——メガラニカ帝国軍が国境の防衛線を突破し、アルテナ王国領に侵攻したのは約1カ月前のことであった。
国境の要衝にあたるイリヒム要塞を陥落したメガラニカ帝国軍は、敗走するアルテナ国王軍をあえて追撃しなかった。
機動力に優れるメガラニカ帝国軍は、補給線を脅かされるリスクを背負ってまで、王都の包囲に固執した。
アルテナ王国の王都ムーンホワイトは、二重の城壁に囲まれた難攻不落の城塞都市であった。太古の大魔術師が構築した魔導障壁は、一切の攻城兵器を無力化し、建国史上、一度も破られたことがない。
さらに、王都の防衛を任された近衛騎士団の士気は非常に高く、王都の住民も籠城戦に備えていた。
長期戦となれば、離散したアルテナ国王軍に再起の時間を与えることになる。戦力を再編成して王都の救援に向かうことは明白であった。
これを形勢逆転の好機と捉えたアルテナ王国のガイゼフ王は、可能な限りの兵力を集めるため、全軍を辺境まで大きく後退させた。そのうえで義勇兵を募り、2カ月後に大攻勢を仕掛けることにした。
その一方、メガラニカ帝国軍の諸将も、功を焦る参謀本部が判断を誤ったと考えた。
複数の上級将校が、王都ムーンホワイトへの進軍に反対する意見書を提出。しかし、参謀本部は具申をはね除けた。
二重の外壁を破るには、少なくとも3カ月以上の時間がかかる。魔導障壁にいたっては、攻略の糸口すら見つかっていなかった。長征によって限界まで伸びきった補給線を叩かれれば、敵領地の中枢に進軍したメガラニカ帝国軍は孤立を免れない。
補給線を断たれた後、逆包囲される危機を認識しながらも、帝国軍の諸将は参謀本部の命令に従い、王都ムーンホワイトの包囲作戦を実行した。
無論、ガイゼフ王にも懸念はあった。彼は最愛の妻であるセラフィーナ女王を王都ムーンホワイトに残していたのである。しかし、忠誠心の厚い近衛騎士団と牢固たる古都の二重外壁、不落の魔導障壁があれば、帝国軍の猛攻に耐えられると信じていた。
——しかし、帝国と王国、双方の予測は大きく外れる。
王都ムーンホワイト包囲から3日後、2月16日に戦況は一変する。メガラニカ帝国軍は二重外壁をあっけなく突破。頼みの綱であった魔導障壁も破られ、王都ムーンホワイトは帝国軍に占領された。
王都から遠く離れた辺境に逃れ、義勇兵を集め、悠長に再起を図っていたガイゼフ王の下に王都陥落の凶報が届いたのは数日後のことであった。しかし、悪い報せはそれだけに留まらなかった。
愛する妻セラフィーナはメガラニカ帝国軍の虜囚に。唯一の息子、第一王子リュートは帝国軍によって公開処刑された。
早すぎる王都ムーンホワイト陥落、直後に行われた女王セラフィーナの降伏宣言を受けて、国王軍の戦意は大きく損なわれた。
国王軍の指揮官であるガイゼフ王は健在だ。しかし、彼はアルテナ王家の血を引く者ではない。アルテナ王国の国主はセラフィーナ女王であり、ガイゼフ王は隣国から婿入りした王婿でしかなかった。
アルテナ国王軍の忠誠心は、王家の血を引くセラフィーナ女王に向けられていた。その心理を理解していたメガラニカ帝国軍は要求を突きつける。
敗残兵たる国王軍に対して、セラフィーナ女王の安全と引き換えに、ガイゼフ王の身柄引き渡しを求めた。
「——国王軍が守るべき主人はどちらか。行動で示せ」
メガラニカ帝国軍の要求は、単刀直入かつ明快であった。しかし、ガイゼフ王を差し出したとして、セラフィーナ女王が開放されるかは疑問が残る。
メガラニカ帝国軍は、第一王子リュートを処刑しているのだ。
慣習として禁じられてきた降伏後の王族殺し。それをためらいもなく行った侵略国家を信頼できるはずもない。要求を断ったとしても、今すぐにセラフィーナ女王が殺される可能性は低いと考え、国王軍は要求を拒絶した。
王都は陥落したものの、帝国軍が王国全土を掌握したわけではなかった。
また、ガイゼフ王は同盟国バルカサロ王国の王族で、祖国からの援軍を見込める。挽回の機会は十分に残されているように思えた。国王軍は祖国を救うため、打算的に行動をとるようになった。
けれど、それがガイゼフ王に疑心暗鬼の心を植え付け、亀裂の遠因となってしまう。
