調印式は玉座の間で執り行われた。
玉座に腰を下ろすのは、帝冠を被り、正装で身を整えた皇帝ベルゼフリート。そして、皇帝よりも皇帝らしい威厳を放つ皇后レオンハルトが隣に立っている。
ベルゼフリートは豪奢な衣服で着飾っている。対照的に帝国元帥レオンハルトは軍服を着用し、和約の調印式であるのに武装を解いていない。
アルテナ王国において、玉座の間に武器を持ち込みは厳禁とされてきた。しかし、戦勝国のメガラニカ帝国が、敗戦国の伝統に従う義理はない。
出席する帝国軍の上級将校も、レオンハルトと同じく全員が剣を腰に差している。帝国兵だけでない。皇帝の身辺警護を行う女官達も完全武装だった。
「これはどういうおつもりですか⋯⋯?」
女官長ハスキーの剣先は、ヴィクトリカ王女を演じる女の喉元に向けられていた。
「私は皇帝陛下の御身をお守りする警務統括の女官長ハスキーと申します。貴方がヴィクトリカ王女なのか⋯⋯。この場で確認させてください」
「私が偽物? 調印式の場でそのような言いがかりをつけるとはなんと無礼な⋯⋯! ベルゼフリート皇帝陛下! この無礼な女をすぐ下がらせてください!」
迫真の演技だった。しかし、既に内実を知っている者たちからすれば、滑稽な茶番劇である。
王国側の要人は、青ざめた顔で目を泳がせていた。もしも彼女が本物の王女であれば、今頃は忠臣が盾になろうと身を間に挟むはずだ。
王国側の出席者は武装を認められていない。しかし、本物の王女に謂れのない嫌疑がかけられているのなら、身を呈して庇う者がいないのは不自然だ。
「帝国の情報部はとても優秀なのです。敗残兵とバルカサロ王国に逃げ延びた王婿ガイゼフが、娘と再会したとの情報を掴みました。与太話かと思われました。しかし、城内で過ごす貴方の様子に、違和感を感じる者が多くいました」
疑いの発端はバルカサロ王国に逃れたアルテナ国王軍の士気が回復したことだ。
指揮官のガイゼフ王はバルカサロ王家の出身者。アルテナ国王軍が忠誠を誓っているアルテナ王家の一員ではない。
セラフィーナ女王の婿だからという理由で、臣下となっているに過ぎないのだ。王都ムーンホワイトが陥落し、セラフィーナ女王が帝国の手中に落ちた現在、兵士達は戦う理由を失っていた。
ガイゼフ王の敗戦責任を非難する声は多かった。遠からずアルテナ王国の軍勢は内部から瓦解すると思われていた。
ところが、アルテナ王国の敗残兵達は息を吹き返した。潜入していた帝国の諜報員は、ヴィクトリカ王女がバルカサロ王国へ亡命し、兵士達を鼓舞したとの情報を軍務省に伝えた。
「ヴィクトリカ王女は、母であるセラフィーナ女王と同じく黄金髪。若かりし頃のセラフィーナ女王の姿を生き写した美しき乙女と聞いています」
玉座の間にはセラフィーナ女王の姿もあった。
息子のリュートを処刑され、帝国への憎悪を募らせる女王は漆黒の喪服で出席していた。
絹のように細く、本物の黄金糸を思わせるセラフィーナ女王の美髪と比べ、ヴィクトリカ王女を名乗る娘の髪は明らかに見劣りしている。
「貴方の警護を担当した帝国軍の女性兵から報告がありました、染色した疑いがあると。この髪の色、地毛なのでしょうか?」
軍務省から探偵役を押しつけられたハスキーは、レオンハルトとの打ち合わせ通りに進めていく。
「王女であると証明してください。ドレスを脱いでいただけますか」
「無礼者め。なぜ私がそのようなことをしなければならないのですか!?」
「貴方の使った浴室から、なぜか短い赤毛が見つかっています。浴室係のメイドにも赤毛の者はいません。失礼ながら下着も調べさせてもらいましたが、やはり縮れた赤毛が付着していました」
ハスキーは剣先を下げ、王女を名乗る娘の股間に向ける。
「貴方は一生懸命に王女を演じていますが、急遽用意された影武者なのでしょう。見た目や口調は似せても、下着の中は調べられないと思っている辺りが素人です」
「なっ! 何をするの!」
ハスキーが合図をすると、控えてた侍女たちが偽ヴィクトリカ王女を取り押さえる。
「おい! 待て⋯⋯っ!」
飛び出したのは近衛騎士のレンソンだった。アルテナ王家を守る近衛騎士団に所属する青年貴族は、我慢できずに侍女を止めようとした。しかし、その行く手をハスキーが阻んだ。
「手出し無用⋯⋯。近付くのなら斬り捨てますよ?」
軍務省がハスキーに協力を求めたのは、彼女が女官だったからだ。帝国軍にも女性兵はいる。だが、重要なのはハスキーが非軍属という点にある。
大きな騒動となったとき、口火を切ったのが軍人だと軍務省にとっては都合が悪い。帝国軍の本音は戦争の早期終結。
いかなる事情であれ、帝国軍が調印式で、粗暴を働いたとの風聞が立つのだけは避けたかった。
「⋯⋯っ!!」
