銀髪のメイドは報告書を読み終えた。
「⋯⋯⋯⋯」
羊皮紙を一つの束にまとめ上げ、バラバラに引き千切る。一族秘伝の特殊な羊皮紙は脆い。繊維に亀裂が奔った瞬間、紙面に染み込んだインクが消えた。
高位の術式で復元されたとしても、暗号文を読み解くのは困難だ。用心深いメイドは千切った紙束をゴミ箱に入れず、灰皿で念入りに燃やし尽くした。
「⋯⋯⋯⋯」
終始無言、そして無表情。
沈黙の誓いを立てた警務女官ユリアナは、今日も口を固く閉じている。
「⋯⋯⋯⋯」
皇帝ベルゼフリート以外の人間とは言葉を交わさない寡黙なメイド。しかし、無愛想で感情が表出しにくいのは、生まれつきの性格だった。ユリアナがもっとも饒舌だったのは産声を上げた新生児の頃だろうか。
「⋯⋯⋯⋯」
私室にいるのはユリアナ一人だけだ。上級女官のユリアナには広めの個室が与えられている。女官長ほどではないが、他の女官よりも厚遇だ。
「⋯⋯⋯⋯」
燃え滓の後始末を終える。報告書の内容は警務女官長ハスキーや女官総長ヴァネッサにも明かせない。
秘密の番人は黙秘する。それはユリアナだけに与えられた特権であり、課せられた義務だ。必要に迫られれば皇帝ベルゼフリートと秘密を共有する。しかし、血生臭い政治劇の裏側をあえて教える必要はない。
薄汚い真実は忠実な下僕だけが知っていればよい。醜悪な政争に巻き込まれ、憤死を遂げた烈帝の故事は有名だ。ベルゼフリートは清濁を許容する性格であるが、負担は少ないほうがいい。
(魔狩人との関係を考慮して暗殺中止ですか⋯⋯。生温い判断。私にはそう思える。殺してしまえば良かったのに)
ユリアナの実家は暗殺業に従事している。
メガラニカ皇帝の敵を葬ってきた影の血族。神殿や聖堂教会と出自は異なるが、皇帝崇拝の宗教結社的な側面もあり、暗殺教団と呼ばれることもある。
一族内でユリアナの地位は族長や長老よりも高い。皇帝ベルゼフリートの即位時、一族内でもっとも美しく、秘密を守るのに相応しい人物として選ばれた。
ユリアナに命運を託した一族の判断は正しかった。好色家の幼帝は無口な女官に興味を抱いた。そのおかげで、お手つきの寵姫となった。ベルゼフリートの個人的信頼を勝ち得たのは誇らしかった。
(父母には感謝している。容姿端麗な見た目、影を操る才能。努力を惜しんだことはないけれど、私が今の地位にあるのは血統の才。そして、一族が私に大役を委ねてくれたおかげ⋯⋯。自惚れるつもりはない。一族の使命と陛下への忠義。私はそれだけを考えればいい)
実行された暗殺は逐次報告を受けている。しかし、ユリアナが命令を下したことは一度もない。
あくまでも皇帝ベルゼフリートを護衛し、仕えるのがユリアナに与えられた使命だ。暗殺の報告書だけが一方的に送り付けられ、意思決定には関与しない。
(魔物との戦争で死者多数⋯⋯。敵には影を使う上位種の魔物がいた。魔物の仕業に見せかけて、秘匿死刑を実行できる絶好のタイミングだった。災い転じて福と成す、とでも言うべき?)
