屍都ヴィシュテルを散策する青髪の少女がいた。
十代前半の華奢な少女。温和な顔付きで、人懐っこそうな垂れ目。愛らしい見た目を引き立てるお洒落なワンピースの衣装。頭部から生えた二本の鬼角を除けば、人外的な特徴はなかった。
――しかし、魔物を狩る者達が見れば少女の異常性に勘付く。
身の毛がよだつ死の気配。一人や二人を殺した程度の魔物が放つ気配ではなかった。
数十人、数百人、数千人、数万人の人間を餌食にしてきた凶悪な魔物。人間を騙す可愛い少女の姿は偽り。人間の仕草を完璧に模倣しようとも怪物は怪物だ。
「よいしょっと⋯⋯!」
荒れ果てた道を塞ぐ瓦礫を飛び越える。フリルのスカートに付着した砂埃を払う。上位種の魔物は人間から奪った衣類や装飾品を使うこともある。しかし、彼女のようにお気に入りの服を着こなす魔物は希だった。
「あれれ? このあたりにいつもいるのに。何処行ったのかな?」
変わり者の魔物は周りを見渡す。
「何の用だ? ピュセル」
牛頭鬼の魔物キュレイはのこのことやってきた少女を睨みつける。威圧的な悪意を向けられたにも関わらず、ピュセルと呼ばれた少女はニッコリとほほ笑みを返した。
「そんな邪険にしなくてもいいじゃない。キュレイのお見送りで来たのよ。私も帝都に行きたかったけどお留守番だから」
神喰いの羅刹姫ピュセル=プリステス。
悪業の魔女レヴェチェリナがアガンタ大陸の魔物に協力を呼びかけたとき、真っ先に応じた上位種の魔物だった。
「見送りだと? 笑わせてくれる」
「笑ってくれるんだ。嬉しい。でも、その割には笑ってないね」
「⋯⋯本気で言ってるのか?」
本当の目的は何なのかと問いただす。しかし、ピュセルは困り顔で照れた。
「人間はね、危ないところに向かう仲間を心配するんだよ。私もそうしようと思ったんだ。私は仲間想いなんだ」
「⋯⋯意味が分からない」
「意味? キュレイがこれから攻め込むのはメガラニカ帝国の都。とっても危険なところだよ。無事に帰ってきてほしいの」
「おかしな奴だ⋯⋯」
「魔物に同胞愛はないから、そう見えちゃうだろうね。こうして私達が徒党を組んでるのも一匹だと人類に対抗できないせい。仲間が死んで苛立つのは、勢力が衰えるからであって、仲間の死を想ってるわけじゃない。でもね、私は悲しくなっちゃう」
廃墟に残された椅子の砂埃を払う。ピュセルの仕草は全てが人間の模倣だった。
「魔物は馴れ合わない。それだけだ」
「私がこんなに心配してあげてるのに。キュレイは性格が悪いね。女の子の善意は素直に受け取らないと嫌われちゃうよ?」
「性格が悪い? 貴様ほどではないぞ。魔物の擬態くらいは見抜ける。随分と上手い猿真似だ。貴様には善意など欠片もないだろうが」
「手厳しい評価。もうちょっと優しくしてくれてもいいと思うよ?」
「その見た目と振る舞いで、愚かしい人間を騙してきたのだろうな。しかし、無駄だ。貴様が帝都に行きたいというのも嘘だ」
「どうしてそう思うのかな」
「貴様は自分の死を恐れている」
「⋯⋯そう。やっぱり分かっちゃうか。仕方ないよね。利己的な行動原理に従うのが魔物⋯⋯。うん、私は帝都には行きたくないかな。最悪、死んじゃう気がするし。私は勇気とは無縁。敵地のど真ん中に攻め込むのは、ちょっとした自殺行為だもん」
本心を見透かされてもピュセルは偽りの笑顔を崩さない。
「なぜ人間を模倣をする? 貴様が騙すべき馬鹿な人間はここに一人もいないぞ」
「趣味だからかな? 私が生きる理由でもあるしね。キュレイは人間を滅ぼしたくてレヴェチェリナの計画に協力してるんでしょ。私も一緒だよ。ちょっとだけ違うけど」
「⋯⋯何が違う?」