ガイゼフ王は援軍を求めるため、自身の祖国であるバルカサロ王国への転進を決断する。セラフィーナ女王を見捨てる形で、一時的とはいえ外国に逃れることとなる。それを良しとしない国王軍の大多数は従軍を拒んだ。
ところが、一兵でも戦力を欲したガイゼフ王は、命令に従わない者に反逆罪を科すと威嚇。同じ反帝国の旗を掲げる味方同士でありながら、彼らの足並みは大きく乱れた。
結局、国王軍は内輪での争いは不毛であるとして、ガイゼフ王の命令に従うと決めた。しかし、王婿ガイゼフとアルテナ国王軍の亀裂は決定的なものとなった。
結果論にも近いが、無謀に思えた王都ムーンホワイトの包囲を選択した参謀本部の決断は、正しかったと証明された。
◇ ◇ ◇
——王都陥落から1カ月後の3月23日、皇帝ベルゼフリートが帝国軍占領下の王都ムーンホワイトに到着した。白月王城で講和条約を結ぶための皇帝訪問だったが、最前線で戦ってきた帝国兵を労う意味合いも強かった。
正午過ぎに皇帝と帝国軍諸将の謁見。講和条約の調印式は夕刻に行われる予定である。
このときのセラフィーナ女王は、まだ自分が辿る苛酷な運命を知らない。今宵、ベルゼフリート皇帝に犯され、夫以外の子胤で、それも仇敵の子を宿してしまうなど知る由もなかった。
幼き皇帝ベルゼフリートもそれは同じだった。
実権を持たぬ皇帝は重臣に命じられるがまま、アルテナ王国に赴いたに過ぎない。皇帝にとって、今回が初の外国訪問であった。
「入城パレードは本当に陰鬱な雰囲気だったね。葬儀場で誕生日パーティーをしてもらってる気分かな? 歓迎されるとは思っていなかったけど、これほど目の敵にされるとはね。それとも腐った卵を投げつけようとするのが、アルテナ王国流の歓迎? 護衛が止めてくれて良かった。あんなのを頭に被ったら酷い匂いだったろうし」
皇帝ベルゼフリートの皮肉に帝国軍の諸将は思わず苦笑いする。
「皇帝陛下のご到着を心待ちにしておりました。こうして陛下の御前で戦勝報告を奉ずるは望外の喜びでございます」
「嬉しいね。でもさ、待ちわびてたのは、僕と一緒に運ばれてきた物資のほうではないのかな?」
「それを指摘されると返す言葉に困ります。忠臣としては否定しなければなりませんが、軍人として、そして酒を嗜む身としては、救援物資の魅力は中々に抑えがたいものでして⋯⋯」
困っていると言いながら、帝国軍諸将の口元はにやけている。皇帝の言葉遊び好きは、軍内部でも周知の事実だった。
「はいはい。そうでしょうとも。僕なんかに気を使わなくて良いよ。誉れ高い帝国軍が市民から略奪するわけにもいかないしさ」
帝国本土からやってきたベルゼフリートは、大量の物資を運んできていた。
いたずらに占領地から徴収するのも憚られる状況だった。皇帝が持参した支援物資は、兵站責任者を心の底から安堵させた。
なにせ補給線がぎりぎりなのに、大勝してしまったせいで、大量の捕虜まで抱えてしまったのだ。最悪の場合、略奪をせざるを得ない状況に追い込まれてしまう。
無論、帝国領から国主たる皇帝が、わざわざ足を運んでくれたとあって、帝国軍兵士の士気は最高潮に達していた。しかし、精神論では飢えに勝てない。軍事行動における兵站の重要性は語り尽くされている。
「帝国兵は意気揚々としているけど、アルテナ王国の民は、世界の終わりがやってきたかのような顔をしていたね。可哀想に。あのままだと自殺しちゃいそうだ」
「おそれながら皇帝陛下。この空気は一時的なものです。アルテナ王国の民は予想外の敗北で心を打ち砕かれているに過ぎません。時が経てば、徐々に我が国への反抗心が芽生えてくるでしょう」
現場の指揮を担う帝国軍中将の一人が具申した。反論を挟む者はおらず、各位が頷いて賛意を示す。
メガラニカ帝国は圧倒的に優位な立場にあった。しかし、ここから泥沼の戦争に突入することもありえる。
「アルテナ王国と講和条約を結ぶのは決定事項。僕がこうして、ムーンホワイトに足を運んだのも、この戦争を完全に終わらせるためだ。もっとも偉い人達次第では⋯⋯ってところもあるのかな? はてさて、どう転ぶのやら⋯⋯」
メガラニカ帝国の皇帝に政治的な決定権はない。