ユリアナの影が蠢く。影を操る異能は一族の血統に宿った力だ。
警務女官での採用が決まっていたユリアナは、対暗殺者用のカウンター技能に特化させている。しかし、暗殺特化型の使い方もある。
(影の魔物はアレキサンダー公爵家の姉妹に滅ぼされてしまったと聞いています。濡れ衣を被ってくれた魔物には感謝ですね)
ユリアナが燃やした報告書には、戦死に見せかけて謀殺した貴族達の名があった。
廃都ヴィシュテルでの戦いに呼びつけて戦死させた者。
残党の魔物が領地に侵入し、不幸にも命を落としてしまった者。
単なる事故死や病死。平時に連続して起これば不審に思われる不幸な死。
緊急時であればこそ、人々の意識は逸れる。
そこに何者かの人為が介在している。陰謀を見破るほどの知恵者は口を噤む。粛清の裏側にいるのは国家権力そのもの。私利私欲で暗殺は行われていない。
秘匿死刑。メガラニカ帝国という巨大なシステムを存続させるための犠牲だ。
(アレキサンダー公爵家の手引きがなければ、私の一族でもこれほど綺麗に掃除はできなかった。宰相閣下が発案者と聞いていますが、武家の頂点に君臨するアレキサンダー公爵家を引き込んだ手腕はお見事です)
大妖女レヴェチェリナの陰謀を止められず、皇帝ベルゼフリートが崩御した場合を想定し、三皇后はメガラニカ帝国内の反乱分子を秘密裏に粛清した。
汚れ仕事の一役を担ったのはアレキサンダー公爵家であった。暗殺はユリアナの一族が実行したが、誘導や隠蔽にアレキサンダー公爵家が大きく関与している。
(宰相閣下はアレキサンダー公爵家の大御所ヴァルキュリヤ様と取引を交わしている。ベルゼフリート陛下からの贈り物⋯⋯。きっとアレが取引の対価だった)
ユリアナはアレキサンダー公爵家のお家騒動を思い出す。七姉妹が母親に激怒していた。隠居していたはずの母親のせいで、今後は八姉妹と呼ばれるようになるかもしれない。
(暗殺リストには軍部の将校や退役軍人もいた。軍務省の上層部が許容していなければ一掃は難しかった。妃達による評議会が国を主導する現体制を快く思わない古参の将校はそれなりにいる)
記憶に新しいのは帝国軍の一部が反乱を起こしたドルドレイ騒乱だ。旧体制の勢力は、反皇帝というわけではない。むしろ新帝ベルゼフリートの保護を大義名分に掲げていた。
彼らが否定したのは評議会、すなわち三皇后による新体制だ。実権は選挙で選ばれた国民議会が握るべきだと旧体制派は訴え続けた。ドルドレイ騒乱は旧体制の敗北で決着し、帝国宰相ウィルヘルミナの政治権力は確固たるものとなった。
反逆ではなく、騒乱と呼ぶのは勝者の温情であり、軍閥重鎮のアレキサンダー公爵家やケーデンバウアー侯爵家が働きかけた結果だ。両家の言い分をウィルヘルミナが聞き入れて、勢力争いは手打ちとなった。
勝者たるウィルヘルミナも薄氷の勝利だったという自覚はあった。ユイファン・ドラクロワという戦争の天才がいても、アレキサンダー公爵家の圧倒的軍事力はどうしようもない。
大軍に兵法なし。それほどにアレキサンダー公爵家の軍事力は突出している。
(賊軍扱いで殺されるよりは、魔物との戦いで死んだほうがずっといい。名誉ある戦死。悪くない死に方でしょう)
三皇后の決断が薄汚いとは思わない。皇帝ベルゼフリートを害する危険がある存在は秘密裏に排除すべき。それが大陸の安寧に直結する。
(――だからこそ、私には分からない。なぜあの女を殺さない? 今後を考えれば、魔狩人に保護されていようとも始末をつけておくべき)
魔狩人に保護された人間の女。本当に人間と呼べるかは怪しい。魔狩人は保護対象と認めたが、メガラニカ帝国の対応は真っ二つに分かれた。