「私はね。人間を超えられるか知りたい。魔物が人間以上の存在になれるのか確かめてみたい。私達は生き物ですらない。生命ではあるけれど⋯⋯」
「生き物ではない? そんなわけがあるか。アンデッドなら死に損ないだが、少なくとも私は生きているぞ」
「人類の賢者は三つの条件で生物を定義した。条件の一つは細胞。これは魔物にもあるね。二つ目はエネルギーの代謝機能。私達の身体には魔素が宿っている。だから、二つ目までは満たしてる。でも、三つ目の条件は不適格⋯⋯。ちなみに冥王は九つ条件があると生物を再定義した。どっちにしろ魔物は生物とは言えないと結論を下してるけどね」
「くだらんな。貴様は人間に憧れているのか?」
「そうかもしれない。妬ましくて、羨ましくて、劣等感が沸々と湧いてくる。殺し尽くしたいくらい私は人間に憧れてるよ。だから、必死に人間を真似をしちゃうのかもね」
ピュセルはキュレイに手製の護符を渡した。受け取りを拒否する手に無理やり押し付ける。
「何の札だ? いらん⋯⋯」
「あげる。持っていって。その護符は私が創ったの。絶対に役に立つよ。キュレイは帝都アヴァタールで恐るべき人間と戦う。アレキサンダー公爵家の七姉妹⋯⋯。まともに戦ったら死んじゃうよ?」
「アレキサンダー公爵家の能力はレヴェチェリナから聞いている」
「警戒しているだけじゃ不十分。人間は手強いよ。たぶん、私が殺した大昔のアレキサンダー公爵より、噂の七姉妹は強そう。次元操作をほぼ完璧に使いこなしてる」
「殺した? アレキサンダー公爵家と戦ったことがあるのか?」
「栄大帝の時代にね。私達の周りに広がる廃墟の街並みが美しかった遠い過去。当時のアレキサンダー公爵を殺せたけれど、栄大帝には勝てなかった。どっちがバケモノか分からないよね」
「栄大帝⋯⋯?」
「私の猿真似を見抜けるなら本音が分かるよね? 殺されないように気をつけて。退き際を見誤ったら、マルファムみたいにあっけなく殺される。私はキュレイに死んでほしくないよ」
ピュセルの言葉は嘘か真か、キュレイは判断に迷う。
往古の時代から生き続ける忘れ去られた伝説の魔物。神喰いの羅刹姫ピュセル=プリステス。その正体を知る者はレヴェチェリナ以外にいなかった。
「貴様、いつから生きている⋯⋯?」
「秘密。女子の年齢を聞くのは失礼だよ。私は十八歳のお姉さん。馬鹿な人間は信じてくれてるよ」
人間を模倣した外見のせいでピュセルは仲間達から侮られている。しかし、キュレイは見た目で相手を侮るような愚かさは持ち合わせていない。底知れぬ魔素の深み、身体から発せられる死の気配。一国の軍勢を鏖殺できる戦闘能力は持ち合わせているはずだ。
(こいつもこいつでレヴェチェリナと同じくらい魔物らしくない魔物だ。何を考えているのかさっぱり分からない。⋯⋯不気味な奴だ)
むしろ人外が跋扈する環境で、人間を真似ているのはおかしい。飢えた狼の群れに子羊が混ざっている異様さ。化けの皮を被っているのは明らかなのだ。
「公爵家の七姉妹。祖父は救国の英雄アレキサンダー。私は彼も知ってるよ。戦いはしなかったけど強い人間だった。彼なら絶対に死恐帝を救えると思った」
「何なんだ貴様は? 何を企んでいる?」
「よく訊いてくれました。私が期待してるのは変質だよ⋯⋯。死恐帝の災禍は五〇〇年以上続いたけれど、私達に何の影響も与えてくれなかった。だから、早く終わらせてほしかったの。停滞の時代だった。レヴェチェリナも手詰まりだったみたいだしね。新しい時代を切り拓いてくれそうなアレキサンダーを手助けしたのは事実。皮肉なものだよね。先祖を殺した魔物が後裔を支援してたんだからさ」
「質問の答えになっていないぞ。目的は何だ?」
