ルキディス達が案内されたのは個室観覧席であった。
王立劇場の個室席は、私的な空間が担保された快適な貴賓室である。左右に分厚い壁があり、劇場を見下ろせるバルコニー部分は特殊な魔術防壁が展開され、階下の観客席から見えない仕様となっている。
――つまり、室内でどんな行為が行われていようとも、外からは分からない。
オペラ鑑賞に誘われたとき、カトリーナはてっきり一階の最下級席だと思っていた。しかし、よくよく考えればそんなはずはない。
ルキディスの持っている招待状は一国を代表する大使に贈与された代物だ。最下級の席を与えるのは侮辱に等しい。たとえ相手が貧しい小国だろうと、当然ながら最上級の席が贈られる。
最上級の観覧席は一般市民の生涯年収に匹敵する値段が付く。田舎の小貴族ではまず手が出せない。名立たる大貴族や王族の専用席だ。
(私やサムが思っている以上にルキディスさんは大物なのかも……)
ルキディスがカトリーナと出会ったのはイマノルを引き抜くためだ。
昨夜は高級料理店で夕食をご馳走してもらい、さらには高価なパーティードレスまで買い与えてもらった。そのうえ、連れてきてもらったのは国立劇場で最上級の個室観覧席である。だというのに、ルキディスからの勧誘をイマノルは断っている。
これだけ手厚く接待されていながら、何も返礼ができない。カトリーナはとても申し訳なく思い、同時に心苦しかった。厚遇のみを享受する罪悪感が心中で燻る。
(ルキディスさんは素敵な殿方だわ。今朝は距離を置こうなんて考えてしまったけれど……、それだと私がルキディスさんを利用しているだけの悪い女になってしまうわね。だって、傍から見たら私は彼に貢がせてしまってるもの……)
普段の冷静なカトリーナであれば、なぜこんなことまでしてくれるのか怪しんだはずである。しかし、今のカトリーナはルキディスが仕込んだ媚薬や瞳術によって、思考の巡りが鈍っていた。
「今日のオペラは『機械戦争』を終わらせた勇者達の物語みたいですね。どうしました。カトリーナさん?」
「え? あぁ……! ええ! とっても楽しみですわね!」
これから始まる演目は、機械戦争の史実を元にした歌劇だ。技巧師によって造られた機械が人類に反逆し、劣勢に陥った人類を救うため、勇者が立ち上がった救世物語である。
ルキディスは何度か見たことがあるので大筋の流れを知っている。
(勇者が強いのは分かっているとも。しかし、事実とは程遠い内容なんだよな……。歴史は装飾されるものだが、ここまでやられると逆に笑ってしまうぞ。観客は過激さを好むとはいえ、脚本家は限度を知らないようだ)
荒唐無稽な物語であると冥王は笑う。
非現実的な強さを持つ勇者が幾人も登場するが、本当に彼らが演じられた通りの実力者であるかは疑問だ。
(たった一人の勇者が大陸を滅ぼしただとか、天地を炎で覆い尽くし、海すら焼き滅ぼしたとか……。発想がぶっ飛んでいて、別の意味で面白くはある。だが、地殻の底から溶岩を呼び出して、山脈ごと機械城を粉砕したなんて子供でも信じないぞ?)
機械と人類が戦ったのは史実だ。いくつも遺物が残っているので、それは否定しない。
勇者と呼ばれる存在が機械との戦争に勝利して、人類を存続させたのも真実だ。しかし、オペラで演じられているようなことは起こっていないと冥王は考えていた。
全て真実だとしたら、勇者と呼ばれる存在は創造主の想定を越えている。
(フィクションに文句を言っても仕方がないか……。それに今回はオペラを楽しみにきたわけじゃない。やっと舞台が整った。仕上げにかかろう。カトリーナ・アーケン。今宵、貴様を冥王の仔を産む雌に堕としてやる……!)
冥王の感情が高ぶり、股間の男性器も反応した。
(おっと。らしくもなく焦っている。ここで気取られて逃げられては困る。だが、カトリーナの艶尻にはそそられてしまうな)
アプローチを仕掛けるのは、カトリーナに開発した新薬を飲ませてからでなければならない。魔素耐性と眷族適性に関係があるのならば、新薬を飲んだカトリーナは眷族となる。その試験を兼ねている。
(カトリーナが眷族になったとしても、新薬のおかげとは限らない。服用した全員が眷族化すれば、薬効ありということになるが果たしてどうなるかな? カトリーナが苗床化したら、この新薬は……まあいいさ。その時になったら考えよう)
ルキディスはカトリーナに微笑みを向けた。
「十五時、公演開始時刻です。ついに始まりますよ。カトリーナさん」
「夢みたいだわ。本当にありがとうございます。ルキディスさん、ユファさん。王立劇場のオペラをこんな素晴らしい席で鑑賞できる日が来るなんて! 私、思ってもいませんでしたわ……!」
ルキディス夫妻とカトリーナのオペラ鑑賞は、何事もなく進んだ。
十八時になると夕食のために一時間半の休憩がある。階下の一般席にいる観客は、大広間で食事をすることになる。個室観客席のルキディス達は料理を室内に運んできてもらえる特別待遇だ。
王立劇場の晩餐はどの料理も絶品だった。大貴族が食べる高級料理は今しか味わえない。そう思ったカトリーナはつい欲張ってしまった。
純白のパーティードレスを汚すようなヘマこそしなかったが、満腹で膨らんだ腹部がぽっこりと際立つ。肌に張り付く薄布のドレスは身体の出っ張りが強調されてしまう。みっともないが、腹を引き締め続ける腹筋をカトリーナは持ち合わせていない。
(失敗しましたわ……。ユファさんの食が進んでいなかったのは、こういう事態を避けるためだったのね……)
これはカトリーナの勘違いである。ユファが食事に手を付けていないのは、魔物に食欲がないからだ。
(ルキディスをトイレに誘って、フェラチオできたりしないかニャ~。冥王の精液が欲しいニャ。うぅ……。我慢強い僕ですら、ちょっときつくなってきたニャ……! うげぇ! まずいニャ! 精液! 美味しい精液がほしいニャ!)
