【242話】婢女に堕ちる

 ――お逃げください! イシュチェル様! 川に飛び込んで! 船はもう駄目です! は私が! 泳いで対岸に!

 乳母の絶叫、男達の怒声。

 船上で逃げ惑っていたイシュチェルは、落下防止の手すりを乗り越える。

 恐ろしい風切り音が聞こえた。放たれた弓矢が後頭部を掠める。振り返ると石弓クロスボウを構えた襲撃者が狙いを定めていた。沈みかけた船舶の揺れがなければ、イシュチェルの頭蓋は貫かれていただろう。

 一刻の猶予も残されてはいない。

 勇気を振り絞り、イシュチェルは闇夜の川面に身を投げ出した。

 木造船は大きく炎上し、黒煙をあげる。爆薬の破裂音がグウィストン川の水面に大波を作った。船体は傾き、素人目にも転覆寸前の危機的状況だと分かる。

 ――お逃げください!! イシュチェル様! バルカサロ王家の血筋を絶やしてはなりません!

 乳母の声が聞こえた。だが、その後は何も聞こえなくなってしまった。

 泳ごうにも、呼吸をするだけで精一杯だった。水を吸った衣類は重みを増し、皮膚に張り付いて四肢の自由を阻害する。冷たい水が体温を奪い去り、体の動きが鈍くなっていった。

(アーロン⋯⋯! どうか無事に⋯⋯! 東アルテナ王国に辿り着いて⋯⋯!)

 鼻腔から吸い込んだ水が呼吸器官に流れ込む。苦しみ、藻掻もがき、流されていく。肺が空気を取り込めなくなり、酸素の欠乏が始める。

 イシュチェルの記憶はそこで途絶えた。

 ◆ ◆ ◆

 深夜、高速艇で追いかけてきた刺客達は、王妃一行が乗っていた大型船に襲撃を仕掛けた。差し向けられた刺客はバルカサロ王国の職業軍人であり、人殺しの専門家だった。

 王妃イシュチェルと第六王子アーロンの護衛達は必死に応戦した。

 国王チャドラックの殺害犯は第二王子ジルベールと第三王子ザトリシオ。前王妃エルシェベナの旧臣達が大逆を扇動し、現在の内乱が引き起こされた。王妃イシュチェルは濡れ衣を着させられた被害者である。

 王宮で起きた虐殺事件の真実を知る護衛達は、己の命を惜しまず戦った。敵こそが私利私欲で主君を殺し、内乱を引き起こした国賊。憎悪を剥き出し、義憤に猛る。しかし、襲い掛かる刺客達にも掲げる大義はあった。

 老王チャドラックの後継者指名は狂気の沙汰だった。

 王統の長子継承を廃する愚挙。上位王子を退けて、末子の零歳児を次王に選ぶ蛮行。トチ狂った政治的決断は、後妻のイシュチェルにかけられていた疑惑に真実味を与えてしまった。

 王妃イシュチェルと第一王子ドラミホールが不貞に及び、産まれた不義の子が第六王子アーロン。

 まことしやかに囁かれていた不義密通の噂。教皇庁が授けた王妃イシュチェルの子宮に授けた聖印はバルカサロ王家の遺伝子に反応する。つまり、第一王子ドラミホールが相手でも妊娠はできる。

 前王妃エルシェベナの旧臣達はこう考えてしまう。

 耄碌した国王チャドラックは骨抜きにされた。王妃イシュチェルと第一王子ドラミホールは結託し、前王妃エルシェベナの派閥を一掃しようと画策している。悪女イシュチェルによる王権簒奪を阻止しなければならない。

 ――前王妃エルシェベナの病死すらも、王妃の座を欲したイシュチェルの妖術によるものだ。

 そのような根拠薄弱な陰謀論を信じる者達まで現れていた。愛国心の強い国士は激怒する。

 バルカサロ王家を乗っ取ろうとした稀代の悪女イシュチェル。簒奪者の血は根絶しなければならない。刺客の狙いは亡命を図る王妃イシュチェルと第六王子アーロンの命だった。

「ここは⋯⋯どこですか⋯⋯?」

 荘厳な大宮殿の一室で寝かされていたイシュチェルは困惑する。記憶が混乱している。見知らぬ場所で目覚めた。

(⋯⋯私は⋯⋯どうして⋯⋯ここに? いいえ、いつからここで寝ていたのでしょう?)

 グウィストン川の水面に飛び込んだ後、何が起きたのか覚えていない。

(私は生きている⋯⋯? 誰かに助けられたような⋯⋯?)