「答えが知りたいの? キュレイも変わり者の魔物だね。素質があると思う。レヴェチェリナに協力してるのは、私が栄大帝に勝てなかったからだよ。自分の無力さを悟ったわけ」
「俄には信じられないな。栄大帝が君臨していたのは数千年前の時代だぞ」
「大昔も今も変わらないよ。⋯⋯私達はいつも不利な条件で戦わされてる。魔王は勇者に滅ぼされ、冥王は魔物を見捨てた。王なんか当てにできない。⋯⋯だから、私は救い主を求めてる。虐げられた民の祈りを聞き届けてくれる救世主が必要でしょ?」
「馬鹿らしい。そんなものは存在しないし、必要ともされていない。ひたすら人間を殺し尽くせばいい。あらゆる人間を凌駕し、何もかも蹂躙する。それこそが魔物の本懐だ」
「豪快で蛮勇、とっても素敵だわ。昔の私を見てるみたい」
「⋯⋯⋯⋯」
「そんな怖い顔をしないで。武運を祈ってあげる。だから、その護符は持っていってね。あっ! それとね! ちょっとでも感謝する気持ちになれたら服を奪ってきて。私、可愛くてお洒落な服が欲しいの。お土産、よろしくね」
立ち上がったピュセルは地面に落ちていた絵画を踏みつける。
アガンタ大陸の統一し、人類を脅かしていた魔物を辺境に放逐した偉大な君主。帝都の人々は栄大帝の尊影を拝み続けていた。
破壊帝、哀帝、死恐帝と三人の皇帝がいたにも関わらず、人々はメガラニカ帝国の黄金期を築いた栄大帝への崇拝を止めなかった。
(一度は大陸を平定した大帝国がほんの半世紀前まで滅びの淵に立たされていた。私が思うに君達が悪いよ。栄大帝と大宰相⋯⋯。人々が立ち向かうべき宿敵を君らが徹底的に排除した。あまりにも繁栄が長すぎたんだ。甘やかしすぎ)
ピュセルは屍都と化したヴィシュテルの大通りを練り歩く。扇状に広がる市街地の中心に陣取る帝嶺宮城は、どこからでもよく見える。
(地脈と気脈を堤を切り崩す準備、そろそろ始めようかな。仕事を滞らせたらレヴェチェリナに叱られちゃう。これから忙しくなるわ)
◇ ◇ ◇
日の出が間近に迫った早朝、セラフィーナはベルゼフリートの寝室で目を醒ました。
前日の昼過ぎに呼び出されてから、ずっとセックスをし続けた。さすがに完徹とはいかず、夜半過ぎに疲れが出始めて、いつの間にか眠ってしまった。
「ぬぅ、すぅう⋯⋯。うぃるへるみにゃぁ⋯⋯しっぽ⋯⋯らめぇ⋯⋯。むにゃむにゃぁ⋯⋯さきっちょだけでも⋯⋯だめ⋯⋯だめだってばぁ⋯⋯んぅ、んぅう⋯⋯らめにゃの⋯⋯」
ベルゼフリートは夢の世界でもお愉しみ中のようだった。ニヤけながら寝息を立てている。
(陛下はまだ寝ているわ。身体が重たい⋯⋯。何時間、眠れたのかしら⋯⋯? まだ外は暗いみたい。とっても眠いですわぁ⋯⋯ふわぁ⋯⋯。でも、起きないと⋯⋯)
セラフィーナは瞼を擦る。まだ寝床への未練があった。許されるのなら、再び上半身を横たえて、眠りに落ちてしまいたい。
「静かに、陛下を起こさないように気をつけてください」
声量を抑えた囁き声で告げられる。セラフィーナを起こしにきたのはタイガルラだった。
「タイガルラさん⋯⋯ふぁわぁ⋯⋯ぁ⋯⋯」
セラフィーナは欠伸を手で押さえ込む。何度も瞬きを繰り返した両目から涙が流れた。
「こちらへ」
以前に黄葉離宮で会ったときは帝国軍の重装鎧を着込んでいたが、今はカジュアルな私服を着ていた。
(服装が違うと女性的に見えますわ。それとも結っていた髪を解いているからかしら? 綺麗な銀髪ですわ)
深夜に天空城アースガルズの軍務省を出立し、グラシエル大宮殿に到着したばかりだった。
白髪の屈強な女戦士。アマゾネスの体格は大柄と相場が決まっている。タイガルラはその中でも一際に肩幅と背丈が高かった。
(私はハイヒールを履いているのに、見上げるくらいの身長差⋯⋯。タイガルラさんはレオンハルト元帥より背丈がありそう)