(難しい仕事ではある。けれど、私の叔父上や父上なら、魔狩人の狩猟本館だろうと忍び込める。自然死に見せかけることだって可能⋯⋯。あの女が普通の人間だと言い張るのなら毒殺すればいい)
ユリアナは強い不満を抱く。暗殺は十分に可能だった。身柄は帝国内にあり、レヴェチェリナが起こした事件の混乱が残っている今こそ、暗殺できるタイミングだ。
暗殺決行の準備はしていた。報告書にはそう書いてあった。
三皇后のうち、帝国元帥レオンハルトは標的の暗殺を主張した。しかし、神官長カティアは魔狩人と敵対関係に陥るとして反対意見を表明。帝国宰相ウィルヘルミナは立場を留保した。
三皇后の会議はまとまらなかった。
(ヴァネッサ様はどう思われているのだろう)
女官総長ヴァネッサの賛否は報告書に記載されていない。三頭会議は結論を出せず、「しばらく様子を見る」で決着した。
(魔物が人間に生まれ変わる⋯⋯。とても信じられない。いや、信じるべきではない。むしろ完璧な擬態能力を身に付けた可能性を憂慮し、速やかに殺処分するのが最善。胎の子供だって得体が知れない)
ユリアナが口を出す案件ではない。それは分かっている。
三皇后は手を引くと決めた。魔狩人の監視下に置き、身柄はメガラニカ帝国に留める。その条件が守られている限り、メガラニカ帝国は危害を加えない。そのように取り決めた。
(この件もベルゼフリート陛下には伝えられない。魔帝に魂魄を奪われ、昏睡していた期間の記憶が残っていないのなら⋯⋯)
ユリアナは懐中時計を一瞥する。
(そろそろ時間だ。お寝坊な陛下はきっと目覚めていない)
鏡の前でメイド服に乱れがないか確認し、ベルゼフリートの寝所に向った。帝城ペンタグラムは修善が完了し、戦闘で吹き飛んだ廊下も完璧に直されていた。
(修善工事はほぼ終わったみたい)
帝城ペンタグラムは天空城アースガルズの中枢部である。もっとも警備が手厚い帝城最奥に、魔物の侵入を許したのは大きな不祥事だった。
基幹部の調査は現在も行われている。レヴェチェリナは討滅されたが、他にも仕掛けがあるかもしれない。
(工務女官が廊下で何かしている⋯⋯。禁裏で見かけることはまずなかった。でも、あの事件以降はよくいる。大改装の話はどうなったのだろう?)
工務女官長は天空城アースガルズの大改装を三皇后に奏上していた。
安全性の検査は時間がかかるし、必ず危険性を見抜けるとも限らない。ならば、新品に取り替えてしまえというわけだ。
動力炉など、換えがきかない重要な箇所は別として、新造できるものは換装してしまう。コスト面を考えなければ最良の案である。
(予算的に実現性は乏しい)
ウィルヘルミナは内政に秀でた名宰相だが、政治的手腕がいかに優れていようと無から有は生み出せない。無い物は無いのだ。
栄大帝の放漫財政は、大陸統一を為しえたメガラニカ帝国の黄金期だからこそ可能だった。当時でさえ、天文学的な建造費用に宰相府は頭を悩ませたという記録がある。
現在のメガラニカ帝国で天空城アースガルズと同規模の浮遊都市を作ろうとしたら、財政難どころの騒ぎではなくなる。
まず間違いなく帝国の財政が破綻する。工務女官長が提案した大改装ですら、国家予算の数割が溶けてしまうコストだ。
(ほぼ間違いなく無理⋯⋯。私はそう聞いている。工務女官がしているのはいつもの点検作業みたい。設計図と照らし合わせて、不審な箇所がないかを調べている。もう私がやったのに⋯⋯。でも、ダブルチェックは必要⋯⋯)