 必死に掴んでいた木片を無くし、イシュチェルは溺れてしまった。藻掻もがき苦しみ、必死に空気を求めた。だが、グウィストン川の急流に飲まれて水面に沈んだ。

 動かずにじっとしていれば、豊満な乳房の浮力がイシュチェルを助けてくれるはずだった。無理に泳ごうとした結果、溺死しかけた。しかし、不幸中の幸いと言うべきだろう。

 イシュチェルは仰向けの状態で気絶し、グウィストン川の西岸に流れ着いた。

「貴方は? お医者様ですか⋯⋯?」

 手首に指を添えて、脈拍を測る美女にイシュチェルは問う。神々しい雰囲気を放つ、女神のような女性だった。

「ええ。医術師ヒーラーの資格もありますよ。本職は司法神官。王妃のアストレティアと申します。以後お見知りおきを」

 イシュチェルは自分と同じく王妃を名乗るアストレティアを見詰める。

(王妃⋯⋯? しほうしんかん?)

 司法神官などという役職は初耳だった。何よりも気になるのは、アストレティアの頭上で輝く神々しい光輪であった。目覚めた当初は見間違いと思っていた。意識が覚醒し、ぼやけていた視界がはっきりとしてくる。

神輪じんりん証聖しょうじょう⋯⋯? まさか! そんな! 貴方は本物の女神様ですか!?」

 神輪じんりんは天神の証。驚きで仰け反ったイシュチェルに、アストレティアは冷静な態度で応じる。

「聖婚を司る大神でもありますね。こちらは生まれつきの副業みたいなものです」

「女神様が私を助けてくださったのですか⋯⋯? あ、ありがとうございます!」

「いいえ。貴方を助けたのは西アルテナ王国の川漁師です。治療という意味なら悪魔ですね」

「え? は? あくま⋯⋯? 悪魔!?」

「最初に意識を取り戻したとき、会っているはずですよ」

「やっ、やめてください! 私は穢らわしい悪魔などと取引はしておりませんわ!」

「記憶が抜け落ちておられますね。危険はありましたが本国への輸送を優先して正解でした。副都ドルドレイの名医に感謝するといいでしょう。⋯⋯手の施しようがない状態で、よく持たせたものです」

 まったく会話が噛み合っていない。イシュチェルはアストレティアが違う世界の住人に思えた。

「あの⋯⋯ここは⋯⋯アルテナ王国? ですよね? それとも中央諸国の⋯⋯?」

「いいえ、違います。帝都アヴァタールのグラシエル大宮殿です。イシュチェルさんはメガラニカ帝国におられます」

「てっ、ていこ⋯⋯!」

 イシュチェルは言葉を失う。顔面蒼白になって、天井を見上げた。あまりの衝撃に意識が飛びそうになる。

「我が国では多種多様な種族が暮らしています。悪魔の医術師ヒーラーもおりますよ。帝国憲法は魔物だけを悪性生物と指定しています。教会のように特定の人種を悪とは決めつけません」

「その⋯⋯助けていただいたことは、とても感謝いたしますわ」

「私に対する礼は不要です。手を尽くしましたが、私の権能ではイシュチェルさんを助けられませんでした」

「どういう意味でしょう? 私は生きておりますわ」

「グウィストン川で溺れた記憶は残っていますか?」

「はい。それは⋯⋯はい。もちろん、覚えておりますわ」

「分かりやすく言えば、イシュチェルさんは溺死する寸前でした。危篤状態が続き、いつ死んでもおかしくなかったそうです。呼吸はかろうじて維持できていましたが、心臓の動きが弱まっていた。副都ドルドレイで輸血治療を受けている間、イシュチェルさんの心臓は七回も止まった。いわゆる心肺停止状態です」

「私の心臓が止まっていた⋯⋯」

「目覚めた後に重度の脳障害が判明し、帝都アヴァタールに緊急移送されました」

「脳障害⋯⋯? 私が⋯⋯?」

「低体温と酸素欠乏で脳細胞が壊死し、意識混濁と記憶障害を併発。身体の麻痺が悪化してからは、重篤な昏睡状態でした。私のを使ってもイシュチェルさんは救えなかったのです。⋯⋯普通なら脳死判定です」

 奇跡の御業をイシュチェルは知っている。

 子宮の聖印は教会が特別に施した奇跡の御業であった。妊孕性を高め、バルカサロ王家の王統を守護する神聖術式が刻まれている。

「仰った説明が正しいなら、私は死んでいないとおかしい気がしますわ」

「死なせてもいい。そう言い捨てた者もおりました。女官総長ヴァネッサと医務女官長アデライドは、イシュチェルさんの延命治療を拒否しました」

「⋯⋯女官?」

「現在、この国で最高の名医は皇帝陛下にお仕えする女官の二人です。しかし、彼女たちは皇帝陛下の敵は助けない。ご立派な忠義心ではありますね。医術師ヒーラーの倫理には反しますが⋯⋯。かくいう私も見捨てる派だったのですが、神官長のカティア猊下は慈悲深かったのです」