セラフィーナも身長は高いほうだ。けれど、タイガルラとは頭一つ以上の差があった。
タイガルラに手を引かれて、ベルゼフリートの寝室を抜け出す。愛しの主君と離れ離れになるのは寂しかったが、今日からは軍務省の仕事に取りかからねばならない。
寝室前の廊下に出る。灯りが眩しかった。思わず目を細める。室内に比べると空気が冷たかった。上乳を露出させた寝間着では肌寒い。しかし、眠気を吹き飛ばすには程よい刺激となった。
(警務女官と軍閥派の側女がこんなに大勢。昨日の夕暮れよりも増えているような⋯⋯)
警務女官長ハスキーは寝室内におり、五人以上の護衛が室内にいたはずだ。それに加えて廊下には警務女官と帝国兵の混成部隊、人員は三十人を軽く超えている。
(私が寝室で叫んでしまった嬌声もおそらく聞かれてしまった。こんな大人数に付きまとわれたら、居心地のよい生活とはいかないでしょうね)
護衛の女仙達は選りすぐりの美女揃いではある。侍らせていればさぞかし気持ち良いだろう。しかし、皇帝ベルゼフリートにとっては、美女に囲まれた生活は日常の一部。護衛されるとは監視と同義だ。
ベルゼフリートの一挙一動を彼女達は注視する。自由に飢える気持ちがセラフィーナにも分かってしまった。
「――陛下のご様子はどうだい?」
他者を萎縮させる貫禄。アマゾネスの特徴である偉丈夫な体格。どことなく帝国元帥レオンハルトと似通った声質の女性がタイガルラに話しかける。
「穏やかに眠られています。姉上」
タイガルラから姉上と呼ばれた女性は、値踏みするようにセラフィーナを見下ろした。
「嗚呼、貴公とは初めましてだった。お務めご苦労。アルテナ王国の女王。私はシャーゼロット・アレキサンダー。アレキサンダー公爵家の長女だ。妹達が世話になってると聞いたよ」
威圧されているわけではない。シャーゼロットの挨拶に悪意は微塵も含まれていなかった。だが、圧倒的強者のオーラは自然と弱者の身体を竦ませる。
発する雰囲気だけで比べるのならば、帝国元帥レオンハルトより遙かに恐ろしく感じた。
呼吸をすることにすら許可を請いたくなる支配力。かつてのセラフィーナであれば尻凄み、言葉を失ってしまっただろう。
「セラフィーナ・アルテナと申します。アルテナ王国の女王ではありますが、この場では皇帝陛下の愛妾ですわ。そのように扱って頂きたく、シャーゼロット様」
皇帝の寵愛を授かった愛妾。後宮での暮らしはもうじき一年となる。三皇后と渡り合ってきたセラフィーナは怖じ気づかない。たとえ相手がどれだけの力を持つ強者であろうと、宮中ではベルゼフリートに庇護されている。
「ほう。見かけ倒しってわけじゃなさそうだねえ。元帥閣下は色々と不満を愚痴っていたが、度胸のある女は好きだ。皇帝陛下もそのあたりを気に入られたのかな? ふてぶてしさは大事だ。私が男だったら貴公のような美女を一人は飼ってみたくなるかもしれない」
シャーゼロットはセラフィーナの爆乳を掴む。
「あの⋯⋯」
「噂通り、随分とデカいな。うちの宰相閣下と同じくらいか。サキュバスの血が先祖で混じってそうな肉付きだ」
同性とはいえ、初対面の相手に乳房を弄ばれるのは抵抗を覚えた。柔らかさを計るように指圧してくる。
「見た目と大きさは上々。もうちょい、鍛えたほうがいいとは思うがね。健全な精神は健全な肉体に宿る。肉体の弛みは精神の淀みだ」
「姉上。その辺にしていただけますか。セラフィーナ殿は戦士ではないのです」
「出来の良いタイガルラだから言えるのさ。女仙は不老不病。だが、健康体を維持するには運動が必要だ。だらしなく肥えてちゃ見栄えが悪かろう? 我が公爵家にも眠ってばかりのだらしない妹が一人いる。あれも妙に発育が良い。食って寝てばかりで、家の体裁が悪くなる。困ったものだ」
