【239話】王妃イシュチェル・バルカサロの受難

 バルカサロ王国で勃発した動乱の切っ掛けは一言で説明できる。

 メガラニカ帝国との戦争に負けたせいだ。

 大敗北の戦渦を同盟国のアルテナ王国に引っ被せたものの、強靭無敵を高らかに誇ってきたバルカサロ王国軍の矜持は失われた。

 王家直属の軍師団が想定していた以上に、メガラニカ帝国の軍事力は強大だった。凝り固まった自信の喪失は民衆の恐怖心を呼び起こし、過度の帝国脅威論が吹聴され、一種の恐慌状態ヒステリーを引き起こした。

 傷ついた軍隊の再編、中央諸国との軍事同盟、次の戦いに備えて挙国一致体制が敷かれた。強大な外敵に立ち向かうため、国家と国民は一丸となって結束を強める。そうなるだろうと誰もが考えた。

 しかし、現在のバルカサロ王国は仲間割れの動乱により、自壊寸前の窮地にある。

 この件に関し、メガラニカ帝国は正確な情報を掴めずにいた。大妖女レヴェチェリナの暗躍が本格化した時期と重なっており、帝国軍は他国に情報工作を仕掛ける余裕がなかった。

 先の戦争で大勝を収めたメガラニカ帝国であるが、軍務省の上層部はバルカサロ王国や中央諸国との全面戦争は望んでいない。

 バルカサロ王国は地域大国の一角であり、小国のアルテナ王国に比べれば、数倍の国力を誇る相手である。

 全面戦争に陥れば確実に長期化し、泥沼の戦争に片足を突っ込む破目になる。帝国軍では厭戦の機運が急速に高まり、現場の兵士は外征に忌避感を抱いている。

 そうした実情をバルカサロ王国の軍師団はよく承知しており、メガラニカ帝国側から戦争を仕掛けてくる可能性は絶無だ。

 高鳴り続ける民衆の国粋主義ナショナリズムを抑制し、中央諸国と連帯しながら、富国強兵に努める。軍拡の大方針でバルカサロ王国は進んでいた。だが、思い通りに物事は進まない。

「なぜでしょう⋯⋯。どうして⋯⋯。チャドラック陛下はこのような未来を望まれておられなかったはず⋯⋯」

 麗しの貴夫人は祖国の惨状を嘆き、両頬に涙を伝わせた。ライトブラウンの長髪を後ろで束ね、オールバックのヘアスタイルは高潔な女性像を印象付ける美女だった。

 豊満な媚体には撓たわわな乳房が実っている。胸元を絹衣で覆っても隠しきれない巨峰。しかし、美乳と形容するには、肌の張り感を欠いている。

 若かりし頃、肉体的全盛を迎えた十代後半から二十代であれば、性的魅力を振りまく女体であったろう。熟れきった乳房は重力に抗えず、垂れ気味に俯うついていた。

 大陸随一の美貌で名を馳せたセラフィーナに比べれば見劣りする。しかし、高貴な女性に相応しいだけの容貌を維持している。

「私達は創造主様のお怒りを買ったのでしょうか?」

 王妃イシュチェル・バルカサロは不本意な形で国外に逃れようとしていた。

 グウィストン川の流れに沿って進む大型船は、東アルテナ王国を目指す。分断国家に逃げ込む理由は、いかなる国も講和条約によってグウィストン川の流域に軍隊を派兵できないからだ。

 ――王妃イシュチェルは追われていた。

「王妃殿下、そのようなことはございませんわ。創造主様は試練をお与えになっているのです。祈りましょう。必ずや開闢者様のお導きがございますよ」

 側近は悲嘆に暮れる王妃を慰めた。

 敬虔な教会の信徒は、我が身に降り掛かった不幸や災厄を創造主の試練と捉える。そして、過酷な試練を乗り越える助けは、開闢者が与えてくれる。

「ええ。祈りましょう。子供達のためにも⋯⋯。祖国の安寧を⋯⋯」

 王妃イシュチェルには子供がいる。

 昨年の十月、バルカサロ王国で第六王子アーロンが誕生した。

 国王チャドラックの直系男子は六人。その一人はアルテナ王国の女王セラフィーナと政略結婚した第五王子ガイゼフだ。

 兄王子達と第六王子アーロンの年齢差は、三十歳以上もあいている。

 教会圏は厳格な一夫一妻制で、王族でもそれは同様である。再婚は教会が離婚を認めた場合か、死別後にしか許可されていない。第一王子から第五王子までは、最初の妻エルシェベナが産んだ息子達だ。七年前にエルシェベナが病没し、盛大な国葬が営まれた。

