大陸歴はメガラニカ皇帝の在位に基づく紀年法である。栄大帝の統治時代においては大陸全土で用いられていたが、連邦制の瓦解後は教皇庁が定める世界歴に取って代わられた。
現在、大陸歴を使用する国家はメガラニカ帝国のみだ。
大陸歴八紀の九年、この年は歴史の転換点であったと後世で評されることになる。
八代目皇帝ベルゼフリート・メガラニカの在位九年目は、様々な大事件が立て続けに起きた。大妖女レヴェチェリナの陰謀を退けたメガラニカ帝国は、襲撃を受けた帝都アヴァタールの防衛強化に注力。旧帝都ヴィシュテルの復興計画も本格始動した。事実上の属国となった西アルテナ王国は帝国経済に組み込まれ、復興特需も相まって空前の好景気を甘受している。
そんな時勢の七月二十七日、元聖女マリエール・ムシェタリャは帝国領に足を踏み入れた。
聖衣で身を包んだ乙女は、教会の存亡を左右する重大な使命がある。
好色家の幼帝ベルゼフリートに美貌を以て近づき、メガラニカ帝国の勢力拡大から教会圏を守護する。
マリエールの聖籍を抹消されている。
宣誓処女でなくなった意味は、彼女自身がよく分かっていた。教皇候補から脱落し、こうなった元凶は言われずとも理解している。メガラニカ帝国との融和を主張し、「中央諸国の安寧を守るために下劣な手段であろうと講じるべき」と異端思想を掲げた者。すなわち、マリエール自身であった。
言うなれば、身から出た錆だ。
画期的な拷問を思いついた異端審問官が、自分でその拷問を経験する破目になった。そんな皮肉話と酷似した展開だった。
――マリエールは未来を悲観していない。
異端者の烙印を押され、教皇候補から脱落した自分の行き先は人里離れた修道院しかない。そこで死ぬまで無意味に祈りを捧げ続けるくらいなら、メガラニカ帝国に赴いて有意義な苦難を歩んだほうが自分に相応しい。
(メガラニカ皇帝に抱かれて母親になってみるのも一興です。信仰に純潔を捧げた身でしたが、こうなったのも創造主様が与えてくれた試練。お導きという名の運命でしょう)
純潔の枷を外されたのなら、皇帝の子を孕んでみるのも悪くはないと出産に期待を滲ませた。
(それにしても物々しい警備です。上位種の魔物が暴れまわっていたという話を聞きました。その影響でしょうか⋯⋯。イリヒム要塞を通り過ぎたら、もっと兵士の数は減ると思ったのですが⋯⋯)
アルテナ王国の東西双方に滞在したマリエールは、両陣営からメガラニカ帝国の情報を聞き出した。
会談の最中、東側を治めるヴィクトリカ女王は始まりから終わりまで不機嫌であった。そのうえ、側近のリンジーは片時も警戒を緩めなかった。
対照的に西側を治める執政官のグレイハンク伯爵は歓待してくれた。
教会が血気盛んに戦いを挑めば、アルテナ王国の全土が戦場になる。メガラニカ帝国との融和を訴えるマリエールは、利害が一致する同志だ。短い時間の会談であったがシンパシーを互いに感じていた。グレイハンク伯爵とは深い信頼関係を築けた。
総督府のウィリバルト将軍にも挨拶した。マリエールはグレイハンク伯爵を通じて、「あのご老人は帝国軍の重鎮だ。皇帝陛下からの信頼が最も厚い。孫娘は寵姫の一人で、このほど曾孫も生まれるらしい」と教えてもらった。
占領国の指揮権を握る将校は、実力と信頼を兼ね揃えた名将でなければならない。皇帝と個人的に親しい間柄の将軍ともなれば、その影響力は絶大であろう。
マリエールは是非ともウィリバルト将軍と友好関係を結んでおきたかったが、職業軍人に徹する老将は必要以上の交流を拒んだ。皇帝の寵姫だという孫娘については一切の言及をしなかった。
会話の節々で探ろうとするマリエールの卑しい魂胆を見透かしてか、不落の要塞を思わせる厳しい態度だった。
(人生経験豊富なご老人達は侮れませんね。私を帝国に送った枢機卿やヴィクトリカ女王に仕えるリンジーさんもそうでした⋯⋯。あの年代は特に目付きが恐ろしい。もっと若者に優しくしてほしいものです)
狡賢い老人を口説く良策はないものかと物思いに耽る。
(眠くなってきました。まだ到着しないのでしょうか)