シャーゼロットはセラフィーナの乳房から手を離した。
(この御方がアレキサンダー公爵家の長女シャーゼロット⋯⋯。覇気が漲っている女性ですわ)
ベルゼフリートの身辺警護で要となる戦力は、アレキサンダー公爵家の長女シャーゼロット、次女ルアシュタイン、三女レギンフォード。七姉妹のうち三人が交代で詰めている。
「今日は帝都の市街地に行くのだろう? 気を引き締めることだ。タイガルラを同伴させるのは過剰戦力。さしずめユイファン少将あたりの悪知恵さね。これだから参謀本部は小狡くて好きになれない」
セラフィーナには思い当たる節があった。今回の任務はユイファン少将の発案だった。
「ユイファン少将の悪知恵とはどういう意味です?」
「おや? 分からないのかい? 暢気で鈍いねえ。その頭でちょいと考えてもみな。皇帝陛下の身辺警護に戦力を集中させている今、軍務省が最高戦力の一つであるタイガルラを愛妾なんかに貸し出す意味は? 何だと思う?」
指摘されてみれば不自然さを覚える。アレキサンダー公爵家の七姉妹は一人一人が大軍勢に匹敵する戦力。セラフィーナに与えられた情報収集の任務は危険度が低い。
「それは⋯⋯分かりませんわ。ご教示ください」
たとえ生死に関わる危険が孕んでいようと、軍閥派の末席に過ぎない無位無官の愛妾如きにタイガルラを同伴させるのは奇妙だ。
「生き餌と釣り鉤。もちろん、貴公は餌のほうだよ。何を狙っているのかは分からんけどねえ⋯⋯。クッククク! だが、貴公が死んで喜ぶ人間は大勢いる。特にアルテナ王国の人間はそうだろう?」
シャーゼロットの言葉は正しい。セラフィーナとベルゼフリートの結婚を受け入れているアルテナ王国の民は少数。それも消極的な支持に過ぎなかった。
売国妃と女王を影で罵る者は多くいる。しかしながら、バルカサロ王国や前夫ガイゼフの人気が盛り返しているわけではなかった。
民の人気を集めているのは、東アルテナ王国の女王に即位したヴィクトリカだ。
廃位されたヴィクトリカは王位継承権を異父妹のセラフリートに奪われている。兄のリュート王子が死に、全ての地位を受け継ぐはずだったヴィクトリカは、実母が産んだ三つ子の異父妹と争う状況下にあった。
(ヴィクトリカやガイゼフは私を恨んでいるでしょうね。たぶん⋯⋯死んでしまったリュートも今の私を知ったら⋯⋯。身勝手でふしだらな母を許してはくれないわ⋯⋯。それでも私は⋯⋯)
セラフィーナはベルゼフリートの子供を再び産むつもりだった。
アルテナ王国の王位は女子でも継げるが、男子の誕生は特別な意味を有する。アルテナ王家は男子に恵まれず、バルカサロ王国からガイゼフを婿に迎え入れた経緯があった。
唯一の男子だったリュート王子が処刑された現在、セラフィーナとベルゼフリートの間に男子が誕生する。そんな事態をヴィクトリカや西アルテナ王国は望まない。
反帝国を掲げる東アルテナ王国の人々は、憎き皇帝の御子を産もうとする女王を亡き者にできたら喝采をあげるだろう。ほんの一年前まで国母と敬愛していたセラフィーナを侵略者に媚びへつらう売国妃と見做している。
「獲物を釣り上げるために必要なら致し方ないでしょう。囮役をお引き受けいたしますわ」
セラフィーナは甘んじて受け入れる。覚悟の上で背徳の道を突き進んでいるのだ。本物の恋。身を滅ぼす乙女心に動かされて、ベルゼフリートの不変の愛を捧げると誓った。
「いいね。やっぱり私は嫌いじゃないよ。肝が据わってる面構えだ。しっかり守ってやりな。タイガルラ」
予想に反してシャーゼロットは好意的な態度を示してくれた。
(私を認めてくださっているのかしら⋯⋯?)