 妻の葬儀が終わるやいなや、国王チャドラックは修道女イシュチェルを後妻に迎えた。

 当時、イシュチェルは三十二歳。教会の修道院に引き取られてから、ただの一度も外出した経験がなく、なぜ国王に見初められたかも分からなかった。

 ある者は「国王陛下は修道女の美貌に一目惚れしたのだ」と噂した。その風説をイシュチェルは強く否定している。

(チャドラック陛下のお考えが分からない。どうしてあのような宣言をなさってしまったのか⋯⋯)

 恐妻と畏怖された前王妃エルシェベナに比べ、新王妃イシュチェルは控え目な性格の淑女だった。

 物心ついた頃からずっと修道院で祈りを捧げる日々。国王に見初められ、王妃の地位を得るとは夢にも思っていなかった。

 老いた国王を誘惑した不徳の修道女。イシュチェルを侮蔑する者達は少なからずいる。そればかりか、イシュチェルが腹を痛めて産んだアーロン王子の出生を不義と疑う声もあった。

 七年の結婚生活。国王チャドラックは王妃イシュチェルに世継ぎを産ませようと必死だった。老王の異様な執念にイシュチェルは若干の恐怖を感じた。

 前王妃エルシェベナとの間に男子が五人も産まれている。これ以上の世継ぎは必要とされていなかった。後妻となったイシュチェルは修道院で三十年以上を過ごし、出産適齢期の女性ではなくなっていた。

「⋯⋯⋯⋯」

 イシュチェルは胎を摩さする。貞潔の誓願を破り、国王に身を捧げた。子を成すために神術師から不妊治療を受け、子宮には幾重もの術式が重ね掛けされた。バルカサロ王家の子胤にだけ適合する胎に作り変えた。

 苦難の末、国王チャドラックの願いは叶った。イシュチェルは懐妊し、無事に第六王子アーロンを産んだ。メガラニカ帝国に大敗を喫した年であったが、新王子の誕生という吉事に国中が沸いた。

(私は国王陛下に尽くせればそれで良かった⋯⋯。巷ちまたで噂される不遜な想いはありません。他の王子を押し退けて、アーロンを国王にするなんてことは⋯⋯望んでいないのに⋯⋯!)

 イシュチェルは我が子を深く愛している。だが、野心はなかった。

 バルカサロ王国の王位は長子継承と定められている。継承順位の低い第六王子アーロンに王冠が与えられることは起こりえない。だが、その前提は覆る。

 今年の六月一日、王宮で大事件が起きた。

 国王チャドラックは宴遊会を催し、国内にいる王子達を王宮に招いた。第一王子ドラホミール、第二王子ジルベール、第三王子ザトリシオの三人である。

 国外にいる王子には書簡が送られた。第四王子ロアフォードは継承権を放棄し、ルテオン聖教国で侯爵になっている。第五王子ガイゼフも周知の通り、セラフィーナと離婚後は教会に身を寄せていた。

挿絵(By みてみん)

 国王チャドラック・バルカサロは宣言した。

 ――バルカサロ王国の王位継承につき、長子相続の伝統を廃する。

 ――自身の死後、次期国王に王妃イシュチェルが産んだ子を指名する。

 ――継承時に王妃イシュチェルの子が成年に達していない場合、第一王子ドラミホールを摂政に置くものとする。

 衝撃的な後継者指名は第二王子以下を驚愕させた。法定の規定ではなかったが、初代国王から連綿と続いてきた長子継承の不文律を廃止。前王妃エルシェベナの王子達を退けて、生まれたばかりのアーロンに王位を与えるというのだ。

 書簡を受け取った第四王子ロアフォードは、父王の変節ぶりに戦慄し、すぐさま弟のガイゼフに「祖国に帰るな」と警告した。誰がどう考えても末子のアーロンを後継者に指名するのは無理がある。

 ロアフォードの懸念は正しかった。王宮に呼び出された第二王子ジルベールと第三王子ザトリシオは、父王チャドラックの身勝手極まる宣言に激怒した。しかし、最も激昂するべき、第一王子ドラミホールは冷静だった。

 むしろ冷めた態度で、苛立つ弟達を見ていた。

 王位継承者が未成年である場合、第一王子ドラミホールが摂政となる。王継承第一位の長兄からすれば屈辱的な内容だが、ドラミホールは涼しい顔を浮かべ、父王の決定に従うと返答した。

