宿願が叶う寸前で起きた異常事態にレヴェチェリナは酷く取り乱した。共和主義者に傾倒した愚かな帝国宰相を騙し込み、浅はかな帝国元帥を誑かして毒殺した先帝ミーシャ。五百年に及ぶ災禍はメガラニカ帝国を滅ぼしかけた。
半世紀前にアレキサンダー公爵が仲間達と共に死恐帝を鎮めた。救国の英雄によって死恐帝は葬られたはずだった。
「死恐帝!! は? はぁ!? なぜ! どうして⋯⋯!! 生きているわけが⋯⋯!?」
「生きてはいません。死者は蘇らない。今の僕は消えかけの残留思念。消滅する前にやるべきことを果たそうと思う。君が企んだ恐ろしい陰謀の内容はおおよそ知っていた。なにせ、弱った君が賢妃アンネリーの首飾りに閉じこもっていた五百年間、僕の皇后だったロゼティアは計画を流用したんだ。ご存知のはずですよね」
「うっ⋯⋯!! くぅっ!! 知った風な口を⋯⋯!!」
「道を踏み外した女仙が考えることは同じです。でも、それはいけない。許されざる悪業だ」
「っ⋯⋯!!」
「沢山の人が死んでしまう。誤りは正されねばならない」
「死に損ないの亡霊が偉そうに⋯⋯!! 出て行きなさい! 私の胎から⋯⋯!! 破壊帝の御体を渡してなるものかッ!!」
レヴェチェリナは半狂乱で叫んだ。
「レヴェチェリナ・ヴォワザン。君や子宮に宿った赤子が普通の人間だったら、僕は何もできなかった。メガラニカ帝国の皇帝は人を殺めてはいけない」
死恐帝は淡々と述べる。破壊者ルティヤの転生体は人間を殺められない。任期をまっとうした皇帝はいずれも殺人に手を染めていない。
ボテ腹に亀裂のような痣が浮かび上がった。レヴェチェリナの表情が凍り付いた。
「待て。やめなさい⋯⋯! やめろっ!! やめてっ!!」
魔物は呪毒を無効化する。しかし、魔物の恩寵には大きな代償が伴う。魔物は世界の敵となる。
比類なき強大な魔物〈神喰いの羅刹姫ピュセル〉は人間に憧れた。彼女はアレキサンダー公爵家の当主を殺せるほどの魔物だったが、どんな犠牲を払ってでも人間に生まれ変わりたかった。
二匹の魔物は利害の一致で行動を共にしていた。しかし、羅刹鬼と大妖女の目的と思想は真逆だった。
メガラニカ帝国の最盛期、人類秩序の破壊を試みたピュセルは栄大帝に殺されかけている。破壊者ルティヤの転生体は殺人ができない。剣技を極めた栄大帝は生涯不殺を貫いた。しかし、魔物は殺せる。魔物は人に該当しない。
死恐帝も同様だった。彼自身は災禍が続いた五百年間ですら一人も殺さず、傷つけていない。
「人間は一度だって殺したことがない。これからもそうだ」
大妖女レヴェチェリナは人外の魔物だった。胎に宿った赤子も同様である。
「――君達は人間ではない。だから、僕でも殺せる」
「やめなさいっ⋯⋯! やっ、やめろぉおおお⋯⋯っ!! 私の身体に何をすッ――!! ひぎぃぃっ!んんぅぅぅぅぅ! んあがぁぁぁあああああああぁぁあっ! ぎゃ! んぎゃあぁ! あぁああああああああああああああああああああああああああぁぁああああぁっーー!!」
大妖女は大理石の床でのたうち回り、乳房の皮膚を掻き毟っている。
出産の陣痛ではなく、臓器を破壊される激痛で絶叫していた。
