ハロルド・ジェルジオ伯爵とリンロッタ・ジェルジオ夫人は仲睦まじい夫妻だ。温厚な性格で知られ、城内の使用人から慕われている。階級に対する義務的な敬意ではなく、親愛の情を向けるに相応しい人格者であった。
シオンは伯爵夫妻を敬愛していた。ところが、大切に育てられた娘は両親を煙たがっている。最初は反抗期かと笑っていたが、どうも収まる気配がない。
伯爵夫妻の一人娘であるシャーロットは、両親とはまったくの似ていない。天才肌で気難しく、凡人を寄せ付けぬ覇気を撒き散らす女傑の美少女。他者を寄せ付けぬ高貴な令嬢は、恐れられることも多いが、一部の領民から熱狂的な人気があった。
シャーロットは民衆が思い描く理想の貴族に近しい。高圧的な気質であるものの、両親と同様に下々の者を虐げることはない。弱者を甚振る強者を排撃する真なる強者であった。
風評を要約すると、ジェルジオ伯爵家は領民に好かれた善良な貴族だ。
「シオン。鍛錬場で起きた魔法の騒動を解決したそうだな。爺やの言うとおりだった。奴が留守でも、シオンがいればしっかり仕事をこなしてくれる。城内で噂になっておったぞ。首輪に宿っていた風の悪魔を追い払ったとな」
ジェルジオ伯爵はシオンの養父アルバァンダートを「爺や」と呼んでいる。長らく家に仕えているアルバァンダートに寄せる信頼は大きい。
「風の悪魔⋯⋯? 伯爵様、それは噂に尾ヒレが付きまくってますよ」
シオンは鍛錬場で起きた出来事に訂正を入れる。それでもジェルジオ伯爵はニコニコと笑っていた。
「いいじゃないか。シオン。良い話は大袈裟に広まったほうがいい。死人は出なかったのだからな。大怪我をした騎士見習いも後遺症は残らぬそうだ」
ジェルジオ伯爵は我が子を可愛がるように、シオンの頭を撫でた。格式高い名家のジェルジオ伯爵家の当主は、たとえ相手が馬屋で働く下男だったとしても親しげに接してくる。
良くも悪くも親しみやすく、性格が貴族らしくない。それは奥方も同様だった。
「でも、危ない真似をしてはダメよ。シオンはまだ正式な聖導師ではないのですから⋯⋯。悪い噂を耳にしましたわ。祓魔に失敗した帝都の聖職者が命を落とされたとか⋯⋯」
「爺やの手紙にもその件が書かれていたな。近頃、質の悪い魔導具が出回っておるようだ。帝都だけでなく、各地で魔法事故が起きいる。教会はその対処に追われているようだ」
「アルバァンダートには早く戻ってきてもらいたいわ。領内で起きた問題をシオン一人に対処させるわけにはいかないでしょう。騎士団は魔法絡みの事件があるとすぐシオンを頼ろうとするわ」
リンロッタ夫人のシオンの活躍を喜んでくれたが、同じくらい心配もしていた。魔法を打ち消す祈りは、信仰心と魔力の戦いだ。強大な魔法が相手であれば、返り討ちに遭うこともある。
「大丈夫ですよ。奥方様。あの首輪にかけられていたのは粗雑で弱い魔法でした。伯爵様が仰ったように、禁制品の魔導具をばら撒いてる悪人がいます。アルバァンダート先生の懸念は正しかったようです。だから、俺は皆の役に立ちたいです」
シオンは伯爵と夫人に、竜紋の魔法製品が引き起こした事件だと説明した。
「これ以上、私の領内で被害者を出したくない。関所の検査と魔導具の販売については厳しくせねばなるまい。不安を煽りたくはないが、民衆に注意喚起をすべきか⋯⋯」
ジェルジオ伯爵は真っ白なヒゲを撫でながら考え込む。魔導具の販売は許可制となっている。しかし、何を持って魔導具とするかは曖昧だった。シャンデリアの結晶灯も魔力で光り輝いている。魔法は社会生活を支える基盤だった。