作業中の工務女官達は、とある王妃の離宮で起きたちょっとした不祥事の噂話に花を咲かせている。
「ねえ、聞きました? ルートリッシュ王妃の側女が戒告処分を受けたそうよ」
「ええ、それはもちろん。だってね? 嗤っちゃうわ。庶務女官のメイド制服を真似たエプロンをしていたんでしょう。なんで怒られないと思ったのかしら?」
口を動かすが、手もしっかり動いている。 点検ハンマーで壁を叩いて、空洞の有無や厚みを確かめる。
工務女官達の背は低く、ずんぐりとしたムッチリ体型。好みが分かれるプロポーションだが容貌は整っている。技官であろうと才色兼備でなければならない。
細身のドワーフもいるにはいるが、太いほうが種族的には美人の扱いだ。ベルゼフリートは胸の大きな美女を好む傾向があるので、豊満な肉体は有利に働く。
(そういえば昨日、ハスキー様が食堂で同じような話をしてた。ルートリッシュ王妃のところは規則違反の常習犯⋯⋯。以前にも側女の衣装で揉めてた気がする)
天空城アースガルズでは服装規定がある。淫らな格好で出歩くなという至極真っ当な前文から始まり、軍服やメイド服と見間違える服装を固く禁じる。女仙に宮中の秩序と品位を守らせる法律だ。
妃達に仕える側女、皇帝に仕える女官。どちらも使用人ではある。そのため作業着が似通ってしまうことがある。
問題になったのは、宰相派のルートリッシュ王妃に仕える側女が作ったエプロンだった。当人達は否定したが、デザインが庶務女官のエプロンと酷似していた。
偶然の一致か、故意的なものか。
審議担当の司法神官は明確な判断を下さず、最も軽い譴責で事を収めた。――と、噂好きの警務女官長がどこぞで情報を仕入れてきた。
(女官が陰口で盛り上がる程度には平穏を取り戻した。陛下が姿を隠されたときは不穏な噂が流れて、それどころではなかった。宮中の軋轢を快くは感じないけれど、良い傾向だとも思ってしまう)
ユリアナにも苦手な側女はいる。ベルゼフリートの古馴染みでタメ口が許されている兎族の獣人娘。いくら特別扱い枠とはいえ、皇帝に対する馴れ馴れしい態度は好きになれなかった。
軍閥派に属していながら、帝国宰相ウィルヘルミナとも親しい。派閥で引かれた秩序の線を反復横跳びしている奇妙奇天烈な女仙。ベルゼフリートには親しくする相手を選んで欲しいと思う。
(黄葉離宮の売国女王をお気に入りにしてる時点で、陛下の趣味がいいとは思えませんね。三皇后の意向があるとはいえ⋯⋯はぁ⋯⋯)
◆ ◆ ◆
ユリアナはベルゼフリートの寝所に到着した。顔馴染みの警務女官が立哨している。
「おはようございます。ユリアナさん」
敬礼に対して目線で応える。返礼はしない。たとえ上官の女官総長や警務女官長であっても、ユリアナは特別免除される。
ユリアナは許可を得ずとも皇帝の寝所に出入りできるが、律儀に許しを請う。
「⋯⋯⋯⋯」
無論、視線で訴えかけるだけだ。
「どうぞ、お入りください。陛下はすでにお目覚めです」
扉の左右に立った警務女官は、ユリアナのために扉を開けた。
(陛下が起きている? 珍しい。起床の時刻まで一時間以上ある。昨晩の夜伽役はラヴァンドラ妃殿下だったはず。まさか徹夜? 不健康ですね⋯⋯)
宰相派王妃のラヴァンドラは、帝国宰相の座を虎視眈々と狙っている。
領地を持たぬ新興の伯爵家だが、帝都最大の財閥ラヴァンドラ商会を運営する。様々な事業を展開し、その財力は大貴族に匹敵する。
「お仕事が忙しかったんだったね。海水浴に来てなかったんでしょ? 僕はラヴァンドラの水着が見たかったな」
ベッドで子猫のように抱かれた幼帝は、王妃の胸元で甘い言葉を囁いている。富豪の女主人に飼われている年少の男妾。そう見られても仕方ない一幕だ。
