2025年 2月9日 日曜日

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【46話】悪阻と妬心 嫉みの孕女

NOVEL亡国の女王セラフィーナ【46話】悪阻と妬心 嫉みの孕女

 妊娠2カ月を迎え、セラフィーナは悪阻つわりに苦しんでいた。

 セラフィーナは経産婦だ。第一子のリュート、第二子のヴィクトリカを過去に産んでいる。産みの苦しみは3度目の経験となる。過去2回の妊娠に比べ、悪阻つわりの症状が重たかった。

(ああ……。指先を動かすのも億劫になる倦怠感……。リュートやヴィクトリカのときより苦しいですわ。とても辛い……!)

 悪阻による怠さは、体重が数倍重くなったような感覚だ。

 嗅覚や味覚が鋭敏化し、身体の調子が狂う。身心の変調。ホルモンバランスの乱れは、セラフィーナの肉体が再び母親になろうとしている証だ。

 妊娠初期は子宮内の胎児が小さく、腹回りの膨らみはまだ目立っていない。

「セラフィーナ様、お加減はいかがでしょうか? 悪阻に苦しみをやわらげる果物をお持ちしました。お皿の上に切ったものを並べておきます。食欲がございましたら、口にしてみてください」

 セラフィーナは側女のリアから手厚い世話を受けている。

 尻尾を左右にぶんぶんと振り、愛らしい笑顔を向けていた。頼み事をする度、慌ただしく離宮の廊下を駆けていく様はまるで子犬だ。

「ありがとう。リア。少しいただくわ」

 リアはセラフィーナの妊娠を軍務省から事前に伝えられていた一人だった。

 発表されるまで、当人のセラフィーナにも秘密とするよう命じられ、リアは心苦しかった。ウィルヘルミナが妊娠の事実を曝き、リアに課せられた重荷は一つ減った。

「医務女官の方が、黄葉離宮まで検診に来てくださるそうです」

 天空城アースガルズの医療は医務女官の職域だ。公妃以上の階級を持たない者は、重症で動けないなどの事情がない限り、帝城ペンタグラム近郊にある医療院へ出向いている。

 不老不死の女仙たちが住む宮廷で、重病者が発生は稀だ。病人の大半は事故による怪我。最も多いのは二日酔いだった。

「妊娠中は帝室年金の給付額が上がりますよ。今のうちに、妊婦用マタニティの新しいドレスを仕立屋に依頼したほうがよろしいかと」

「それは……その通りですわね……。お腹が大きくなってきたら、手持ちのドレスは着られなくなってしまうわ……。腰回りが緩い下着も買わないと⋯⋯」

「お手伝いいたします! セラフィーナ様!」

「ありがとう。リア」

 セラフィーナは己を嘲り笑う。妊婦服など持ってきていない。妊娠する可能性は分かっていた。だが、こんなに早く身籠もるとは思わなかった。

「さっそくですが、ここにドレスの注文カタログを置いておきます!」

 興奮気味のリアは、数冊のカタログ本を持ってきてくれた。

 純朴なリアは真心を込めてセラフィーナの世話をしてくれる。

 側女の地位は主人の階級に比例する。リアは王妃ヘルガ・ケーデンバウアー侯爵の一門に属している。だが、直属の側近ではなく、下っ端の側女だ。リアの祖父は帝国軍の重鎮だが、生まれは非貴族であった。

「陛下の御子を妊娠している今なら、女官は配慮してくれます。必要な衣類、下着なども早めに申請してしまいましょう」

 リアが現在仕えているセラフィーナは、妃位を持たない無位無冠の愛妾だ。しかし、皇帝の子供を身籠もり、宮廷での扱いに変化が起こる。

 まず、女官達の態度が変わった。女官は皇帝に仕えているので、皇帝の御子に絶対の忠誠を示す。妊娠しているセラフィーナのために、女官は様々な便宜を図ってくれるようになるのだ。

