2024年 10月13日 日曜日

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【169話】偽りの心象世界〈前編〉

NOVEL亡国の女王セラフィーナ【169話】偽りの心象世界〈前編〉

 誰かがセラフィーナの背中を遠慮がちに揺さぶった。

(⋯⋯私は⋯⋯寝てしまっていたのかしら⋯⋯? ここは⋯⋯?)

 上半身に実った母性の象徴、巨大な双峰の乳房が振り子のようにぶらついた。

 汗ばんだ乳間が擦れ合う。両肩に掛かったブラジャーのストラップが張り詰め、千切れそうなくらいに軋む。

(だれ⋯⋯?)

 ゆっくりとまぶたを開ける。とても長い時間、眠ってしまっていた気がする。両目に飛び込んできた太陽光がまぶしい。

「――女王陛下。お目覚めください」

 久しぶりにと呼ばれた気がして、セラフィーナは不可思議な気分になった。しかし、何らおかしくないはずだった。セラフィーナはアルテナ王国でもっとも高位の女性なのだから。

(私はなぜここに⋯⋯? いいえ、それよりも、私を呼び覚ましたのは⋯⋯だれ⋯⋯?)

 女王セラフィーナはアルテナ王家の頂点に君臨する存在。リュート王子とヴィクトリカ王女が産まれるまでは唯一の王族だった。

「⋯⋯んぅ?」

 混濁気味の意識で間抜けな声を漏らしてしまう。まだほうけていた。

 セラフィーナは周囲をきょろきょろと見回した。生まれ育った王都ムーンホワイトの白月王城だ。大切な国賓をもてなす貴賓館の応接間で眠りこけていたらしい。

「何で⋯⋯? 白月王城?」

 椅子の肘掛けに寄りかかり、見っともなく傾いた姿勢を慌てて正した。女王のだらしない振る舞いに、周りの家臣は恥じ入って赤面している。

「リンジー?」

 思わず名をつぶやいてしまった。上級女官リンジー。先王の代からアルテナ王家に仕える旧臣。所詮は使用人に過ぎないが、セラフィーナの教育係であった女性だ。血の繋がった母親よりも、母親らしく接してくれた相手である。

「⋯⋯⋯⋯」

 セラフィーナの問いかけに、リンジーは答えてくれなかった。その代わりに態度で「しっかりと前をみなさい」と言われている気がした。

(私は居眠りをしてしまったのかしら? とても大切なことを忘れているような⋯⋯)

 理由は分からなかった。しかし、この場にリンジーがいることに猛烈な不自然さを覚えた。

「いやはや、大切な会談の席に申し訳ない。陛下は疲れが溜まっているようでしてね⋯⋯」

 聞き覚えのある男の声。間違えようはずがない。二〇年間の夫婦生活を共にした夫の声だ。ガイゼフはセラフィーナの失態を誤魔化そうと必死になっていた。

(ガイゼフ⋯⋯?)

 最大の友好国にして、アルテナ王国の安全を保障してくれる同盟相手、バルカサロ王国の王家から迎えた王婿ガイゼフ。居眠りをしでかした女王セラフィーナに、引きつった苦笑いを向ける。

 国家の命運を左右する大切な会談の場だった。

 相手はアルテナ王国を蹂躙できる強大な大帝国。非礼で皇帝の機嫌を損ねれば、苦労して行き着いた和睦案が台無しとなってしまう。

「⋯⋯⋯⋯?」

 妻の隣席に夫が座る。当たり前の出来事だ。しかし、セラフィーナの内心に渦巻く疑念はちっとも薄まらず、ことさら強まった。

(⋯⋯何か⋯⋯おかしいわ⋯⋯。でも、いったい何が⋯⋯?)

 古くから王家に仕える上級女官リンジー。一男一女の子供を儲けた愛する夫ガイゼフ。女王セラフィーナの近くにいるのは当たり前だ。けれども、目前の現実はなぜか受け入れられなかった。

「居眠りくらい僕もやらかす気にしなくていいよ。堅苦しい話は退屈だもん。僕もちょっと眠たくなってきた。旅の疲れかな」

 大理石のテーブルを挟み、対面に座る少年は女王の大失態を笑い飛ばした。息子のリュートよりも幼い皇帝。隣国のメガラニカ帝国の君主ベルゼフリートだった。

「ともかくさ、バルカサロ王国とのが回避できてよかったよ」

(戦争⋯⋯?)

