星嵐后宮の執務室で帝国宰相ウィルヘルミナは、アガンタ大陸の地図を見下ろしていた。
天然モノでは宮中最高峰を誇る爆乳のせいで、肩の筋肉が強張る。ブラジャーの肩紐を緩めて、鎖骨を指先で摩った。
(そろそろ休憩にしましょうか。働き過ぎな気がします)
机の上に重たいデカパイを乗せて、少しでも楽をしたくなった。
(まだ昼過ぎ。早く夜にならないものかしら?)
筆を止めて頭と肩を揉みほぐす。羽根ペンをインク瓶に浸していると、ソファで昼寝をしていたベルゼフリートが起き上がった。
「ふぁぁ⋯⋯うぅ⋯⋯。よく、寝たぁ~。これで夜ふかしできそう」
ベルゼフリートは目元をこすりながら、のっそとりと動き始める。
「ハスキー、なにか食べ物を⋯⋯って、いなかった。まあいいや。おやつ、おやつ~。どれにしようかな」
女官が置いていった果物籠を物色する。いつもなら張り付いている女官が即座に駆け付け、ベルゼフリートの要望を伺いに来る。しかし、ウィルヘルミナは皇后特権で女官達を室外に締め出していた。
ベルゼフリートは大粒のブルーベリーを口内に放り投げる。
「ん? ウィルヘルミナも食べる? お疲れなんじゃない? 糖分と水分が欲しそうな顔をしてるよ」
向けられている視線に気付いて、ベルゼフリートは問いかけた。
羽根ペンを置いたウィルヘルミナは、色とりどりの果物が盛り付けられたバスケットよりも、無防備な男根の膨らみに食欲をそそられてしまう。
(あぁ♥︎ そんな誘うような顔をなさって⋯⋯♥ ベルゼフリート陛下は私に押し倒されたいのかしら? 邪魔者もいないし、無理やりにでも咥えて食べてしまいたい♥ けれど、今は我慢しないと♥︎)
サキュバス族の淫奔な血が騒ぐ。しかし、持ち前の強い自制心で堪える。
「食品棚に保管してある精液瓶を一つ、こちらに持ってきていただけますか?」
「ウィルヘルミナみたいなサキュバスや一部の愛好家は、僕の精液を美味しそうに飲んでるよね。これって、そんなに美味しい?」
「ええ。とっても美味しい♥ 極上の淫蜜です♥」
「う、うん。そっか」
ベルゼフリートは精液の苦みを知っている。フェラチオの直後に接吻してくる女仙がいるからだ。
「陛下も一口、飲みますか?」
「自給自足はご遠慮! 僕にはちっとも美味しく思えないや。これを持っていけばいいの?」
「はい。それでお願いします。精液ジュースはストレートに限ります」
「そのこだわりも僕には分からないな」
「精液瓶の在庫が減ってきたので、そろそろ補給が必要ですね」
「牛や馬の精液ジュースを飲んでるサキュバスも多いんでしょ」
「陛下の味を知ってしまったら、家畜から採取した精液は舌が受け付けません」
「魚類の白子とかなら、まだ理解できる珍味だけどね。僕の精液がお望みとあれば、今日の夜あたりに搾ってくれていいよ。はい、どーぞ」
ウィルヘルミナに精液が詰まったガラス瓶を手渡した。
「ありがとうございます」
「むむ? これって? 大陸の地図?」
机で広げられていた大陸地図にベルゼフリートは興味を示した。達筆な文字で各所に備考が書き込まれている。地図を覗き見るベルゼフリートをウィルヘルミナは止めなかった。
「どうぞ、見ても構いませんよ」
地図上では北西部の広大な領土を持つメガラニカ帝国が際立って大きく見える。しかし、栄大帝の全盛期に比べれば、国土は十分の一を下回る衰退ぶりだ。
破壊帝、哀帝、死恐帝、三人の皇帝は治世を維持できなかった。
そして、五百年間の大空位時代でメガラニカ帝国は首都を放棄し、災禍を封じ込めるための鎖国政策に舵を切った。長い歴史で見れば、メガラニカ帝国は滅びかけの病国であった。
