うら若き乙女達の学舎――パルセノス修道院。
聖女マーテル・フローラが創立し、男人禁域の結界が張り巡らされた聖域。穢れた悪魔が近づけぬ廉潔なる女子修道院であった。
人里離れた奥地の山麓、俗世との関わりが絶たれた秘境で、二十人の修道女達が聖女マーテルから教えを学んでいる。創始者にして、修道院長を務めるマーテルは、魔神王の軍勢を退けた逸話で知られた偉大な聖者だった。
「聖女マーテル様⋯⋯」
黒髪の美女が赦しの奇蹟を求めて、マーテルの前に跪いていた。
「私の罪が赦される日は来るでしょうか? 未だに身体に残る悪魔の穢れが⋯⋯。今も私を堕落させようと誘惑してきます」
今より一年ほど前から、ある女騎士がパルセノス修道院に身を寄せていた。
女騎士の名はクロエ。魔神王の軍勢と熾烈な戦いを繰り広げ、最前線で活躍していた英雄の一人だった。しかし、三年前にクロエが所属していた王立騎士団は壊滅。クロエは敵軍の捕虜となってしまう。
「クロエさん。心をお清めいたしますわ。己の罪を告解してください。魂の穢れを清めるために⋯⋯。過去の罪と向き合うのですわ」
マーテルは優しい言葉でクロエを諭した。清き乙女の聖言は、女騎士の魂にこびり付いた穢れを祓う。
「はい。私の罪を告白いたします。三年前、敵軍の捕虜となった私は⋯⋯。神を裏切りました⋯⋯。愚かな私は悪魔の言葉に惑わされ、禁忌を犯してしまったのです⋯⋯!」
「クロエさん。貴方は悪魔の誘惑に負けてしまったのですね?」
「⋯⋯はい。その通りです。悪魔は私の純潔を欲していました。⋯⋯私は悪魔に取引を持ちかけられ⋯⋯契約を結び⋯⋯そして⋯⋯」
囚われたクロエは仲間を助けるために、上級悪魔シャイターンと取引を交わしてしまう。魔界の辺境伯であるシャイターンは、クロエの美貌に惚れ込み、言い寄ってきたのだ。
愛人となる見返りに提示されたのは、囚われた同胞の解放。言葉巧みに誘導され、クロエは悪魔との契約に応じた。
「欲深い悪魔は私を辱め⋯⋯魂を穢した⋯⋯!」
悪魔は契約を遵守する。クロエが身を捧げたことで仲間達は人間界に帰還できた。だが、犠牲になったクロエは純潔を奪われ、無垢な心身を悪魔に弄ばれた。
悪魔の男根は誉れ高き女騎士の子宮に胤を吐きつける。快楽が身を蝕み、魂は悦楽で包み込まれた。淫夜を乗り越える度、クロエの羞恥心は薄れていった。嬌態を晒し、次第に悪魔との逢瀬を望むようになった。
「あぁ⋯⋯。この秘密を抱え続けることはできません! お許しください。神軍の騎士でありながら、私は産んでしまいました。この胎で⋯⋯! おぞましい悪魔の子を⋯⋯!!」
シャイターンの愛人になったクロエは身籠もった。悪魔の胤で孕まされ、クロエは子を産み落とした。堕落した魂は、女騎士の肉体を妖魔へと変貌させた。
「シャイターンの魔法は恐ろしいものでした。当時の私は妖魔の肉体を得て⋯⋯悪魔の子を育む母になっていた⋯⋯。今でも⋯⋯喜悦の淫夜を思い出してしまう⋯⋯!」
一年前、捕虜交換でクロエは解放された。だが、悪魔に弄ばれた女騎士の身体は、人間の姿ではなくなっていた。
「私は⋯⋯魔女に墜ちた卑しい人間です⋯⋯!!」
妖魔化したクロエの外見は異形の魔女だった。悪魔に愛でられた肉体は穢れで満ちる。化猫の性質が顕現し、獣耳と尻尾が生えていた。
女陰には悪魔と交わった痕跡が色濃く残り、下腹部のたるみは子を産んだ経産婦の証。大悪魔の愛人になったクロエが、どんな扱いを受けていたかが顕れていた。
「この一年間、私は聖天使様の祝福でクロエさんを清め続けましたわ。悪魔が施した魔法は薄らいでいます。今後も己の罪を懺悔してください。いつの日か、赦しが授けられますわ。さあ、共にお祈りを捧げましょう」
マーテルは聖天使の祝福でクロエの心身を清めた。乙女を守護する聖天使ジョヴァンナの加護で包み込む。
(私の聖なる力で、クロエさんの子宮に潜む子胤を封じる⋯⋯。魔界の辺境伯⋯⋯。大悪魔シャイターン。なんと恐ろしい。気高き女騎士の胎を貶めるなんて⋯⋯)
聖女の瞳には悪魔の子胤が見えていた。まるで寄生虫のように、クロエの子宮で生きている。
(悪魔の子胤が左右の卵巣に侵入し、卵子と結びついていますわ。私の聖なる力をもってしても引き剥がせないなんて⋯⋯。忌まわしいですわ。悪魔の子を産ませるために、こんな呪いを⋯⋯!)
