霜月のアルテナ王国では、物淋しい秋風が吹き荒れていた。
穀物の収穫高は戦乱の影響で二割減少した。しかし、餓死者がでる深刻な飢饉は生じていない。物流の混乱で輸出用の穀物が滞り、国内の給付に回されたからだ。
メガラニカ帝国との戦争が早々に決着し、最小限の被害で収まったも理由の一つだ。
敗戦国となったアルテナ王国の王都ムーンホワイトは総督府の統制下に置かれている。人々は帝国支配に従わざるを得なかった。
王国民の尊厳は粉々に砕かれた。
屈辱的な敗戦、王都ムーンホワイトの陥落、リュート王子の処刑。降りかかる不幸に終わりはなかった。
メガラニカ帝国に囚われた国主、セラフィーナ女王の懐妊。敵国の後宮に入れられた国母は皇帝の子胤で孕まされた。
沈鬱とした人々の有様は、勝利の酔いが覚めた帝国兵の哀れみを買った。
その後もヒュバルト伯爵による東部地域の独立宣言と騒乱鎮圧、ヴィクトリカ王女の訃報、数々の凶事に見舞われた。しかし、アルテナ王国民の自負心を完膚なきまでに叩きのめしたのは、総督府の高等弁務官ローデリカ・グッセンハイムだった。
――宰相派のローデリカ王妃は善政を敷いた。
比較対象である統治の前任者、セラフィーナ女王は政治に興味を示さなかった。統治は王婿のガイゼフと官僚に一任していた。
元来、アルテナ王国は国土に恵まれ、貧困層が極めて少ない富国である。だが、いかなる国であれ、問題は抱えている。
総督府に着任したローデリカは王妃の地位を持つ女仙で、所属は宰相府。帝国宰相ウィルヘルミナが辣腕家と評価する才女だ。
ローデリカが真っ先に取り組んだのは農地改革だった。戦後復興税と称し、広大な農地を所有する大地主に重税を課した。
敗戦不況の最中、重税を支払いきれず、農地の没収が多発。旧体制下では手厚く守られていた貴族を含め、例外なく大地主の多数が財産を手放した。
総督府が没収した農地は、安値で農民に払い下げられた。
メガラニカ帝国の反抗勢力は、大地主の豪農が主軸を担っていた。豪農と呼ばれる者達は、実際の農業には従事せず、土地を農民に貸し出し、金銭や農作物の一部を搾取する富裕層であった。
一方、土地を持たない農民は小作人と呼ばれる。自身の農地を持たず、借り受けているため、土地持ちの主人に逆らえない。
ローデリカの政策は豪農の力を削ぎ、小作人の支持を取り込む狙いがあった。
――しかし、農地解放の改革案はローデリカの発案ではない。
アルテナ王国で従前から議論され、一部の良識派貴族や官僚が提案していた政策だった。ローデリカは埋もれていた良案を発掘し、総督府の強権で次々に実現させていった。
国内の問題点を把握しているのは、アルテナ王国の官僚だとローデリカは分かっていた。既得権益者の圧力で葬り去られた改革案の数々は、ローデリカの手で蘇った。
帝国軍はどんな財宝よりも内政に関する公文書を欲しがった。その理由が初めて結果として示された。
アルテナ王国の官吏達は複雑な心境だった。他国の戦後統治を担う官吏が、無能なはずがない。有能な者を選抜したに違いないが、それを差し引いても政務能力の高い政務官が多かった。
アルテナ王国が抱えていた旧態依然の問題は、総督府の高等弁務官ローデリカ王妃の手で劇的に解決されていった。
民衆も次第に認識を改め、手腕を高く評価し始めた。
「本国に要請し、不足している医薬品の輸送を急がせなさい。バルカサロ王国側の物流が滞り、生活必需品の不足が目立っています。医薬品のほかは食塩ですね」
アルテナ王国は国内に塩の産出地を持たず、内陸国であるため海に面していなかった。
肥沃な穀物地帯で大量生産された穀物をバルカサロ王国に輸出し、国内で賄えない必需品を輸入する。それがアルテナ王国の経済だった。
「アルテナ王国は温暖な気候で凍死者は滅多に出ないと聞きます。しかし、戦争で困窮している最中です。念のため、冬の備えは固めておきます」
メガラニカ帝国は圧政を行わなかった。前任のレオンハルト元帥は無骨な軍政で貴族を締め付け、一部で反発する者が現われた。しかし、人民を虐げる支配はせず、あくまで反抗勢力の排除に武力を用いた。
