東アルテナ王国の河川港は、水運の中核を担う重要な交易拠点である。
アルテナ王国を両断するグウィストン川、その上流はバルカサロ王国の大平原を横断し、源流を辿れば中央諸国の聖山まで遡る。
中央諸国から西方を目指すのなら、大河の流れに身を任せるのが一番効率的だ。
険しい山道が続く陸路も存在するが、利用者は少ない。船旅に比べ、三倍以上の時間がかかってしまう。複雑に絡み合った国境を抜けるための手続きも煩わしい。
わざわざ陸路を使う者達は、道中の都市に用事がある行商人や冒険者、魔物狩りを生業とする魔狩人くらいであろう。
この日も船着き場には、中央諸国から下ってきた大型船が係留されている。大型船はこの先に進まない。
穏やかに流れてきたグウィストン川は、下流になると一転する。断崖絶壁の渓谷が現れ、急激に縮まった川幅は激流となって船舶の往来を阻む。
大渓谷での川下りは自殺行為だ。命知らずな冒険者でさえ、近づこうとはしない。
水運の終着点はアルテナ王国の河川港である。船舶はここで引き返さねばならない。
小型船なら牛馬や人力で曳船されるが、大型船は魔石を使った動力炉を起動し、上流に遡上する。乗客と積荷を降ろし次第、燃料の魔石を運び込む。大型船では積み降ろしの作業に約一日かかる。
「う゛え゛ぇ⋯⋯! ゔぇぇ⋯⋯!!」
見目麗しい乙女は、耳苦しい嘔吐声を奏でながら、グウィストン川の東岸で胃液を水面に撒き散らす。
美少女の外見もこうなっては台無しである。
「ゔぇっえ! はぁ⋯⋯はぁ⋯⋯うぅ⋯⋯ふぅ⋯⋯!!」
荷下ろしで忙しなく働く水夫達は「もっと見立たないところで吐いてくれ」と冷ややかな態度だった。
辺り一帯に充満した酸味の不快臭は、性欲の下心すらも消沈させた。地面に四つ這いで、尻肉の形がくっきりと浮き出ているが、眼福になるわけがない。
相手は盛大に嘔吐する娘。眺めていると胃がムカムカと気持ち悪くなってくる。
迷惑を被っている人物がもう一人いた。
船着き場で釣り糸を垂らしていた老人は、不愉快そうな顔つきで竿を引き上げる。
川に浮かんだ吐瀉物が嫌でも目に入ってきた。川魚達は貴重な栄養源とばかりに食らいつくが、釣り人からすれば、ひたすらに不快な光景だ。ここで釣った川魚を食卓に並べたくなくなる。
「やれやれ⋯⋯」
老人は川上に移動する支度を始めた。
(この娘っ子ときたら、船から降りた途端にげーげぇーと吐き散らしよってからに⋯⋯! しかし、まあ、遠くから来たんだな。西側から逃れてくる流民はこのところ随分と減っていたが⋯⋯。船に慣れちょらんな。中央諸国の人間じゃろか?)
釣り人の老人は、船酔い娘が長旅をしてきたのだと見抜いた。旅装の布生地は質素である。しかし、柄付きでないというだけで、上質なものを使っていた。
汚れがついているのは長旅の証拠だ。けれど、くたびれ具合の割に擦り切れていなかった。
(はんっ。金持ちにちげぇねえ)
裕福な商家や豪農の娘であろう。思い返せば出迎えの侍女らしき老女が波止場で船の到着をずっと待っていた。
(背中をさすってやればいいのに⋯⋯)
老女は今も娘の傍らで突っ立っている。
(気の利かない従者やなぁ。この吐きっぷりからして、娘っ子が船に乗ったのは初めてなんじゃろ)
抱いていた負の感情が静まり、船酔いに苦しむ年少者への同情が勝る。老後の楽しみを台無しにした娘への怒りは消え去っていた。
「はぁ。よっこらしょ」
釣り道具を担ぎ直し、悪くなった足を庇いながら近づいていく。
「おい。娘っ子や! 船酔いが治まらんのか? だったらなぁ、川や地面を見ず、遠くを見とけ! そんでもって温かいお茶でも飲むんやぞ」
自分の孫娘がちょうどこれくらいの年齢だった。若い女は船酔いしやすい。乗っている最中は我慢できても、波止場に足を付けた途端に悪化することがある。
「ありがとうございます。ご老人⋯⋯。うぷっ⋯⋯! ここで釣りをされていたのですよね。大変なご迷惑をおかけしました」
「気にせんでええぞ。釣り場所を変えるつもりやったからな」
老人は再び歩き始めようとした。その時、か細い声で娘が何かをブツブツと呟いた。
娘の指先に灯った光は、蛍のように宙を舞う。そして、老人の右膝に取り憑いた。
「なぁっ! なんやじゃあぁ!?」
驚いた老人は飛び跳ねてしまう。そして異変に気づいた。痛みに悩まされていた関節痛が癒えている。
「な? なぁ?」
右足を動かす度に発生していた鈍痛がピタリと鎮まった。関節から伝播した清らかな光は、老人の身体を包み込んだ。
「お礼です。創造主様のご加護がありますように」
「こりゃぁ⋯⋯。痛くない⋯⋯! 足が治っとる! 驚いた! 癒やしの奇跡か? あ、あんた⋯⋯いや、貴方様は教会の聖職者様でしたか? これは、なんと申し上げたらいいか⋯⋯! 先程の無礼な物言いをお許しください!」
老人は頭を下げる。だが、相手は怒っていないし、許してくれるのは分かりきっていた。ここで腹を立てるような娘が老人の持病を癒やしてくれるわけがない。
(親切はするもんだのぉ! くかっかかか! 魚は釣れんかったが大得だ!)