 第二王子ジルベールと第三王子ザトリシオは、長兄の従順な態度に納得がいかない。王位継承権を王妃イシュチェルの子供に奪われ、王統が汚されると口汚く叫んだ。

 その瞬間、第一王子ドラミホールは控えさせていた兵士を宴遊会に突入させ、王命に従わぬ第二王子ジルベールと第三王子ザトリシオを反逆罪で逮捕した。

 国王チャドラックが催した宴遊会は罠であった。宣言の内容をあらかじめ聞かされていた第一王子ドラミホールは、弟達の反抗を予期し、第二王子ジルベールと第三王子ザトリシオを拘禁するつもりだった。

 身柄を拘束され、引きづられていく第二王子ジルベールは「やはりあの噂は事実か! 兄上は王妃イシュチェルと姦通し、アーロンを産ませたのだ!! 不産女うまずめの妻に愛想を尽かし、野心深き王妃に誑たぶらかされたな!」と罵った。

 第三王子ザトリシオも「見損ないましたぞ! 兄上はそこまでして王位を我が子に継がせたいのか! 国王陛下! いえ、父上! どうか目を覚ましてください!! 天下の逆賊は王妃イシュチェルと第一王子ドラミホールです! 奴らこそ反逆者だ! 父王は騙されております!!」と怒声を上げた。

 王妃イシュチェルと第六王子アーロンは、王宮の宴遊会に参加していなかった。国王チャドラックが長子継承を廃し、アーロンを後継者に指名したのも寝耳に水だった。当人達が知らぬ間に、第一王子ドラミホールによって計画は進められていた。

(アーロンはチャドラック陛下の子供です。私はドラミホール王子と不貞などしておりませんわ。どうしてこんな誤解が真実のように⋯⋯)

 王妃イシュチェルは国王チャドラックにしか身体を許していない。まことしやかに囁かれていた姦通の噂は、根も葉もない流言である。

 我が子のアーロンに王位を継がせるべく、王妃イシュチェルが老齢の国王チャドラックを誑たぶらかしたという話も嘘っぱちだ。しかし、証明ができなかった。

 第一王子ドラミホールが暴力的な手段で弟二人を拘禁したのも、言葉での説得が不可能だと分かりきっていたからだ。第二王子ジルベールと第三王子ザトリシオは失権し、第六王子アーロンが王位継承第一位の座を得るはずだった。

 国王チャドラックと第一王子ドラミホールは手抜かりがあった。本気でアーロンを国王にするなら、政敵に慈悲をかけるべきではない。冷徹さが欠けていた。

 第二王子ジルベールと第三王子ザトリシオを殺さず、生かしてしまったせいで、痛烈な反撃を受ける結果となった。また、国軍を統括する軍師団に根回しせず、王家の内部で片付けようとしたことも裏目に出た。

 前王妃エルシェベナは国軍に大きな影響力を持つ軍人貴族の出身者であった。それに比べて新王妃イシュチェルは名門修道院に在籍していただけで、これといった有力な後ろ盾がなかった。強いて言うなら、第一王子ドラミホールが唯一の庇護者だった。

