天空城アースガルズの公文書館には、膨大な資料が保存されている。
公文書館はその名の通り、歴史的に価値がある文書を保管する機関だ。メガラニカ帝国では「知識は財産」という思想が強く根付いており、財務女官が司書を務めている。
蔵書の多くは政治や軍事に関する資料であるが、女仙達向けに一般図書を貸し出す部署もある。
セラフィーナは公文書館で『統治論』を借りていた。
読み進めていくと懐かしい記憶が蘇る。教育係のリンジーに勧められ、難解な内容に頭を痛めつつも苦労して読破した少女時代。セラフィーナが女王に即位する前、王女だった頃の出来事だ。
諸外国では著者不詳の政治哲学書として『統治論』は大陸全土で読まれている。その著者はメガラニカ帝国の全盛期を築いた大宰相ガルネットである。
セラフィーナがそのことを知ったのは、メガラニカ帝国の後宮で暮らし始めてからだった。
(メガラニカ帝国の礎を築いた偉人⋯⋯。それも大陸平定の偉業をなした女傑。ガルネットの名を出すのは、都合が悪かったのでしょう。だから、教会圏では著者の名前が明かされない。全ての国々はメガラニカ帝国の統一連邦からの独立で成立した。アルテナ王国の始まりも⋯⋯)
かつては読解に苦労した政治哲学書がスラスラと読める。ここ一年の実体験がセラフィーナを飛躍的に成長させていた。
(ここ最近は目まぐるしい日々でしたわ。時間的余裕があるのは良いことです)
冒険者組合との交渉、ラヴァンドラ王妃との約束、キャルルとの取引。難しい決断を迫られる多忙な時期を乗り越え、穏やかな休息を得た。
今後、アルテナ王国の国王夫妻が決めたという体裁で、旧帝都ヴィシュテルの復興計画に巨額の投資が行われる。
大方針は定まった。
そうなると、女王セラフィーナが口出しをする機会はない。アルテナ王国の国王を兼任する皇帝ベルゼフリートも署名と判子を捺すだけの存在となる。
実務能力に欠ける君主が動いたところで、優秀な臣下の足を引っ張るだけだ。
進むべき方角を決めることこそ、君主の役目。しかし、メガラニカ帝国の皇帝はさらに特殊で、政治に関する一切の権限がない。
メガラニカ皇帝の統治は、三皇后が補弼する。全ての権力は三皇后に委ねられていた。
皇帝と三皇后の特殊な関係は、政治に無知であった頃のセラフィーナが、アルテナ王国の全権を前夫ガイゼフに与えていたのとまったく同じだ。
皇帝ベルゼフリートは今後も実権を振るわない。
女王セラフィーナは変わらねばならなかった。置物の君主から脱却し、後宮での地位を高めようと必死に足掻いている真っ最中だ。
(お飾りの君主ではいられませんわ。私はアルテナ王国の女王であり、メガラニカ帝国の皇帝にお仕えする愛妾なのだから⋯⋯! 臣下の心得も学ばなけれないけないわ。もっと強かに、もっと賢く、成長しなければ⋯⋯!)
メガラニカ帝国の後宮で生き延びるには教養が必須となる。協力関係を取り付けたキャルルに指摘されたセラフィーナの欠点は、基礎学力の低さであった。
――最低でもエルフ文字と神聖文字の読み書きはできないと駄目よ。司法機関の大神殿で使うから。冒険者組合は気を使って共通文字の書状を提出してくれたけれど、エルフ文字や神聖文字が使われることだってある。本来、共通文字しか使えない無教養な女は、側女にすらなれないわ。
多民族国家のメガラニカ帝国では、様々な種族文字が使われている。アルテナ王国では共通文字しか使っておらず、セラフィーナも他種族の文字は習得していない。神聖文字がほんの少し読める程度だ。
(世界で使われる口語はどの種族でも同じなのに、文字だけ違うなんて不便⋯⋯。普及してる共通文字を唯一の公用字に指定してしまえばいいのに⋯⋯)
教会圏の国々では共通文字を常用する。種族文字は同族同士のコミュニティ内だけで使われる。もちろん、メガラニカ帝国で最も使われるのは共通文字である。それは諸外国と変わらない。しかし、契約書や公的な文書ではエルフ文字が頻出する。
司法を所管する大神殿の神官は、長命のエルフ族が多い。
また、現在の帝都アヴァタールはエルフ族によって築かれた古代都市という背景もある。旧帝都ヴィシュテルの時代はドワーフ文字が権勢を誇っていた。