「きっと査問会は中止になりますよ。医務女官長とヘルガ妃殿下が、査問会主審のラヴァンドラ妃殿下に勧告をしてくださったそうです」

「勧告……?」

「母体に悪影響を与えるので査問会を中止するようにと! ラヴァンドラ妃殿下は聞き入れてくださったと耳にしました」

 内実はリアの聞いた噂と少し異なる。既に帝国宰相ウィルヘルミナの命令で、査問会の無期限延期が言い渡されていた。軍閥派の働きかけがなかろうと、同じ結果となっていただろう。

「妊娠おめでとうございます。セラフィーナ様! きっと可愛い赤ちゃんが産まれてきますよ!」

 リアが主人の懐妊を心から祝福している。一方、もう一人の従者は複雑な心境だった。

「セラフィーナ様……その……何と申し上げたらいいのか……」

「ロレンシア。大丈夫ですわ。しばらくすれば体調は落ち着いてきますから……。妊娠と出産は経験済みです。悪阻が酷いのは今だけ。何も心配はありませんわ」

 男女の交わりを続ければ、いつかは子を身籠もる。あれだけ激しくセックスしたのだ。何ら不思議ではない。けれど、こんなに早く妊娠するとは、当人も含めて想像していなかった。

 セラフィーナとロレンシアの覚悟は甘かったのだ。

(セラフィーナ様が皇帝の子を妊娠してしまった。けれど、これは想定済み……。リンジーさんの言っていた通りにするだけ……! 私の役割はセラフィーナ様をお支えする。でも⋯⋯、この事実をガイゼフ王やヴィクトリカ王女が知ったら⋯⋯!!)

 非情な選択を迫られていた。

(アルテナ王国を救うために⋯⋯。ガイゼフ王やヴィクトリカ王女を切り捨てる。私たちは覚悟をしないといけない……。でも、本当に許される行為なの⋯⋯?)

 バルカサロ王国と手を切り、メガラニカ帝国の傘下に入る。現実的な道に思えた。属国や併呑に抗うため、自治権が保障された保護国を目指すのだ。

(祖国がバラバラに解体されて滅びるのに比べれば、屈辱であろうと生き残る道を選ぶべき……けれど……!)

 赤毛の従者は苦悩する。処刑されたリュート王子。国外へ追いやられたガイゼフ王とヴィクトリカ王女。

 ——アルテナ王家が味わった汚辱を忘れるべきなのか。

 ロレンシアは帝国に私怨を抱えていた。夫だったレンソンは、帝国に逆らったせいで再起不能となった。しかも、産まれるはずだった子供を流産させられている。

(一刻も早く、ウィルヘルミナ宰相の弱味を握らないといけない……。祖国を救うために! 私たちは行動しなければならないのに……っ!)

 セラフィーナが妊娠安定期に入るまで身動きはとれない。

 この数週間、無為の日々を過ごしていた。セラフィーナは主寝室のベッドで身体を休ませながら、取り寄せた帝都新聞に目を通す。

「この新聞を発行しているのは、というのですね」

「はい。ラヴァンドラ妃殿下の財閥は、帝都で指折りの大商会です」

「リアが持ってきてくれたマタニティ・ドレスのカタログに新聞と同じ紋章があるわ」

「ラヴァンドラ商会はさまざまな事業を手がけているんですよ。武器だけはドワーフ族の専売ですが、高級な日用品ならラヴァンドラ商会ですね。値段がお高めなので、庶民には手が届きません。でも、品質は良いはずですよ」

「新聞に掲載されている記事の質はどうなのかしら?」

「セラフィーナ様。帝都新聞の記事はお気になさらないでください……。帝都新聞の記者さんは⋯⋯。ちょっと偏っていると祖父が言っていました」

「大丈夫、私は気にしていませんわ。ほんの少し前まで戦争をしていたのです。アルテナ王国の女王である私がこき下ろされるのは、しょうがないと思いますわ」

 強がりで言っているわけではなかった。帝国の内情を知る情報手段として、新聞は大いに役立っていた。

「一つ聞きたいわ。リアは宮廷の外、天空城アースガルズから離れられるのかしら? そう、たとえば⋯⋯、どうしても必要なものを買うときは、どうしているの?」

「えっと、下界ですか? 宮廷外から生活必需品を運び込むのは、女官達の仕事です。私は後宮の側女となってから、天空城アースガルズを離れておりません」

「王妃や公妃なら外出できるのでしょうか?」

「皇后様は別だと思います。たぶん、妃様は外出許可が必要みたいですよ。女仙である私たちは瘴気を身に宿しています。穢れを抑え込む祝福を神官様から授からないと、普通の人間を害してしまうので、下界に降りてはならないそうです」

