セラフィーナとロレンシアの退室後、ヘルガは机の引き出しからある診断書を取り出す。セラフィーナから採取した尿、下着に付着していた経血の分析結果が記されている。
セラフィーナとロレンシアの動向について、ヘルガは世話係のリアから逐次報告を受けていた。
セラフィーナが訴えていた子宮部の鈍痛、膣部の出血。生理の先触れと考えられたが、念のためにヘルガは妊娠検査を行わせた。
「待たせてすまなかった。ユイファン少将」
「ヘルガ妃殿下。セラフィーナ女王に妊娠を伝えなくてよかったのですか?」
執務室の隣室で待機していたユイファンは、全ての会話を聞いていた。
「軍務省にも都合がある。妊娠済みとなったら、セラフィーナは皇帝陛下と接触できなくなる。大神殿で騒動があったらしく、女官どもがピリピリしている。懐妊の事実はしばらく秘密としておくとも」
「いつかはバレますよ。身体の変化は起きますから」
「2カ月くらいは誤魔化せるさ」
妊娠検査は陽性だった。しかし、軍務省はセラフィーナ女王の懐妊を隠す。
「ところでこの作戦、本当に上手くいくかね? ここだけの話、私は懐疑的だよ。セラフィーナの行動がやぶ蛇になりはしないか? 参謀本部のユイファン少将を疑うわけでないのだが、どれほどの自信がある。⋯⋯嘘偽りのない本音を聞きたい」
「手詰まりの状況では、使える手段を最大限行うべきかと。我々が動いたら軍事行動となってしまう。いくつか手は打ってあります。セラフィーナ女王は駒の一つに過ぎません」
「アルテナ王国の女王すら駒の一つか……。セラフィーナは哀れな女性だ。とはいえ、相手は切れ者のウィルヘルミナ宰相閣下。捨て駒だろうと、手駒は多い方がいい」
「はい。手段を選んで勝てる相手とは思えません」
「その点に関しては、私も同意見だとも。良心は痛むがね……」
「事態は緊迫しています。参謀本部は時間稼ぎはしますが、このままでは開戦を強いられる⋯⋯。レオンハルト元帥が評議会で奮闘したとしても難しいでしょう。軍務省の諸将がどれだけ働きかけようと、主戦派に支配された我が国は、戦争への歩みを止められない」
ユイファン少将の所属は参謀本部。作戦立案こそユイファンの本分である。
アルテナ王国との戦争で、ユイファンは大きな役割を果たし、准将から少将に昇進した。
「その点、セラフィーナ女王の妊娠は吉報です。アルテナ王国の貴族は帝国には従わないとしても、王家には忠誠を誓っています。セラフィーナ女王の産む子供は、非嫡出子だろうと政治的な利用価値が高い」
「産まれるのは王子か、それとも王女か⋯⋯。どちらにせよ、セラフィーナの胎に宿ったのは、皇帝陛下の御子だ。側女のリアにはセラフィーナ女王のおめでたを伝えておくよ。妊娠中にお酒を飲んだりしたら大変だ。服も妊婦用のものを発注しておこう」
「服ですか。たしかに、私の妊婦服をあげたいところですが、セラフィーナにはサイズが合わないでしょうし、注文しておいたほうがいいですね。……ところで服と言えば、ヘルガ妃殿下はその鎧を脱いだりはしないのですか?」
宮廷でヘルガの素顔を知る者は限られていた。付き合いがあるユイファンでさえ、まだ面貌を一度も見ていない。パーティーなどの華やかな席だろうと鎧を着込んでいる。
「全身鎧は私のトレードマークだ。極度のあがり症なのでね。これがないと人前には出られない」
◇ ◇ ◇
愛妾となったセラフィーナが、皇帝ベルゼフリートの夜伽を命じられたのは、天空城アースガルズに囚われてから約1週間後の4月10日であった。
皇帝付きの女官が黄葉離宮を訪れ、ベルゼフリートが夜半に来訪すると告示。夜伽の準備を指示された。
「すごいです! 黄葉離宮に皇帝陛下がいらっしゃるなんて!」
