グラシエル大宮殿の北塔は、帝国軍支部の営舎と隣接している。
地下には武器庫があり、火薬類を除く帝国軍の武装一式が保管されていた。見張り塔の異名を持ち、北塔の中層階は窓に鉄格子が填められた牢屋となっている。
通常の犯罪者が北塔に収監された例はない。
高貴な貴族の留置所として使われていた。
北塔の牢屋にいるのは、金髪の美しい娘だ。
ベッドに横たわる美少女の腹は厚みが目立つ。胎の膨らみは懐妊の証だ。年齢は十六歳。誕生日を迎えて歳が一つ増えた。肉付きは妖艶な母親に似てくる年頃。乳房が重みを増し、尻の太々さが目立ってきた。
(――忌々しいわ。胎内で私の栄養を吸って、あいつの子が育っている)
日に日に成長し、膨れ上がる胎が憎らしかった。
愛する男の間に出来た赤児なら、どんなに嬉しかっただろう。少女は産まれてくる子供を祝福したはずだ。
王女ヴィクトリカ・アルテナを孕ませた少年は、ベルゼフリート・メガラニカ。祖国を攻めた敵国の首魁だった。
ヴィクトリカが強姦されたのは、戦勝式典が開かれた暑中の八月。あれから約三カ月弱の時間が流れた。
生理の遅れから始まった懐妊の兆し。悪阻の苦しみは乗り越えたが、肉体の変容に戸惑った。
食欲が旺盛になり、下腹部の重量が増していく。まるで果実が実るように、子宮が大きく膨らんだ。内臓を押し退け、表皮が張っていくのが分かった。
帝都アヴァタールに戻ったヴィクトリカは帝国兵に捕まった。冒険者のが帝国軍と通謀し、ヴィクトリカを売ったのだと思った。
――しかし、違った。
帝国軍にヴィクトリカが連れて行かれたとき、女冒険者達は困惑していた。ヴィクトリカを帝国軍に引き渡した張本人は旧友のロレンシアだった。
辱められ、尊厳を粉々に砕かれた可哀想な忠臣。救い出さなければと熱い決意を抱いていた臣下に裏切られた。ロレンシアに限ってありえない。だが、ヴィクトリカは牢獄に囚われていた。
現実が全てを物語っていた。
「ヴィクトリカ様。目覚めておられますか? ロレンシアです」
ベッドに丸まっていたヴィクトリカは上半身を起こす。鉄格子で隔離された部屋の向こう側、女性兵が立っている位置にロレンシアがいた。
「ロレンシア⋯⋯!」
裏切り者。しかし、ヴィクトリカはロレンシアを罵れなかった。美しい赤毛の娘ロレンシア・フォレスター。王家に近しい辺境伯の一人娘。生まれたときからの遊び相手だった。
王女と騎士。主従の間柄だったが、培った友情の絆は本物だと強く信じている。ロレンシアが向けてくれる親愛の眼差しは、昔とちっとも変わらない。
「体調はいかがですか?」
「⋯⋯気分は最悪よ。体調は悪くないけど」
行儀悪くヴィクトリカは黄金髪を掻き散らかした。
短く切っていた髪は、この三カ月ですっかり伸びてしまった。
ロレンシアをちらりと見る。凜々しい女騎士は、鍛え上げられた精悍な細身の肉体だった。今の変わり果てたロレンシアは、色気溢れる媚肉の淫女となっている。
極大の迫力を醸す超乳。前部に突き出たボテ腹。柔らかな贅肉が詰まった巨尻。切り揃えていた赤毛の髪を背まで伸ばし、女らしくなっている。
「皇帝陛下の御慈悲をいただけました。今日はセラフィーナ様をお連れしております」
「そう⋯⋯。お母様が来ているのね⋯⋯」
ヴィクトリカの実母、アルテナ王国の女王セラフィーナ。
母親も皇帝ベルゼフリートの子を宿している。母親が皇帝に妊娠させられたのは、兄のリュート王子が処刑された今年三月。今はちょうど臨月の頃合いだ。
「久しぶりですわね。ヴィクトリカ」
目の前に現われた母親は、瑠璃色のド派手なドレスで着飾っていた。
豊満なバストの上乳を曝け出し、純白の媚肌が露わとなっている。
ヴィクトリカの知る母親は淫靡な格好を好まない。艶美と色情を疎み、慎ましく振る舞う貞淑な人妻だった。
帝国に囚われている間に、母親は変貌させられたのだ。