「⋯⋯外出の許可は誰に頼めばいいのかしら?」

「宮廷の出入管理は女官が取り仕切っています。女官総長のヴァネッサ様が判断していると思います。詳しくは知らないのですが、宰相府、軍務省、大神殿のいずれかが申請を行えば、許可をくださるらしいです」

「女官総長ヴァネッサの許可が必要なのですね。ありがとう」

 セラフィーナは医務女官が処方してくれた薬草茶を飲む。悪阻の苦痛を緩和する薬効がある。

(皇帝ベルゼフリートの過去を知るには、もっと情報を集めないといけませんわ。けれど、天空城アースガルズにいては限界がある⋯⋯)

 セラフィーナは子宮の疼きを抑え込む。

 愛する夫以外の子胤を注がれ、胎に宿ってしまった不義の忌み子。

(この子の母親は私。父親はベルゼフリート。そうよ。望んでいなかろうと子は産まれる。誰だろうと血の繋がった両親がいるわ。ベルゼフリートにも必ず⋯⋯!)

 出生を隠しているのなら、それには理由がある。どのような秘密があるのかは分からない。

 あの帝国宰相ウィルヘルミナが必死に隠す秘密なのだ。追いかける価値はある。

(絶対にウィルヘルミナの秘密を曝いてみせますわ⋯⋯!)

 悪阻のせいで気分は優れない。しかし、それでもセラフィーナの闘争心は滾っていた。

 セラフィーナは己の本心に無自覚だ。女王を焚き付けた軍閥派の妃達すら予期していなかった。

 皇帝ベルゼフリートの子供を妊娠した女王セラフィーナ。帝国宰相ウィルヘルミナとの出会いは、清楚な人妻を嫉妬する女に変貌させたのだ。

 セラフィーナは万人が認める美貌の女王。容姿だけならば、誰にも負けていなかった。

 どれだけ愚かで、どんなに脆弱で、どんなに幼稚な女であろうともだ。異性を魅了する妖艶な身体と端麗な顔立ちは何者にも劣らない。

 ——けれど、セラフィーナは敗北を知ってしまった。

 帝国宰相ウィルヘルミナ・ナイトレイは、あらゆる面で自分よりも優れている美女だった。

 自分と少し似ている。けれど、自分よりも上の存在に、人間は嫉妬心を抱くのだ。

 セラフィーナはウィルヘルミナに醜悪な妬心を向けていた。

 美しき黄金の女王はアルテナ王国を傾けたが、才色兼備の帝国宰相はメガラニカ帝国を復興させている。

 為政者として負けているなら、女の魅力はどうだろうか。自身の絶対的なアイデンティティーだった妖艶な美しさまで、ウィルヘルミナには完敗だった。

 あらゆる面で圧倒的に負けているのなら納得できた。しかし、容姿に限れば、あと少しだけ及ばない。

 ほんの僅かな差に思えてしまう。だからこそ、セラフィーナは生涯で初めて、ウィルヘルミナに嫉妬している。

(あぁ⋯⋯。皇帝陛下⋯⋯♥︎)

 祖国を守るためである。己の心を騙し、セラフィーナはベルゼフリートの来訪を心待ちにしていた。

 皇帝の心を奪ったとき、セラフィーナはウィルヘルミナに勝利できる。略奪愛。嫉妬に狂う女の劣等感を唯一拭い去る方法だ。

(約束してくださったけど、陛下はいつ訪ねてきてくれるのでしょうか……)

 まだ、セラフィーナは己の変貌を知らない。女陰から湧き出す愛液は、知らず知らずのうちに下着を濡らしていた。


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