〈プロローグ〉
僕は5年ぶりにザバック共和国を訪れていた。
東南アジアに属するザバック共和国は、大小1万3000以上の島々からなる発展途上国だ。国民の年間平均所得は、日本人の大学生が1カ月ほどバイトすれば簡単に上回ってしまう額だった。
悪い言い方をすれば貧しい国だ。政治体制は民主共和制だが実際は豪族が支配している。なにせ国民の大多数が文字を書けないのだ。しかし、単に貧しいというだけで、政府が圧政を敷いているわけでもない。
賄賂は当たり前のように横行しているが、限度と分別は弁えている。アメリカで言うところのチップみたいな扱いだ。良くも悪くも大らかな国民性なのだ。
首都には外資系のホテルがいくつかある。外国人だけが住めるのような居住地区を設けてあるのだ。外人特区と呼ばれ、日本の大使館などはそこにある。
日本と異なり、この国に四季はない。赤道に近いせいで猛暑が一年中続く熱帯気候だった。夕暮れには猛烈な突風と共に豪雨が降り注ぐこともある。スコールという気象現象だ。
日本でも最近はゲリラ豪雨なんてものがある。だけど、そんなものとは比べものにならない嵐だ。視界がゼロになり、ザバック共和国で主要な交通手段である船も立ち往生してしまう。
僕の勤めている日本の大手ゼネコンは、ザバック共和国から要請を受け、島々を海上連絡橋で繋ぐ大規模インフラプロジェクト「グレートザバック・リンク」の建設を請け負った。原資は日本政府からの政府開発援助金。いわゆるODAだ。
ODAは発展途上国へのばら撒きと批判されることもある。だけど、泥水を啜っていた貧困国に浄水場を建てたり、道のないジャングルを切り開いて道路を築き、その国の発展に尽くせるのは、やりがいのある仕事だった。
5年前、最初にザバック共和国を訪れたとき、僕は妻の紗江子(さえこ)を連れていた。大々的に執り行われる起工式には、パートナーを同伴させるように会社から命じられていたからだ。
代表団の一員として僕と紗江子は式典に出席し、ザバック共和国の人達から手厚い歓待を受けた。
ただ、その最中も紗江子はとても不機嫌だった。妻の考える海外旅行といえばヨーロッパの先進国を訪問すること。東南アジアの不衛生な途上国に来るのを紗江子は嫌がっていた。
ホテルでも下水にトイレットペーパーを流せないとガイドに教えられ、唖然としていた表情で固まっていたのを思い出す。
財閥令嬢の暮らしに馴れていた紗江子にとって、ザバック共和国は住み心地の良い国ではなかった。衛生的ではなかったし、日本に比べると全体的に小汚い。ストリートにはゴミを漁る野犬が彷徨いていた。
紗江子は世間知らずだが、礼儀知らずではない。現地の人に怒り散らしたりすることはなかった。だけど、ホテルに帰った後は、僕に沢山の愚痴をぶつけた。
不機嫌な妻を宥めつつ、式典の行事を終え、最終日に視察という名目で、海上の島々を巡るクルージング船に乗った。
使った船は豪奢なクルーザーで、ザバック共和国の高官が所有している私物だった。詳しくは知らなかったけど、海外製の有名なものだったらしく、ボロ船に乗るのではないかと怪しんでいた紗江子は、少しだけ機嫌を直してくれた、
——思い返せば、理由を付けて紗江子をホテルに残していればよかったのかもしれない。
クルーザーに乗ってから1時間後、僕達は海上で激しいスコールに遭遇した。周囲は真っ昼間なのに夜のように暗くなった。
猛雨に視界を奪われたクルーザーは前方を進む貨物船に気付かなかった。そのまま激突し、瞬く間に横転した。
海面に投げ出された僕は、先導していた現地ガイドの漁船に助けてもらった。僕は幸運だった。だけど、紗江子は高波に攫われ、遠洋に流されていった。
漁船に乗っていた青年が海に飛び込み、紗江子を助けようとしてくれたが、彼もそのまま行方不明となった。この海難事故で僕は最愛の妻を失った。