国家にとって重要な意思決定は、宮廷に設置された評議会によって行われていた。
皇帝の言う「偉い人達」とは、実際に国政を動かしている重臣達だ。
「帝国軍兵士を預かる前線指揮官としては、皇帝陛下の御聖断に感謝の言葉もありません」
「僕が決めたわけじゃないし、煽てられても恩賞は出ないよ。そういうのは軍務省や元帥府を通してもらわないとね。もちろん、君達の戦果は耳に届いている。正当な褒美があるはずだ。そうならなかったら、僕のところに文句を言いに来ればいい。僕は将軍達から文句を言われたと、『偉い人』に文句を言うから」
「皇帝陛下。我々は皇帝陛下と臣民に忠義を誓った軍人であります。功績を棍棒として、過大な恩賞を要求しようとは思いません」
「直訴が不敬に当たるとは思わないね。獅子奮迅の働きをした国士を蔑ろにするのは、それこそ国士に対する不敬ではないかな? なにせ宮廷は軍人嫌いが多い。君らが苛められているのではないかと、僕はいつも心配しているよ」
「なんと慈悲深き労り⋯⋯、我らには勿体ないお言葉にございます」
感極まった老将が瞳に涙を溜めている。ところが悪戯好きな皇帝は微笑を浮かべて、真相を語ってしまう。
「さっきの口上は受け売りだけどね。こういう言葉をかけてあげたら、百戦錬磨の老将もイチコロだって参謀部から聞いたよ。どうかな?」
「なるほど、作戦参謀の策謀でありましたか。確かに情に脆くなった老体には効果覿面であります。種明かしをしなければ、やはり号泣していたことでしょう」
「泣き顔よりは笑っていてくれたほうが、僕は嬉しいよ」
宮廷で軍務省の影響力は低い。宮廷の実力者によって軍部の意見が封殺されることは珍しくない。
このときの軍務省は戦争終結を模索している最中だった。快進撃を続けたメガラニカ帝国軍であったが、百戦錬磨の軍人達はこのまま勝ち続けるなど、絶対に不可能だと分かっていた。
数百の勝利を積み上げようとも、たった一度の敗北で逆転してしまう。その危険性も帝国軍の諸将は知っているのである。
(皇帝陛下がいらしたのなら、アルテナ王国との和約は確実に成される。戦場を知らない宰相府の行政官どもは、このまま王国全土を征服しろと言っているが、無知蒙昧もいいところだ⋯⋯。我が軍のどこに余力があるというのか。既に補給線は限界に達している。今が行動限界点なのだぞ)
占領したばかりの敵地を皇帝が訪問する。そのことを一部の者達は危険であると猛反対した。しかし、講和条約締結を確実なものとし、戦火の拡大を防ぎたい軍務省は奮闘の末、ついに玉体を動かすことに成功したのだ。
「皇帝陛下の御身を守るため、帝国軍兵士を王都ムーンホワイトに集結させております。王都防衛の任あたっていた王国軍の近衛騎士団は武装解除のうえ、要人は拘禁しております。しかしながら、ここは未だ敵地であります」
「言われずとも分かってるよ。王城を抜け出して城下に遊びにいくなってことでしょ。分かっているつもりだよ」
皇帝訪問は国内の主戦派を黙らせるための道具だ。皇帝の警護を理由に兵士を王都ムーンホワイトに集結させ、一時休戦の協定も結べた。
——ただし、皇帝は諸刃の剣だ。
(皇帝陛下の御身にもしものことがあれば⋯⋯、想像もしたくない事態となる)
講和条約は白紙となり、再び戦争が再開されてしまう。軍務省にとって皇帝訪問は起死回生の一手ではあったが、大きな危険も内包していた。
「皇帝陛下、そろそろお時間です。お支度をお願いいたします」
皇帝の傍らには、すらりと背の高いメイドが立っていた。帝国軍の諸将は顔にこそ出さないが、見目麗しい黒髪のメイドに対して、苦々しい感情を抱いている。
本来、国主の身辺警護は国軍の中から選抜された猛者があたると相場が決まっている。ところが、メガラニカ帝国においては奇異な宮廷文化があった。
皇帝の身辺警護は宮廷女官が独占している。
古来からの伝統とはいえ、もっとも栄誉ある皇帝の身辺警護に軍部が関われないのは、最大のコンプレックスだったのである。
「あぁ、もうそんな時間? そっか。それじゃあ、またね」
皇帝を連れ去る黒髪のメイドに対し、帝国軍諸将は憎々しい視線を向ける。