七姉妹の長女、レオンハルトさえいなければアレキサンダー公爵家の跡取であった女傑は、男よりも漢らしい人柄だった。
「アレキサンダー公爵家の方々には快く思われていないと思っていましたわ」
「陛下との関係でか? レオンハルトが⋯⋯いや、元帥閣下が繊細なだけだ。私は母親のせいで慣れている。離婚歴など気にしない。優秀な娘を産むために母は三人の夫を使い潰した。それに比べれば貴公は可愛いものだ。それに陛下は魅力的な男の子。強い胤の雄だ。よほど奇特な性癖でなければ虜となるさ」
「自分よりも強い女戦士を産む。強く優れた子孫を残す、それがアマゾネス族の名誉だと聞いておりますわ」
「その通り。間違ってはいない。だが、何を強く感じるか、優れているとは何か。決めるのは個々人の意思だ」
「意思ですか⋯⋯」
「肉体的な性能だけが強さとは限らん。精神の頑強さ、人柄の器量、外見上の美しさ⋯⋯いずれも男の強さであり、優れた美点だ。アマゾネス族だから必ず皇帝陛下を愛するとは断言しかねる。一途な男を愛するアマゾネス族もいるにはいるらしいぞ?」
たった一人の妻を愛し、絶対に裏切らず、家庭を大切にする。そんな良夫を強い男と見做すアマゾネス族からすると、皇帝ベルゼフリートは不適格な子作り相手となる。
自分には理解できない。シャーゼロットの口調はそう物語っていた。アレキサンダー公爵家のアマゾネス族は総じて、戦闘能力の強さを重視する傾向にある。可愛さを重んじるキャルルであってもだ。
「自分の子を産めるのなら、誰かを邪魔しようとは思わん。貴公が何人孕もうと害はない。アンネリーを溺愛した哀帝のように、陛下が一人の女に執着されては困るがね」
「そうはならないと思いますわ」
ベルゼフリートはハーレム生活に順応している。三皇后の命令であれば初対面のセラフィーナを強姦した少年だ。たとえ相手が名も知らぬ女仙であろうとも、ほとばしる精力を発散するために悦んで情交するだろう。
「それでもお気に入りは何人かいるものだ。陛下は寂しがっている。軍人には軍人の、愛妾には愛妾の役目がある」
「⋯⋯陛下が鬱憤を溜めているのは分かっています。グラシエル大宮殿での生活は窮屈だと愚痴をこぼしておられましたわ」
「そうではない。最愛の寵姫がグラシエル大宮殿に来ていないからだ」
「最愛の寵姫⋯⋯。何方のことかしら?」
「新入りとはいえ、もうじき宮廷での暮らしは一年だろう? 知らぬわけがあるまい。帝国宰相ウィルヘルミナ・ナイトレイに決っている」
「⋯⋯⋯⋯」
セラフィーナは両目を細めた。帝国宰相ウィルヘルミナ。容姿に絶対の自信があったセラフィーナですら、劣等感を刺激される美貌のサキュバス。宮廷でもっとも強大な権力を握る若々しい正妃。セラフィーナが人生で初めて嫉視を向けた女性だった。
「どういうわけか宰相閣下は陛下を呼んでない。三皇后は正妃の特権で陛下を招聘できる。だが、多忙を理由に陛下と会おうとしない。だから、陛下は不機嫌なのだ」
「⋯⋯そうでしょうか? 陛下は一言も仰っておりませんわ。生活環境の変化でストレスを感じているのだと思います」
「クッククククク! 妬みも貴公の自由。その見立てに異論は挟まんよ。しかし、陛下の鬱憤は溜まらぬようにするべきだろう。日暮れまでにはグラシエル大宮殿に戻り、夜伽役を務めるといい。――日中は私が相手をする」
そう言うやいなや、シャーゼロットはベルゼフリートの寝室に向かって大股で歩いていった。
「お待ちを! 姉上! 姉上は護衛だったはずですが? 警務女官長のハスキーに自重を命じておきながら、ご自身は陛下を摘まみ食いなさる気ですか?」
タイガルラは警務女官からの反発されると警告した。しかし、シャーゼロットは不敵な笑みを浮かべた。
「私は夜勤だぞ。あと少しでルアシュタインと護衛を交代する。睡眠時間はレギンフォードの勤務時間でとる。文句があるか?」
「姉上が三交代制で夜勤を選んだ理由はそれですか? 陛下は寝ています。起こさないようにしてくださいよ」
「無理やり犯したりはしない。私はアレキサンダー公爵家の淑女だぞ」
シャーゼロットはベルゼフリートの眠る寝室にするりと入っていった。
「⋯⋯タイガルラさんの姉君はちゃっかりしてますわ。つまり、日中は帰ってくるな。そういうことですよね?」
「ええ。姉上はそういう人です。陛下にベタ惚れで⋯⋯公爵家の当主になれなかった遺恨をすっかり忘れてしまったくらいですから⋯⋯。ある意味、軍務省の業務に忙殺されている元帥閣下より幸せかもしれません」