翌日の朝、シオンはジェルジオ伯爵城の礼拝堂で祈祷を捧げていた。
夜明け間際までシャーロットの相手をさせられたせいで眠たかった。それでも日課の祈りは欠かさない。
「形あるものは虚である。虚は心を、心は形となって人をこの世に存在せしめるものなり⋯⋯」
敬虔な教徒として、経典の聖句を音読し、聖女像に祈り続ける。
強欲な竜族が人間族を圧政で苦しめていた古代、人類で初めて魔法を使ったとされるのが〈滅焉の大聖女〉だ。弟子達に授けた知識は人類魔法体系となり、現代魔法の基礎になった。
ドラゴンが独占していた魔力というエネルギーは、人間族に大きな繁栄を与えた。そして、〈名も知れぬ魔女〉が竜大帝ドラゴンロードを打ち倒し、人類族は自由を勝ち取った。
数千年の時が流れ、衰退した竜族は歴史の表舞台から姿を消していった。時代の節目で現われることはあっても、かつてのように世界を支配する君臨者ではなくなった。
「聖女様。俺は罪深い男かもしれません」
集中力が途切れてしまったシオンは経典の読み上げを止める。魔力が扱えない体質のシオンは、魔法に関する知識はまったくない。そもそもシュトラル帝国で魔法を学べるのは貴族の特権だった。
抜きん出た才能があれば、平民が魔法学院に入学することもあるとは聞く。だが、そんな出来事は十年に一度あるかないかだ。
もともと魔法学院の推薦入学制度は、非貴族の入学を認め、門徒を開く革新的な制度だった。しかし、現在は貴族の優秀な子供を囲い込む手段になっている。
「シャーロット御嬢様が帝都の魔法学院に進学されるそうです。俺を連れて行く気なんですよ? 笑っちゃいませんか?」
シャーロットの推薦入学は魔法学院の全教授が賛成したという。魔法学院の校長が褒め讃える想像を絶する才能。ジェルジオ伯爵家の令嬢は、帝国随一の莫大な魔力を有する天才だと瞬く間に広まった。噂話は尾ヒレが付くものだが、シャーロットに対する風評はむしろ過小評価が過ぎた。
「俺なんかに惚れ込んじゃってさ⋯⋯。御嬢様は本当にいいのかな。聖女様は分かります? 御嬢様が俺みたいな無能を好いてくれる理由⋯⋯。俺にはまったく理解が及ばないや」
聖女の石像は優しげに微笑んでいた。祈りを捧げる前にシオンはいつも綺麗に磨き上げている。年月を感じさせる古びた石像だが、汚れや埃は一つも付いていない。
人類に魔法を授けた偉大なる聖女。彼女をモチーフにした石像や油絵は数多くある。シオンのような教会の聖職者は聖女に祈りを捧げ、人々に経典の教えを広める。
読師は聖職者の最低位。司祭の資格を持たず、文字の読めない民衆に経典の聖句を伝えるための補佐役である。
人類に魔法を広めた〈滅焉の大聖女〉は、魔法の悪用を常に戒めた。暴虐なドラゴンから人々を守ったが、戦争という手段は頑なに拒んだ。平和主義者の聖女は対話での解決を常に模索していた。
ドラゴンロードの治世は〈名も知れぬ魔女〉の暴力的手段によってなされた。しかし、人類解放を掲げた古代戦争では夥しい死者が出た。
聖女の石像は亡骸を抱えている。油絵や壁画で描かれた聖女では、髑髏を傍らに置いていることが多い。魔法で殺された犠牲者への哀れみを象徴しているという。教会の聖女は魔法を広めた。その一方で、魔法の濫用を諫める勢力でもあった。
世界最強のドラゴンロードをも屈服させた魔法の魅力に、人類は取り憑かれている。現在の文明は魔法なしで成り立たない。
長きにわたる竜族の支配を終わらせた人類は、大陸の各地に国家を築き、魔法を研究する専門機関を創設した。
シュトラル帝国では優秀な才能を持つ者達を魔法学院に集め、国家を挙げて研究がなされている。強い魔法使いの数は、その国の軍事力そのものである。魔法使いの育成を疎かにする国は例外なく滅び去った。
魔法使い達が熾烈な競い合いの中で、危険な実験や手に負えない魔法生物を創り出すことがある。
教会は魔法使い達が人道を踏み外さぬように監視する組織に変わった。
魔法を独占していた竜族は暴虐であった。人間の魔法使いが竜族の過ちを繰り返す未来を恐れた。
素行不良の読師見習いではあるが、シオンは教会に所属している。祈りを捧げ、人々に教えを説き、危険な魔法使いの存在を教団本部に報告する。それが聖職者に課された責務であった。