「あ、あの! まったく説明の内容が頭に入ってきませんわ。存じ上げない方ばかりです⋯⋯!」

「そうですね。我々、長老派は人命を粗末にしない。宰相派と軍閥派はイシュチェルさんに過酷な運命を与えた。それさえ理解していただければ良いです。⋯⋯正直に申し上げれば『グウィストン川で死んだほうが良かった』と深く後悔するかもしれない」

「後悔ですって⋯⋯? 私に何をする気ですか?」

 イシュチェルは身構える。それを見たアストレティアは呆れて笑う。

「もう既に終えています。手遅れです。不老不病の仙薬をイシュチェルさんに投与しました。おかげで脳障害は完治し、完璧な健康体です。先天的な病気を治した例はありましたが、後天的な外傷も血酒は治癒する⋯⋯。嗚呼ああ⋯⋯。皇帝陛下の御力は計りしれない⋯⋯! 感動で身震いします。メガラニカ皇帝の尊き血に比べれば、神族の奇跡など児戯じぎに等しい」

「皇帝⋯⋯? メガラニカ帝国の⋯⋯ベルゼフリート⋯⋯!!」

 空気が凍り付いた。少なくともイシュチェルはそう思った。グウィストン川で刺客に襲われたとき以上の脅威を感じ取った。

「イシュチェルさん⋯⋯? いま、なんと?」

「え⋯⋯? あ⋯⋯! やめっ! ひぃ!」

 アストレティアの長い指先がイシュチェルの頸部を圧迫する。

「聞き間違いでしょうか? 貴方はメガラニカ帝国にいるのです。皇帝陛下に対する無礼は許されない。許されてはいけない」

「っ! や⋯⋯っ! く⋯⋯ぃ⋯⋯!!」

「誰のおかげで呼吸できているのか、教えて差し上げたはずです。皇帝陛下の尊き血を飲んでいながら、まだ脳機能に問題があるのでしょうか?」

 誤った返答をすれば、首をへし折られる。

 女神の瞳には本物の殺意があった。

「いっ、言い間違えです! 非礼をお許しください⋯⋯! 以後、皇帝陛下には敬意を払います⋯⋯!! くっ、くるしい⋯⋯です⋯⋯! お願いです! この手を離して⋯⋯!」

 激怒するアストレティアの指先から溢れ出た瘴気はイシュチェルの身体を傷つけていない。血酒を飲み干した女仙は、破壊者ルティヤの瘴気を吸収し、血肉に浸透する。

(やはり異邦人は好きになれない。このような蛮人に血酒を与え、皇帝陛下の伽役をさせるなど⋯⋯)

 帝都アヴァタールに到着したとき、イシュチェルは手遅れの状態だった。血酒による女仙化だけが、脳死状態のイシュチェルを救う唯一の治療法だった。

「私はを処断できる公安総局の機関長でもある。宮廷で長生きをしたいなら、舌禍ぜっかにお気をつけて⋯⋯。これでも私は寛大な王妃です。陛下の近くにいる警務女官はもっと怖いですよ?」

 頸動脈に爪を食い込ませていたアストレティアは、イシュチェルを開放する。

「分かればよろしい」

「けほっ⋯⋯! けほぉっ⋯⋯!」

「さて、これからの予定をお伝えいたします。しばらくはグラシエル大宮殿にご滞在ください。もう一人の到着が遅れており、入内の準備が整っておりません」

「入内? 私が⋯⋯? 何を言って⋯⋯!?」

「三皇后はイシュチェルさんを後宮に迎えると決定いたしました」

「後宮に⋯⋯!? お待ちください。私は保護を求める亡命者ですわ! 正当な対応を望みます⋯⋯!」

「女仙になった以上、皇帝陛下にお仕えする義務があります。王殺しでバルカサロ王国を追われた身。外部の助けは期待しないことですね。イシュチェルさんは死んだと思われております」

「だからといって、このような横暴が⋯⋯! 許されるはずがない! 私はバルカサロ王国の王妃ですわ!! 守るべき礼節がメガラニカ帝国にも⋯⋯ある⋯⋯はず⋯⋯で⋯⋯」

 言葉が喉に詰まる。心臓を貫くような冷たい女神の視線にイシュチェルはたじろいた。

「貴方は死人。帝国内においても存在は秘匿されます。バルカサロ王国の王妃は死にました。この部屋にいる貴方はイシュチェルと名乗る婢女ひじょです」

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