レヴェチェリナの勝利条件はたった一つだけだった。
(私は過去の失敗から学んだわ。哀帝や死恐帝を葬ったときのような過ちは繰り返さない。今度こそ、宿願を成就させるわ)
立ちはだかる最大の障害は、メガラニカ帝国の国防を担う二つの大貴族である。アレキサンダー公爵家とケーデンバウアー侯爵家は強大な軍事力を誇っていた。妖術を極めたレヴェチェリナといえど、大軍勢に正面から挑めば敗北は必至である。
死恐帝の災禍が終息した後、すぐさま両家は帝国軍の立て直しを図った。衰退してなお、メガラニカ帝国の底力は確かだった。
翡翠の首飾りに封じられたレヴェチェリナが覚醒したとき、救国の英雄アレキサンダーは戦いの後遺症で病没した。しかし、千載一遇の好機とは考えなかった。
先代神官長ロゼティアの妹であるカティアが目を光らせていた。そして、アレキサンダー公爵家には歴代最強の当主が誕生した。用心深いレヴェチェリナは翡翠の奥底に邪悪な魂を隠し、力を蓄えながら時が来るのを待った。
人々は見せかけの平和を謳歌した。
凄惨な災禍の記憶が薄れていく中、メガラニカ帝国は新帝捜索に総力を注いでいた。破壊者ルティヤの新たな転生者。次こそは封印の器を守り抜かねばならない。
破壊帝、哀帝、死恐帝。恐るべき災禍が三代続いてしまった。
大陸全土を平定した最盛期に比べれば、メガラニカ帝国は見るも無惨に衰えている。失敗は許されなかった。
――しかし、誰よりも先に転生体の少年を見つけたのはレヴェチェリナだった。
ナイトレイ公爵家の分家筋にあたるシーラッハ男爵領で暮らしていた森番の夫婦。両親と姉から可愛がられた少年を見つけ出した。破壊帝の女仙であったレヴェチェリナは皇気を感知できた。新たな転生者を陥れる陰謀を邪魔立てできる者はいなかった。
(破壊帝に仕えた女仙が生きながらえているなんて考えもしなかったのでしょうね。賢妃と呼ばれたアンネリーでさえ私を死霊だと思っていたわ。でも、違うわ! 私は生きている!!)
本来、皇帝が斃れれば女仙は死ぬ定めにある。不老不病の血酒は、破壊者ルティヤの力が宿った血を熟成させた仙薬。適合した女仙は老いぬ身体を得る。その代わり、皇帝の死に殉じる呪いがかかる。
(皇帝が死ねば女仙の身体は呪いで朽ちる。破壊帝の死後、私が生き続けたのは魔物に変異し、特別な肉体を持っていたおかげ。魔物である私は呪われない⋯⋯)
魔物には二つの恩寵が授けられている。呪詛と毒性に対する絶対的耐性だ。魔物は殺戮と破壊を撒き散らす存在。世界に呪いと毒を撒き散らす呪いの元凶。それゆえに、魔物は死に至る呪毒が効かない。
(私の計画は完璧だった。誰一人として私に気付かなかったのだから! アレキサンダー公爵家⋯⋯! ケーデンバウアー侯爵家⋯⋯! 大神殿の巫女⋯⋯!! 全員を出し抜いたわ。いくつか予定外のことが起きた。それは認めてあげるわ。けれど、本来の器を壊し、母子相姦児のベルゼフリートに破壊者の荒魂を受け継がせた⋯⋯!)
生来の転生体だった哀帝と死恐帝では上手くいかなかった。
父親から歪に引き継いだベルゼフリートであれば計画の核となりえる。器でありながら、ベルゼフリートは封印が緩みやすい忌み子。母子の大罪で産まれ堕ちた不徳の幼帝。禁忌は器の封印を脆くしていた。
(それでも時間がかかったわ。ベルゼフリートの父母が死ぬまでは動けなかった。器がどちらかなのかは分からなかったせいで)
九年前にシーラッハ男爵領の関所で、ナイトレイ公爵家の騎士団が壊滅した。居合わせた魔狩人の部隊も全滅。大勢の死傷者を出した。生き残ったウィルヘルミナはベルゼフリートを保護し、メガラニカ帝国の皇帝に即位させた。
(私はナイトレイ公爵家の小娘を過小評価していたわ。本来であればベルゼフリートの導き手は私でも良かった。けれど、あのサキュバスは顕現しかけた破壊者ルティヤを鎮めて、今や帝国宰相にまで登り詰めた。本当に大した努力家だわ)
皇帝ベルゼフリートの忌まわしい出生の真実は隠蔽された。
レヴェチェリナにとっての大きな想定外は、ベルゼフリートを産んで死ぬはずだった父母が生き続けたことだった。
ナイトレイ公爵家の指示でベルゼフリートの父母は存在を抹消された。関所跡地の地下室に運び込まれ、司法神官アマンダが秘密の番人となった。皇帝になるはずだった少年は約八年もの間、目覚めぬ母親の屍体を愛し続けた。
驚愕すべきことに、生きる屍だった母親は子供を出産している。関所の地下室で産まれた弟妹は、自分達の長兄が皇帝とは知らず、父母については何も教えられていない。真相は歴史の闇に葬られた。
レヴェチェリナは判断に迷った。地下室の少年が息絶えるまでは、移し替えの成功に確信が持てなかった。
(ベルゼフリートが精神的成長を遂げたとき、父親と母親は絶命した。おそらく破壊者ルティヤの荒魂が再誕児ベルゼフリートに完全な形で移ったのは、アルテナ王国の女王セラフィーナが変化をもたらしてから⋯⋯。きっかけは何だったのでしょうね。くふふっ♥︎ 親離れ? それとも子離れかしら?)
