「んぅ⋯⋯、あら⋯⋯?」
「どうされました? セラフィーナ様?」
「胸回りがちょっと⋯⋯窮屈ですわ」
「申し訳ありません。肩紐とサイドベルトを緩めますね」
「これからはブラジャーのバストサイズをあげないといけないかも⋯⋯。妊娠しているから身体が変化しているみたいです。こうも大きくなっていくと困ってしまうわ」
豊満な乳房を両手で持ち上げる。乳房を覆う黒いブラジャーは、はち切れそうだった。妊娠の発覚後、スリーサイズの寸法を計り直し、下着のサイズをワンランク上げたが、セラフィーナはさらに大きくなってしまった。
「羨ましい悩みだと思います。私も今よりほんのちょっとでいいから大きくなってくれたらと⋯⋯」
「隣の芝は青く見えるものですわ。オッパイが大きいと大変よ? 足下がちっとも見えないし、両肩が凝るんですもの。仰向けに寝ていると乳房の重みで寝苦しいわ」
「私は貧相な体付きですから。セラフィーナ様のような女性らしい身体は、とても羨ましいです」
リアは自虐するが、彼女の容貌は文句なしの可憐な美少女だ。そもそも天空城アースガルズに住む、女仙となっている時点でリアの容貌は最上位だ。
けれど、リアの愛くるしい顔立ちは目立たない。後宮に住む女性達は上澄みの美女ばかりだ。
女官達もそうであるが、セラフィーナは大陸で随一の美貌と評判だった女王だ。造形だけを基準とするなら、この場で一番の美女はセラフィーナである。
個々人の好みや趣向を退け、問答無用で異性を魅了する蠱惑的な美貌。妊婦姿であろうと、魔性を帯びた魅惑の力は薄まらない。
「三十六歳の私で成長したわ。リアは成長途中でしょう? まだまだ分かりませんよ。ロレンシアの例もあるわ。彼女は元々が大きかったけれど、今は私と同じくらいか、それ以上のバストサイズですわ」
「あははは⋯⋯。ロレンシアさんはちょっと特殊な例ですよ」
リアは苦々しく笑う。というよりも、笑っていいのかと思い悩んだ。
ロレンシアの超乳はショゴス族の肉体改造で膨乳化させられた結果である。バストサイスは百二十センチを優に超えている。寄生卵子を大量に植え付けられ、細かった腹部は肥大化した。
初対面時、リアはロレンシアを凜々しい女武人と見ていた。剣を振るうのが似合う、引き締まった細身の女騎士だった。しかし、変わり果てた今のロレンシアは駆足で走れない。
子産みに特化し、運動能力は著しく低下した。出産するための女体。ロレンシアには、身の回りを世話する人間が必要だった。
「ロレンシアさんは大丈夫でしょうか⋯⋯? 私は心配です。お腹には陛下の御子様達もいるのに⋯⋯。お辛いようでしたし、無理はしてほしくないです」
「ラヴァンドラ商会の支援がありますわ。ロレンシアに頼んだのは単なる聞き込みよ。体調には気をつけてと言ってあるけれど。無理をさせるつもりはありませんわ」
セラフィーナは特注のマタニティショーツに足先を通す。股間から下腹までを覆う妊婦用のパンティーだ。自分では身体を屈められない。リアの手伝いを借りて腹まで引っ張り上げた。
「お腹は苦しくないですか?」
「大丈夫よ。ほんの少し、腰紐を緩めてくれるかしら?」
夏場であっても、腹部は冷えやすい。前部に突き出た妊婦腹をすっぽりと綿布で覆う。色はブラジャーとお揃いの漆黒。羽ばたく蝶々の刺繍が目立っている。
「あぁ、そうでしたわ。ランジェリーだけじゃなくて、実はドレスも新しいものを購入したいの」
「お召し物の新調ですか? 良い時期だと思いますよ。メガラニカ帝国の夏は猛暑日が続きます」