「はしたない格好に見えるかしら? メガラニカ帝国はアルテナ王国より開放的なのよ。ヴィクトリカは十六歳になったのかしら? 私はついこの前、三十七歳になりましたわ。少しは年齢を考えて、落ち着いた格好をすべきかしら? 陛下は気にされてないけれど」
ベルゼフリートの愛妾となった母親は誇らしげに語る。
熟れた肉体は、若さを取り戻している気がした。化粧を帝国流に変えたせいもあるが、女仙化の影響で美貌が磨き上げられている。
「お母様、アルテナ王家の誇りは捨てられたのですか!?」
「⋯⋯そうね。そうかもしれない。皇帝陛下のお側にいられないのなら、私は何だって捨てますわ」
「っ! ⋯⋯分からない! お母様!! ロレンシア、貴方もよ! なぜ? どうして!? こんな屈辱にどうして耐えられるの? メガラニカ帝国は私達が生まれ育った祖国を踏み躙り⋯⋯っ! お兄様を殺したのよ!」
「ええ。リュートは可哀想でした。哀れんでいますわ」
「なによそれ? 他人事みたいにっ⋯⋯! ふざけないでっ! 貴方は私達の母親でしょっ! お兄様は血の繋がった家族だったのよ! 自分の子供を殺されて! あんなガキに無理やり妊娠させられて! あの悪帝が憎くないの⋯⋯っ!? どうしてお母様は⋯⋯幸せそうに笑っていられるのよ!!」
ヴィクトリカは怒りを叫んだ。荒ぶる感情をセラフィーナにぶつけた。
「――ごめんなさい。新しい家族ができましたわ。私は今が一番幸せですの♥︎」
娘に怒鳴られた母親は、毅然としていた。膨らんだボテ腹を両手で撫でつける。
皇帝の赤児を孕んだ胎に慈愛を込める。
「もう耳にはしているのでしょう? 私はメガラニカ皇帝と結婚いたしましたわ。貴方の父親、ガイゼフ・バルカサロは赤の他人。私が今、この世でもっとも愛している殿方はベルゼフリート・メガラニカ♥︎ 陛下だけですわ」
「本気⋯⋯なの⋯⋯? お母様っ⋯⋯!!」
「ええ、もちろん♥︎ ガイゼフやヴィクトリカには申し訳ないと思っていますわ。けれど、もう私は自分の恋心に嘘はつけないの⋯⋯。ロレンシアも同じですわ。私達は皇帝陛下に娶られたの。後宮の奉仕女ですわ♥︎ 私は受け入れましたわ⋯⋯♥︎」
セラフィーナの地位は愛妾に留め置かれた。現在の黄葉離宮には側女が七人いる。リアとロレンシアに加えて、ユイファンに仮仕えしていた女冒険者五人が従者となった。
旅の道中、ヴィクトリカが世話になった凄腕の女冒険者達。エルフ族のララノア。女僧侶のテレーズ。アマゾネス族のアリスティーネとルイナ。狐族のエルフィン。実績豊富な一級冒険者のパーティーは側女となった。
五人の見知った美女が女仙と化して、セラフィーナに仕えていた。
「まともじゃない⋯⋯。貴方達、全員! 異常だわ⋯⋯! お母様も洗脳されている⋯⋯!!」
「そうかしら? 私は今までの人生で、この瞬間が一番、本物の自分に近いと感じていますわ。愛する殿方のためなら、私はどんな犠牲も厭いません。たとえ、血の繋がった娘と相争うことになろうと⋯⋯!」
母親の瞳に宿った薄黒い炎。濁りきった泥々の暗闇を見た。
「――ヴィクトリカ。貴方も皇帝陛下にお仕えしなさい」
「――いいえ、お母様。私は抗うわ!」
「母親に⋯⋯、女王に逆らうつもりですか?」
「貴方は私の母親よ。でも、女王ではなくなったわ。女王が祖国を捨てた今、私がアルテナ王国の人々を導く新の女王になるっ!!」
ヴィクトリカは宣言した。女王との決別、母親への宣戦布告だった。
「あら、そう⋯⋯。残念ですわ。たった一人の娘と争いたくはなかった。けれど、そうですわね。貴方はガイゼフとの子供。私と皇帝陛下の愛し子に仇なす政敵⋯⋯。私の子供は陛下との間に産まれた嫡子だけにしますわ」
「⋯⋯アルテナ王国の王位を不義の子に与える気? 冗談じゃないわ!」
「違いますわ。今のアルテナ王はベルゼフリート陛下。生まれてくるのは、皇帝と女王の嫡子です」
