マリエールは両手で信仰の掌印を組み、創造主と開闢者に祈りを捧げる。
持ち込もうとした教会の経典は取り上げられてしまったが、マリエールは内容を完璧に暗記している。
手元に本がなくとも諳んじるのは問題ない。
日課の祈祷を終えて、今後の行動方針に思考が向いた。
「さてと⋯⋯どうしましょう⋯⋯」
メガラニカ帝国の皇帝にどう取り入るかを第一に考えなければならない。しかし、マリエールはイシュチェルの安否が気になった。
(ご無事でしょうか? 結局、東アルテナ王国で耳にした噂をイシュチェルさんに話せなかった。もしグウィストン川の東岸で発見された男児の水死体が第六王子なら⋯⋯)
男児の水死体が東岸に流れ着いた時期は合致する。
内戦状態のバルカサロ王国から脱出を試みた王妃イシュチェルと第六王子アーロンが乗っていた大型木造船は、放たれた刺客の襲撃を受けて沈没した。抹殺を命じたのは、第二王子か第三王子と考えてまず間違いない。
(この情報は使い道次第でメガラニカ帝国への手土産になる。しかし、危うい⋯⋯)
マリエールは真偽の怪しい噂に警戒心を抱く。
(直感ですが、軽率な行動は取り返しのつかない結果を招く⋯⋯。そんな恐れを感じてしまう)
耳にした噂をメガラニカ帝国に売る。選択肢の一つとして考えていた。だが、慎重なマリエールは沈黙を選んだ。
(この事態を東アルテナ王国が把握していない。そんなことがあるでしょうか? 何かの拍子で国家間のパワーバランスが崩れれば、東アルテナ王国は滅亡する。存亡の危機に立たされている小規模勢力だからこそ、情報は生命線です)
東アルテナ王国の懐刀となっている忠臣リンジーが、重要な情報を軽率に話すとは思えなかった。
「⋯⋯⋯⋯」
第六王子アーロンの生死はバルカサロ王国の未来に関わる重大事、国家の命運を左右する情報だった。
「マリエールさん。御車の準備ができましたよ」
愛らしいメイド服を着た女官がマリエールを呼びに来る。
警務女官ではないため、物騒な武器は持っていない。応対の態度も柔らかく、温和に接してくれる社交的な娘だ。
昨日の晩、マリエールが話しかけてみたところ、「所属が異なれば業務内容は大きく違いますし、仕事中の態度も⋯⋯そうなりますよね」と丁寧に教えてくれた。後宮で働く女官の全員が敵対的でないと知った。
「分かりました。支度をいたしますね。少しお時間をください」
マリエールはベッドの上に広げていた荷物をカバンに仕舞う。持ち込み品は没収されてしまったが、代わりに衣服や化粧品を無償で与えてくれた。
(お化粧はともかく香水まで⋯⋯。どう使えばいいのでしょう?)
教皇庁での清貧な暮らしぶりから一転し、華美な生活を求められていた。
「あの⋯⋯。マリエールさん。今朝のお食事はどうでしたか? お口に合っていたら良かったのですけれど⋯⋯。遠慮せずに仰ってください。お外の国とは味付けも違うでしょう?」
「美味しく食べさせていただきました。メガラニカ帝国はとても料理が豪勢なのですね。粗食だったので、運動をしないと太りそうです」
後宮入内の記念すべき初日、マリエールは帝城ペンタグラムに留め置かれた。
(料理が美味しかったのは本当です。至れり尽くせりですね)
心細さはない。神経の図太さに定評のあるマリエールだ。この程度で気弱になる女なら、大人しく修道院で安穏な暮らしを送っていただろう。
(私よりもイシュチェルさんが気がかりです。今ごろ、どうしているのでしょう⋯⋯。ちゃんとご飯を食べているでしょうか?)
