大帝国の盛衰興亡。
誰もが認めるメガラニカ帝国の最盛期は、大陸統一の大偉業を成し遂げた栄大帝の時代であった。しかし、千年以上の長きにわたって続いた統一国家の平和は、狂気に取り憑かれた破壊帝の手で滅び去った。
――破壊帝バルトリヤ。
彼の真名が歴史書で言及されることは少ない。悪逆非道の暴虐だけが綴られている。黒鉄の勇者に討たれ、災禍に転じた死後も破壊帝は大陸の人々を苦しめ、大きすぎる傷痕を残した。
メガラニカ帝国が築いた連邦制は瓦解し、国々は独立していった。そんな大混乱の渦中、七選帝侯の一角を担っていたヴォワザン公爵家が滅亡した。
人々は忌まわしい記憶から目を背けた。破壊帝は禁忌の落胤を遺していた。血が濃くなれば器の封印が解ける。それゆえに皇帝の近親婚は禁忌とされた。
狂乱の破壊帝はヴォワザン公爵家の女仙を孕ませた。
娘、孫、曾孫、玄孫、来孫、昆孫、仍孫、雲孫。
子々孫々が一人の父親によって子を産む。最果ての忌子は誕生してしまった。レヴェチェリナ・ヴォワザンは、人間でありながら魔物に近い性質を帯びていた。繰り返された父娘相姦の結果、血肉に宿る遺伝子は破壊帝とほぼ同一。破壊帝を再誕させる大妖女は完成した。
破壊帝は死を恐れた。
精神が狂う前は聡明で利発な青年だったとされる。破滅の切っ掛けは、己の身体に封じ込めた破壊者ルティヤの荒魂を軽視した一言に尽きる。世界に災いを起こす混沌の種火。燃え盛る大火となれば止める方法はない。破壊帝は善と正義のために力を使おうとした。
「人を殺した瞬間、歯止めはかからなくなるわ。転げ落ちるように、深淵の奥底へ沈んでいくの⋯⋯。栄大帝は剣の達人だったわ。当時のアレキサンダー公爵を上回るほどの大剣豪。私は栄大帝に惨敗を喫したわ」
神喰いの羅刹姫ピュセル=プリステスは懐かしき敗北の追憶する。
今の窮地は栄大帝に殺されかけた状況とまったく同じだった。一つだけ違うのは、逃げる手段がないことだけ。
「栄大帝は無敗の剣士だった。でも、破壊者ルティヤの転生体だから強かったわけじゃないわ。たまたま器になった人間が最強の剣士だった。あの人には大きな弱点があったわ。生涯で一人も人間を殺さなかった。いいえ、殺せなかったのよ」
「悪足掻きか? 栄大帝から逃げるときは攫った子供を人質に使ったのだろう? 同じ手は通じぬ。人質がいたとしても確実にここで殺す」
帝国元帥レオンハルト・アレキサンダーは先祖の仇に止めを刺そうとしていた。
栄大帝が逃してしまった最凶の魔物。中央塔を囲っていた神域は瓦解しつつあった。人喰い鬼の美少女は絶体絶命の窮地で、不敵な笑みを浮かべる。
「何がおかしい」
レオンハルトは薄っぺらな笑みを作る悪鬼が気に食わなかった。
「考えていたわ。人質にしたのはたった一人の少女よ⋯⋯? 私を圧倒できるほどの怪物が、あんなちっぽけな存在を助けるために、私を逃してしまった⋯⋯」
無言のレオンハルトは大剣を振りかぶる。ピュセルが人類に与えた被害を考えれば、たった一人の少女を見殺しにしてでも始末すべきだった。当時のアレキサンダー公爵を喰い殺した恐るべき怪物。剣技のみで神喰いの羅刹姫を追い詰めた栄大帝の強さは計り知れない。
「――あの少女がとても妬ましかったわ」
自分を死の淵まで追い込んだ栄大帝は、迷うことなく人質の少女を助けるために駆けた。人質の少女は適当に攫ってきた村娘。見捨てても栄大帝を責める者はいなかったはずだ。
逃げ延びたピュセルは、栄大帝と大宰相ガルネットが築いた治世を影で見ていた。魔物の殺戮衝動を必死に抑え込み、輝かしい人間の栄華を眺め続けた。
「人間は魔物に堕ちる。なら、魔物から人間にはなれる⋯⋯? 私ね⋯⋯。ずっと、ずっと、ずっと、人間になる方法を研究したわ」