「皇帝陛下がお望みであれば、いくらでもお見せいたします。大きさでは宰相閣下や黄葉離宮の愛妾に及びませんが、揉み心地には自信がありますわ。陛下もお分かりになるでしょう?」
ラヴァンドラはベルゼフリートの手を取り、乳房に誘導する。もみもみと五本の指を動かす。弾力ある媚肉の感触を味わう。
「たしかに! 触り心地がいい! ふにふにで~、ふかふかだ~♪」
「さすがは陛下♥︎ 良品の質を見極める素晴らしき手を持っておりますわ」
「それはもちろん! 僕だってこの手には自信があるよ。いっぱい揉んできたからね。帝国の乳揉み師とは僕のことさ! サイズも分かっちゃうよ。ラヴァンドラのオッパイはちょっとだけ大きくなってる。育ってる証拠だ。嬉しいな。だからさ、仕事で無理しちゃ駄目だよ?」
「あぁ♥︎ いけません。駄目ですわ。陛下。そのことはまだ秘密に⋯⋯♥︎ 帝都新聞の特ダネになる予定なのですから♥︎」
ラヴァンドラは指先を唇に当てて口止めを図る。
「あ、そうだったね。ごめん」
「体調管理は怠っていませんわ」
「お昼は温水プールの予定だったけど変更する?」
「軽い運動なら平気です。よい気晴らしになります。なによりも、陛下に水着姿を御覧いただきたいですわ」
帝城ペンタグラムにはプールがある。屋外の巨大プールと屋内の小プール。動力炉の廃熱を熱源として活用し、大量の温水が供給されている。屋外の巨大プールは公共施設でもあるため、ベルゼフリートが使用しない時間帯は、全ての女仙に開放されている。
ベルゼフリートとラヴァンドラが使う屋内のプールは、皇帝専用のプライベート施設だ。三皇后や寵姫の妃達をもてなすために使われる。しかし、使用頻度はそこまで高くないため、ベルゼフリートと女官総長の許しを得たうえで、上級女官達が利用している日もあった。
「お仕事といえばさ、アルテナ王国の資源開発ってどんな感じ? ほら、僕ってアルテナ王国の王様でもあるわけじゃん。その辺も知っておくべきでしょ?」
アルテナ王国に進出したラヴァンドラ商会は、王家の直轄地で地下資源の調査を始めた。鉱脈に乏しいアルテナ王国では開発価値のある鉱山がない。肥沃な穀物地帯を有する農業大国であるため、水質汚染の原因となる鉱山開発に否定的な国柄だった。
「鉱山開発に関していえば、有望な土地柄ではありませんね。硫黄や石灰、リン鉱床など農業肥料に使われる鉱泉は古くから利用されていました。しかし、高価なマナ鉱石が採掘できる鉱脈はなさそうです」
「セラフィーナも言ってたけど、やっぱアルテナ王国は農業なんだ。畑を耕し続けるしかないねー」
「大規模農業での生産性は目を見張るものがあります。しかも、ベルゼフリート陛下の所有地となったことで、西アルテナ王国の収穫高が跳ね上がりました」
「そうなんだ。豊作?」
「はい。東側はどうだったかは知りませんが、終戦の影響もあるでしょうが、大豊作でした」
「豊穣祭の効果がアルテナ王国に波及したのかな? 気合い入れて祭祀をした甲斐があった」
ベルゼフリートの昏睡時、アルテナ王国内でも災禍の予兆が発生した。レヴェチェリナが討滅され、ベルゼフリートの快復した後は、天変地異は起きていない。
西アルテナ王国が破壊者ルティヤの影響下にある事実は確認できた。土地の肥え具合は例年にないほどであり、今年の収穫高も期待できると報告が上がっていた。
「今はメガラニカ帝国内の需要を満たす形で消費されていますが、中央諸国に輸出できない状況が続くのなら、生産量の調整が必要になるでしょう」