「メガラニカ帝国の平和を脅かす災厄を取り除きます。魔物の胎児を堕胎させる。メガラニカ帝国の皇帝は魔物を殺すことができる。魔物退治の逸話を多く遺した栄大帝が証明してくれた」
「ふっ、ふざけるなっ! 亡霊の分際で⋯⋯! 破壊帝の偉大なる復活を⋯⋯!! 父上の蘇りを邪魔させてなるものか⋯⋯!!」
「アレキサンダー公爵と僕が何の対策もせずに、この世を去ったと思っていたのなら、君はとても愚かだ。最初から目的は分かりきっていました。破壊者ルティヤの荒魂を奪い取り、破壊帝の復活を目論む。だったら、僕達は反対の準備をすればいい」
「あぎっ!? あぁっ!? やめっ! あぁっぅうぅうぅうぅぅうぅぅうううううううううううううううううううううううううううううううううううっ! ああぁああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
レヴェチェリナの膣穴から血が流れ出る。グチャグチャに溶けた胎児の肉塊だった。
「奪われた破壊者ルティヤの荒魂をあるべき器に戻します。宝物庫に現皇帝と深く結びついた女仙が二人もいて助かりました。〈反魂聖胎の祭礼〉は十分に機能しているようですね」
魔物の胎児を殺した死恐帝ミーシャは最後の力を振り絞って権現する。
死恐帝ミーシャと救国の英雄アレキサンダーが仕掛けていた最後の保険。奪われた魂を奪い返す。〈反魂聖胎の祭礼〉は大妖女レヴェチェリナが執り行った〈反魂妖胎の祭礼〉と真逆の効果を発揮した。
「僕の使命は終わりました。もうすぐ僕は消え去ります。これで皇帝は唯一無二となる。そこの神官さん。レヴェチェリナが弱っているうちに止めを刺してください。魔物化した女仙とはいえ、わずかに人間性があるようです。僕ではレヴェチェリナを滅しきれませんでした」
「ミーシャ陛下⋯⋯。そのお姿は⋯⋯。まさか⋯⋯」
「あれ⋯⋯? 貴方はどこかで⋯⋯。ああ、そうか。大神殿で暮らしていたとき、何度か会っていました。ロゼティアの妹さんですね。レオンさんからも聞いています」
「過去の記憶を正確に覚えてらっしゃる⋯⋯? 残留思念とは思えない。本当にそうなのですか?」
卓越した神術師の目は誤魔化せなかった。権現した死恐帝が単なる残留思念ではないと見抜いた。
「ああ、失言でした。さすがはロゼティアの妹さんだ。やっぱり分かってしまいますか? 宝物庫で会った淫魔の帝国宰相さんにも勘付かれてはいました。ええ、お察しの通りです。ここにいる僕は⋯⋯。ロゼティアが産み直した魂の残滓です。まあ、つまりレヴェチェリナが使った邪術を使ったんです」
「邪術⋯⋯!! なんたる⋯⋯。姉上は⋯⋯。神官長ともあろう者が⋯⋯」
カティアは言葉を詰まらせた。予想はしていたが、殉死した姉のロゼティアは大きな罪を犯していた。
大妖女レヴェチェリナは破壊帝を蘇らせたかった。そのために大量の人間を殺害した。計画を成就させるために殺された人間の数は、万単位となるだろう。しかし、この邪悪な計画を遂行しようとした女仙がもう一人いたのだ。
五百年以上、死恐帝の災禍は終わらなかった。
メガラニカ帝国の人々は死恐帝の憎悪が深かったのだと考えた。しかし、真相は違った。ミーシャは臣民を恨んでなどいなかった。自身を毒殺した裏切り者達にさえ慈悲を与えた。
――ならばなぜ、リバタリアの災禍は五百年も続いたのか?