 何かを思い出そうと考え込む。だが、セラフィーナは忘れてしまっていた。

「平和が一番だよね。これでメガラニカ帝国と中央諸国の関係は改善される。仲裁をしてくれたアルテナ王国には大感謝♪ やっと国内の問題が片付いたばかりだってのに、隣国と戦争なんてやってられないよ」

 満面の笑みでベルゼフリートは、セラフィーナとガイセフに感謝を述べる。

(戦争の回避⋯⋯。そうでしたわ。メガラニカ帝国との関係が悪化したとき、全面戦争を回避するための和平交渉が行われて⋯⋯)

 メガラニカ帝国とバルカサロ王国、二つの大国に挟まれたアルテナ王国は生き延びる道を模索した。両国で戦争が起きれば、アルテナ王国は巻き込まれる。そして、悲惨な亡国の道を辿ってしまう。

「アルテナ王国としても、無用な争いが避けられて嬉しく思っておりますよ。ベルゼフリート陛下の寛大なご処置には感謝の言葉しかございません」

 小競り合いを続けていたメガラニカ帝国とバルカサロ王国は和解した。その仲裁を行ったのがアルテナ王国である。そのようにガイゼフはペラペラと饒舌に説明した。

(戦争の回避? こんな大切な出来事を忘れるはずがありませんわ。けれど、そういう話だったのかしら⋯⋯? メガラニカ帝国との融和⋯⋯? え?)

 アルテナ王国はバルカサロ王国の軍事協力を拒絶し、メガラニカ帝国からの信頼を得た。綱渡りの外交交渉であった。一歩間違えれば、両方を敵に回しかねない大博打。しかし、アルテナ王国は成し遂げた。大国同士の大規模な軍事衝突は回避された。

(えーと、覚えがあるわ。リンジーの進言で⋯⋯バルカサロ王国に軍事支援は絶対にしてはならないと⋯⋯。でも、ガイゼフや家臣団は賛成してくれなかった⋯⋯気がしたのだけれども⋯⋯)

 セラフィーナの夫であるガイセフは、バルカサロ王家の男子である。祖国の救援要請を拒絶するのは難しかった。しかも、アルテナ王国はバルカサロ王国と軍事同盟を結んでいる間柄だ。

 賢明なリンジーは軍事同盟に亀裂が入っても、バルカサロ王国の無謀な軍事侵攻に加担してはならないと強弁した。

 ――アルテナ王国のを回避する絶対条件であった。

 軍事侵攻の際、バルカサロ王国軍に国内の通行を許可すれば、メガラニカ帝国の矛先はアルテナ王国に向けられる。

 女官如きが君主に意見するのは不適切だと大批判に晒された。しかし、リンジーの諫言は至極真っ当だった。

「国交正常化が一段落したら、交易の件もよろしくお願いね」

「ええ。もちろんですとも! メガラニカ帝国とアルテナ王国は共存共栄。平和と富を分かち合いましょうぞ!」

 朗らかなベルゼフリートの表情を見て、ガイゼフは胸を撫で下ろし、安堵している。相手は自分の子供より年下であるが大帝国の君主。しかし、この少年が機嫌を損ねれば、アルテナ王国が滅びかねないとビクついていた。

「商売と交流の活性化は急務です。隣国同士だというのに、交易がほとんどなされていなかった。今までの関係性が異常だったと言わざるを得ません!」

「うちの国はちょっと特殊だったからね。諸事情で鎖国状態だった。でも、僕が皇帝になって国内の問題はすべて解決したよ」

「皇帝陛下の手腕は聞き及んでおります。いやはや、私にも息子が一人おりますが、皇帝陛下ほど聡明であれば⋯⋯と考えてしまいますよ」

「ありがとう。そっか。王子と王女がいるんだってね。歳が近いなら仲良くしたいな」

 諸事情についてベルゼフリートは深く語らなかった。しかし、セラフィーナはメガラニカ帝国の内情を深く知っている気がした。それがなぜなのかは分からない。

「今後は外国にも国内市場を開放する方針。じゃんじゃん物を売りに来てほしいし、逆に帝国の物を買い付けてくれると嬉しいかな」

「まったく我が国も同じ考えです。まさしく! 共存共栄の時代ですな!」

 上機嫌なガイゼフがベルゼフリートと穏やかに言葉を交わしている。お気楽な光景がセラフィーナには受け容れがたかった。

(――おかしい。こんなのは違うはずですわ)