「――今日も平和でありますように」
「シオン! シオンはいるか!? おい!」
「聖女様。俺の一秒くらいで平和は終わりました⋯⋯。祈りが足りなかったんですかね?」
静寂であるべき礼拝堂に、騒々しく突入してきた騎士はシオンの名を呼んだ。
「静粛に。ここをどこだと思ってる。礼拝堂だぞ」
「シオン! お前を探していたんだ!!」
「二つもあるその目玉は飾りか? 俺は真っ正面にいるぞ」
大声で叫ばずとも目の前に自分はいるとぼやいた。
「部屋にいなかったから探したぞ。御嬢様の寝室だったらどうしようかと思っていた」
「これでも聖職者だ。朝の礼拝をサボったことはない。で? 何の御用かな。見て分かるだろ? 俺は愛しの聖女様とデート中。愛の言葉を捧げるので忙しい。よもや伯爵家に仕える騎士様が信仰の邪魔をしてくるとは⋯⋯」
「つべこべ言わずに来てくれ! お前の力が必要だ! 行くぞ!」
「ちょっ! ぐぁっ! やめろっ! 首! 首が絞まってる! おい! レイナードのオッサン!! 俺を絞め殺す気か!? 俺の首根っこを掴んで引きずる前に、用件を話してくれよ!!」
シオンを強引に引っ張るレイナードは、ジェルジオ伯爵家に仕える騎士の一人だ。
年齢は二十代前半だが老け顔なのでシオンはオッサンと呼んでいる。
「止まれ! 止まれって!! 聖職者に不当な暴力を振るうと地獄に墜ちるぞ!」
「説明するより見せた方が早い。俺は説明が下手だし、シオンじゃなきゃ解決できない。魔法絡みの厄介事なんだ。騎士の領分じゃない。聖職者の仕事だろ!」
「魔法絡み⋯⋯? はぁ、分かったよ。脳筋騎士様。行くとも。付いていくさ。ただし、ちょっとしたお願いをしてもいいかな? 俺の二本足が暇そうにしてるんで、働かせる機会をいただけると非常に助かる。知らないなら教えておこう。こう見えても二足歩行は体得済みだぜ。ふう、よし、どこに行くんだ?」
「騎士の鍛錬場だ」
「了解だ。魔法絡みの厄介事で俺を呼ぶのは分かる。だけど、ジェルジオ伯爵家の顧問魔導師を忘れちゃいないか? ルフォン先生に声はかけた?」
ジェルジオ伯爵家が雇用している魔導師ルフォンは、シャーロットの家庭教師も務める優秀な人物だ。回復魔法を完璧に会得しており、伯爵から領土内の衛生管理を一任されている。
「ルフォン先生は隣町に出かけて明後日まで帰ってこない」
「あちゃぁー! しまった! そういえば訪問診療の時期だった。不味いぞ。アルバァンダート先生もご学友を訪ねるとかで留守だからな。俺の手に負えるレベルだといいけど⋯⋯」
養父のアルバァンダートがいれば心強かった。
シオンは読師見習いだが、アルバァンダートは教会に認められた正式な司祭。しかし、ついこの前、遠方の学友に呼ばれて旅に出ていた。帰りがいつになるかは分からない。
「どうしても駄目なときは御嬢様にお頼みするさ。その時もシオンが頼りだ」
「俺が御嬢様に頼むってことか?」
「酒場のアイリスと馬屋でヤってたことは秘密にしてやる。墓場まで持っていく。だから、手を貸してくれ」
「やばい。無性に手を貸したくなくなってきた。馬屋の件は御嬢様に知られてるんだ。どっかの馬鹿が立ち話してるのを聞いたんだってさ」
「――あ、悪い。それ俺かもしれん」
「聖女様に呼ばれてる気がする。礼拝堂に戻っていいか?」
「待て! 待ってくれ!! 本当に頼む! 部下の命に関わるかもしれない問題だ。冗談じゃなく、真面目な話をしている。頼むよ」
レイナードは大柄な体躯に似合わぬ潤んだ瞳で訴えかける。
「分かった。おふざけはやめよう。でも、命に関わる危険があるのか? それなら御嬢様の手は借りられないぞ。伯爵様の一人娘を危険に晒せない。俺で無理ならルフォン先生を呼び戻す」
シオンは魔力を扱えない。一切の魔力を宿さぬ者。魔法に関する才能は皆無だった。しかし、無能力者だからこそ使える御業がある。
屈強な騎士は十二歳の無力な少年に縋っているわけではない。腐ってもシオンは教会の聖職者だ。
〈滅焉の大聖女〉は人類に魔法を教えた。同時に魔法を諫め、封じ、祓い消す方法も授けている。