座り心地のよい高級馬車は眠気を誘う。マリエールは非公式の使者であったが、メガラニカ帝国は外交官待遇で饗してくれている。
「マリエール殿、少しよろしいでしょうか?」
マリエールを乗せた馬車が停止する。
外から話しかけてきた声の主は、護衛を務める帝国軍の大佐だった。中央諸国ではまず見かけない珍しい色黒肌、目元には独特の白い刺青があった。
メガラニカ帝国では部族や家系、特権階級の貴族が目立つように刺青を彫ることがある。教会圏の国々では刺青文化が好ましく思われていない。教会が罪人に対する罰で行う墨刑を連想させるからだ。
「何でしょうか?」
「あと半日ほどで副都ドルドレイに到着します。しかし、この先でバルカサロ王国からの避難民が立ち往生しているようです。急病人の治療で騒ぎが起きています」
大佐の口から出た「副都ドルドレイ」の単語を耳にして、兵士の数が増えている理由を理解した。ドルドレイはメガラニカ帝国有数の軍事都市であり、メガラニカ帝国軍の大本営が構えられていた時期もある。
「私は医術に精通しております。お手伝いすればよろしいでしょうか?」
これでも数ヶ月前までは教皇候補の元聖女だった。医療の腕前には自負がある。大佐が馬車を停めたのも、協力を求めているからだとマリエールは考えた。
「いえ、それには及びません。急病人の治療は終わったそうです。ただ⋯⋯その後の処理が問題でして⋯⋯」
「その後? 問題とは⋯⋯?」
「メガラニカ帝国には様々な種族が暮らしております。中央諸国ではなぜか迫害されている種族も、我が国では皇帝陛下の恩寵により、平穏な生活を営めるのです。つまり⋯⋯悪魔族の医術師はごく一般的です。熟達の師業者といえば普通は悪魔族などの長命種を指します」
マリエールは乾いた笑いを漏らす。
悪魔は神族に反逆した堕天使。堕落を象徴する悪徳種族の代名詞である。
「こういうことですか? バルカサロ王国の難民に急病人が出た。悪魔族の医術師が駆け付けて治療を施したところ、感謝されるどころか騒ぎになった」
「ほぼその通りです。こういう揉め事は近頃よくあります。しかし、今回は飛び火で騒動が大きくなりました。混乱に乗じて、困窮した難民が通りがかった商隊の荷物を略奪しようとしたらしく⋯⋯。そのあたりの事実関係は不確かですが、乱闘が起きているのは事実です」
「口に出すのは憚られますが⋯⋯。衣食住が欠けた難民はそういう行動も起こすでしょう。困窮は人心を乱します」
余裕があればこそ、法治は成立する。
メガラニカ帝国に逃げ込む選択を強いられたバルカサロ王国の難民である。
祖国を捨てて、つい最近まで戦争していた敵国に頭を下げる。自尊心はズタボロに違いない。しかし、受け入れたメガラニカ帝国側が一番の被害者だ。
「ここでの問題は襲われた商隊が、アルテナ王国の商人達ということです」
「西アルテナ王国ですか?」
「ええ、まあ。商人達の出身が東でも西でも、同じだったでしょう。敗戦後のアルテナ王国は旧同盟国のバルカサロ王国を敵視している。⋯⋯ひとまず我々は街道の治安維持に協力してきます。申し訳ありませんが、しばらく足止めです」
メガラニカ帝国の領土で、バルカサロ王国の難民と西アルテナ王国の商人が殴り合う。
その仲裁に帝国軍が駆り出される。
マリエールはなんとも情けない気持ちになった。
「分かりました。構いません。⋯⋯治安維持とおっしゃいましたが、処断はどのように? 参考までに教えて下さい」
「我々は騒乱者を逮捕するだけです。犯罪者への裁きは領主と司法神官の専権であります。死人は出ていませんし、重たい処分はないでしょう」
「そうですか。過酷な状況に身を置かれた者達です。何卒、寛大なご処置をお願い申し上げます」
去り際に大佐は「断言はできませんが、数週間の社会奉仕活動が命じられる程度です」と答えた。
護衛戦力を等分に分割し、片方はマリエールの護衛に、もう片方は騒乱鎮圧の増援部隊として街道の先に急行した。
(バルカサロ王国から逃げ出している難民は思っている以上に多い。いっそ国軍が情報統制を止めてくれれば、教皇を動かして停戦を強いることもできるのに⋯⋯。意地を張って国を滅ぼす気でしょうか?)