アルテナ王国は教会の信徒で占められている。心優しい聖職者に礼儀を尽くすのは当然である。老人は謝意を示した。
「いえ、そんな大層な人間ではありません。頭を下げないでください」
「⋯⋯しかし、その⋯⋯癒やしの力が使えるなら、ご自分の船酔いだって、ちょちょいのちょいで治せるのでは?」
ふと気付いた疑問を口にする。ずっと患っていた膝の関節痛をあっという間に治した医術師だ。船酔いくらい造作もなく治せる気がした。
「やろうと思えばできます。ですが、自力で治せば耐性がつくかなと⋯⋯ね。素晴らしい船酔いでした。人生で一度は経験すべきです」
娘は朗らかに笑っていた。
「は、はぁ⋯⋯なるほど⋯⋯?」
分かりそうで、納得しかねる理由だった。きっと変わり者ではあるのだろう。近くに立っていた侍女らしき老婆が呆れていたのも頷ける。
「分かりませんか? 何事も経験ですよ。痛みや苦しみを知らなければ人は成長しませんから。⋯⋯ああ、仰る通りです。遠くを見ていると落ち着いてきますね。浮遊感といいますか、脳が揺れている感じが収まってきました⋯⋯気がします」
娘は足元に置いていた旅の荷物を背負う。
「ご老人、釣りをされるのなら向こうがいいですよ。お孫さん達との昼食を豪勢にしたいのならオススメです」
「は、はぁ。え? あの! どうして? あっしが孫と昼食することをご存知なんで?」
「当てずっぽうです。よく当たりますよ。私の直感は。それではご達者で。創造主と開闢者のお導きがありますように」
聖職者らしき娘は老婆を引き連れて船着き場を去っていった。
◆ ◆ ◆
分断国家となったアルテナ王国は、グウィストン川を境に東西で対立している。
国情を伝え聞いた中央諸国の人々は、単純な対立構造を想像し、「メガラニカ帝国に支配された西アルテナ王国の人々を一刻も早く救い出すべきだ」と声高に唱える。
――だが、物事はそう簡単に割り切れるものではない。
終戦の和議をメガラニカ帝国は遵守している。グウィストン川の流域は非武装中立地帯であり、帝国軍の軍事活動の一切が許されない。
メガラニカ帝国の統治を嫌って、逃げようとした亡命者を帝国軍は素通りさせている。人民の流出が起こっていたのは、年始から晩冬までの短い期間だった。
現在、占領統治下の西アルテナ王国は好景気に沸いている。仕事を求めて西側に出稼ぎをする者が現れ始めた。
新帝の即位後、衰退していたメガラニカ帝国は著しい勢いで盛り返している。その副作用は人口増という形で現れた。衣食住のうち、供給不足が懸念されたのは食料だった。
ベルゼフリートの恩寵で豊作続きであるが、輸送能力には限界がある。農地が乏しい帝都近郊や山岳地帯の鉱山都市では、食料価格が上昇していた。
そんな状況で西アルテナ王国の商人は、有り余った農産物を大量に輸出した。大口顧客だったバルカサロ王国に売り込んでいた穀物を、そのままそっくりメガラニカ帝国に買い取らせた。
敗戦の復讐とばかりに、アルテナ王国の商人は高値を付けた。しかし、資源大国の経済力は、小さな富裕国を圧倒する。大資本のラヴァンドラ商会からすれば、ふっかけられた価格も安すぎた。
「向こう岸は景気がいいらしいですね。自国で消費する食料を売るばかりの勢いだとか? 敗戦のどん底から一転し、空前の好景気。羨ましい話です。中央は不景気ですよ」
市街の出店を眺める娘は、知恵者の老婆に話しかける。この世に生を受けて六十年以上、アルテナ王国に尽くしてきた上級女官リンジーは、遠路はるばるルテオン聖教国からやってきた客人に国情を説明する。
「最近は穀物の輸出に規制をかけているようです。飢餓輸出を懸念したのでしょう」
西側の情報は比較的簡単に入手できる。しかし、それがメガラニカ帝国の狙いでもある。情報封鎖をしないことで、悪感情を少しでも緩和しようとしていた。
実際、人々が思い込んでいるほど酷い圧政は敷いていない。むしろ、限りなく最良の善政であった。