女の子宮には卵子が眠っている。その数は有限だ。排卵するごとに卵子は消費される。そして、卵子が尽きた女は子が産めなくなる。
(魔界の辺境伯シャイターンは、クロエさんの卵子を一つ残らず穢していますわ。口惜しい。私には封じることしかできないわ)
シャイターンは強大な魔力を持つ大悪魔だった。子宮に侵入した子胤は、クロエの卵子を全て受精させたのだ。
他の男に取られぬように、悪魔の精子と結合させられていた。卵巣に眠る排出前の卵子まで受精状態だった。食事に唾をつけるのと原理は同じ。クロエはシャイターンのお気に入りだったらしい。
(ああ、可哀想に⋯⋯。クロエさんはもう人間の赤子を産めないわ⋯⋯。でも、このことは教えられない。もっと心の傷が癒えてから、伝えるべきですわね)
嫁入りできる身体に戻してほしい。クロエの実家からはそう頼まれていた。だが、妖魔化した身体が完全に治っても、クロエの子宮は人間の赤子を孕めないのだ。卵子は全てシャイターンに奪われていた。
(獣耳や尻尾は消えかけていますわ。胎に潜む胤も⋯⋯元凶の悪魔を滅ぼせば消える可能性も⋯⋯)
神軍の誰かが大悪魔シャイターンを討てば、クロエは救われるかもしれない。一縷の望みはあった。
「クロエさん。今日はこれくらいにしましょう」
「はい⋯⋯。マーテル様。いつもありがとうございます」
「御礼はいりませんわ。聖天使ジョヴァンナ様の恩寵を広めるのが私の務め。喜んでクロエさんの古傷を癒やしましょう」
マーテルは聖天使ジョヴァンナの石像に手を合わせる。パルセノス修道院の聖なる結界は、邪気を寄せ付けない。乙女を守る強力な障壁は男の侵入を絶対的に禁じる。
悪魔を統べる魔神王でさえ、パルセノス修道院の結界は破れないだろう。どれほどの力を持っていても男である以上、聖天使ジョヴァンナの力に屈してしまう。
「マーテル様。ずっと気になっていたのですが、聖天使ジョヴァンナ様とは⋯⋯」
「ジョヴァンナ様は天界でもっとも清らかな大天使ですわ。星海の岸辺にある洞窟で、お祈りを捧げ続ける永遠の乙女。不変の清らかさを象徴しているのですよ」
聖女マーテルは、聖天使ジョヴァンナに処女の誓いを立てた。マーテルは絶世の美女だったが、男に触れたことは一度もない。一度も穢されぬ純潔は、まさしく聖天使ジョヴァンナの再臨だった。
神軍に同行し、多くの悪魔を討ち滅ぼした。三十歳を過ぎた頃、マーテルは現役引退を決断。四十二歳となった現在、パルセノス修道院で後進の教育に注力している。だが、聖なる力を身に宿しているせいか、容姿は実年齢よりも若々しく見える。
豊満な乳房は萎むどころか膨らみを増し、白肌の艶は磨きがかかっていた。熟成された聖女の肉体は、老いや衰えと無縁であるように思えた。
「クロエさん? どうしたのかしら? 天使様の姿が気になるのですか?」
「私どこかで⋯⋯この天使様と⋯⋯」
クロエが何かを言いかけたところで、礼拝堂の扉が勢いよく開いた。修道院で暮らすマーテルの弟子達が入ってくる。
慌ててクロエはフードを被り直した。頭部に生えた化猫の獣耳を隠すためだ。この一年間の頑張りで、獣耳は小さく縮んでいるが、異形の姿を直視されたくなかった。
「マーテル院長。クロエ様。おはようございます!」
「あらあら⋯⋯。もう講義の時間でしたわね。さあ、さあ。皆さん。席に座ってください」
二十人の愛らしい修道女達は上品に挨拶を述べる。
「院長先生! 今日の講義は何を教えてくださるんですか?」