(はぁ、帝国の文化に文句を言っていても仕方ありませんわね。キャルルさんの言う通り、まずはエルフ文字から練習をしないと⋯⋯。エルフ族のララノアが私の側女にして、本当に良かったですわ)
家庭教師になってくれたララノアのおかげで、少しずつエルフ文字が読めるようになってきた。後になって気付いたが、教わる相手がララノアである必要はなかった。なぜならキャルルが言っていたように、女仙は例外なくエルフ文字を習得しているからだ。
セラフィーナは試しに側女のリアに、いくつの文字を習得しているか聞いてみた。
女仙となる前は病弱で、あまり勉学に励めなかったリアですら〈共通文字〉〈獣人異体字〉〈エルフ文字〉〈ドワーフ文字〉〈神聖文字〉〈妖精文字〉の六つを習得していた。帝国軍将校の娘ならこの程度は当然であるという。
貴族出身者であれば最低でも八つ以上の文字種を習う。余談であるが皇帝ベルゼフリートは、メガラニカ帝国で使用される全ての文字種を習っている最中だった。
(上流階級が教育に注ぐ熱量は、アルテナ王国と比較になりませんわ)
知識は財産、すなわち無教養な貴族ほど惨めなものはない。その考えを根付かせたのは、栄大帝を支えた大宰相ガルネットである。
キャルルがセラフィーナに対して、エルフ文字と神聖文字の習得を忠告した背景は、そうした帝国の貴族文化があったからだ。共通文字しか使えないうちは、無学な情婦と小馬鹿にされ続ける。
(そうは言っても勉強ばかりでは気が滅入るわ。身体を動かすように主治医から言われているし、健康のためにも⋯⋯)
本腰を入れて勉学に励むセラフィーナだが息抜きは必要だ。今日はロレンシアとリアを連れて、帝城ペンタグラムの御苑を訪れていた。
皇帝の庭園は身分を問わず、自由に出入りが許されている。
(いいお天気ですわ)
天空城アースガルズの中枢である帝城ペンタグラムは広大な敷地面積を誇る。緑豊かな御苑であるが、自然の風景とは言えない。
帝城は数多くの女官が生活しているせいで、瘴気の濃度が非常に高い。いわば瘴気の吹き溜まりだ。動物は近寄らず、鳥類が住み着くこともない。
天敵がいないため、昆虫類にとっては楽園だが、定期的に女官が殺虫剤を撒いているため、生息数は人為的に管理されている。御苑は人間の居心地だけを考えた人工林であった。
初夏の暖風がセラフィーナの黄金髪を靡かせる。はしたない振る舞いだと恥じ入りつつも、胸元を指先で緩めて、汗ばんだ乳間に風をあてる。
「ご存知ですか? 帝城ペンタグラムの工事と検査が一段落するそうですよ。セラフィーナ様は皇帝陛下から御部屋を与えられている寵姫ですから、禁中の出入りが認められると思います」
(おねだりして帝城の一室を頂戴したけれど⋯⋯。いつも黄葉離宮に来ていただいているのが申し訳ないわ)
「建材の搬入が優先されて、商品の取り寄せが滞っていましたが、改善される見込みだと女官の方々が仰っておりました。セラフィーナ様が注文されたドレスもきっと届きますよ」
リアは帝城のマーケットで買い付けてきた昼食を並べていく。芝生の上に敷いたレジャーシートは、御苑を管理する女官から借りてきたものだ。
親切な女官はわざわざ日除けのパラソルまで設置してくれた。これには理由がある。
ロレンシアの苗床胎には、女官総長ヴァネッサの卵子が植え付けられている。ショゴス族の上級女官達は、ロレンシアが代理出産してくれることに感謝しているのだ。
出産直後の今年二月に再び身籠ったロレンシアは、ショゴス族の肉体改造で苗床胎になった。多胎妊娠に耐えられる頑強な女体。臨月の重たいボテ腹を抱えて、日常生活を送っている。
「リア、私も手伝いますよ。食器はここにおいていいかしら?」
かつて勇猛な女騎士だったロレンシアは、後宮での生活に順応した。運動能力は著しく低下したが、側女の仕事を進んで行っている。
「いえいえ、大丈夫です! ロレンシアさんは身重の御体ですから、楽にしていてください!」
ロレンシアとリアは互いに雑務を奪い合っている。微笑ましい光景にセラフィーナの口元が緩む。黄葉離宮の側女は関係性が良好だ。
大人数の側女を抱える妃の離宮ともなると、側女の管理だけで一苦労だという。皇后仕えの側女ともなれば、さらなる激務である。后宮内で側女同士が揉め事を起こした話は噂としてよく流れる。