「魔物が人間になれるわけがないだろう」
「ええ。ありえない空想。実現しない妄想を私は追い求めた。それこそ戯言だわ。でも、実例は一つだけあったの。だから、レヴェチェリナ・ヴォワザンの計画に協力したわ」
「馬鹿馬鹿しい。肉体の弱体化はそのせいか? 私と戦ったのは足止めのつもりだったのだろうが、失敗だったな。万全の状態ならもう数分は保ったはずだ。これでお喋りは終わりだ」
大剣の刃がピュセルの胴体を貫いた。
「あぁ⋯⋯ぅ⋯⋯!」
「死ぬがいい。死んで塵となれ。帝国に仇なす魔物め」
ピュセルの神域が崩壊する。喰い滅ぼし、奪い取ってきた異能が失われていくのが分かった。相剋相殺の封陣が消滅し、レオンハルトの異能が解き放たれる。
「私では無理だったわ。だから、キュレイに託した。私の役割は終わり⋯⋯。輪廻は巡るわ⋯⋯。転生の真理を解き明かした冥王だけじゃないわ。破壊者ルティヤの器は転生体⋯⋯!! 魔帝と契りを交わした私は真理を解き明かしたわ! 魔物という悪業から! 魔素の呪縛から魂を解放す――」
ピュセルの身体が捻れ潰された。
「神域内の時間流を弄くっていたな? どこまでも小細工を⋯⋯」
次元を操るレオンハルトは魔物の死体を圧壊する。
「こいつの死骸は消滅させておくか。次は首魁のレヴェチェリナだ。無駄に時間を消費してしまった」
レオンハルトは帝嶺宮城の全次元域に索敵をかける。宝物庫を除く領域を掌握し、次元転移でレヴェチェリナの居場所に攻め込もうとする。
「どういうことだ? 何が起きている⋯⋯?」
宝物庫の扉前で起きている事態に理解が追いつかない。困惑するレオンハルトをピュセルは嘲笑う。身体は粉微塵に砕かれ、穢れた魔物の魂は無に帰す。だが、宿願の成就を確信した。
◆ ◆ ◆
屋上庭園の回廊でルアシュタインとレギンフォードを足止めしていた影の魔物は、中央塔で起きた異変に気付いた。ピュセルの神域が崩壊し、帝国最強のレオンハルトが解き放たれた。
(不味い。レオンハルト・アレキサンダーが行動の自由を取り戻した。ピュセルは死んでいるか、神域結界の維持ができない状況⋯⋯! いや、殺されたと判断すべきか⋯⋯?)
ルアシュタインとレギンフォードの二人だけなら、逃げに徹すれば防戦は出来る。しかし、レオンハルトの相手は不可能だ。次元操作の有効射程が帝嶺宮城の全域に及ぶ。
(いずれにせよ、レオンハルトが動き始める。私のところに来るか? 普通ならレヴェチェリナを優先するはず⋯⋯。断言はできない。私のところ現われれば⋯⋯)
魔物陣営の勝利はレヴェチェリナにかかっていた。胎宿った赤子が産まれてしまえば、全ての女仙を支配できる。産声があがるまでの時間は稼いだ。
(潮時ですね。運に自分の命を賭けようとは思いません。撤退の準備を――)
ほんの一瞬、影の魔物は注意が散漫になっていた。レオンハルトの気取られて生じた刹那の油断。ルアシュタインとレギンフォードの姉妹は見逃さなかった。
「なっ⋯⋯!?」
レギンフォードの姿が消えている。両目を閉じたルアシュタインは次元操作による転移を発動させていた。発動こそ遅いが、有効射程は長く、精度も高い。
(いない! レギンフォードが消えている。 なるほど、そういうことですか! ルアシュタインがどこかにレギンフォードを飛ばしたな⋯⋯!! おそらく転移先は私の近くだ。連携で間合いを詰めて、近接戦闘で私を仕留める気か)
即座に狙いを理解する。ルアシュタインとレギンフォードには互いに欠点がある。しかし、組み合わせれば互いの利点を活かせる。姉妹による連携転移。ルアシュタインはレギンフォードを飛び道具に使ったのだ。