側女のリアは皇帝を間近で見たことがないらしい。興奮した様子で、犬の尻尾を荒ぶらせている。
「リアは今まで会う機会がなかったの?」
「大半の側女はそうですよ! それこそ皇后様の側近でもなければ、皇帝陛下とお会いする機会はありません!!」
皇帝がわざわざ出向いて、離宮に滞在するのは異例だとリアは語る。
そもそも与えられた離宮は、私生活を過ごす妃の住居。皇帝の夜伽は帝城ペンタグラムに呼び出されるのが通例だという。
ただし、逆に皇帝を呼びつける者達もいる。それは宮廷の頂点に立つ三人の皇后だ。
三皇后は帝城の自由な出入りを認められているが、女官の邪魔立てを嫌っているため、自身の統括するエリアに皇帝を招来する。
ベルゼフリートがセラフィーナの離宮を訪れるのは、帝国元帥レオンハルトが皇后特権を発動させているからこそ成せる荒技だ。
「セラフィーナ様……」
赤髪の従者は、沈痛な面持ちで主君の心情を察する。
ロレンシアは王都ムーンホワイトでの出来事を知っている。敬愛する女王が、悪帝の愛妾とされている現状に憤然たる思いだった。しかし、今のロレンシアは何もできない。
「リア。席を外してくれますか?」
「承知しました。庭の掃除をしていますね。ご用の際はいつものように呼び鈴を鳴らしてください」
リアは頭をぺこりと下げて退室した。室内はロレンシアとセラフィーナの二人だけ。密談の間だけは、アルテナ王国の女王として振る舞える。
「気後れはありませんわ。祖国を守るためなのですから。それにヘルガ王妃との取引を考えれば、皇帝の訪問は好機ですわ。この機会を逃してはなりません」
「不甲斐ない従者をお許しください。私もセラフィーナ様と同意見です。こうしている間、アルテナ王国は逆臣に蝕まれている⋯⋯。帝国軍の口車に乗るのは不快ですが、今は戦争を回避するべきです……」
「ええ。、今、戦争が起これば、アルテナ王国は分裂状態になってしまう。ヒュバルト伯爵の一件がどこまで事実かは分かりません。ですが、ウィルヘルミナ宰相の秘密を握れば、様交渉の切り札となりますわ」
皇帝ベルゼフリート・メガラニカ。齢13歳の幼すぎる大帝。その出生は謎に包まれている。
権力集中の抑止、近親婚の忌避。
2つの観点から皇帝の血縁者は、妃となる資格を有さない。
皇帝ベルゼフリートがナイトレイ公爵家の直系血族であれば、帝国憲法の規定に基づき、帝国宰相ウィルヘルミナ・ナイトレイは除斥対象となる。
(夜伽⋯⋯。私はまたあの皇帝に抱かれる⋯⋯。気は進まないわ。だけど、これが女王たる私に課せられた役割。愛していない少年に身体を許し、隠された出生の秘密を探る……)
セラフィーナは考え込む。相手は13歳の少年。息子よりも年下の子供だ。
子供を産んだ経験はあるが、女王の立場上、セラフィーナは子育ての経験がなかった。
(幼い皇帝の性欲を満たすだけではきっとダメだわ。宮廷には私より房事に秀でた妃がいる。身体を使うだけなら誰にでもできてしまう。それでは皇帝のお気に入りにはなれないし、親しい関係を築けない⋯⋯)
必要なのは信頼だ。ヘルガによれば、皇帝ベルゼフリートには強力な忘却術式がかけられており、その記憶を呼び覚ますのは至難の業だという。しかし、記憶には必ず断片がある。
それを糸口に記憶を辿れば、出生の秘密を暴けるとヘルガは助言していた。
「どうすれば、皇帝は心を開いてくれるのでしょう……?」
相談相手のロレンシアは言葉に詰まる。
王城の実力者であった上級女官リンジーならば、戸惑う女王に適切な助言を行えただろう。しかし、騎士ロレンシアは権謀術数と縁遠い暮らしをしてきた。答えを持ち合わせていなかった。
「えっと……その……! 相手が普通の男だったら、セラフィーナ様の美貌で虜にできたと思います」