僕を助けてくれた現地ガイドの男性も息子を亡くして肩を落とした。会社や日本政府からお見舞い金が送られたと聞いている。だけど、家族を失った悲しみはお金で補えるものじゃない。
こうして海難事故で僕の妻は行方不明になった。
紗江子と結婚して、姫野小路(ひめのこうじ)家の婿養子となっていた僕は、家での居場所を失ってしまった。
紗江子が行方不明になってから1年後、裁判所の失踪宣告によって法律上、紗江子は死んだことになった。僕も踏ん切りをつけて、姫野小路家から離れることを決めた。名字を旧姓の金原に戻した。
今は金原陽介と名乗っている。新しい人生を歩んでほしいと姫野小路家の義父母には言われた。しかし、紗江子が死んだ実感は、5年経っても湧かない。
お嬢様育ちの紗江子に振り回されることも多かったけど、彼女は僕にとって最愛の女性だった。
海難事故で妻が失踪してから5年後、海上連絡橋「グレートザバック・リンク」は完成した。僕は日本で資材の調整だけをしていた。名目上はかなり上のポジションだったけど、やっていることは流れ作業だ。
誰にでもできることをやっていたに過ぎない。こうして竣工式を見届けにきたのは、プロジェクトの上役を気取りたいからではない。大海原のどこかにいるであろう紗江子の魂に別れを告げるためだった。
竣工式の翌々日、僕は離島の病院を訪れていた。
この二階建ての病院も日本の政府開発援助金で建てられたものだ。海上連絡橋を建造する際に病院と学校、インフラでは発電所や浄水施設も作った。
院長は国境なき医師団の女医だ。島民からも慕われていて、以前からザバック共和国でボランティアをしていたそうだ。
院長と別れた後、僕は廊下を歩いていた。ふと視線を前に向けたとき、廊下をゆっくりと歩いている女性がいた。その後ろ姿は、海に攫われた妻にそっくりだった。
ありえないとは思いつつも、気がつくと僕はその女性の肩を掴んでいた。
「あっ⋯⋯! ごめんなさい。驚かせてしまって。その⋯⋯。あっはははは⋯⋯。死んだ妻に後ろ姿がそっくりだったので、てっきり⋯⋯。ああっ! しまった! 馬鹿だな。日本語が通じるわけないのに⋯⋯」
現地語を話せない僕は手振りで謝る。呼び止めた女性の後ろ姿は紗江子に似ていた。けれど、日焼けで真っ黒に染まった全身を見て、別人だと分かった。
「えっと、ソーリー! あぁ⋯⋯。この国じゃ英語はダメだった。呼び止めてしまって、ごめんなさいって言いたいけど⋯⋯。えーと、現地語でどう言えば伝わるのかな⋯⋯」
原型の容貌こそ似ていたが、雰囲気はまったく違った。けれども、その顔立ちは日本人に近いように見えた。
顔に化粧で白線を三つ引いている。離島に住んでいる女性の身分は、化粧で分かると院長から聞いたばかりだった。白色はあまり身分が高くないそうだ。たしか漁師の妻であることを意味すると聞いた。
(この女性は妊娠してるのか⋯⋯。乳飲み子を連れているのにお腹が膨れている⋯⋯。そういえばザバック共和国は少子化とは無縁だって聞いたな)
妻とよく似た女性は赤子を抱えていた。そして、お腹も大きく膨らんでいる。かなり大きい。これくらいなら出産は近い。もしかすると臨月なのかもしれない。病院を訪れているのは、出産に備えた検診のためだろう。
(抱いている赤ちゃんは日焼けしてないから、皮膚がちょっと白いんだ⋯⋯。可愛いな。紗江子が生きていたら、赤ちゃんが生まれていたかもしれない。紗江子は⋯⋯ずっと子供を欲しがってたな⋯⋯)
赤子を抱えた身重の婦人は戸惑っている様子だった。無理もない。
見慣れないスーツを着た外国人が、意味不明の言葉を投げ掛けているのだ。逆の立場なら僕だって、どうすればいいのかと呆けてしまうに違いない。
「また⋯⋯会えるとは思ってなかったわ⋯⋯。5年ぶりってことになるのよね⋯⋯」
「え?」
「陽介なんでしょ⋯⋯? 私、紗江子よ」
心臓が止まりかけた。現地語じゃない。僕は彼女の言葉を理解できている。日本語だ。しかも、僕の名前まで口に出した。