騙し通せないと観念したのか、影武者は抵抗しなかった。ドレスを脱がされ、下着も剥がされ、玉座の前に連れ出される。
レオンハルトは全裸の影武者を観察し、陰部の毛が赤色だと確認した。
「これは奇異な。髪は金色、陰毛は赤色。よもや月経の血で恥毛が染まったなどとは言うまいな? これはどういうことか。セラフィーナ女王よ。皇帝陛下の御前で説明してもらおう」
「おっ、お待ちください! この企てに女王陛下は無関係でございます!! 全ては執政の私が! この私が勝手に画策したことなのです!! 私の口から説明をさせていただきたく! レオンハルト元帥閣下! 何とぞ! 弁明の機会を私に!」
「黙れ。執政に用はない。その老いぼれを連れ出せ。私は女王に説明しろと命じたのだ」
「レオンハルト元帥閣下! まずは私からこの事態を弁明させていただきたいのです! 何とぞ、お許しを⋯⋯!」
「失せろと命じたはずだぞ。文官如きがしゃしゃり出てくるな。早く連れて行け!」
レオンハルトが命じると、年老いた執政は帝国兵に両腕を掴まれ引きずられていった。
「はやく前に出ろ。女王セラフィーナ・アルテナ。貴公の娘を名乗るこの女は何者だ? 本物のヴィクトリカ王女はどこにいる?」
目を伏せていたセラフィーナ女王は、覚悟を決めて玉座の前に進んだ。
「ヴィクトリカはここにはおりません。この娘は近衛騎士のロレンシア・フォレスター。私の命令でヴィクトリカを演じていただけです」
癖のない真っ直ぐな金色の長髪は背中まで伸び、純白の肌は皺の1つもない。一流の職人が作り上げた人形に魂を吹き込んだかのような美貌の女王は、観念して白状した。
「帝国軍が都の包囲を完成させる前に、バルカサロ王国に逃しました。こうして都が陥落した今となってみれば、娘をガイゼフの祖国に逃したのは最良の選択でした」
「愚かな選択だ。娘を隣国に逃してどうなる? こちらがお膳立てしてやった講和条約の締結が危ぶまれる事態だ。講和の条件を忘れたか?」
「我が国は講和条件を受諾しておりますわ。既に講和条約を締結し、国璽も捺されています。メガラニカ帝国とアルテナ王国の講和は成立しました」
「何を言うかと思えば、呆れ果てたな。講和の条件を貴公は反故にしているのだぞ」
「いいえ。それは違いますわ。我が娘ヴィクトリカがバルカサロ王国に逃れたのは、帝国軍が王都を包囲する前。すなわち、一時休戦の申し出を行う前の出来事でした」
「ふむ。逃がしたのはいいとしよう。だが、守れもせぬ講和条約は結んだ件はどうする?」
「何を仰います? 王女ヴィクトリカと皇帝ベルゼフリート陛下の婚姻、アルテナ王国は認めておりますわ。娘のいるバルカサロ王国までお迎えに向かわれればよろしいかと存じます」
「なるほど、やはりな。小賢しい老人が考えそうな論法だ。結婚は認めるが、王女の身柄は引き渡さない。欲しければバルカサロ王国まで遠征しろときたか。お粗末な影武者を用意したのも、時間稼ぎのためなのだろう?」
「解釈はご自由にどうぞ。私からの説明は、これが全てですわ。それよりもロレンシアを開放していただけますか。裸のままというのは可哀想です」
「その娘は醜女ではないから、皇帝陛下の気分を害することもない。堅物な連中は目線のやり場に困っているが、幸いに私は女だ。さして困らぬ」
「影武者を立てた無礼はお詫びいたします。ですが、講和条約に王女の引き渡しは、含まれておりません」
「愚弄も甚だしい」
「……我が国は心から貴国との講和を望んでおりますわ」
アルテナ王国の主張は詭弁に近かった。講和条約の条件としてヴィクトリカとの婚姻を認めるが、身柄はバルカサロ王国にあるから、自分で取りに行けと言っているのだ。
今の帝国軍にバルカサロ王国まで長征する余力はない。占領地域の管理で精一杯だった。
「——しかしながら、講和条約そのものは成立しておりますわ」
「安心しろ。講和条約を破棄するつもりはない。帝国としても講和には前向きなのだ。我々は平和主義者だからな。しかし、約束は必ず守らせる」
ここまでの流れを帝国側も予測していた。王女のヴィクトリカが不在なら、帝国に残された選択肢は一つしか無い。
「娘がいないのなら、埋め合わせは母親である貴公の責任だ」
レオンハルトの命令で、セラフィーナは侍女に取り押さえられる。何人かの臣下が女王を助けようと騒ぎ立てる。しかし、帝国軍がすぐさま制圧した。
「そうですか。私も処刑するのですね? 息子のリュートを殺したように! 殺したければ殺せばよろしいわ。我が夫と娘が王国の敵を討ち滅ぼしてくれることでしょう!!」
「死にはしない。貴公は確実に適合者のはずだ。ハスキー。セラフィーナ女王に血の聖杯を飲ませてやれ」
ハスキーは赤い液体で満たされた杯をセラフィーナの唇に近付いた。
(何なの? これは⋯⋯血の匂い⋯⋯?)