戦後統治は軍務省から宰相府に移管し、全権は文官妃のローデリカに引き継がれた。占領国の統治は高度な政治手腕を求められる。重大な職責だが、帝国宰相ウィルヘルミナの人選は確かだった。
「ウィリバルト将軍。東部の情勢はいかがですか?」
総督府の懸念はバルカサロ王国と国境を接する東部地域に向けられていた。停戦状態にはあるが、依然として軍事的緊張状態が続いている。
「国外へ逃れたアルテナ王国軍は八万人を超えます。バルカサロ王国が財政的負担に耐えかね、いずれは解散すると予測していましたが、ルテオン聖教国の支援で再編を進めています」
「ルテオン聖教国⋯⋯。小賢しい。教会の拝金主義者どもめ。資金力は厄介ですね。まあ、よろしい。状況は分かりました。肝心の士気はどうですか?」
「高くはありません。脱走者が相次いでいます。とはいえ、八万の大軍勢。中央諸国の支援が手厚い現状、帝国本土の増援がなければ、我が軍は持ち堪えられません」
「敵軍の士気が再燃すれば脅威となるわけですね。しかし、バルカサロ王国は戦争を回避したがっています」
「戦を煽る者もおります。大陸の中央諸国、特にルテオン聖教国は帝国脅威論を吹聴し、国々の結束を呼びかけております」
「古めかしい攻守同盟ですか。⋯⋯有効な対抗手段ではあります。メガラニカ帝国には友好国がありませんからね。とはいえ、我が国は諸外国と交易せずとも自国内で経済を回せます。経済的封鎖で困窮はしないでしょう」
「軽視はできません。ルテオン聖教国が橋渡し役となり、水面下で同盟を組んでいるようです。メガラニカ帝国の封じ込める包囲網。彼らは合従策と称しております」
「彼らは故事が好きですね。軍事の専門家であり、名高い老将ウィリバルト将軍に訊きましょう。勝てますか?」
「相手が攻めてきたならともかく、こちらから攻めたくはありませぬ」
「答えが迂遠ですね。⋯⋯帝国軍に勝算はあるわけだ」
「お言葉ですが妃殿下。犠牲が大きすぎます。浅慮での出兵は帝国を衰えさせますぞ」
宰相府と軍務省の立場は違う。厭戦の気運は両陣営が抱えていた。
「怖い顔をやめていただきたい。ウィリバルト将軍」
「失礼。威迫しているつもりはございませぬ。強面は生まれつきでして⋯⋯」
「軍務省の言い分は理解しています」
「バルカサロ王国と講和し、国境近くに駐留するアルテナ王国軍の解散を求めてはいかがです。流血を疎まれるのならばこの際、妥協は必要かと思われるが?」
「民意次第です。国民議会はアルテナ王国を併呑せよと議決した。派手に戦ったのです。十分な戦果を得られねば、民衆は暴走しかねません」
「現状維持で十分ではありませんか⋯⋯。なぜ民は戦を望むのか⋯⋯なぜ⋯⋯」
老将ウィリバルトの憂いは軍務省の総意だった。国防上の脅威は排除した。アルテナ王国を服属させた時点で、十分な戦果だと帝国軍は主張する。だが、民衆は弱腰だと罵声を浴びせるだろう。
――しかし、栄大帝の時代とは違う。
メガラニカ帝国の最盛期を築いた栄大帝と大宰相ガルネット。大陸全土の平定を成し遂げ、治世一四〇〇年以上の黄金帝国を建立した。偉業の痕跡は今もなお大陸各地に残っている。
「昨日、天空城アースガルズから知らせが届きました。三頭会議でアルテナ王国の処遇が話し合われ、セラフィーナ女王とヴィクトリカ王女の処遇が決まりました」
「ヴィクトリカ王女? 表向きは死んだとしていますが、行方不明だったはずでは?」
「ヴィクトリカ王女は帝都のグラシエル大宮殿に軟禁しています。セラフィーナ女王と共に後宮入りしたロレンシアという女騎士がいたでしょう」
ウィリバルトは赤毛の女騎士を思い出す。セラフィーナの従者として唯一、同伴を許された娘だ。孫娘のリアと同じくらいの年齢だった。後宮の側女になったとは聞いていた。
「近衛騎士を辞し、皇帝陛下に仕える側女となったロレンシアは、ヴィクトリカ王女の知古でした。旧友の臣下に裏切られるとは思っていなかったようです」
帝国軍の追跡を逃れきったヴィクトリカは、身内の裏切りで捕まった。アルテナ王家に忠誠を誓った元騎士の娘に、どのような心変わりがあったかは想像もつかなかった。