「あぁ⋯⋯。あのね、久しぶりに日本語を喋ってるから、上手く言葉が出てこないわ。その⋯⋯えっ⋯⋯、死んだ妻に⋯⋯似てるって言ってくれたのね。こんなに日焼けしてるし、化粧だって現地風だから、知り合いと再会したとしても接待に気付かれないと思っていたわ。分かるものなのね⋯⋯」
「信じられない⋯⋯! 紗江子! 君は、本当に紗江子なのかい? 生きていたんだ⋯⋯! ⋯⋯でも、君は今まで⋯⋯。そんな身体にっ⋯⋯! どうして誰にも連絡をしなかったんだ⋯⋯! 沢山の人達が紗江子を探してたんだぞ⋯⋯っ!!」
奇跡的な再会を果たしたというのに、僕は妻の生存を喜べない。変わり果てた紗江子は、あれほど毛嫌いしていた途上国の住人となっていた。しかも、お腹には子供がいる。
僕以外の男と作った赤ん坊を身籠もっていると突きつけられた。眼前にある強烈な事実で、僕の心は裂けそうになっていた。抱きかかえている赤ん坊も、きっと紗江子が産んだ子だ。
ところが紗江子はもっと衝撃的な告白をした。
「子供は4人いるわ。男の子が1人、女の子が3人。お腹にいるのは5人目なのよ。お医者様はお腹にいる赤ちゃんは男の子だって教えてくれたわ。この国だと男手が必要だから、男児を産むと親戚からとても喜ばれるの」
「⋯⋯紗江子⋯⋯。一体何が⋯⋯?」
「子育てで今は忙しいわ。ふっふふふ。日本にいたころは、不妊治療しても授からなかったのにね。陽介と結婚してた10年間は一人も子供を授からなかった。でも、今は毎年子供を産んでいるのよ。お腹にいる子供を出産したら、きっとすぐに妊娠すると思う」
紗江子と結婚したのは24歳のときだった。不妊治療を10年続けていたのも事実だ。これは義父母すら知らない。夫婦しか知らない秘密だった。間違いなく目の前にいる妊婦は僕の妻だ。
「四十歳も間近なのに⋯⋯。避妊しないから、仕方ないのだけど、日本だったら笑われるでしょうね。こんな歳で妊娠しちゃうなんて⋯⋯」
僕と紗江子は同じ年齢だ。失踪したのは34歳だから、今の紗江子は39歳になっている。だが、同い年の僕よりも若く見えた。
「分かっているわ。陽介が聞きたいのは、そんな話じゃない⋯⋯。全てを教えてあげるわ。だって、陽介とは夫婦だったんですもの⋯⋯。もう二度と会うことはないと思っていたけど⋯⋯、これも運命なのかしら。こうして会ったのなら、ちゃんと説明しないといけないわ」
「いいんだ。⋯⋯と、とにかく⋯⋯紗江子が生きててよかった。君のご両親も心配している。日本にいる紗江子の友達も⋯⋯。まずは日本に紗江子が生きていたって連絡を⋯⋯!」
「それだけは絶対にやめて⋯⋯っ!」
「え?」
「日本に帰るつもりはないわ。心配してくれていた両親や陽介には悪いけど、この国で暮らすと決めたの。だから、私は死んだことにしておいてほしいわ。愛する夫と子供がいるの。お願いだから、そっとしておいてくれる」
「待ってくれ⋯⋯! 訳が分からない! 夫ってどういうことなんだ⋯⋯!? じゃあ、今の紗江子にとって、僕は一体何なんだ!?」
「ごめんなさい。私はこの国の人と結婚したの。驚くと思うけど、今は漁師の奥さんをしているわ。てっきり陽介も別の人と幸せになっていると思ってた。ずっと私を想っていてくれていたのね⋯⋯。本当にごめんなさい」
「信じられない。いや、信じたくない。どうして、こんなことに⋯⋯?」
「⋯⋯陽介は覚えてるかしら。5年前に私がクルーザーから海に投げ出されたとき、助けようとしてくれた現地人の青年がいたでしょう」
「あ、ああ! 覚えている。彼も遠洋に流されて行方不明になったと⋯⋯。紗江子と同じで死んだということになっていたけど、まさか彼も生きて⋯⋯! それじゃあ、君が結婚した相手は⋯⋯?」