セラフィーナに連れられ、一人で黄葉離宮に向かったイシュチェルが心配でならなかった。
「まぁ、良かった! 朝食は上級女官の大食堂から持ってきたものです。黄葉離宮ではもっと美味しい料理が食べられますよ! なにせ皇帝陛下にお仕えする専属料理人が出向いておられますからね!」
皇帝の食事は庶務女官の大膳課が用意する決まりになっている。離宮に長期滞在する場合は、警務以外の女官達も大勢随行する。
「皇帝陛下は帝城を留守にすることが多いのですか?」
「えっと、時期によりけりですね。宮中祭祀が重なる時節は大神殿におられますし、三皇后の后宮や妃達の離宮で過ごされることもありますよ」
お喋り好きな女官はベルゼフリートが黄葉離宮に長期滞在すると語る。帝城ペンタグラムで働く女官達の間では、皇帝の寵愛を独占するセラフィーナの話題で持ちきりだった。
「今回の件を知らない下級女官達は、根も葉もない噂をあちらこちらで囁いて暇を潰しておりますね」
深い事情を知らされていない者達からすると、既に妊娠している愛妾セラフィーナの離宮に入り浸っているように見える。婢女の正体は極秘とまではいかないが、無関係な下っ端には教えていない。
「もしお答えいただけるのなら、皇帝陛下についてもっと教えてもらえませんか? どんな御方なのでしょう?」
マリエールは試しに皇帝ベルゼフリートの人柄について聞いてみる。すると、想定以上の反応を女官は返してきた。
「とても可愛らしい御方ですわ! とても小さくてキュートです♥ 下半身の逸物は立派すぎて最初は大変かもしれません。だけど、慣れれば病みつきになりますわ! 精液の熱が子宮でジワジワと広がる快楽は忘れられません。あぁ♥ また禁中の閨にお呼ばれしたいものですわっ♥︎」
マリエールはベルゼフリートの性格などを知りたかったが、勘違いした女官は色事を語りだした。
「皇帝陛下のお相手をなさった経験があるのですね」
気分を害されるよりは喜んでもらったほうがいい。マリエールは熱弁する女官を煽てた。
「皇帝陛下の相手を務める女官は、あくまで一部の者だけです。禁中の出入りを許されている私のような上級女官は機会に恵まれております。ほんの数回ですけれど、警務女官長ハスキー様のご厚意で乱交パーティーの夜伽に参加できました」
「乱交ですか?」
「異邦人のマリエールさんは快く思われないかもしれません。⋯⋯しかし、皇帝陛下の御身はたった一つ。後宮では普通のことですわ」
「教会のありきたりな聖職者であれば、乱交を反道徳的な罪だと非難したでしょう。しかし、私は違いますよ。もっと柔軟です」
教会圏の国々は一夫一妻制、となっているが事実上の一夫多妻制を取っている国はある。さらに言うなら表立って口にできない醜聞であったが、子沢山な教会の聖職者もいるにはいた。
「素晴らしい! きっとマリエールさんは後宮で上手くやっていけます! 異国の方々が全員、マリエールさんのように柔軟であればいいのに⋯⋯!」
「ありがとうございます。ところで、皇帝陛下への性奉仕を嫌がる女性はいないのですか?」
踏み込んだ質問をマリエールは投げてみる。当然、そんな人間が後宮にいるわけがない。そんな答えを予想していた。
「基本的にはおりません。我ら女仙は皇帝陛下にご奉仕する存在です! ご奉仕を拒絶するなんてとんでもない!!」
「おや? 基本的には、と前置きされましたね? つまり、例外は少数ながら存在する?」
「ええ。まあ⋯⋯。光芒離宮の側女であるネルティは皇帝陛下のお誘いを何度も足蹴にしたと耳にしました。⋯⋯事実でしょうね。あの生意気な兎女は驕っているのですよ。幼少の皇帝陛下をお世話しただけのくせに⋯⋯。いつまでも馴れ馴れしい口調を改めようともしない。不遜な女です」
(おやおや⋯⋯。お人好しな御方だと思いましたが⋯⋯。化けの皮が剥がれましたね。やっぱり後宮の女官でした。とても悪い顔をしてらっしゃる)
異邦人のマリエールに心優しい一面を見せてくれた女官の罵詈雑言は続いた。
強烈な嫌悪を向けられる光芒離宮の側女ネルティがいかなる人物であるか、マリエールは興味が湧いた。
(ますますイシュチェルさんが心配になってきました。分かりきったことでしたが、皇帝に反抗的な態度を示したら、後宮では生き辛くなるようです。今ごろ、果たしてどうなっていることやら⋯⋯)
伏魔殿の後宮であろうと生き延びる自信がマリエールにはあった。
教皇の座を巡る熾烈な争いに今まで身を投じてきた。今さら恐れるものはない。
(聖地での息苦しさに比べれば後宮は悪くない場所です⋯⋯。私には為すべき大義があります。教皇になるよりも皇帝に抱かれるほうが、今の私にとっては重要です)
マリエールはベルゼフリートに悪意は抱いていない。メガラニカ帝国と教会圏の衝突を回避できるのなら、喜んで苦難の道を突き進む。
(兎にも角にも、皇帝陛下に会わなければ始まりません)
夜伽役を喜んで引き受け、皇帝に抱かれて、胎に御子を宿す。
マリエールはそのために遠路遥々、大陸西方の地に赴いたのだ。
◇ ◇ ◇
銅像の馬が牽引する御車に乗って、マリエールは黄葉離宮に到着した。荷物は旅行鞄が一つだけ。庶務女官が持たせてくれた日用品が詰め込まれている。
送迎してくれた女官にお礼の言葉を述べてから、マリエールは黄葉離宮の玄関に向かう。入口には薙刀を構えた四人組の警務女官が直立不動の姿勢で立哨している。マリエールは笑顔で会釈してみたが、視線すら向けてくれなかった。
その代わり、玄関の扉をすぐに開けてくれた。
「お待ちしておりました。マリエールさん。ようこそ、黄葉離宮へ。セラフィーナ様にお仕えしているロレンシア・フォレスターと申します」
一人の妊婦が出迎えてくれた。焔を編んだような長髪が、微風でゆらりと揺れている。超乳巨胎の美女がわざわざ名乗らずとも、事前に叩き込んだ知識で赤髪の妊婦がフォレスター辺境伯の娘だと分かった。
(ロレンシアさんの身体には不可思議なマナが宿っている。生命力⋯⋯。いいえ、これは繁殖力の強化⋯⋯。教会では禁忌とされる肉体改造ですね。噂に聞く、粘体種族の術でしょうか?)