幼帝ベルゼフリートは女王セラフィーナを簒奪した。祖国を奪われ、息子を殺され、愛する夫と引き裂かれ、娘の身代わりとなった母親。激しい憎悪を向けていた人妻の胎に種を注ぎ、たった一年で淫乱な愛妾に堕とした。
(子供から大人への階段を登った♥︎ 隣国の女王セラフィーナを我が物としたとき、ベルゼフリートの心に大きな変化があったのだわ♥︎)
セラフィーナの心を手に入れたとき、ベルゼフリートは少年から男に成長した。餌を与えられていた雛鳥は巣立った。自分の意思で欲しい女を盗る。
背徳の因果は巡り巡って、ベルゼフリートを破滅させる。
ベルゼフリートはセラフィーナとの簒奪結婚を遂げ、不義密通で拵えた三姉妹を産ませた瞬間から、レヴェチェリナの陰謀は動き始めた。
(ベルゼフリートは歴代の皇帝とは違うわ。自らの意思で簒奪者となった欲深い征服者。欲しければ奪い取る盗人。奪う者は、いつか奪われる。因果応報♥︎ 人を呪わば穴二つ⋯⋯♥︎ 私の愛しき主君♥︎ 破壊帝バルトリヤ陛下に全てを奪われて眠りなさい⋯⋯♥︎)
反魂妖胎の祭礼で、荒魂を無理やり魔物の器に移し替え、魔帝を造りあげた。レヴェチェリナの最終目標はその先にあった。
大陸各地から集めた上位種の魔物は、アレキサンダー公爵家の姉妹に殺された。しかし、計画の最終段階になれば手駒はいらない。
死んでいようが、生きていようが、どうでもよかった。
立ちはだかる神官長カティアですら、もはや路傍に転がる小石でしかなかった。
待ちに待った痛みが全身に迸る。
子宮の奥底から湧き起こる衝動に心臓が高鳴った。
◆ ◆ ◆
「時間切れ♥︎ 私の勝ちよ♥︎ 破壊帝が再誕するわァ♥︎」
大妖女は長い舌を見せて大笑いする。膨れ上がったボテ腹が激しく胎動する。胎内で大蛇が暴れているかのようだった。子宮が収縮し、羊膜の亀裂から破水する。
レヴェチェリナは祝福の陣痛を堪能した。
「おぉぁおっ⋯⋯♥︎ んぎぃっ♥︎ んう゛ぅぅ♥︎ おぉぉぉおおっ⋯⋯♥︎ んぉぉぉおぉおおっ⋯⋯♥︎ おっ♥︎ おぉぉおっ♥︎ んぁあぁ~♥︎ あぁ♥︎ ハァ⋯⋯♥︎ くふふふふっ♥︎」
床に羊水の水溜まりが出来上がった。
「出てくるわ♥︎ 偉大なる赤子♥︎ 私の父にして、息子♥︎ 私の愛しき皇帝陛下♥︎」
瘴気に満ちた強毒の体液が大理石を溶かす。大妖女の膣穴が開口する。
産まれてしまえば、再誕した破壊帝は全ての女仙を統べる。
帝国最強のレオンハルト・アレキサンダーも例外ではない。女仙になった者を傀儡する。
「くふふっふふふふ♥︎ 悦びなさい。三皇后は召し使いにしてあげるわ♥︎ 手駒の魔物や妖魔兵を減らされてしまったわ。貴方達の胎でしっかり兵隊を増やしてもらわないとね♥︎」
宝物庫の扉前でレヴェチェリナと戦っていた神官カティアは覚悟を決めた。
「――戒律破りになるとしてもやむを得ぬようじゃ」
破壊者ルティヤの荒魂はレヴェチェリナの憑胎している。胎児を殺すのは皇帝に対する弑逆。信仰戒律を破るだけでなく、災禍の起因となるだろう。しかし、破壊帝が再誕したとなれば、被害はメガラニカ帝国に留まらない。
(始末せねばなるまい。魔狩人や冒険者組合の想定を上回る被害になる。ここで終わらせるほかないのう。儂の命を引き換えにしたとしても葬り去らねば⋯⋯。 破壊帝は皇位継承者じゃ。破壊帝がレヴェチェリナを宰相か女官総長に任じれば、宝物庫の扉が開いてしまう)
わずかな希望はあった。昏睡状態に陥っていたが、宝物庫に避難させたベルゼフリートはまだ生きている。
(どうなるかは賭けじゃな。ベルゼフリート陛下が道連れで死ぬ可能性も否定はできぬ。災禍が起きたときは、哀帝のように短期間で終わることを祈るのみじゃな)
神官長カティアは抑えていた神力を解放する。一切の加減はしない。