宰相府の悩みは貿易赤字だった。人口増と消費が急増するメガラニカ帝国に対し、西アルテナ王国は農作物を大量に売り込んでいる。
(メガラニカ帝国の富がアルテナ王国に流れている。徴税や防衛費の負担、ラヴァンドラ商会の輸出品で取り戻している分はありますが、貿易赤字はかなりの額に膨れ上がっています)
貿易赤字を悪とは言わない。そもそも貿易の収支を均衡させるなど不可能は話だ。貿易赤字を「国の損失」と結びつける者は多いが、貿易収支のみで経済的な影響は評価できない。
(厄介なのは西アルテナ王国の立場です⋯⋯)
国王ベルゼフリートと女王セラフィーナの共同統治。西アルテナ王国は他国でありながら、片足をメガラニカ帝国に置いている状況だ。敗戦後の再軍備を認めていないため、国境の防衛戦力はメガラニカ帝国の持ち出しとなっている。
(領土割譲が無理なら鉱脈資源の開発権を取る。そういう腹積もりで調査をしましたが、取らぬ狸の皮算用で終わった。⋯⋯やはり当初の案。旧帝都ヴィシュテルの復興計画に引き込む策しかない)
膨れ上がるアルテナ王家の財産を旧帝都ヴィシュテルの復興に投じる。双方の民衆を納得させるためのストーリー作りも重要だ。
メガラニカ帝国の民には、敗戦国から資金を巻き上げたと思わせる。アルテナ王国の民には、戦勝国の土地を買い占めたと誤認させる。
「陛下、今日はセラフィーナさんもお呼びするのでしょう?」
「うん。冒険者組合が謁見を申し込んできた。アルテナ王国の国王夫妻にね。日程調整中だけど、今週中じゃないかな。打ち合わせも兼ねて呼んだ。ラヴァンドラに頼み事がある」
「我が伯爵家でお預かりしている皇女ギーセラを使いたいのですね」
「セラフィーナが産んだ三つ子の姉妹。三女のギーゼラはラヴァンドラが養育権を持ってる。そりゃあ、一声かけなきゃね。それとロレンシアが産んだ男の子も動員したいかな」
「ジゼルですわね。陛下と同じ小麦肌の皇子。ロレンシアが羨ましいですわ」
「どうせ冒険者組合との謁見で帝都に降りるんだし、父親として我が子に会っておくのもいいかな。いいよね?」
「私は構いません。しかし、魔物の襲撃がありましたから、警備上の許可が下りるかですわね」
「僕が天空城アースガルズを離れるときはアレキサンダー公爵家が同伴するってさ。ブライアローズ以外の誰かが複数人。たぶん年長三人衆かな。シャーゼロット、ルアシュタイン、レギンフォード。いつもならそうなる」
「アレキサンダー公爵家の七姉妹が、今年中に八姉妹となる。そんな噂をお聞きしましたわ。当主の座をレオンハルト元帥に譲って、母君のヴァルキュリヤ様は隠居の身だったはず。どんな殿方の子胤が大御所の子宮を十周年ぶりに射止めたのやら。くっくくくく♥︎」
「もーう。いじわるー。それ、内実を知ってて言ってるでしょ? アレは宰相府案件だったし」
「そうだったかもしれませんわね」
素っ恍けた態度で宰相派の王妃ラヴァンドラは笑う。
「笑い事じゃないってば。レオンハルト達がブチ切れで御家騒動だったんだよ?」
女仙ではない者が皇帝の子を孕む。それだけでも慣例から逸脱する。正妻である帝国元帥レオンハルトの実母ヴァルキュリヤは、ベルゼフリートからすれば義理の母親だ。
「義母を孕ませたご感想はいかがでしたか?」
「ん~。人妻を寝取るのとはまた違った興奮。背徳感は強め。年始の限られた期間だけで、秘密裏に妊娠させなきゃいけなかったし、いろいろと大変だった。愉しくはあったよ。⋯⋯行為が露見した後は肝が冷えた」