(ルアシュタインの初動は遅い。その代わりに射程と正確性がある。妹のレギンフォードは反対で、素早く発動できる。ただし、射程が短く、正確な次元操作は不得意としている。連携で裏をかかれてしまった)
影の魔物は姉妹の欠点を利用して逃げ続けていた。レギンフォードの間合いに入ってしまったら、一撃で葬られる可能性があった。
(まだレギンフォードは現われない。時差を付けたようですが、出現位置はすぐ分かりました。ルアシュタインの転移は私よりも遅い。来ると分かっていれば対処法はあります。安い手を使いましたね)
転移の次元渦が背後に出現する。レギンフォードが握っていた槍の穂先は、影の魔物を貫かんとしていた。
「油断も隙もない。しかし、帝国元帥レオンハルトの剣速に比べれば貴方の槍は遅すぎます」
経験が影の魔物を生かした。レオンハルトの急襲で身体を両断された記憶が蘇る。あの一撃には遠く及ばなかった。
槍の穂先は空を切った。影の魔物は転移によるショートワープで背後からの急襲を躱した。歪んだ空間から生えた槍を睨む。レギンフォードの身体は次元の裂け目から現われない。追撃の余裕はなさそうだった。
「転移はアレキサンダー公爵家だけの特権ではありません。そもそも人間が軽々しく次元を操るほうが、どうかしています。本来、転移は我々の専売特許なのですがね」
影の魔物は優れた転移能力を持っている。アレキサンダー公爵家の次元操作とは異なり、物体を移動させるだけで応用が効かない。しかし、レギンフォードの槍を躱せたのは自己転送が間に合ったおかげだった。
「ここは逃げさせていただきましょう。私の仕事は終わった。後のことはレヴェチェリナ次第です」
本音を言えば再びレオンハルトに捕捉されたら後がない。ピュセルの護符を使う暇もなく殺されてしまうだろう。
(レオンハルトの気配は感じません。これなら逃げられそうです。まず間違いなくルアシュタインは追ってこないでしょう。私はあえてレヴェチェリナの名を口にした。皇帝の安否を心配するのなら、宝物庫に行くはず⋯⋯)
影の魔物はレギンフォードの槍に注意を向ける。レギンフォードはまだ現われていない。槍先だけが次元の裂け目から突き出ている。
(おかしい。なぜ現われない? まさか転移させたのはレギンフォードの槍だけか!?)
真の狙いに気付いたとき、直上からレギンフォードが降ってきた。影の魔物は防御態勢を取る。通常の拳なら霊体化ですり抜けるが、アレキサンダー公爵家の人間にそんな常識的な防衛手段は通じない。
「こういうタイプの魔物は殴り心地が最悪なのよね。返り血で汚れないのはいいけど」
「ぐぎゃぁ⋯⋯! うぅぐぅうぅううう⋯⋯!!」
数十倍の質力に膨れ上がった拳撃は、屋上庭園の土台を破壊した。直撃を受けた影の魔物は生命核を死守するので精一杯だった。
「上出来じゃない。レギンフォード」
「ルアシュタインお姉様の作戦に敵が上手く嵌まってくれました。最初にブラフの槍を転移させて、逃げた先に本命の私を出現させる。敵が逃げようとせず、防御態勢になってからインターバルがあるのも当たりっぽいわ」
「宝物庫にいた私達を分散できたわけだから、複数の対象を同時に転移させることは可能。けれど、転移の連続発動は無理。能力を使わせた後に攻撃すれば、転移では逃げられない」
影の魔物は数秒のインターバルを挟まなければ、転移能力の再発動ができない。敵の能力限界を知ってしまえば攻略は簡単だった。
「私達を閉じ込めてた迷宮は崩壊したようです。さっさと始末して宝物庫に急ぎましょう」
レギンフォードは槍を引き寄せる。近くにいるルアシュタインも警戒は緩めない。
(まだっ! まだ! 手はある⋯⋯! 護符を⋯⋯! ピュセルの護符を使えば⋯⋯!!)
