死体は見つかっていません。あるいは帝国軍が発見し、秘密裏に処理してしまった可能性もあります。⋯⋯赤子の年齢なら一歳程度は誤魔化せる」
「イシュチェルに新しい子供を産ませて、それを第六王子アーロンにすり替えるわけ? 腹黒な陰謀だ」
「ええ。まったくです。しかし、我らの敬愛する三皇后や参謀部が思いつきそうな計画ではありませんか?」
「それはそうかも。たださ、イシュチェルはバルカサロ王家の血筋じゃない。王族とは無関係の修道女だったらしいよ。血統を調べられたら、嘘が分かっちゃ⋯⋯あ⋯⋯」
ベルゼフリートは向けられる目線に気づく。
執務女官は黒縁の眼鏡をクイッと上げる。ハスキーとのお喋りに夢中でベルゼフリートの手は止まっていた。
「はいはい⋯⋯。お仕事ね。ちゃんと手も動かしますよ~」
自分の仕事を思い出し、重たい御璽を持ち上げる。
(メガラニカ帝国とバルカサロ王国とは緊張状態にある。軍閥派は全面戦争を嫌がってるけど、宰相派と国民議会からは先制攻撃論も出てるくらい好戦的⋯⋯。そんな状況でイシュチェルはどう利用できるんだろう)
三皇后が会議を重ねて導き出した結論だ。バルカサロ王国から逃れてきた王妃イシュチェルの懐妊は、メガラニカ帝国の国益に繋がる最優先事項となった。
ベルゼフリートは言われた通りに、祖国を追われた哀れな未亡人を孕ませる。
(あとでセラフィーナにも聞いておこう。バルカサロ王家の事情はよく知ってるだろうし⋯⋯。面識はあったのかな?)
愛妾セラフィーナには指南役の仕事が与えられていた。凌辱を受けた経験者ゆえに、どうすれば高貴な王族の女が淫らに堕ちていくかを知っている。
(人妻に手を出すのは、セラフィーナとロレンシアに続いて三人目。これも経験値にはなるよね。くすくすっ⋯⋯)
イシュチェルは人里離れた修道院で暮らしていた修道女だった。貞潔の誓いを立てて、生涯を信仰に捧げる。運命が狂い始めたのは、バルカサロ王に見初められたせいだ。老王チャドラック・バルカサロの懇願により、教皇庁の特別な許しを得て、結婚に至った。
運命は数奇である。紆余曲折を経て、未亡人となった王妃イシュチェルは皇帝ベルゼフリートに子宮を捧げる。