「過ごしやすくしたいわ。それと、気分転換にオシャレをしたいの。私の帝室年金には、どれくらい余裕があるかしら?」
愛妾であるセラフィーナには、帝室年金が支給されている。金額は妃に及ばない。だが、衣食住を賄える額はもらっていた。
「出費は普段の生活費とロレンシアさんへの俸給だけなので、十分に余裕がありますよ。私も新しいドレスを着たセラフィーナ様を見てみたいです!」
リアの俸給はヘルガの支払いだ。セラフィーナは負担していない。
唯一の側女であるロレンシアは実質無給だった。後宮で暮らし始めてから、セラフィーナの貯蓄は増え続けている。
「よければリアにも何着か買ってあげますわ」
「いえ、私は⋯⋯! ドレスはとても高価な代物です! 側女の私には不相応⋯⋯もったいないです! そっ、それにですね。帝室年金を湯水のように使えば、底をついてしまいますよ」
「心配してくれてありがとう。でも、いざとなったら財務女官に預けたアルテナ王家の御物を売りに出すわ。お金の心配なんてしないでいいのよ」
富国を治めていたアルテナ王家には莫大な資産がある。
荘園などの不動産を除き、財貨や国宝は帝国軍が差し押さえ、財務女官の管理下に置かれていた。しかし、講和条約で賠償金は一切支払わないと明記されている。所有者は女王のセラフィーナのままだった。
「帝城の倉庫で埃を被っているくらいなら、お金は有益に使いたいわ」
セラフィーナは黄昏色のマタニティドレスを身に纏う。胸元は覆われているが、スカートの切れ目から美脚が覗き見えるセクシーな衣装だ。
ラヴァンドラ商会で注文し、初めて袖を通した。質感が柔らかく、着心地は最高だ。
「リア。このドレスどうかしら? 似合っていると思います?」
「とてもお似合いです。セラフィーナ様」
「今日は雰囲気を変えたいわ。後ろ髪を結ってくれる?」
「はい。どんな感じにいたしましょう?」
「リアに任せますわ。帝国流でもいいわよ? 今の流行があったら、それでお願いしようかしら」
「分かりました。流行っている髪型にしましょう。セラフィーナ様は髪質が素晴らしいですし、色が完璧な黄金色です。間違いなく見栄えしますよ」
背中まで伸びているセラフィーナの後ろ髪をまとめ上げ、シニヨンで束ねる。
装いを一新し、セラフィーナは新鮮な気分だった。気分はすこぶる快調だ。軽めの化粧で、元来の美貌がさらに引き立つ。
身支度が終わった頃合いで、財務女官が現われた。用件はレオンハルトに贈呈するアルテナ王家の宝物についてだった。
「——という次第です。アルテナ王家が所有する宝飾剣を元帥閣下に献上いたします。よろしいですか?」
「ご自由にどうぞ。その代わり、帝城の一室を私にくださる件。お忘れなきよう、皇帝陛下とヴァネッサさんにお伝えください」
「⋯⋯承知いたしました」
皇帝の寵姫には帝城の一室、禁中の部屋が貸し与えられる。その話を知っていたリアは、セラフィーナが君寵を得ているのだと知った。
(セラフィーナ様! すごい⋯⋯! 軍閥派の妃様だとヘルガ妃殿下しか与えられていないのに!)
実は軍閥派ではユイファンとネルティも部屋持ちだったりする。しかし、まったく利用していないので、側女達に知られていない。
また、ヘルガは危険物を帝城に持ち込む可能性があるので、出禁にしてほしいと警務女官達は皇帝に苦情を訴えている。
(陛下は黄葉離宮を何度も御来訪されて、セラフィーナ様と夜を過ごされている。陛下はセラフィーナ様みたいに大きいオッパイの女性が好きなのかも⋯⋯? 揉んだら大きくなるのかなぁ⋯⋯?)