魔導具の販売を厳格に禁止すれば、大混乱が起きてしまう。ジェルジオ伯爵領に限らず、結晶灯などの日用品は売買が黙認されていた。
「ふむ。よし。決めたぞ。悪質な魔法製品を買わぬように布告を出すとしよう。事件がさらに起こるようなら、密売人の取り締まりも検討せねばな。しかし、それは爺やが戻ってきてからで良いだろう」
ジェルジオ伯爵は執事に指示を出す。領主が施策の大方針を決めた。次は優秀な政務官である執事が、末端の現場まで行き渡らせる。
ジェルジオ伯爵領は帝都から離れた辺境であるが、そこそこ裕福な土地柄で、都会の喧噪を嫌った優秀な文官が流れてくる。
多くは政争で敗北した年老いた官僚だ。辺境とはいえ、名門の伯爵家仕えならば、経歴の面目は維持できる。難点があるとすれば、牧歌的な人間が多いことだろう。野心ある武官や魔法使いは息苦しさを感じてしまう。
「シャーロットのこと、シオンはもう聞いたのかしら?」
奥方はシオンがあえて避けていた話題を突如として振ってきた。
リンロッタ夫人は生暖かい笑みを浮かべてみる。隣に座るジェルジオ伯爵は悪さをした息子を庇いたいが、庇いきれないといった複雑な表情をしていた。
シャーロットとシオンが寝室で共寝していることを伯爵夫妻は察している。しかし、知らぬ存ぜぬで今まで過ごしている。注意や警告は一度もされなかった。
たった一人の跡取り娘を穢した罪は重い。本来であれば処罰が下る。温情があれば追放刑、最悪の場合は縄で吊られて命を奪われる。
伯爵令嬢の純潔は婚前で失われて良いものではない。
「お嬢様が帝都の魔法学院に推薦入学される話ですか?」
シオンは素っ恍けた。
「シャーロットが三年生に進学したら、私の実家が所有する別邸を贈るつもりよ。でも、たった二人で暮らすには広い御屋敷よ。使用人が必要だと思うわ。シャーロットはシオンを専属の従者にしたいと強く望んでいるの」
「爺やとも相談して決めたのだ。シャーロットは魔法の才能に恵まれた。帝都の魔法学院に通わせるのは貴族の義務だ。すまないが、シオン。娘の我儘に付き合ってくれ。あの子はお前を手放したくないようだ」
シオンは静かに頷いた。気になったのは伯爵夫妻がどこまで聞いているかだ。
(伯爵様と奥方はシャーロットお嬢様が俺の子供を産むとか言ってるのも知っているんだろうか?)
口を開いたが何も言葉が言えず、シオンは慌てて唇を結んだ。問い返す、その勇気がシオンにはなかった。視線を逸らした先に、夫人付きの侍女ケイティがいた。
元々はリンロッタ夫人の実家に仕えていた女騎士である。武家出身の騎士階級であるが、病気を患って長期療養中だった。職務復帰後はメイドになったが、剣の装備を許されている。
(口は閉じておこう。黙認されているからこその関係⋯⋯。あの目は念押しされてる気がする。誰もが知らない振りをしていれば平和なんだ)
そもそもシャーロットが両親にどう伝えているのかが分からない。
(お嬢様と帝都で暮らす⋯⋯か⋯⋯。猶予は半年くらい)
いずれにせよ、ジェルジオ伯爵とリンロッタ夫人の承諾は得られてしまった。外堀は埋められている。
シャーロットが魔法学院の三年生に飛び級を果たし、お祝いに屋敷を贈られる日は近い。シオンが帝都へ赴く運命は決まった。
◆ ◆ ◆
領主への事後報告を終えたシオンは退室する。
「――はぁ」
廊下で小さな溜息を吐き出した。シャーロットの性格は誰よりも知っている。やると言ったら、絶対にやり遂げるのがジェルジオ伯爵家の若き女傑だ。
(俺の子供を産んだら、ますます話がややこしくならないか?)