後宮は外部と隔絶されている。孫娘が女仙に召し上げられ、側女となっているウィリバルトも内情を全く知らなかった。
「ローデリカ妃殿下。三頭会議はどのような決定を下されたのですか?」
「アルテナ王家の母娘、王統の血筋は必要です。しかし、二人は不要です。片方を秘密裏に処分すると決定しました。死を賜ったのは――」
三皇后の非情な決定をローデリカは告げた。ウィリバルトは新たな騒乱を予感した。リュート王子の処刑に続き、アルテナ王家の人間が葬り去られる。
「三皇后は揃いも揃って何をされているのやら。まったく⋯⋯。陛下の宸襟を悩ます……。不甲斐ない妃ばかりでは、陛下がお可哀想です」
ふと思い出したように、ローデリカはウィリバルトを睨み付けた。
「ウィリバルト将軍は陛下の信頼が厚い。陛下の親書を受け取ったと聞きましたよ?」
事情をすでに知っていたのではないかと詰問する。
本国の皇帝ベルゼフリートから直々に親書が送られてきたと聞いて、総督府の者達はローデリカ王妃への恋文を連想した。予想に反し、宛名はウィリバルト将軍だった。
「いいえ、具体的な内容は何も……」
親書に書かれていたのは、自身の不明を詫びる謝罪文だった。ローデリカは老将と名高いウィリバルトが皇帝からも頼られている事実が気に食わなかった。
今回の出来事で確実に一騒動が起る。その解決に総督府は奔走する。宰相府が派遣した王妃ではなく、軍務省の重鎮に皇帝は信頼を寄せている。噂を耳にした帝国軍人の矜持は昂ぶった。
もちろん、手紙を読んだウィリバルトは驕らず、自身が何を成すべきかを静かに考えた。過大な信頼を得ている自覚が、ウィルバルトを萎縮させた。
ローデリカとウィリバルト、双方が大きな勘違いをしていた。皇帝親書の内容は私的なもので、今回の一件と全く無関係であった。
――孫娘のリアに手を出した謝罪文だと気付いたのは、全ての出来事が終わってからであった。
◇ ◇ ◇
ロレンシアは皇帝ベルゼフリートの隠された過去を探る長旅から帰ってきた。セラフィーナの待つ天空城アースガルズの黄葉離宮へと舞い戻った。
後宮に初めて足を踏み入れたとき、忌々しい場所だと思った。
祖国を侵略したメガラニカ皇帝の奉仕女になった恥辱は拭いきれず、ロレンシアは苦しんだ。しかし、今の正反対の気持ちだ。
安らかな面持ちで天空城アースガルズに帰還を果たした。
「――セラフィーナ様、ただいま戻りました」
大陸歴八年、十一月二十四日の正午。ロレンシアはセラフィーナと約三ヶ月ぶりに再会した。
セラフィーナは臨月を迎えた。妖艶な美貌に磨きがかかり、身籠もった母親の肉体でありながら、濃艶な色気を醸し出している。
「ロレンシア、よく帰ってきてくれましたわ。身重の体で長旅は辛かったでしょう?」
応接間の長椅子にしなだれるセラフィーナは、自慢の黄金髪を掻き上げる。
出産予定日まで一ヶ月を切り、膨張した子宮は骨盤の中央に降りてきていた。心臓や胃の圧迫感が軽減された分、両脚の付け根に弱々しい痛みを感じる。
「もうじき、ロレンシアも母になるのですわね」
ロレンシアは促されて長椅子に腰掛けた。腹部のみならず、乳房の肥大化が著しかった。乳汁甘美な香りが匂い立っている。
「大変そうね。私より大きなバストサイズですわ。服選びに困ったでしょう?」
「はい。以前の服は着られそうにありません」
ショゴス族の医務女官に検診してもらったが、健康面の問題はなかった。肉体改造で過剰分泌された成長ホルモンは、ロレンシアを肉付き豊かな艶態へと進化させた。
「セラフィーナ様。私はメガラニカ皇帝の秘密を知りました。陛下の出生を帝国宰相が隠していた意味が、今の私にはよく分かります」
「⋯⋯手紙には書いてくれませんでしたね」
「はい。ベルゼフリート陛下の耳に入れるべきではないと思いました。セラフィーナ様も歴史はお聞きなったはずです。災禍が起こればメガラニカ帝国のみならず、災禍は大陸全土に及びかねません」
「そうかしら? 死恐帝の災禍は限定的でしたわ」