「おはようございます。マーテル院長! クロエ様もおはようございます!」
「あれ? 羽ペンのインク瓶がないわ。宿舎に忘れてきちゃったかも⋯⋯」
「私のを貸してあげるわよ。まったくもう、忘れっぽいんだから。この前だって聖典を食堂に置き忘れていたし⋯⋯」
「ねえ、ちょっと、もう少し詰めてくださる? 座りにくいですわ」
「貴方のお尻が大きいからでしょ。もっと清貧に努めるべきね」
「ちょっと骨が太いだけよ! まったくっ⋯⋯! そんな言い方しなくたっていいじゃないのっ!」
十代の若々しい娘達は、見習い聖職者の服装で身を包み、とても愛らしい格好だった。
「皆さん、仲良くしましょうね。前の席から詰めて座ってください」
手に分厚い聖典を抱えた少女達は、礼拝堂の長椅子に座る。四年に一度、パルセノス修道院は二十人の乙女達を受け入れる。高位の聖職者を目指すため、四年の時間をかけて、聖女マーテルから教えを学ぶ。
ここにいるのはパルセノス修道院の一期生だ。来年には修道院を卒業し、それぞれの道に進む。聖女の素質を見出された乙女達の出自はさまざまだ。貴族の娘もいれば、農家や孤児院の生まれもいた。
「マーテル様。私は宿舎に戻っています」
「ごめんなさいね。話が中途半端になってしまったわ。続きはまた今度にしましょうね。クロエさん」
マーテルは話を切り上げた。クロエの体験談は無垢な乙女達には刺激が強すぎる。悪魔に対抗するため、いつかは邪悪さを知らねばならぬときが来る。だが、今ではない。
「さっそく講義を始めましょう。席に着いたら聖典を開いてくださいね」
修道女達はマーテルに指示されたページを一斉に開いた。挿絵で聖職者に退治される悪魔の姿が描かれている。
「今日は人間に化けた悪魔を見分ける方法を皆さんに教えますわ。外見だけでなく、悪魔は言葉巧みに人間を騙す存在ですわ。己の欲望を抑制し、清い心を持たねば、あっという間に傀儡となってしまいますわ」
「マーテル院長。どうして悪魔は人間を堕落させようとするのでしょうか?」
勉強熱心な修道女が手を上げて質問する。胸元で輝く蒼薔薇の徽章に、クロエは見覚えがあった。彼女は名門貴族の子女だ。家柄が良く、勉強熱心で、聖職者としての資質も抜きん出ている。お淑やかな修道女になりきっているが、貴族らしい雰囲気が色濃く残っていた。
「悪魔は純潔を貶めたいという欲望を抱いているからですわ。清らかな存在を許せない。逆にいえば、悪魔の弱点でもありますわ。悪魔は清廉を忌み嫌い、遠ざけようともするのです」
別の修道女が手を上げた。古びた眼鏡をかけた地味な少女だ。貧しい農家の娘だった。寒村に派遣された宣教師が彼女の資質を見抜き、パルセノス修道院への推薦を出した。最初は文字すら読めず、苦労していたという。だが、三年間の努力で秘めた資質が開花した。
成績は次席であるが、今後の成長次第では主席が狙える位置にいる。勉強熱心な性格も相まって、将来有望な修道女だった。
「構いませんわ。さあ、遠慮なく質問してくださいね」
「マーテル様。人間が持つあらゆる欲望を絶てば大悪魔にも勝てますか?」
「全ての欲求を絶てば、悪魔は何もできないでしょう。けれど、それは人間性の否定ですわ。欲望が完全に消えてしまったら、単なる人形です。心がなければ誑かされることはありませんが、本末転倒でしょう」
「⋯⋯では、悪魔に対抗する私達はどうすれば?」
「大切なのは節度と自制心ですわ。己の心を律する理性を高めるのです。その要となるのは、清らかな信仰心ですわ」