大妖女を屠る必殺の大技に名前はない。派手な術式や異能は用いず、強大なエネルギーを指先の焔に爆縮する。極限まで温度と圧力を上げる。ただそれだけの単純な熱破壊の攻撃である。しかし、威力は想像を絶する。封じ込めた熱は太陽の約十倍に膨れ上がる。
「そんなの無駄な足掻きだわ。大神殿の信仰戒律に反するわ。巫女の力を皇帝に向けてはならない。解き放てば必ず減衰するわ」
「信仰心は儂が生きていればじゃろう。この焔を解放すれば、全てが吹き飛ぶのじゃ。儂も含めて、全てが消える。帝嶺宮城は絶対熱で蒸発する」
「本当に⋯⋯? 帝嶺宮城にいる人間を一人残らず殺すつもりなのぉ? くふふふっ♥︎ 見え透いた脅しだわ♥︎」
「脅し? 間違っておるぞ。儂は宝物庫の護りを信じておる。ベルゼフリート陛下、帝国宰相ウィルヘルミナと愛妾セラフィーナ、運が良ければ帝国元帥レオンハルトも生き延びるじゃろう。他の者達には悪いが手段を選ばぬ状況じゃ。元凶を討てるのならば安い」
「自爆だから信仰戒律を破れるとでも? 貴方に破壊帝は殺せないわ」
「どうかのう? 試してみる価値はある。そもそも死恐帝を鎮めるときにこれを使うつもりじゃった。儂は長く生きすぎた。破壊帝の落し子である儂らは過去の遺物。負の遺産を清算しよう。本望じゃ」
カティアは絶対熱の焔を解き放とうとした。
「せっかく父上に会わせてあげるのに⋯⋯。なぜ貴方は理解できないのかしら。父上の血が薄いせい?」
自爆に呆れ果てたレヴェチェリナは胎児からエネルギーを吸い出す。破壊者ルティヤの力で相殺するつもりだった。
その刹那、双方にとって予想外の展開が起きる。転移術式陣が床に浮かび上がった。宝物庫の扉が開かれたのだ。
(なっ、なぜじゃ!? 扉が開いた。この最悪のタイミングで⋯⋯!?)
内側から扉を開く条件は、メガラニカ皇帝が開門を望むこと。意識を取り戻したベルゼフリートが自分の意思で外に出ようとしなければ、宝物庫の開放されない。しかし、レヴェチェリナはベルゼフリートの目覚めを強く否定する。
「ばかな⋯⋯! ありえないわ。破壊者ルティヤの荒魂はほとんど奪い取った! あちらの器には残り滓しかない。私が産気づいている状況で、ベルゼフリートが目覚めるはずは⋯⋯!!」
宝物庫の扉を内側から開けられるのは皇帝だけだ。しかし、ベルゼフリートであるはずがない。困惑するレヴェチェリナは、まったく状況が理解できなかった。
その隙を見逃さなかった。眩い光りとともに飛び出た霊体は、レヴェチェリナの臍に吸い込まれた。
「うぅ⋯⋯あ⋯⋯!?」
活発に蠢いていたレヴェチェリナのボテ腹が停止する。侵入した発光体は胎内に浸透し、胎児と融合した。
「なっ? なに⋯⋯!? これは⋯⋯? うぅっ⋯⋯!」
レヴェチェリナは拒絶できなかった。大切に育てた破壊帝の肉体に何かが取り憑いた。強い力で肉体と霊魂が引き合っている。破壊帝のために創り上げた胎児が奪い取られた。
破壊帝のために用意した肉体を誰かが盗んだ。憑胎した死者は母胎に語りかける。
「おぞましい。レヴェチェリナ・ヴォワザン。君は再びメガラニカ帝国の未来を阻もうとしている。あれだけの人間を殺し、不幸をばら撒いた。過去の夥しい犠牲を顧みていない。叶わぬ妄執の願いに囚われた可哀想な女性だ」
胎から少年の声が聞こえた。レヴェチェリナには聞き覚えがあった。
「ありえない! そんなはずがない! 死んだはずだ!」
「その通りです。僕は死んだ」
「五百年前に殺したはず!!」
「それも肯定します。僕は殺された」
「災禍は終息した! 半世紀前に! 私は確かめた! 欠片も残らず消え去ったはずだ!! 存在できるわけがない!!」
「――いいや、僕は君の胎内に存在する」
喚き散らす大妖女レヴェチェリナとは対照的に、神官長カティアは言葉を失った。
忘れられるはずがない。
五百年以上前に共和主義者に毒殺された先帝の声だった。