ユファはそれとなく合図を送っているものの、今夜の相手はユファではなくカトリーナだ。媚び続けるが、冥王はサービスしてくれる気がまったくなかった。
(僕の仕事はカトリーナを王立劇場に案内するまで。もう役目は果たしたニャ。相手をしてくれる気はなさそうだし、邪魔者の僕はもう帰るニャ!)
そういうことなら、さっさと計画通りに動いてしまおうとユファは思った。ルキディスが席を外している時に、ユファはカトリーナに話しかける。
「カトリーナさん。私は先に帰るので、夫のことはよろしくお願いします」
「えっ……!? ユファさん! ちょっと! 待ってください! まさかルキディスさんを置いて帰ってしまうの……!?」
「はい。ちょっと体調が悪いみたいです。早目に帰って体を休めようと思います。家はここから近いので一人で大丈夫。夫には私のことなんか気にせず、カトリーナさんと楽しいでほしい。そのようにお伝えください」
「……ユファさん! それは……! 昨日、私に言ったことと関係しているのかしら?」
「あれは私の本音です。私は夫がカトリーナさんに惹かれていると思っていますけど、勘違いかもしれません。私は夫の考えていることがよく分かりませんから」
「そんなことはありえませんわ。やっぱりユファさんは私達を誤解しています」
「カトリーナさんが望まないなら、夫は粗暴なことをしないと思います。カトリーナさんも望むようにされたらどうですか? お二人を邪魔をする者は消えていなくなります。ご自由に振る舞われてください」
「ですから、私は――」
「……まだ分かりませんか? 夫はカトリーナさんといると楽しそうです。私といるときよりも……! 夫と会話をしてくれるだけでもかまいません。カトリーナさんを放置して、私を追ってこないようにと言っておいてください! それでは、先に失礼します!!」
ユファは軽く頭を下げて、個室席から出ていってしまった。
――心臓の鼓動が高鳴る。
カトリーナはユファを引き止められなかった。ユファがいると、どうしても気を使ってしまう。ルキディスと二人っきりなら、誰にも気を使わずに会話ができるようになる。
(……否定できない。私はユファさんが出て行って嬉しいと思っている)
気兼ねなく楽しめてしまうのだ。ユファの言葉は、カトリーナの心を巧みに動かしていた。今は服装と化粧で逆転しているが、ユファはカトリーナ以上の美女である。その美女が敗北を宣言して夫を自由に使っていいと言い放ったのだ。
(私がルキディスさんと……! ルキディスさんと……!! だめ! こんなの考えてはいけないわ……!!)
湧き出た陰湿な優越感は、カトリーナの女心を燃え上がらせた。
一線を越えるつもりはない。しかし、会話くらいならしてあげるべきだと思った。ルキディスはカトリーナのために、様々な親切をしてくれた。
(……私は残らないと……。そうよ。だって、私まで帰ってしまったら、ルキディスさんが可哀想だわ)
恩返しのために今夜は話し相手になってあげるべきなのだと、自分の理性を説得した。
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ルキディスは廊下でユファから報告を受けていた。
「よし。ここまでは計画通りだ……。よくやった」
「ちょっとだけでいいから、白いのちょうだいニャ~。あの食事不味すぎて、やばいニャ! 口直しほしいニャ。アレがないと生きていけにゃいのぉ……♥︎」
「股間にまとわりつくな。駄目だ。もう家に帰ってくれ……。誰かに目撃されたら計画が狂う。というか、その白いのとか、危ない表現はやめろ。そのせいで、麻薬の売人だと間違われたことがあったんだぞ」
「にゃー。先っちょを咥えるだけで終わるニャ。ほんと先っちょだけニャ! すぐフェラでいかせるニャ。あっちの物陰で精子をビュッビューしてほしいニャ♥︎」
「いい子だから、これで我慢しろ……」
困り果てた冥王はユファに接吻してやる。ユファは未練たらたらであったが、主人の命令に従って家に帰っていった。