マリエールは両目を伏せて会釈し、出迎えてくれたロレンシアに感謝を示した。
「マリエールです。本日よりお世話になります」
社交的な笑みを作り、友好的な雰囲気を醸成する。マリエールが凡庸な女であったなら、ロレンシアの異様な体躯に言及していただろう。
(何らかの肉体改造によるもの⋯⋯。人為的に身体を弄らなければ、こんな見た目にはなりません)
限界を超えて発達した超大な乳房、多胎妊娠の大きすぎるボテ腹、ぷっくりと膨らんだ巨尻。性交と出産に特化した肉奴隷の艶姿は、奇異の目を向けたくなる。
淫猥なる苗床女の華々しい経歴を知っていれば、なおさらだ。
(巨大な胎が蠢いている⋯⋯。ヴィクトリカ女王やリンジーさんから聞かされた通り、ロレンシアさんは皇帝のお気に入りとなられたようですね。近衛騎士団の女騎士がたったの一年でこんな姿に変貌するなんて⋯⋯)
東アルテナ王国での滞在時、ヴィクトリカやリンジーからロレンシアの過去を聞き出していた。反帝国の思想を持ち、皇帝を強く憎んでいた高潔な女騎士がこの有様だ。
「私の身体が気になりますか?」
意味深な問い掛けにマリエールはどう応じるべきか考えた。ロレンシアに試されているような気がしてならなかった。
「お腹の赤ちゃんは何カ月目に? まるで臨月のようですね」
「およそ半年です。まだまだ大きくなりますわ」
剣を捨て、誇りは忘れ、故国に背を向けた。メガラニカ帝国の幼き皇帝に心を奪われ、ひたすらに服従する卑しい愛奴。隆起した超乳の頂点では、母乳止めにニップルピアスが燦然と輝いていた。
(非難はいたしませんよ。恭順は和平を結ぶ手段の一つ。しかし、ロレンシアさんの場合は度が過ぎていますね。皇帝陛下に望まれれば、私も同じ道を進む運命ではありますが⋯⋯)
マリエールは自分の乳房が数倍に膨れ上がった自分を妄想する。
(⋯⋯かなり嫌です。動きにくそう)
適度に大きくなるのは構わないが、両腕で持ちきれない巨大化は困る。まさしく手に余ってしまう。
そんな失礼な妄想をされていると知らないロレンシアは、黄葉離宮の新人に説明を始める。
「現在、黄葉離宮は皇帝陛下がご滞在中しておられます。大勢の女官が出入りしているのでご注意ください」
「分かりました。ロレンシアさんの指示に従います。注意点があったら教えてください」
「そうですね。警務女官の指示には歯向かわず、服従すること。最上級の警務女官は皇帝陛下をお守りする親衛隊。私達のような下っ端の側女をどうとでもできます」
「はははは。それは怖い。ご忠告、肝に銘じておきます」
グラシエル大宮殿の中庭でマリエールが警務女官と些細な言い争いをしたのが伝わっているらしい。
「こちらへ。マリエールさんのお部屋に案内いたします。ついて来てください」
「道すがらいくつか質問をしてもよろしいでしょうか?」
「ええ。もちろん、どうぞ。私達はこれから一緒に働く同僚です。分からないことは遠慮なく質問してください」
「イシュチェルさんはどうされていますか? 昨日、私は帝城ペンタグラムで足止めされていました。イシュチェルさんはセラフィーナ様に連れられて到着したはず。どちらに?」
「昨晩からずっと主寝室に。イシュチェルさんはセラフィーナ様とご一緒に皇帝陛下のお相手をなさっておられますわ」
「昨日の夜からずっと⋯⋯? そうですか。イシュチェルさんは皇帝陛下に身を捧げてしまわれたのですね」
先を越されてしまったという思いもある。イシュチェルが性奉仕を拒絶するなら、マリエールは身代わりになるつもりだった。
「重たく受け止めないでください。後宮の女はそのためにいるのです。⋯⋯メガラニカ帝国を動かす最高権力者たる三皇后であれ、雑用の掃除婦に過ぎない下働きの側女であれ、皇帝陛下の心身を癒やす責務があります」