思わぬところで足止めをくらったが、マリエールは街道で起きた出来事が、バルカサロ王国とアルテナ王国の不穏な未来を示唆している気がしてならなかった。
(グレイハンク伯爵の読み通りなら、バルカサロ王国の混乱は後継者が決まるまで収まらない。事態を悪化させているのは、メガラニカ帝国と思われているけれど⋯⋯実際は⋯⋯)
困窮は人心を乱す。マリエールが用いた言葉は、反転させても意味を成す。
――豊潤は人心を変容させる。
敗戦国にも関わらず、西アルテナ王国は大きな経済的利益を享受している。
国土を東西に切り分けられた痛みこそがある。しかし、勃興著しいメガラニカ帝国の貿易を一カ国で独占している状況だ。
(もし私がメガラニカ帝国と中央諸国の橋渡し役となり、国際貿易がさらに加速すれば⋯⋯。誰が利益を享受する? 答えは明らか。アルテナ王国の商人達です)
アルテナ王国は大陸有数の交易拠点となる。
グレイハンク伯爵にはその未来が見えている。だからこそ、教会から送り込まれたマリエールを支援する。
(メガラニカ帝国と中央諸国の直接交易は時期尚早です⋯⋯。反帝国の感情が高まる現状、教会の信徒達は異教の帝国をけして認めない。しかし、アルテナ王国の商人を介しての三国間貿易なら? 成立する余地は十分にあります。属国化されていても、アルテナ王国は教会圏と繋がりが深い国です)
占領後のメガラニカ帝国は王子を処刑し、女王を凌辱する強硬策を断行した。だが、信仰に関しては自由を認めた。
(三人いるという皇后達の狙いはそこにあったのでしょうか? 女王セラフィーナ・アルテナは改宗を強いられなかった。王婿であったガイゼフ・バルカサロとの離婚も教会の許可を取り付けて、わざわざ再婚の許しを求めた⋯⋯)
この時期にマリエールがメガラニカ帝国に受け入れられたのも、中央諸国と融和を望む勢力がいる証拠だ。これは良い兆しに見える。
(ただし、取り払わなければならない共通の障害がある)
メガラニカ帝国・アルテナ王国・中央諸国、この三カ国間を繋ぐ貿易はある大前提が必須となる。
グウィストン川の自由航行である。
(私の足跡がまさしく三国間の交易路を示している。ルテオン聖教国の聖山から、アルテナ王国の港湾都市に繋がる大運河。交易路を阻むのはバルカサロ王国の大平原だけ⋯⋯)
アルテナ王国とバルカサロ王国の関係が断絶した現在、グウィストン川を使った貿易は衰えている。しかし、何かのきっかけで息を吹き返す可能性はあった。
(グウィストン川の権益をバルカサロ王国が手放すとは思えない。けれど、もしメガラニカ帝国が自由航行の権利を勝ち取ったのなら⋯⋯)
マリエールが帝国領に到着する一週間前、三国の命運を左右するであろう美女が副都ドルドレイに運び込まれていた。
西アルテナ王国で帝国軍に保護された美女は、執政官のグレイハンク伯爵に報告されず、秘密裏に身柄を移送された。
グウィストン川の沈没船に乗っていた美女は低体温症で死にかけていた。帝国軍の手厚い看護と医術師の治療を受けて意識が戻った。
豊満な乳房が浮袋となり、溺死を免れたのは幸運であった。
不運だったのはグウィストン川の西側に流れ着いたことだろう。あるいは最後まで生き残っていた刺客が殺し損ねて、川漁師に救助されてしまったことだろうか。いずれにせよ、彼女が奇跡的に生き延びてしまった結果、バルカサロ王国の未来は決定づけられた。
メガラニカ帝国は幸運にも二つの手札を得た。
教皇候補だった異端の元聖女、そしてもう一人は王殺しの濡れ衣を着せられた罪女。
両名は歴史の表舞台から消えた死人。
皇帝ベルゼフリートとの交わりで、二人の女が辿る運命は捻じれ狂う。清廉な心と絶世の美貌で国母と慕われた女王セラフィーナが、淫堕な売国女王へ変貌したように――。