絶世の美女に対し、帝国の名立たる猛将たちが、皇帝を奪われたことで、嫉妬心を向けている。ギスギスとした雰囲気は、溺愛する孫を奪われた祖父の感覚に近い。あまりにも滑稽であった。
もし敵国の兵士に知られれば、大笑いされることだろう。
皇帝と護衛メイドが退席し、部屋に残された帝国軍諸将は不平不満を吐き出した。
「あのメイドは何様のつもりなのだ? まだ時間は余裕があるではないか! 皇帝を我が物面で⋯⋯、まったくなんとずうずうしい態度か! 皇帝陛下の権威に寄生する宮廷の女官どもめ。あの女は腰に差している上物の剣を一度でも抜いたことがあるのか?」
「的を射ていますな。あのようなお飾りが護衛では皇帝陛下の御身を守れるはずもない。安全な宮廷ならまだしも、ここは占領下の敵地。不測の事態も起こりえる。某も不安でならぬ」
「まったくだ。古来からの伝統とはいえ、なぜ栄誉あるインペリアルガードの要職を警務女官の侍女ごときが預かっているのだ? 宮廷では宰相派が率いる文官と宮廷女官が支配者面をしているとも聞くぞ」
諸将は口々に鬱憤を暴露する。
その中で唯一、無言を貫く准将がいた。
普段から沈黙を是とする武人気質の老将で、平民あがりの叩き上げである。
貴族出身の将校であっても、誰も彼を軽視はしない。積み重ねた戦果が彼の全てを物語っており、老将への侮蔑は帝国軍そのものを貶める行為に等しいからだ。
「准将、貴殿は何も思わぬのか?」
「⋯⋯剛健とは程遠い容貌である。しかし、だからといって経歴を無視して軽んじることはできまい⋯⋯。女官長ハスキー殿は決闘王の称号を持つ剣闘士。しかも、御前試合でレオンハルト元帥閣下に一勝を得た。人形のように美しいからといって、脆弱である証にはならん」
「御前試合か。ふむ。たしかにそうだな。しかし、あれはレオンハルト元帥閣下がお気遣いされた結果だ。三本試合のうち、一勝を恵んでやっただけのこと。真の勝利とはいえぬさ」
「さりとて、一勝は一勝であるぞ。仮に与えられた勝利だとして、我らはそれを誹る立場にあるだろうか。此度の戦において、我らは作戦参謀の指示に従って動いただけ。それも『補給線が持たない』『逆包囲の可能性がある』と不平不満を垂らしながらだ。我らが得た勝利こそ、参謀部の気遣いで与えられたモノと言えるのではないかね」
以後、老将は口を閉ざし、それ以上は反論することはなかった。気まずくなった他の将校も自然と沈黙した。
(此度の勝利で軍務省の発言力は多少は増すだろう。アルテナ王国の王都を占領せしめた功績は大きい。しかし、戦争は完全に終わったわけではない⋯⋯)
老将は戦争の本質を熟知している。始めることよりも、終わらせるほうが遥かに難しいのだ。
結局のところ、帝国軍はアルテナ王国の全土を支配していない。
(評議会で多数の議席を持つ宰相派を説得するには、宮廷で大きな力を握る女官の協力が不可欠だ。軍略に富んでいても、やはり武人は政略に疎い。この場にいる上級将校ですら、あの女官長と争っても利がないと分からぬのか⋯⋯)
老将は後宮に住む孫娘から、宮廷内の政治事情を聞き及んでいた。広い視野を持つからこそ、女官を敵に回せる状況にないと理解していているのだ。
(兎にも角にも、穏便にメガラニカ皇帝とアルテナ王家の婚姻が成り、和約が結ばれれば万々歳だ。血の交わりによる和平は強固である)
王都の占領後、帝国軍が真っ先に行ったのは、アルテナ王家の男子の処刑だった。
その目的はアルテナ王家の断絶ではない。メガラニカ皇帝とアルテナ王家の間に子供を作り、後のアルテナ国王に即位させる露払いだ。
メガラニカ帝国は、皇帝ベルゼフリートとアルテナ王国の王女ヴィクトリカの政略結婚を目論んでいた。
現在、アルテナ王家の女子はたった2人。
36歳の女王セラフィーナと15歳の王女ヴィクトリカのみ。婚前の乙女であるヴィクトリカが花嫁に選ばれた。
メガラニカ帝国は女王セラフィーナの扱いに困っていた。殺すわけにはいかず、かといって自由にしておくには危険な存在だった。
メガラニカ帝国にとって女王セラフィーナの存在が不可欠となるのは、王女ヴィクトリカの逃亡が露見してからのことであった。