伯爵令嬢が父親不明の私生児を出産。ジェルジオ伯爵家の醜聞である。なんとか説得できないかとシオンは苦悩する。
「シオン」
「うわっ⋯⋯! って、ケイティさんか⋯⋯。ビックリしたよ」
廊下で突っ立っていたシオンの背後に、ケイティが忍び寄っていた。昔は重装鎧を着込んでいた大柄な女騎士だった。静かに歩くのが癖になっている。
今は似合わないメイド服を着ていて、腰に下げた長剣がさらに見栄えのアンバランスさを増していた。
「どうしたの?」
「伯爵様と奥方様の前では言えなかったけど、アイリスがシオンに頼み事をお願いしたいそうよ」
酒場で働く給仕のアイリス。その名を聞いて思わずシオンは苦笑いした。シャーロットから女性関係の清算を近日中に済ませるように言いつけられたせいだ。
「頼み事って魔法絡み?」
夜のお誘いならケイティに言伝は頼まない。
騎士団がシオンを頼ったように、市井の人々も魔法絡みの事件は聖職者に相談する。しかし、アルバァンダートが不在の現在、頼れる相手は読師見習いとはいえ、実力が確かなシオンだけだった。
「そうとは限らないわ。幽霊絡みかもしれない」
「幽霊だって?」
「詳しくはアイリスが聞いてほしいわ。チーズや酒樽を保管してる地下洞窟の貯蔵庫で物音がするそうなの」
「鼠とかの害獣じゃない? それの原因」
「女が啜り泣く声を聞いたという者もいるわ。それともシオンは心当たりがある? 泣き声ではなく、喘ぎ声なら⋯⋯」
「喘ぎ声? ああ、誰かが貯蔵庫を愛の巣に⋯⋯って俺じゃないぞ!」
「そうよね。シオンがよく使っているのは馬屋の裏だと聞いているわ」
「そうそう。あぅ? え? は⋯⋯? えぇ!? ちょ、ちょっと! ケイティさん? なんで?」
「知ってるに決まっているでしょう」
「それ、もう御屋敷の皆、知ってるの? お嬢様さえ知ってたんだけど⋯⋯」
「私は奥方様から聞きました」
「うぎゃあああ! そんなっ! 嘘だ!」
崩れ落ちたシオンは電流を流された魚のように悶絶し、廊下の床でのたうち回った。
「嘘を言うと思います?」
「それなら、僕はそろそろ自害用の小剣を用意する頃合いかな⋯⋯。泣きたくなってきた。奥方様が知ってるなら、伯爵様も知ってるじゃんか! 俺に向けられた生暖かい笑みは⋯⋯そういう⋯⋯!! お二人に知られていたなんて! ああ、死にたい⋯⋯!! 死んで償いたい⋯⋯!!」
ケイティは思わしげに長剣の柄を握った。その瞳には怒気が宿っている。
「待った! ごめん! 冗談だよ。ケイティさん。ジョーク! 分かる? 取るに足らない戯れ言! 介錯を求めたわけじゃないぞ! まだ俺は死にたくない」
「私はそういう冗談が嫌いです」
「悪かったよ」
「そもそも今さら乱れきった素行を悔い改めても手遅れです。大聖女様も見放しています」
「そんなことない⋯⋯。大聖女様は優しいから許してくれる⋯⋯はず⋯⋯」
「とにかくアイリスの依頼は伝えました。本当に困っているようなので、助けてあげてください。アルバァンダート先生が戻られてからでも良いとは思いますが」
「いや、行くよ。調べるだけは調べる。アルバァンダート先生がいつ帰ってくるか分からないし⋯⋯」
「そう。でも、無理はしないように」
用件を済ませたケイティは踵を返した。やはり歩き方が武人のそれだった。侍女のメイド服が戦闘服に見えてしまう。
「ねえ。ケイティさん、元気にしてる?」
どんな言葉をかけるべきか迷った末、シオンは声を振り絞って訊ねた。
「ええ、心身ともに健康です。もう迷惑はかけません」
立ち止まったケイティは振り返らずに応えた。レザー製のチョーカーで隠した首回りの古傷を摩っている。傷は塞がっても、痕は消えない。
ケイティ・グランメニルがジェルジオ伯爵家の騎士団を辞した理由は、ほんの数人だけが知っている秘密だった。シオンの淫らな痴話と違って、秘されるべき内容の話だった。
ケイティは婚約者に逃げられてしまった。しかも、婚約者を寝取った相手は、こともあろうにケイティが可愛がっていた妹だった。二重の裏切りはケイティを精神を病ませた。
「その髪、似合ってる。伸ばしてるほうが俺は好きだ。騎士の鎧兜を被らないのなら、邪魔にもならないでしょ」
「手入れは大変です。でも、ありがとうございます。シオンの言う通りでした。着飾ってみるのも悪くはありません」
自殺未遂まで追い詰められたケイティだったが、周囲の助けもあって快方に向っている。リンロッタ夫人から化粧を習っているという話をシオンは聞いていた。
極端から極端に奔るケイティの傾向は要注意だとアルバァンダートや魔法医師のルフォンは危ぶんでいた。しかし、シオンはさほど心配していなかった。
蛹から羽化した蝶が恐る恐る空を飛んでいる。シオンにはそう見えた。辛い事件ではあったが、自由を手にする切っ掛けにもなった。
武骨なグランメニル家では戦いのことばかりを教わっていた。武家で名の知れた騎士の一族は厳格だった。生真面目なケイティは家の教育に何ら疑いを抱かず、立派な女騎士になった。しかし、時代錯誤な側面はあった。
ケイティの妹は、そんなグランメニル家を嫌っていたという。家の教えに忠実だった姉の婚約者を寝取った。それはある種の報復だったのかもしれない。