「メガラニカ帝国の総督府も馬鹿ではありません。アルテナ王国の人民が飢え死にしたとなれば大問題。統治に差し障ります」
「輸出規制を言い出したのは執政官です」
「執政官? 帝国の人間ではなく現地の?」
「はい。帝国の犬となり、執政官を拝命したグレイハンク伯爵は、それなりに賢い男だったようです。
「それなりに賢いときましたか。言い方に含みがありますね」
「言い替えましょうか? 優れた行政能力を発揮し、大層なご活躍です」
大量の穀物が国外輸出される状況下、ラヴァンドラ商会の買い付けに執政官のグレイハンク伯爵は制限をかけた。
執政官に登用されたグレイハンク伯爵は、帝国の総督府が現地貴族から登用した凡夫。無論であるが、両陣営からの前評判は芳しくなかった。しかし、統治の代行者が必要とされていた。
名目上の君主夫婦は、天空城アースガルズの本土で爛れた暮らしを送っている。
そもそもベルゼフリートとセラフィーナに国家を運営する統治能力はない。いずれは皇帝と女王の間に生まれた娘セラフリートが王位を継ぐ計画だった。
乳児のセラフリートが国を治める大人になるまで、最低でも十数年はかかる。それまでの中継ぎ役として、命令通りに動く従順な国内貴族を執政官に任じた。
代理統治の汚れ役を引き受けたグレイハンク伯爵は、売国奴の一人と見做された。彼を取り立てたメガラニカ帝国側も強者に媚びる犬と評した。
しかし、今日に至り、その認識を改めなければならない。
(能ある鷹は爪を隠す。まんまとしてやられたようですね)
思わぬ伏兵の出現であった。
メガラニカ帝国の妃達はグレイハンク伯爵が間抜けを演じ、卓越した政治手腕を隠していたと気づき始めた。
帝国宰相ウィルヘルミナと賢妃と名高いローデリカは、すぐさまグレイハンク伯爵の裏を探った。
手に余る無能よりは、有能であれば使い勝手がよい。しかし、中央諸国と通謀する獅子身中の虫ならば、早期に潰さねばならない。
「グレイハンク伯爵と実は繋がっていたりします?」
中央諸国と東アルテナ王国からすれば心強い味方になる。いわば二重スパイだ。グレイハンク伯爵が裏で東側陣営と手を結んでいたのなら、メガラニカ帝国を押さえ込む鬼札になる。
「そうであればどんなに良かったでしょうか⋯⋯」
リンジーは嘆息を漏らす。落胆せずにはいられなかった。水面下で接触を試みていたが、グレイハンク伯爵は東側と手を組むつもりは毛頭なかった。
「違うのですね。⋯⋯当然といえば当然です」
「そう言い切る自信は?」
「愚問ですね。リンジーさんも分かっているはずです。グレイハンク伯爵の立場なら東側には歩み寄りません。あまりに危険すぎる」
裏切りが露見すればメガラニカ帝国は、扱いにくくなったグレイハンク伯爵を解任し、もっと手頃な人物を執政官に指名できる。辞めさせるために、背任の証拠を必死に探していてもおかしくない。
「グレイハンク伯爵はセラフリートにアルテナ王国の命運を委ねるようです」
生存戦略としては至極真っ当だった。メガラニカ帝国の意向に従いつつ、自国の主権を維持するならセラフリートが最も重要な存在になる。
「王家の血筋には違いありませんし、皇帝の娘でもある。王女兼皇女のセラフリートを担ぎ上げれば、メガラニカ帝国はアルテナ王国を外様扱いできない。良案です」
「属国の道ですね」
「亡国よりは幾分はマシでは?」
「⋯⋯好意的に評価なさるのですね」
「ええ。軍事力でメガラニカ帝国を退けるのは非現実的です。合理的な判断と言えるでしょう。グレイハンク伯爵の考えは理解できます」
「グレイハンク伯爵は無名の貴族でした。家格の割に社交界でも目立たず、かくいう私も能力の低い人物だと見誤っておりました」
「今まで才能を隠していたのか、それとも現在の地位に就いて新たな能力を身に付けたのか。⋯⋯はたして、どちらで? どう思われます? リンジーさん」
「どちらでも構いません。どちらであっても頭の痛い話に違いないのですから」
苛立った顔でリンジーは吐き捨てた。