「メガラニカ帝国の災禍の被害を国内に押しとどめたからです。ナイトレイ公爵領からの帰路に、私は廃都ヴィシュテルの廃墟群を見せてもらいました。栄華を極めた黄金帝国の墓標です⋯⋯」
「帰ってくるのに時間がかかった理由はそれですか?」
「破壊者ルティヤの正体を知る者はいません。しかし、災禍の歴史が物語っています。大陸と人々の安寧を考えるのなら、一国の盛衰は小事なのかもしれません⋯⋯」
本来、民なくして王は成り行かない。民がいて、初めて王が立つ。しかし、メガラニカ帝国の皇帝だけは例外だった。
皇帝なくして平和はありえない。皇帝の死は平和の終焉を意味する。
「聖大帝や栄大帝は、一千年の天下太平をもたらしました。セラフィーナ様が流血を厭われるのなら⋯⋯。どうか、ご決断をお願い申し上げます」
セラフィーナは口を広げ、唖然の表情を浮かべた。
「驚きですわ。まさかロレンシアが情に絆されるとは思いませんでした。あれほど帝国を憎んでいた貴方が、こうも見事に心変わりするなんて⋯⋯。私にアルテナ王国を裏切れと?」
「正直に告白申し上げます。私自身が裏切り者です。私はベルゼフリート陛下に忠愛を捧げる側女となりました。もはや口が裂けても、アルテナ王家の騎士とは名乗れません。薄汚い背徳者です」
「そう⋯⋯」
セラフィーナはロレンシアを罵る資格が無かった。
自分自身が人妻の身で、ベルゼフリートとの浮気セックスを愉しんでいる。性欲に溺れているのはお互い様だった。だが、セラフィーナとロレンシアは決定的に違う。
セラフィーナは君主だ。アルテナ王国を守る意思は以前と変わらない。昔と違って手段を選ばなくなったというだけだ。
「天空城から一歩も出られなかったセラフィーナ様は、どうやって陛下の過去を知ったのですか? そして⋯⋯なぜ陛下に話されてしまったのです? あんな惨い話⋯⋯! 明かすべきではありませんでした」
「ご本人の意思ですわ。私は過去の出来事を幻視しました。お胎に宿った赤児の異能で、皇帝ベルゼフリートの忌まわしき出自をこの目で見たのです」
セラフィーナは自慢げに語った。胎内に宿るベルゼフリートの赤児は、母親に過去を体験させた。夢の世界で全てを知ったセラフィーナは、包み隠さず、ベルゼフリートに内容を教えた。
「どのような方法であれ、あの過去を知ったのならセラフィーナ様は⋯⋯。陛下の御心が傷つくと分かっていたはずです。精神に問題が生じる危険に思い至らなかったのですか?」
「弱り切った陛下を癒やして差し上げるのが、愛妾の役目でしょう。そもそもの元凶は、苛酷な処断を下した大神殿の司法神官、そしてナイトレイ公爵家ですわ」
セラフィーナは冷徹に笑い飛ばした。わずか一年足らずの時間で、心優しかった女王は豹変した。
「ウィルヘルミナを帝国宰相の地位から引きずり下ろす。算段は整っていますわ。陛下は私を選んでくださった。ラヴァンドラ王妃と手を結び、メガラニカ帝国を裏から操ります。アルテナ王国を守るためですわ」
「⋯⋯陛下は?」
「私の寝室に。近頃はリアとの戯れに耽っていますわ。あの調子なら身籠もるのは時間の問題でしょうね」
セラフィーナはロレンシアの態度に違和感を覚えた。
ベルゼフリートに出生の秘密を告げたのは、他ならぬセラフィーナである。その事実を知るのは、セラフィーナとベルゼフリートの二人だけ。
もう一人いるとすれば、護衛を許されたユリアナだ。しかし、彼女は沈黙の誓いを立てている特別な女官。皇帝以外との会話を禁じられている。
(ロレンシアはいつ知ったのかしら?)
ユリアナからは話は伝わらない。ならば、皇帝のベルゼフリート自身がロレンシアに教えたはずである。そうなると辻褄が合わない。
帰ってきたばかりのロレンシア。天空城から一度も降りていないはずのベルゼフリート。二人が会う機会は一度もなかった。
「セラフィーナ様は⋯⋯女王陛下はお変わりになった。ご自身の息女、ヴィクトリカ王女の御身をまったく気にされておられない」
「そういえばロレンシアの旅に同行していましたわね。ヴィクトリカはどうしたのです?」
言われて初めてセラフィーナは娘の存在を思い出した。
「グラシエル大宮殿で拘禁されております。⋯⋯私が帝国軍に差し出しました」