「宰相閣下も大盤振る舞いされたものですわ。功臣の一族といえども、ヴァルキュリヤ様は非処女の経産婦。セラフィーナさんの前例がなければ、けして認めなかったはずですわ」
「だろうね。僕がセラフィーナ絡みで慣例破りまくってるから⋯⋯。非女仙のヴィクトリカも孕ませちゃってるし。アルテナ王家の母娘がいいなら、アレキサンダー公爵家の大御所は許される。そういう理屈じゃない? それと、なんかよく分からない取引があったらしい。僕はその辺りの事情を何にも聞かされてないの。どんな薄汚い政治事情があったんだか」
ベルゼフリートは気付いていなかったが、ラヴァンドラは寝室の片隅にいる女仙の鋭い眼光に気付いた。
「⋯⋯⋯⋯」
ユリアナの険しい表情は「それ以上の余計な情報を皇帝陛下に吹き込むな」と物語っていた。ヴァルキュリヤの劇的な懐妊は、秘密裏に実行された粛清と関連している。帝国宰相ウィルヘルミナがアレキサンダー公爵家の協力を得るための政治工作だ。
(分かっていますとも。そんな恐い顔をしないでほしいわ。それとも脅しつけているつもりかしら? 王妃に向って失礼な警務女官だわ。陛下のお耳にいれるわけがないでしょ)
ラヴァンドラの乳房を優しく揉みほぐしているベルゼフリートは、やっとユリアナの視線を感じ取った。
「ん? どったの? ユリアナ? お腹が痛そうな顔をしてる」
「陛下、ユリアナはそういう日なのですわ。陛下のご寵愛をいただいた今の私には無縁の痛みですけれど。ふふふふ。可哀想に。重たいのでしょうね」
「あ⋯⋯。そっか。無理しないで休んでもいいんだからね? ⋯⋯え、違う? そうじゃない?」
意思表示をせずとも、ユリアナの強い否定の念がベルゼフリートに伝わった。
「⋯⋯⋯⋯」
「なるほど! ごめん! 僕も鈍かった。そっか。そうだったんだ。ユリアナもプールで遊びたかったんだね。海水浴のときもずっと仕事だった」
(いえ、まったく違います)
そうではなかったが、面倒臭くなったユリアナは無表情を決め込んだ。
「よし! そういうことならば決めた! 今日の伽役にユリアナも加える!)
(なぜ⋯⋯? 私を伽役? 陛下? どうしてそうなるのです?)
「言われてみれば、僕ってユリアナのメイド服しか見てない気がする」
(陛下をお守する警務女官ですから⋯⋯)
「水着に着替えてきてよ!」
(へ? 水着? 私、そんなの持ってないです⋯⋯)
「見たい! ユリアナの水着もすごく見たくなってきた!!」
唐突な展開に困惑する。ユリアナは寝間着とメイド服、作業着くらいしか持っていない。水着は一着も持っていなかった。
(ラヴァンドラ妃殿下のせいで、変なことに巻き込まれた⋯⋯。困った。ハスキー様が助け船を出してくれたりは⋯⋯。ああ、駄目だ。面白がって笑ってる。助けてくれそうにない⋯⋯。どうしよう。潜水服ならあるけれど、陛下にお見せするような水着なんて持っていません)
警務女官の同僚達はそのことをよく知っている。
(⋯⋯陛下の御用命であれば用意するしかなさそうですね)
ユリアナは含み笑いを隠す気がないハスキーが恨めしく思えた。
(控え目な水着にしよう⋯⋯。ラヴァンドラ妃殿下に喧嘩を売るつもりはありません)
ラヴァンドラは表情を取り繕っているが、伽役に余計なお邪魔虫が一匹増えたのを不快に感じている。ハスキーはそれが面白くて堪らないのだ。「気合いを入れて陛下の関心を掻っ攫え!」と背中を叩かれた。
(⋯⋯私は身の程を弁えた臣下です。陛下の悪戯心で舞い上がったりはしません)
皇后の寝室でベルゼフリートと行為に及び、謹慎処分を言い渡された素行不良メイド長の激励。それを真に受けるほど、ユリアナは愚かではなかった。