「私は恥ずべき行為をしておりません⋯⋯。国王陛下を殺めてなどおりません⋯⋯。王位の簒奪を考えたことはありません⋯⋯。なぜ⋯⋯誰も信じてくれないの⋯⋯」

 心中の独白が口から漏れる。祈りを捧げるイシュチェルの手は震えていた。

「大丈夫です。分かっております。ご安心ください。何があろうとも、私はイシュチェル様とアーロン王子の味方です。何があってもお守りいたします」

 側近はイシュチェルの手を優しく包み込む。

「ありがとう⋯⋯。私とアーロンが生きているのは貴方のおかげです」

 王妃イシュチェルは王・殺・し・の濡れ衣を着させられた。

 宴遊会で拘禁された第二王子ジルベールと第三王子ザトリシオは、前王妃エルシェベナの旧臣達が救い出してしまった。

 ――その夜、王宮は炎上した。

 後世で〈王宮大逆事件〉と呼ばれるようになる歴史的出来事は、バルカサロ王国の未来を決定付けた。

 前王妃エルシェベナの旧臣達は王妃イシュチェルの排除を企てた。地下牢から開放された第二王子ジルベールと第三王子ザトリシオは結託し、本物の反逆者になった。

 国王チャドラックと第一王子ドラミホールは死亡。王妃イシュチェルは幼いアーロンを抱えて、命からがら逃げ出した。

 教会の助けを借りながら国内を転々としていたが、王殺しの罪を擦り付けられた王妃イシュチェルは、亡命以外に選択肢がなくなった。

「東アルテナ王国は安全でしょうか? もしも私とアーロンの亡命を拒否されたら⋯⋯」

「ヴィクトリカ女王は先の戦争でバルカサロ王国に強い不信感を抱き、父君のガイゼフ様とも距離を置いておられる。強制送還は考えにくいです」

「そうでしょうか⋯⋯。バルカサロ王国を恨んでいるなら、私やアーロンもその対象では⋯⋯? やはり中央諸国の⋯⋯、ルテオン聖教国の教皇猊下に庇護を求めたほうが⋯⋯」

 修道院で育ったイシュチェルは教会の力に期待を寄せる。バルカサロ王国内で追われていたときも、古巣の修道院が匿ってくれていた。

「中央諸国は駄目です。第四王子ロアフォード様がおられます。第五王子のガイゼフ様も今はルテオン聖教国で活動されているようです。王殺しの嫌疑を晴らさなければ、事情を知らぬロアフォード様とガイゼフ様はどうでるか分かりません」

「講和条約で中立地帯化している東アルテナ王国がもっとも安全⋯⋯ということですね⋯⋯」

「はい」

「何度も説明は聞きましたが、紛争地域に逃げ込むのは不安です」

「軍師団の見立てによれば、メガラニカ帝国が侵攻してくる可能性は低く、現在のアルテナ王国は治安が安定しています」

「⋯⋯これまで私が耳にしていた帝国脅威論は何だったのでしょう。笑ってしまいますね。メガラニカ帝国は領土拡張を虎視眈々と狙っている侵略国家ではないのですか?」

 東アルテナ王国はメガラニカ帝国の侵攻を受ける最前線、明日にでも戦争が始まる。バルカサロ王国の人々はそんな帝国脅威論を信じ込んでいる。

「噂が真実とは限りません。今・の・イ・シ・ュ・チ・ェ・ル・様・ならお分かりになるはずです」

「その通りですね。⋯⋯身に沁みて分かります」

 噂がありのままの真実なら、王妃イシュチェルは第一王子ドラミホールと不義の子を作り、国王チャドラックを弑逆した悪女となってしまう。無論、事実無根の陰謀である。

「イシュチェル様はヴィクトリカ女王と面識があるとお聞きしております」

「ええ。二度ほど、会ったことがあります。まだ女王ではなく、王女でしたが⋯⋯」

 東西分断のアルテナ王国で起きている母娘の醜い争いは、王妃イシュチェルの耳にも届いていた。

 女王セラフィーナがメガラニカ帝国に屈服し、皇帝ベルゼフリートの子供を出産。愛妾の地位を得て、帝国本土の後宮で優雅に暮らしている。

 一方、娘のヴィクトリカは東アルテナ王国の女王に即位し、正当な女王は自分一人であるとして、帝国に媚びる実母を売国奴の裏切り者と批判する。

(バルカサロ王国は兄弟で殺し合い、アルテナ王国では親子で殺し合い。まるで呪いです⋯⋯。メガラニカ帝国と戦争が起きてから、周辺国では凄惨な凶事ばかりが起こる⋯⋯。これは偶然なの⋯⋯?)

 メガラニカ帝国ばかりが得をしている気がした。周囲に不幸をばら撒き、一国で世界の幸福を独占する。イシュチェルはメガラニカ帝国が暗躍し、バルカサロ王国で内乱を発生させたのではないかと疑ってしまう。

 国を追われたイシュチェルだが、自分を陥れた者達を恨みきれずにいた。国王チャドラックが第六王子アーロンを後継者に指名した件は、伝統に反しており、狂った判断と思われても仕方ない。

 第一王子ドラミホールの態度も不自然で、理不尽な王命に異議を挟まず、王妃イシュチェルと第六王子アーロンを守ろうとした振る舞いが、不義密通の噂に真実味を与えた。

(絶対におかしいわ。メガラニカ帝国がバルカサロ王国を弱体化させるための策謀⋯⋯。そうであったなら⋯⋯私の濡れ衣もいつかは⋯⋯)