セラフィーナは正体不明の赤い液体を飲まされた。見た目、匂い、そして味は血液そのものだった。少なくとも毒ではないらしい。
身体に目に見えての変調は起きなかった。
「貴公が飲んだ血酒は、不老を与えてくれる仙薬だ。適合者が飲むと不老の女仙となる。不適合者が飲むと、血を吐いて絶命する猛毒だがな」
「けほっ! けほっ⋯⋯! 不老の仙薬⋯⋯!? どうして私にそんなものを⋯⋯?」
「メガラニカ帝国の帝に仕える女は、不老の女仙でなければならない。女仙でなければ、皇宮のある天空城アースガルズに入ることすら出来ぬ」
「⋯⋯?」
「鈍い女だ。アルテナ王家の女を花嫁に迎えるのが条件なのだぞ? ヴィクトリカ王女がいないのなら、目の前にいる王族の女を使えばいい。そう考えるのが自然ではないか? セラフィーナ女王よ。貴公はアルテナ王家の血を引く女だろう」
「なっ!? 貴方は何を言っているのですか!?」
セラフィーナ女王は、予想外の出来事に動揺を隠せない。
レオンハルトが指摘するように、セラフィーナもアルテナ王家の女だ。しかし、だからといって、そんな手段を帝国が選ぶとは思ってもいなかった。
「8代皇帝ベルゼフリート・メガラニカは、アルテナ王国の女王セラフィーナ・アルテナからの求婚を受け入れる。貴方を王妃として、天空城アースガルズに住まわせ、両国の和平を永久のものとする。皇帝の名で約束しよう」
それまで沈黙していた幼い皇帝は、セラフィーナを娶ると宣言した。
突然の出来事に王国側の人々は言葉を失う。ざわめいていた玉座の間は静寂に支配された。
「……あれ? ねえねえ。レオンハルト? どうして皆は黙ってるの? 僕の台詞これであってたよね? ひょっとしてタイミング間違ってた?」
不安になった気弱な皇帝は皇后に泣き付いた。何か失敗をしてしまったのではないかと小声で確かめる。
「ご安心ください陛下。完璧でした」
「そう。うん。それなら、よかった」
「よくありませんわ! 一体何を考えているのですか!? 私には愛する夫がおりますわ!! 既婚者です! もう私は結婚しておりますわ。しかも、先ほど私の求婚を受け入れると仰りましたが、いつメガラニカ帝国の皇帝に求婚したというのですか!?」
「講和条約には和約の証として、アルテナ王家の女を娶っていいと書いてあるよ。たった一人しかいない王女をわざわざ国外追放した。それは、女王様自身が僕と結婚したいからでしょ?」
「そ、それは⋯⋯っ。そんなことは⋯⋯」
「僕らはそういう解釈をすると決めた。女王様も言ってたよね。解釈は自由なんでしょ。国主に二言はないはずだよ」
セラフィーナは詭弁だと反論しかけた。しかし、それを言えば自身の首を絞める。王女が不在にもかかわらず、結婚を認めたと言い張るアルテナ王国も詭弁家となってしまう。
こうしてメガラニカ帝国の皇帝ベルゼフリートとアルテナ王国の女王セラフィーナの結婚は決まった。しかし、詭弁の上に詭弁を重ねた婚姻である。
セラフィーナ自身の本意ではなかったし、アルテナ王国の臣下たちの間にも波紋が広がった。けれど、下準備を終えていた帝国の動きは電光石火であった。
「僕らは3日後、天空城アースガルズに帰る。僕の妃は天空城の宮廷で暮らす決まりだから、女王様も一緒に来てもらう。引っ越しの準備は進めておいて」
「わ、わたしを⋯⋯本気で娶るつもりなのですか⋯⋯?」
女王は混乱の極地だった。
自分よりも遥かに年下の少年と強制的に再婚させられる。それも相手は憎き帝国の皇帝だ。
悪い冗談にもほどがある。しかし、幼帝の言葉に嘘は含まれていない。
「今夜から夫婦として床を共にするから、寝室の鍵は開けておくようにね」
この夜、セラフィーナは夫以外の男に初めて身体を許し、子宮に子胤を仕込まれてしまう。
女王の品格と体裁を慮った王国の官僚達は、帝国に屈辱的な結婚を強いられた事実を隠そうとした。しかし、人の口に戸は立てられぬもの。
講和条約締結のために女王が幼帝に身を差し出した噂は、王都ムーンホワイトに広まっていった。