「ふふふ、褒めてくれるのね? なんだか気恥ずかしいわ。⋯⋯けれど、宮廷で暮らす女性達を見ていれば分かるように、あの皇帝は美女に不自由していません。相手は普通の殿方ではなく、メガラニカ帝国の皇帝ですわ」
天空城アースガルズでは妃や女官どころか、下働きすら美少女だ。
側女のリアが良い例である。振る舞いは愛くるしく、愛想が良い。誰もが好感を抱くであろう純情可憐な犬族の少女。しかし、そんなリアでさえ、後宮の一員とは見做されず、単なる下働きだ。
「愛し合う間柄でなかろうと身体を重ね合えば、いつかは情が通っていくものなのかしら……」
セラフィーナは静かに想いを反芻する。
ベルゼフリートとの性交でセラフィーナは狂態を晒した。淫らに姦淫する姿はフィルム・クリスタルに記録されている。最愛の夫ガイゼフがその映像を見たとき、きっと妻を軽蔑するだろう。
(それでも構わないわ。たとえガイゼフやヴィクトリカから卑しまれたとしても……、殺されたリュートから蔑まれて当然の母親なのだから⋯⋯。私はアルテナ王国を守らないといけない)
セラフィーナは愛する家族を失った。これからはアルテナ王国のために尽くす覚悟だ。しかし、家族への慈しみは失っていない。
(ロレンシアだって幼馴染みのレンソンに対する愛慕は、消えていないはずですわ)
女性としては貴い気持ちだ。しかし、後宮で暮らす皇帝の女が抱くべき感情ではない。
「セラフィーナ様、情を通わせるというのは……その……申し上げ難いのですが、メガラニカ帝国の皇帝を愛するということですか?」
「私が彼を本気で愛していると思わせるわ。だって、そうでしょう? 嫌悪感を向けてくる女に親しみを抱いてくれるでしょうか? そうは思いませんわ。相手を騙すのなら、自分の心も騙すくらいでなければいけないわ……」
女王セラフィーナと皇帝ベルゼフリートの繫がりは、肉体関係を前提とした政略結婚。二人の心は通じ合っていない。
メガラニカ帝国の皇帝とアルテナ王国の女王の血を引く子供を作るために、不本意な性交している間柄だ。
愛し合っていない二人の男女。セラフィーナは祖国を蹂躙した帝国に憎悪を抱いている。ベルゼフリートとの不義の交わりで、快楽を感じている自分が大嫌いだった。
怨敵たるメガラニカ皇帝に股を開き、痴態を晒した淫猥な女王。陵辱された魂と体は穢れて堕落した。セラフィーナは自身を卑下していた。
「まずは私自身を騙し、心を偽らなければならないわ。すぐには難しいでしょう。だから、夫への裏切りを重ね、かつての私を不義で塗り潰して、幼帝の心を掴む……」
女王セラフィーナは黄金の長髪を靡かせる。蒼い瞳には薄暗い炎が宿っていた。
「お願い……。ロレンシア……。私はこれから人の道を踏み外します。全ては愛する祖国のため……っ! けれど、再びアルテナ王国の帰ったとき、人々から愛されていた無垢な女王に戻りたい。私が私でなくならいように……どうか私を支えてください……」
「私はセラフィーナ陛下に忠誠を誓った騎士です! このような場所で囚われ続ける日々は、永遠に続きません。必ず好機は訪れます。私達の愛する祖国、アルテナ王国に帰りましょう……ッ!!」
赤髪の騎士は悲痛の涙を流す。身を犠牲にする主君のために、誠心誠意を尽くして支える覚悟だ。
敵国の中心で孤立無援の二人。しかし、我が身の不幸を嘆いている暇はない。
こうしている間、アルテナ王国は存亡の危機に瀕しているのだ。
メガラニカ帝国とバルカサロ王国の狭間で、ヒュバルト伯爵を中心とする東部領主の独立騒動。この亀裂は確実に国家の瓦解を招くだろう。
皇帝ベルゼフリートの出生に関する秘密を突き止め、ウィルヘルミナ宰相の弱みを握らなければ、アルテナ王国に未来はない。