「アルテナ王はお父様よ! メガラニカ帝国と勇敢に戦ったガイゼフが王よ!!」
「耳にしていないの? ガイゼフは廃位されたの。私が捨てたから。もう過去の男よ。だから、ヴィクトリカは王女でないの。王命で廃嫡した」
「⋯⋯認めない。私はそんなの認めないっ! アルテナ王国の民だってそうよ!」
「アルテナ王国は敗戦を受け入れたわ。私とベルゼフリート陛下の婚姻は講和条約の要。国民は納得していますわ。いいえ、納得しなければならないのです。私達は敗戦したのですから」
「お母様の勝手な言い分なんか誰も聞かないわ!!」
「そう⋯⋯。ヴィクトリカに訊くわ。メガラニカ帝国と争ってどうするつもりなのかしら?」
「勝つわ!」
「無理ですわ。アルテナ王国はもう負けたのよ。バルカサロ王国は私達を助けてくれなかったわ」
「手を差し伸べてくれてるじゃない! お母様は! お父様が必死に戦ってるのを見ていなかったの!」
「頑張りは認めます。ですが、勝てなければ無意味ですわ。バルカサロ王国やルテオン聖教国は、ヴィクトリカを利用してメガラニカ帝国を弱らせようとしている。でも、そんなのに意味はありません。無益な争いを招くだけですわ」
「お母様。貴方は帝国に魂を売った売国奴よ⋯⋯!!」
「陛下に魂を捧げたのは事実ですわね。でも、国と民を守れたわ。ベルゼフリート陛下がアルテナ王国の国王に即位される。その意味は大きいですわ。いわば、アルテナ王国は皇帝の直轄領。増大するメガラニカ帝国で中枢となりえる地域に発展しますわ」
「⋯⋯帝国の飼い犬と何が違う!!」
「⋯⋯今のヴィクトリカとは分かり合えませんわ。けれど、いずれは陛下に跪く。必ず」
「そんな未来は起こらないわ! お兄様を殺した愚帝に頭を垂れるくらいなら死んでやるもの!!」
「ご立派な覚悟ですわね。⋯⋯貴方の身柄は二週間後、ルテオン聖教国に引き渡すわ。メガラニカ帝国、アルテナ王国、バルカサロ王国、ルテオン聖教国――四カ国の調停がまとまったの。協定を結ぶ場所は、王都ムーンホワイトの白月王城ですわ」
「正気⋯⋯? アルテナ王国を東西に分断するなんて⋯⋯!! アルテナ王国の民が悲惨な思いをするのは目に見ているじゃない!」
「そう思うのなら、バルカサロ王国やルテオン聖教国と手を切り、皇帝陛下と女王たる母に恭順しなさい。貴方が帝国と対立しなければ、東側をわざわざ引き渡さずに済むのよ? 子供にだって分かる理屈ですわ」
「今のお母様に女王を名乗る資格なんかないっ! 私は私のやり方でアルテナ王国を守る⋯⋯!」
「守る? 国と民を傷つけるだけですわ」
「祖国を裏切ったお母様には従わないわっ⋯⋯!! 今は私が女王よ! 祖国を守る者だけが王の資格を持つ! 私はお母様を君主の座から引きずり下ろすわ!」
アルテナ王家の母娘は決裂し、二人の女王が誕生した。
「せっかく皇帝陛下と三皇后がご温情を示されたというのに⋯⋯。悲しいですわ。でも、よく分かりましたわ。私はもう貴方を娘とは思いません。⋯⋯無駄話は終わりにしましょう」
「⋯⋯お母様はアルテナ王国の敵よ」
「さようなら。次は調印式の式典で会いましょう。東の女王ヴィクトリカ」
グウィストン川の西側、七割の国土を支配する女王セラフィーナ。残る三割の国土、東側を支配する女王ヴィクトリカ。東西分断国家のアルテナ王国は、メガラニカ帝国を増長を押さえ込もうとする中央諸国の防波堤となる。
帝都アヴァタールに停泊する天空城アースガルズは進路を東方へと向けた。
三皇后は女官総長ヴァネッサに后令を下し、アルテナ王国の王都ムーンホワイトに航路を定めた。
地上を進む帝国軍の騎馬団は、引き渡し予定のヴィクトリカを護送する。同刻、護衛騎士を伴ったガイゼフがバルカサロ王国の軍都トロバキナを出立した。散り散りになった家族は、王都ムーンホワイトの白月王城で再会を果たす。
四カ国協定の調印式は十三月十四日。セラフィーナの出産予定日と重なっていた。