身嗜み整え終えたセラフィーナは、悠然と立ち上がる。鏡を見て出来栄えを確認する。
「行きましょう。リア」
「はい。セラフィーナ様!」
比類無き美貌の女王。アルテナ王国で暮らしていたときのセラフィーナは自身の外見に無頓着だった。しかし、愛妾となったセラフィーナは変わらざるを得ない。
——宮廷には数多くの恋敵がいる。
自分と同等かそれ以上のルックスと若さを兼ね揃えた美女、サキュバス族のウィルヘルミナがまさしくそうだ。ベルゼフリートの心を掴むには、生来の美貌に頼るだけでは足りない。
女の魅力を磨く必要がある。セラフィーナは強く認識していた。
「お腹が空きましたわ。黄葉離宮に帰って、リアの手料理を食べたいです。お胎で育っている赤ちゃんのためにも、栄養を沢山摂らないといけないわ」
セラフィーナは膨らんだお腹を優しく撫でた。ベルゼフリートとの間にできた我が子達を愛でる。
夫のガイゼフや娘のヴィクトリカ、処刑された愛息リュートへの後ろめたさはあった。
帝国との戦争に敗れ、王都ムーンホワイトが陥落し、リュートが処刑されてから一年と経っていない。
屈辱的な講和条約を結んだあの夜、国讐の子胤で孕んだ新たな命。
(歪な愛情ですわ。無理やり妊娠させられた。けれど、私は宿った子供達が産まれてくる日を心待ちにしているわ。息子を殺されたとき、あれほど憎悪したメガラニカ皇帝の子供だというのに⋯⋯)
女官達は「妊婦腹を見せつけていないで、さっさと出て行け」との本音を態度に滲ませつつ、帰りの馬車を待たせている場所へ案内する。
膨らんだボテ腹を抱えながら、禁中の大廊下を歩くセラフィーナ。純朴なリアはセラフィーナの後ろをついていく。先導する陰湿な女官達と違い、リアは主人の懐妊を心から祝福していた。
(セラフィーナ様、陛下から御子を授かって、とても幸せそう。陛下の赤ちゃんかぁ⋯⋯。お爺ちゃんに曾孫を見せたかったけど、私なんかじゃ陛下からお情けをもらうなんて高望み⋯⋯。はぁ⋯⋯私もオッパイが大きかったら⋯⋯)
宮廷で暮らす女仙の大多数は処女だ。妃と側女は、昆虫社会での女王蜂と働き蜂の関係だった。
妃以外の女が皇帝と子作りするのは例外なのだ。
付き添う女官達も皇帝との肉体関係はない。当然のように夜伽の相手をしている女官長ハスキーは極々一部の上澄みだ。
遥か昔、栄大帝は皇帝の責任と称し、女仙を一人残らず抱いた。しかし、それは一千年以上の治世が続いたから為しえた偉業である。その分、女性関係でたいそうな苦労をしており、帝室予算が天文学的な金額に膨れ上がっていたという。
大宰相ガルネットがいなければ、財政破綻は免れなかっただろう。
栄大帝と同じく、一千年の治世を誇った大君主に聖大帝がいる。だが、その女性関係は慎ましかった。そもそも残された記録が少なく、艶話はまったく伝わっていない。
聖大帝には寵姫がいなかったのではないかと指摘する歴史家もいる。ある文献によれば、使用人の女仙をねぎらう茶会を開いていたというう。温和な一面が伺える逸話のある名君だった。
歴代の皇帝と女仙の関係は様々だった。哀帝は女性関係で思い悩んだ。たった一人の女性だけを愛し、自殺を遂げた。
後世で、ベルゼフリート・メガラニカは幼大帝と呼ばれる。全ての女仙を孕ませた大君主として、帝国史に名を刻む。すなわち、女仙であるリアは、いずれベルゼフリートの子を産む。
(お爺ちゃん。ずっと国に帰ってこれてないけど元気にしてるかな⋯⋯?)
このときのリアは知る由もないが、懐妊は近い将来に起こる出来事であった。
帝国軍の名立たる名将であり、現在はアルテナ王国の占領軍を指揮するウィリバルト将軍。百戦錬磨の老将が戦争を終えて祖国に帰国したとき、孫娘は赤児を抱えて出迎える。