影の魔物は体内に忍ばせていた護符に縋り付こうとした。残された最後の希望。帝都アヴァタールを襲撃した際、牛頭鬼のキュレイを救った鬼札を発動させようとした。
「レギンフォード⋯⋯!」
「大丈夫。お姉様。護符は使わせない」
「あぁ⋯⋯なぁ⋯⋯!?」
ピュセルから与えられた三枚の護符が焼き切られてしまった。
「ブライアローズから報告は聞いているのよ。どんな効果があるかは知らないけど、そういう奥の手があると知っていれば、こっちだって警戒するわ。さてさて、生命核はどこにあるのですか」
レギンフォードは影の魔物を槍で粉微塵に刺し貫く。
「元帥閣下を閉じ込めていた神域結界が解除されているわ。護符を作った神喰いの羅刹姫は死んだようです。さすがは神喰いと呼ばれた伝説の魔物。帝国最強を相手によく粘ったものです」
ルアシュタインは護符の燃え滓を調べる。念のためにどんな符術が刻まれていたか確認しようとした。
「――褒めていただいて光栄だわ。健闘賞をいただけるかしら?」
焼き切れた護符から少女の声が生じた。絶体絶命の死に際、影の魔物は活路を見出した。不発に終わったと思われた護符が発動したのだ。
「ピュ、ピュセル⋯⋯!! お願いです! 助けてくださいっ!! このままでは殺されてしまう⋯⋯!!」
槍に貫かれて転移もままならない。ピュセルの護符だけが頼りだった。
「レギンフォード。その魔物をすぐ殺しなさい。護符の発動条件は破壊されることだったようです」
ルアシュタインの推測は半分だけ当たっていた。帝都襲撃時に牛頭のキュレイを救い出した。手の内は明かしている。次の戦いでは護符を使わせる余裕はない。
「承知ですわ。お姉様。荒っぽくなりますが、次元操作で圧殺します」
レギンフォードは影の魔物を超重力で挟み潰す。能力発動中は身体の動きが鈍くなるが、敵を制圧している体勢であれば、さしたる問題は生じない。
「発動条件を教えてあげるわ。私の死後に護符が破壊されていること。もう一つは影の魔物が死に際であること。条件付けのためには名前が必要だったわ。私が与えた『シャッテン』は素敵な名前でしょう?」
「ピュセル! 早く助けてくださいッ!! 生命核が守り切れないっ⋯⋯!! うがっ! うぐぅぅうっ! レギンフォードに潰されてしまう! 早く!! 早くッ!! 早くゥ!! なんとかしろっ!!」
「貴方の転移能力はとても便利だわ。物資や人員の輸送が簡単に行える。私にはない素晴らしい異能。ずっと目を付けていたわ。だから、最後の一回だけ使わせてもらう」
「は? はぁ!? 何を言ってる! どういう⋯⋯うぅっ⋯⋯ガァアアアアアアアアアアアアアアアアァァァ!!」
「あら? 苦しそう。でも、安心しなさい。死ねば楽になるわ」
仲間同士の会話とは思えなかった。影の魔物は消滅した。三枚の護符は何らかの効果を発動したはずだ。しかし、仲間に手を差し伸べるためではなかった。
ルアシュタインとレギンフォードは警戒を強める。
「ねえ。アレキサンダー公爵家のお二人さん。私に質問しないのかしら? 冥土の土産に教えてあげるわ。ちょっと言い回しが変ね。ふふふっ! 死んでいるのは私だから、お裾分けというべきかしら」
「ルアシュタインお姉様。こいつは何なんでしょうか?」
「元帥閣下が敵を取り逃がしたとは思えない。護符を作った神喰いは死んでいる⋯⋯。効力が切れれば消滅するはずだ」
「貴方達は残留思念を知っている? 死後も魂を現世に残す方法。先代神官長ロゼティアが編み出した魂魄保存の奥義。もちろん永遠には留まれないわ。制限時間付きだけど、現世に思い残したことがあったの。くふふふふっ⋯⋯!」
「貴様の目的は何だ? 神喰の羅刹姫」
「そんな恐ろしい顔をしないでほしいわ。ルアシュタイン・アレキサンダー。悪巧みなんかしてないわ。やりたかったのは人助けよ」
「笑えない冗談だ」
「本気よ。私は人殺しの怪物。魔物である間は人間を助けられない。死ねば魔物の縛りからは解放される」
「意味が分からない」
「三枚の護符にはそれぞれ別の役割があるわ。一枚目には起動条件と私の残留思念を仕込んだ。二枚目は魔都ヴィシュテルを覆っている不可侵領域が解除される効果。そして、三枚目で影の魔物が使う転移能力を使わせてもわったわ」
「転移能力を使った⋯⋯?」
「ルアシュタインお姉様。あの魔物は仕留めました。生命核を潰しています」
レギンフォードは即座に否定する。ルアシュタインも逃がさないように細心の注意を払っていた。あの状況から生き延びる手段はなかった。
「安心してほしいわ。転移能力は人助けにしか使っていないから。帝嶺宮城に死んでほしくない人間がいたのよ。私は盤外に飛び出た駒。ゲームの勝敗に興味はないわ。巻き添えで殺されないように我が子を避難させただけ。冥府で高みの見物をさせてもらうわ」
ピュセルの声は虚空に消えた。ルアシュタインとレギンフォードは魔物を討滅したが、言い知れぬ不安を感じていた。神喰いの羅刹姫が何をしたのかが分からなかったせいだ。
◆ ◆ ◆
同刻、ケーデンバウアー侯爵家の駐屯地で一人の女性が保護された。魔都ヴィシュテルから襲来した魔物に応戦している最中、魔狩人は全裸の妊婦を救助した。
妊婦は自分が何者かを語らなかった。魔物に攫われた女性と思われたが、怯えている様子は見られない。
不審に思った魔狩人は妊婦の身体を調べた。この世には人間の子宮を苗床とする魔物もいる。念のために妊婦と胎児を調査したが、普通の人間と診断された。