 天と地が逆さまになっているような、炎が冷えているような、氷がだっているような、不快感を伴う強烈な矛盾に襲われた。

「皇帝陛下、アルテナ王国との通商交渉は次回の会談に持ち越しですわ。まずは両国の国交正常化を周辺諸国に認めさせねばなりません」

 妖艶な美女が幼年の君主に耳打ちした。ベルゼフリートの隣りに座るべきは正妻たる皇后である。

 セラフィーナは三人の見知らぬ美女の顔が浮かんだ。サキュバス族の賢女、アマゾネス族の軍人、ハイエルフの神官。けれども、今この瞬間、ベルゼフリートを輔弼ほひつする傍らの美女はその三人と合致しなかった。

「――?」

 あまりにも礼を失した不躾ぶしつけな質問だった。ガイゼフとリンジーは息を飲み込んでいたし、ベルゼフリートは不可思議そうな視線で見詰めてくる。しかし、正体不明の美女は嘲笑せせらわらう。

 口角をつり上げ、自慢顔で高らかに名乗った。

「私はレヴェチェリナ・ヴォワザン。メガラニカ皇帝ベルゼフリート陛下の皇后にして、帝国宰相の任を預かっておりますわ」

「⋯⋯⋯⋯」

「既にご挨拶をしたつもりだったのけれど、私がこの場にいるのは不自然かしら? 女王陛下は私に何か思うところがあるようですね」

 レヴェチェリナの丁寧な言葉には鋭い棘が見え隠れする。

「貴方がメガラニカ皇帝の正妻⋯⋯?」

「あぁ⋯⋯。なるほどですわ。セラフィーナ様はメガラニカ帝国の宮廷文化が理解できないのですね。我が帝国は一夫多妻制、皇帝陛下は多くの妻と妾をお持ちですわ。帝都ヴィシュテルの後宮ハーレムには一〇〇〇人を超す美女が暮らしているのです。正妃ではありますが、私めは女仙の一人に過ぎません」

 そんな分かりきったことを問いただしているわけではなかった。レヴェチェリナがベルゼフリートの正妻面をしている。その事実が虚構の塊に思えた。

「セラフィーナ様はお疲れのご様子ですわね。ベルゼフリート陛下もそろそろお昼寝のお時間です。良いお時間ですわ。会談を切り上げましょうか?」

「大賛成。初めての外国訪問だからワクワクしちゃってさ。昨晩はまったく眠れなかったんだよね。今ごろになって疲れが出てきちゃった」

「はっはははは⋯⋯! それもそうですな。昼過ぎは眠気を感じ始める頃合いですからね。アルテナ王国の三月はメガラニカ帝国と違って温暖です。過ごしやすいですよ。心置きなく、貴賓館でおくつろぎください」

 焦り顔のガイゼフは明らかに早口だった。セラフィーナのさらなる失言を恐れて、早めに会談を終わらせたがっているのが見え見えだ。

 上級女官リンジーは厳しい表情でセラフィーナに視線を向けている。

(アルテナ王国での平穏な日常。メガラニカ帝国との戦争が回避されて、友好親善を深める⋯⋯。そんな話だったのかしら⋯⋯?)

 絶対に失態をやらかしてはいけない君主同士の会談。だが、セラフィーナの胸中は乱れていた。

(あぁ⋯⋯、なぜなの? 心臓の動悸が異様に速まる⋯⋯)

 無礼な物言いを恥じているわけではなかった。荒立つ心中は何かを叫んでいる。

(メガラニカ帝国の皇帝ベルゼフリート⋯⋯)

 言葉では表せぬ狂騒が魂の奥底で目覚めた。

(どうしてなのでしょう。あの可愛らしい少年を見ていると鼓動が高鳴る。興奮で頬に熱が籠もってしまう⋯⋯。下腹部の疼きが⋯⋯止まらない⋯⋯。ふしだらな⋯⋯許されざる感情を抱いてしまうわ)

 偽りの世界で本来の記憶を奪われようとも、子宮に刻まれた淫夜の痕跡は消し去れない。傍らに長年連れ添った夫がいるというのに、初めて会った美しく幼い皇帝を、異性として強く意識してしまった。

(この気持ちは⋯⋯何だというのかしら⋯⋯?)

 セラフィーナの陰裂は愛液でしっとりと濡れ始めていた。

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