たった一人の少年、幼帝ベルゼフリート・メガラニカが現れるまでは――。
「まだ流通させていない最新版の地図です。完成したらベルゼフリート陛下にもお渡しいたしますよ」
「へえ。大陸の東端には色んな国があるんだね」
「メガラニカ帝国は外国との通商や交通を制限していたので、東方の情報がほとんど入ってきていませんでした。古い情報を刷新し、いくつかの都市国家を新たに書き加えています」
中央諸国との国交は期待していない。しかし、東方に散らばる都市国家とは海上交易を見込める。
「でもさ、本当の目的はそういうんじゃないでしょ」
意味深な発言をしながら、ベルゼフリートの人差し指はアルテナ王国の国境線をなぞる。
グウィストン川による東西の分断線。母娘の女王が対立し、東側はヴィクトリカ、西側はセラフィーナが治めている。
(ベルゼフリート陛下は鋭い指摘をしてくる。教育熱心なヴァネッサの成果ですね⋯⋯。けれど、ずっと純真な子供でいてほしい気持ちもあります)
ベルゼフリートの推察は正しい。国境線の西側はメガラニカ帝国の勢力圏に組み込まれている。地図を俯瞰すれば、その意図が容易に読み取れる。
「この地図を見た中央諸国の人達は、不愉快な思いを抱くんじゃない?」
「ご安心ください。この地図を公開しても大きな反発は起きません。講和条約の内容を中央諸国は承諾しております。何よりも女王セラフィーナ・アルテナの選んだ道です」
精液瓶を飲み干したウィルヘルミナは、ベルゼフリートを手招きで呼び寄せる。
「愛妾とのお遊びは程々にお願いします。ベルゼフリート陛下の正妻は私なのですからね?」
「大丈夫。僕って一途な男だよ。でも、どーしようかな? 嫉妬するウィルヘルミナも見てみたいかも? クスクス!」
互いの頬に接吻し、夫婦の愛を確かめ合う。恥ずかしげに頬を赤らめたベルゼフリートを膝の上に座らせて、二人で机に広げた地図を眺める。
「黄葉離宮に足繁く通われているそうですね」
「まあね。ウィルヘルミナも知ってるでしょ? セラフィーナが僕の子供をまた産むんだ。男子が欲しいんだってさ。妊娠してもすごい性欲だよ。この前もキャルルを呼んで、夜伽してもらった」
「キャルル・アレキサンダーですか。彼女も彼女で、色々と画策しているようですね」
「王族になりたいらしいよ。本気なのかは知らないけどね」
「宮廷内の均衡は気にしてください。黄葉離宮の女仙は子宝に恵まれていると噂になっております」
「頭脳明晰な帝国宰相は最初からこうなるって予想してた? 遠からずアルテナ王国の西側は、僕とセラフィーナの子供達が治める。正真正銘、血統の刷新だね」
「私の意図からは外れておりますよ。レオンハルト元帥の⋯⋯いえ、懐刀のヘルガ王妃やユイファン少将あたりの思惑に沿った流れです」
「軍閥派の腹黒二人組はえぐいことするよ。どっちも身内には優しい。だから、怖いね」
「結果的には上手くいきました。しかし、王女ヴィクトリカのほうが好ましかった」
「宰相派はずっとヴィクトリカ派だったよね。セラフィーナが妊娠するまでは」
「あの娘は色々と利用価値がありましたからね。若い女のほうが妊娠しやい」
「あ、でもさ、ヴィクトリカはもう王女じゃなくて、今じゃ東アルテナ王国の女王様だ。ここ最近、セラフィーナの対抗心がすごい」
「ヴィクトリカはベルゼフリート陛下の御子を産んでいますからね。それも男子を⋯⋯。娘に先を越されたと思っているのでしょう」