 王殺しの王妃。第二王子ジルベールと第三王子ザトリシオが実権を握ったバルカサロ王国において、イシュチェルは不名誉な呼び名を付けられた。

 王妃イシュチェルと第六王子アーロンが逃げ出した後、王都ではさらなる争いが起きた。第二王子ジルベールと第三王子ザトリシオの内輪揉めだ。

 父親と長兄を殺した二人の弟は、共通の敵がいたから手を組んだ。元々の信頼関係は皆無。相手が裏切る前に背後から刺す。その考えに至るまで三日とかからなかった。

 もし第二王子ジルベールと第三王子ザトリシオが協力関係を維持したままだったなら、教会の修道院に匿われていた王妃イシュチェルを早々に引っ張り出し、処刑台に送れていただろう。

 それなりの見識があれば、王妃イシュチェルが国王を殺したとは思わない。それは国王軍を統括する軍師達も同様だった。宴遊会に参加していた貴族の証言、王宮の使用人達からの聞き取り調査、情報を照らし合わせれば反乱を起こしたのが誰であったかは明白だ。

 国王軍は前王妃エルシェベナの旧臣を除き、第二王子ジルベールと第三王子ザトリシオのどちらにも組みしていない。軍師団は内乱を鎮めるため、第四王子ロアフォードと第五王子ガイゼフに仲裁を依頼している。だが、返答はきていない。

 バルカサロ王国の内乱は激化し、王都から地方にまで戦渦が広がった。国外に逃れた難民は、なぜ争いが始まったのか理解できず、メガラニカ帝国に攻め込まれていると誤解する兵士が現れる混沌ぶりだった。

「一つだけ、お願いがあるわ。子供達の命を優先してほしい。私を見捨ててでも⋯⋯構いません⋯⋯」

 イシュチェルは側近に頭を下げる。

「イシュチェル様⋯⋯! おやめください。私は乳母に過ぎません! 私のような下賎な従僕に頭を垂れるなど⋯⋯! 王妃様の振る舞いではございません⋯⋯!!」

「貴方は素晴らしい乳母です。私達を見捨てずに、ここまで連れてきてくれた。でも、この先はどうなるか分からないでしょう。私を見捨てて子・供・達・が助かるなら、必ずそうしてほしい」

「イシュチェル様⋯⋯。そのようなことを仰らないでください⋯⋯! 我が身に代えてもお守りいたします!」

「乳母だからといって、ご自分を蔑ろにして良い道理はありません。貴方も母親でしょう。⋯⋯優先すべきは子供達の未来です」

 王妃イシュチェルに仕える側近はアーロンに母乳を与える乳母であった。船には乳母の子供も乗っている。一つの揺籃ゆりかごで乳兄弟は仲良く眠る。どちらかを引き離すと泣き出してしまうので、いつも二人は一緒だった。

「たとえ王族でなくなっても良いのです。私は子供に王位を継がせたいと願っていません。たとえ平民でも、貧しくとも、生きていてさえくれれば⋯⋯。たとえ私が死んでも⋯⋯」

「イシュチェル様っ⋯⋯!」

「東アルテナ王国に到着したら、子供達と一緒に逃げてください。⋯⋯お願いです。私と一緒にいたら殺されてしまう」

「ヴィクトリカ女王は慈悲深い御方と聞いております! 助けを求めるイシュチェル様とアーロン様を敵に売り渡すはずがございません!!」

「⋯⋯⋯⋯。ヴィクトリカ女王が私を庇護してくれるとは思えません。アルテナ王国で起きた不幸はバルカサロ王国に原因があるのですから」

 亡命者を乗せた大型船は、東アルテナ王国の河川港に辿り着けなかった。

 国外脱出の情報を入手した敵は、グウィストン川を高速艇で下り、王妃イシュチェルと第六王子アーロンの殺害を図った。襲撃を受けた大型船は爆破され、水底に沈んだ。

 東アルテナ王国の岸辺に犠牲者の水死体が流れ着き、襲撃者も含め、生存者はいなかったと発表された。数週間後、グウィストン川での同航路を通った元聖女のマリエール・ムシェタリャは難破船の残骸を目撃している。

 王妃イシュチェルと第六王子アーロンは表舞台から退場した。

 前王妃エルシェベナの旧臣は安堵したが、残された問題があった。今回の騒動で国王チャドラックと第一王子ドラミホールが死んでいる。

 混迷を極めるバルカサロ王国の本国では、第二王子ジルベールと第三王子ザトリシオの跡目争いが激化の一途を辿り、国王を失った中央政府は瓦解寸前であった。

 その窮状を他国に悟られぬよう、軍師団は情報封鎖に努めたが、それが事態の改善には何ら寄与しないと、当人達がよく分かっていた。

 王統を失ったバルカサロ王国は迷走する。

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