「彼の名前はマハティール=ラマヌジャール。今の私は夫の姓を使って、サエコ=ラマヌジャールと名乗っているわ。抱きかかえている娘も、お腹の赤ちゃんもマハティールの子供よ。この5年間に私が産んだ子供達の父親も同じ。子沢山に思えるけど、この国だとごく普通の数だわ」
「そんな⋯⋯」
僕の膝から力が抜ける。倒れそうになった身体を壁に押しつけて、何とか体勢を支えた。
「この5年間に起きたことを説明してあげるわ。そうすれば私が日本に帰れないって、陽介も分かってくれると思うから⋯⋯」
紗江子に抱きかかえられている赤子が泣き声をあげる。乳房を揺さぶり、母乳をせがんでいるようだ。慣れた手付きで紗江子は上衣をずらし、豊満な乳房を露わにした。
僕の記憶では薄ピンクだった乳首が、茶色に変色していた。乳輪も大きく広がっている。紗江子が乳首を赤ん坊の口元に寄せると、泣き声をあげるのをやめて母乳を吸い始めた。
「お腹が空くとすぐに泣き出しちゃうの。お乳をあげながらでもいいわよね? あと少しで夫が迎えに来てしまうわ。そうなったら私は家に帰らないといけないの」
母親になった紗江子は、抱きかかえる我が子に愛情をたっぷり注ぎ、乳房からミルクをあげている。
僕の知っている紗江子は、美人だったけれど、もっと高飛車できつい性格をしていた。
財閥令嬢として甘やかされて育ったから、子育てだって一人できないと僕は思っていた。だが、紗江子の言葉通りなら、今や四児の母親なのだ。そして、5人目の子供が産まれようとしている身重の体だ。
「5年前のあの日、クルーザーが貨物船に衝突して、海に投げ出された私は必死に助けを求めたわ。陽介が漁船に引き上げられているのを見て大声で叫んだ。その時に陽介がどうしたか、覚えているかしら?」
「え⋯⋯」
「陽介は『早くを僕の妻を助けろ!』って言ったわ。そして自分を船上に引き上げた漁師の青年を押し出したでしょ。マハティールはずっと怒っていたわ。私の夫に船から突き落とされたって⋯⋯」
「いや⋯⋯ちがう! 僕は⋯⋯! そんなことはしていない!」
「責めているわけじゃないわ。マハティールの勘違いかもしれないし⋯⋯。でも、陽介も混乱していたから、本当のことは、ずっと分からないと思うわ。でも、それが切っ掛けだったの⋯⋯」
僕は何も覚えていなかった。漁師の青年は自発的に飛び込んだと思い込んでいた。人間の記憶は都合よくできていると聞く。
あの時は自分も溺れかけてパニックになっていた。そんな中で紗江子の叫び声を聞いた。無我夢中になっていて記憶は曖昧だ。
「どんどん沖合に流されていくのに、何もしてくれない陽介に失望したわ。もちろん、今は仕方なかったって分かってるから、気にしないで⋯⋯」
「あの時のことはすまないと思ってる。紗江子がどこにいるのか分からなかったんだ。沈んだクルーザーに取り残されているとばかり⋯⋯」
「マハティールは助けてやった陽介に突き落とされたと思ってたわ⋯⋯。だから、妻だった私に怒りをぶつけた。遭難生活の最初は、本当に最悪の関係だったわ」
紗江子は赤ん坊の髪を撫でる。髪質は紗江子に似ていない。当然、血の繋がっていない僕とも全く違う。癖毛はおそらく父親からの遺伝だ。
「不思議なものよね。最初は憎しみ合っていたのに、今はマハティールの奥さんになって、彼の子供を育ててるんだから⋯⋯。日本での生活は恋しくないわ。今の夫と漁村で暮らしているのが幸せなの。⋯⋯私がこうなっちゃうなんて、絶対に想像できなかった。陽介もそう思うでしょ?」
妻の語り口調は、まるで別れ話のようだった。話し始めるにつれて、紗江子は日本語の抑揚を思い出していった。
目を瞑れば、帰ってきた妻が話しているようにしか聞こえない。だが、失踪していた5年間に妻の身に起こっていた出来事は、僕の心を握りつぶすのに十分な力を持っていた。
姫野小路紗江子は語る。日本の名立たる大財閥の令嬢として生きてきた女が、途上国の青年に孕まされ、娶られてしまったのかを⋯⋯。
〈続きは鋭意執筆中〉