「実の娘にジェラシーを感じちゃう母親ってどうなんだろ。セラフィーナはもうヴィクトリカを娘とは思っていないかな」
「そのことで一つお願いがございます。皇帝陛下」
「何なりとどーぞ」
「セラフィーナが過剰な行動を取るようなら、自制するように誘導してください」
「あれ? 母娘を戦わせて、最終的にはアルテナ王国の全土を併呑するのが宰相派の狙いじゃなかった? いいの? 生かしたままヴィクトリカを送り返したのは、そういう狙いだと思ってた」
「アルテナ王国における軍事行動を慎む。それが三皇后の合意事項です。グウィストン川の沿岸は火薬庫になりつつある。国内で大きなプロジェクトが始動した今、余計な火種を作られては困ります」
いずれはアルテナ王国の全土を掌握する。ウィルヘルミナは様々な策謀を巡らせているが、国盗りのタイミングは数十年後を思い描いていた。
「僕も戦争が起きなければ嬉しい。それは大賛成。これで平和になるんじゃない? メガラニカ帝国の強さを中央諸国は思い知った。何よりも国内の問題が綺麗さっぱり片付いたもん。僕の過去や、破壊帝時代から続いてた厄災もさ」
「そうですね。皇帝陛下には⋯⋯」
ウィルヘルミナの唇が震える。どんな言い訳を並べ立てようとも、ベルゼフリートの血縁者を殺めたのは、ナイトレイ公爵家の一派だ。
本来あるべき形で、破壊者ルティヤの転生体がメガラニカ皇帝に即位していたなら、ベルゼフリートという少年は生まれていない。ウィルヘルミナが帝国宰相の地位に上り詰めることもなかった。
母子相姦の忌み子ベルゼフリート。惨劇の加担者が利益を享受し、メガラニカ帝国で最大の権力者となった。真相を隠してきたナイトレイ公爵家は、常に罪悪感と後ろめたさに苛まれていた。
「謝るのは禁止だよ。僕は今が好きなの。こうしてウィルヘルミナの膝に座ってるだけで本当は幸せ。⋯⋯もちろん、過去は懐かしいよ。でも、いつまでも囚われたくない」
ベルゼフリートの言葉はウィルヘルミナの心を救う。過去の真相を知ってなお、ベルゼフリートが選んだのはウィルヘルミナであった。
帝国宰相の弱みを握り、幼帝を意のままに操ろうとしたセラフィーナの姦計は無慈悲に潰えた。しかし、当時のウィルヘルミナはベルゼフリートが望むのなら、帝国宰相の椅子から引きずり降ろされても良いと覚悟していた。
ウィルヘルミナが敗北者たるセラフィーナに寛容な措置を取るようになったのも、捨てられかけた哀れな妾に対する哀れみからだ。
(おそらく、御自身の性に無自覚なのでしょうね。過去にも一度、軍閥で増長したユイファンの野心を粉々に砕いている。女を手玉にする才能とでも言うのでしょうか⋯⋯)
後宮には妃位が与えられていない愛妾が二人いる。アルテナ王国の女王セラフィーナ、そしてもう一人が軍略の天才だったユイファンだ。
二人を単なる愛人だと軽視する妃達も多い。だが、ウィルヘルミナは異なる見解を持っている。
(皇帝陛下はセラフィーナとユイファンに首輪を嵌めた。意図的であるとは思えないけれど、本能的な感覚で危険性を感じ取り、寵姫として封じ込んだ。これを私の指図や誘導だと勘違いしている者もいるくらいです)
宮中の立ち回りで失敗し、治世が乱れた皇帝も過去にはいた。
(清廉潔白であった聖大帝、奇想天外に突き抜けた栄大帝、歴史に名を残す二人の大帝とは違う。けれど、大君の資質がベルゼフリート陛下にはある)
家臣としても、妻としても、誇らしく思う。
メガラニカ帝国が本来の国力を取り戻せば、この大陸で逆らえる勢力はいない。
皇帝が生きてさえいれば、絶対に繁栄する国家。その仕組みが古代に整えられている。