「もう! リアったら! また忘れてるわ。貴方も妊娠しているのよ? その膨らんだお腹にいる御子の父君は?」
「あ⋯⋯。そういえばそうでした。えへへ。皇帝陛下と私の赤ちゃんです⋯⋯♥」
リアは自分が妊娠しているのを忘れがちだった。生来の従者気質ゆえに、いつも他人にばかり目がいってしまうのだ。
主人のセラフィーナを含め、側女も全員が孕んでいる。愛妾セラフィーナの黄葉離宮は、愛妾ユイファンとネルティが暮らす光芒離宮と並び称されるほどの存在感がある。
(こういう性格の娘だから、ヘルガ妃殿下は私にリアをお貸しくださっているのでしょうね。祖父が帝国軍の重鎮とも聞いておりますけれど⋯⋯)
セラフィーナはリアの祖父をよく知らない。
(一度くらいは会ってみたいものですわ)
リアの祖父に対して、ベルゼフリートは過敏な反応を示している。とても恐ろしい威厳ある人物だと幼帝は語る。帝国軍の規律を擬人化したような人だという。
三皇后の口からも名が上がる帝国軍の老将である。黄葉離宮の面々を快く思っていない人間も、リアだけは攻撃対象としない。むしろ同情的に扱う。
ヘルガ王妃の側女にも関わらず、人手不足で出向させられ、外様出身の愛妾にこき使われている可愛そうな娘。そういうポジションだと決めつけるのだ。
(やはり軍閥の後ろ盾があると違うものですね)
セラフィーナは読み進めていた『統治論』を閉じた。肉の香ばしい匂いが食欲を煽る。胎内で育つ皇帝の御子は栄養を欲していた。
「ふふっ。美味しそう。あら? この串料理は何かしら? とても良い匂いのお肉ですわ」
正方形にカットされた肉が竹串でまとめられている。セラフィーナの祖国では見かけない料理だった。滴る肉汁とタレの匂いに惹き寄せられてしまう。
「南部でよく食べられている牛ステーキ串です。北部は森林や丘陵地帯が多いので、お肉といったら羊肉なんですけど、平地が多い南部は牛肉を食べることが多いとか」
「牛のお肉⋯⋯。牝牛の獣霊に取り憑かれていた身としては、ちょっと複雑な心境ですわ」
夜伽で起きた出来事をセラフィーナは反芻する。
(もう獣霊は抜けているから大丈夫な⋯⋯はず⋯⋯。)
獣霊憑依で半獣化したセラフィーナの身体は、一夜が明けると元通りになっていた。後遺症はなかった。生えていた角と尻尾は綺麗さっぱり消えた。母乳の噴出も収まり、ロレンシアから母乳止めニップルピアスを借りずに済んだ。
(大変な苦労をいたしましたわ。でも、ベルゼフリート陛下はとても悦んでくださった。先日、キャルルさんが精霊獣を入れた瓶を贈ってきたのは⋯⋯。まさか? ベルゼフリート陛下の希望で? 次の夜伽でも私は牝牛に獣化しないといけないのかしら?)
ベルゼフリートの希望はどんな内容でも叶えてあげたくなる。セラフィーナは乳房に残された消えかけのキスマークを愛おしく感じた。
「獣人族は自分と同じ獣を食べちゃいけない掟があったりしますよ」
「そんな掟あるのですね。けれど、リアは犬族でしょう? まさか犬を食用肉になんて。⋯⋯え? メガラニカ帝国では本当に食べてしまうの?」
「辺境では犬や猫を食べる食文化がありますよ。極一部の地域ですけどね。帝国の人間でも、犬や猫を食べるのは抵抗がありますよ。地域によって様々です。さっきの話ですけど、牛族の方々はまったく正反対で、好んで牛肉を食べるんですよ。角を立派にしたいから」
「角を立派にしたい?」
「牛肉を食べると角が立派に成長すると信じられているんです。頭から生えた牛角の美しさで、氏族の序列が決まるって話も聞きました。宰相派に牛族の公妃様がいらっしゃいますが、いつも角を着飾っているんだとか」
「ベルゼフリート陛下もそんなことを仰っていた気がしますわ」
リアの小話に耳を傾けながら、セラフィーナは牛ステーキの串料理を頬張る。肉質はしつこさがなく、さっぱりとしていた。口に入れると溶けるようにほぐれる。絶妙な脂身の旨味が癖になる味わいだった。
(このお肉、好きですわ。柔らかい。アルテナ王国の民もこの美味しさを知ったら⋯⋯。我ながら悪くない案では? 植民計画でメガラニカ帝国に移住した者達には、良い食事を与えましょう。まずは胃袋を掴む。反帝国の悪感情を抑える道具として最適ですわね)