「存じております。私もその責務を果たしたいものです」
「指名されるかは皇帝陛下の御心次第です」
ロレンシアとマリエールは黄葉離宮の廊下を進む。
模様付きの窓ガラスは木の葉で彩られている。光を放ち続けるシャンデリアは、広葉樹の枝葉を思わせるデザインだ。教会も威厳を保つため、装飾に財力を注ぎ込んでいる。しかし、清貧を説く聖職者の本拠が拝金主義に侵されては体裁を保てない。必ず限度がある。
一方で後宮は華やかさの出し惜しみがない。最底辺の愛妾に下賜された離宮でこれほどの豪邸である。
三皇后や上位の王妃となれば、さらに贅を尽くした豪華絢爛な造りとなる。
手狭な黄葉離宮は部屋数が少ないものの、空き部屋には余裕があった。側女が使う使用人室のうち、いくつかは皇帝付きの女官達が共用で使っている。
「あちらは厨房です。女官の方々が使われているので、近寄らないようにしてください」
リアやロレンシアが料理を作っていた厨房は、料理担当の庶務女官に占領され、帝城ペンタグラムから運ばれてきた食料品が山積みになっていた。メイド服を着た女官達は、慌ただしく働いている。
「女官の方々は忙しそうですね⋯⋯」
「皇帝陛下の御滞在は長引きそうです。女官達がいると、普段している掃除や洗濯などの仕事は、全て取り上げられてしまいます。私達がする仕事は、ほとんどないと思ってください」
「私は働きにきたつもりだったのですが、何もしなくてよろしいと?」
「拍子抜けしてしまいますよね? けれど、皇帝陛下のお呼びが掛からない限りは、本当にすることがありませんよ」
「そうですか」
「余暇とでも思って、ゆるりとくつろいでください。本を読んだり、商会の取り寄せカタログを眺めたり、過ごし方は各々の自由です」
「分かりました。ところで、あそこにある大きな檻は何ですか? 動物用⋯⋯? 瘴気が蔓延する天空城アースガルズでは、家畜や愛玩動物を飼えないと聞いておりましたが?」
マリエールが指差す。その先にはオリハルコン製の檻が無造作に置かれていた。
「人間用です。懲罰や折檻では使いませんよ。緊急避難部屋と思ってください」
「緊急避難?」
「念の為に用意しておきました」
「何から避難するというのです?」
「黄葉離宮の側女に異教を憎む女僧侶がおります。万が一、マリエールさんが襲われた時はあの檻に避難してください」
「あぁ……。檻に入るのは私なんですね」
「イシュチェルさんとマリエールさんの逃げ場所です。檻は抵抗がありますか?」
「いいえ。平気です。教皇庁の懲罰房に入れられたことがありますから。しかし、メガラニカ帝国の女僧侶さんはそんなに危険なのですか? 異教を憎んでらっしゃる?」
「黄葉離宮の女僧侶は聖堂会に所属しています。狂信的な皇帝崇拝で有名な宗派です。宗教関連の話題を振らなければ暴走はしないと思います。はぁ……。テレーズさんは狂信者でなければ、本当に素晴らしい女性だったのですけれどね⋯⋯」
「テレーズさん⋯⋯というのですか? 異文化交流に衝突は付き物です。ぜひ仲良くしたい。きっと時間をかけて話せば分か――」
「――分かり合えませんよ。宗教関連では話が通じなくなります。不可能です。諦めてください」
「は、はい。分かりました。他にはどんな方々が?」
マリエールに訊ねられて、ロレンシアは元冒険者の同僚達について説明する。
黄葉離宮の側女達が帝都で活躍した一級冒険者と聞き、知りたがりなマリエールは興味を引かれた。
矢継ぎ早な質問にロレンシアは快く応じた。しかし、ベルゼフリートの忌まわしき過去については言及しなかった。マリエールは知りたがるだろうが、他の者達も幼帝と宰相の過去については、けして口を割らない。