大妖女レヴェチェリナの邪悪な儀式を流用し、先代神官長のロゼティアは殺されたミーシャを蘇らせようとした。死恐帝の残滓を宝物庫に遺せたのは、先代神官長ロゼティアが反魂の蘇りを探究していたおかげだった。
無論、膨大な犠牲が伴った。生贄は災禍で亡くなった数千万の命だ。
「僕は誰かを殺してまで蘇りたくはありません。気付いていればもっと早くに止めていた⋯⋯。僕はレオンさんが外の状況を教えてくれるまで、自分が死んでいたことを忘れていた。都合のいい幻想を信じきっていました。僕達だけが生きていて、世界の人達は全員死んだ。でも――本当は逆だった」
その先は口にできなかった。レヴェチェリナが多くの人間を殺したように、ロゼティアも大勢の人間を恣意的に殺害した。死者と生者を逆転させる外法。五百年以上の災禍を引き起こした元凶は、殉死したロゼティアの怨讐だった。
「災禍の原因は僕のせいです。僕は死恐帝と呼ばれるにふさわしい。貴方はレオンさんに⋯⋯大切なお仲間のアレキサンダー公爵に言いたいことが沢山あるでしょう」
「多くの秘密を抱えて、遺言も残さず死んだのはまさしくその通り」
「全ては僕の我が侭に付き合わせたせいです。口止めを命じました。弁明のしようのない職権濫用です。ごめんなさい」
救国の英雄アレキサンダーは苦楽を共にした仲間にすら秘密を語らなかった。死恐帝ミーシャはただ一人の皇后だったロゼティアが後世で非難されるのを恐れていた。
古い時代から過去を生きてきたカティアは、死恐帝の子供染みた行動を糾弾する気にはなれなかった。
先代神官長ロゼティアの目論みと所業が明らかになれば、大妖女レヴェチェリナの陰謀を先んじて挫けた可能性はある。しかし、ロゼティアの名誉は損なわれる。
(姉上はミーシャ陛下を蘇らせるために、まず間違いなく新帝をも生贄にしたじゃろう。レヴェチェリナのように、ベルゼフリート陛下を手に掛けることも厭わなかった)
宝物庫に遺された死恐帝の魂は、その気になれば復活を望めた。しかし、善良なミーシャは望まなかった。
世界を滅ぼしてでも、蘇りを願ったロゼティアの想いを強く否定した。
「レヴェチェリナの陰謀は打ち砕かれました。そもそも破壊帝が蘇るかは分からなかった。僕のように当人が拒絶すれば、計画は水泡に帰するのですから」
バルトリヤが二度目の生を望んだかは分からない。呼び起こされるのが正気を失う前の破壊帝であれば、失敗に終わっていた可能性は高かった。
「あぁ⋯⋯! ぁ⋯⋯! あぁっ⋯⋯! うぅっっ⋯⋯!」
レヴェチェリナの胎児は粉々に砕かれて、膣穴から血反吐となって流れ出てしまった。奪い取った破壊者ルティヤの荒魂はベルゼフリートの肉体に戻った。宝物庫の人工精霊が噴出した破壊者ルティヤの荒魂を引き入れている。
「⋯⋯すぐ⋯⋯奪い返せば⋯⋯! 間に合う! まだ⋯⋯! あぁあああああああああぁっ⋯⋯!! あはっ! あはっはははは! だいじょうぶ。やりなおせばいい。失敗してしまっただけ⋯⋯また⋯⋯あはははははは♥︎ さいしょから⋯⋯♥︎ やりなおすだけ⋯⋯♥︎ あはぁ⋯⋯♥︎」
四つ這いになったレヴェチェリナは、流産した胎児の肉片を寄せ集めている。もとより正気ではなかったが知性までも失われていた。ブツブツと血溜まりに語りかける。
「皇帝陛下⋯⋯♥︎ 愛しの君⋯⋯♥︎ また私が産んであげますから⋯⋯♥︎ すぐに⋯⋯父上の⋯⋯お身体を⋯⋯私の膣内で⋯⋯♥︎」
上位種の魔物を巧みに操っていた首魁の威厳は消し飛んだ。まるで迷子になって泣きじゃくる幼い少女だった。
「お願いします。彼女を終わらせてください」
神官長カティアは暴発させようとしていた絶対熱の焔を調整する。レヴェチェリナの邪悪な魂と魔物の肉体を焼き滅ぼし、死恐帝ミーシャの残滓を冥府に送る。
「我らは罪深き咎人。我らは世界の楔となる贄巫女。我らは深淵の怪物を愛欲で飼う聖娼婦。全てを与え、全てを捧げ、全てを委ねる。勇者の大罪が赦される刻まで、我らは偉大なる貴方に祈りを捧げよう。血と骨と魂、微睡みの子守歌、底無しの慈愛。貴方の飢えを満たしましょう。大魔を滅ぼした異界の獣よ。安らかに眠りたまえ」
大神官の葬礼はメガラニカ皇帝の崩御でしか詠われない。
「外は夜明けですね。再び帝都の朝焼けが見られるなんて⋯⋯。僕は幸せ者です」
浄化の焔に包まれたレヴェチェリナは灰塵となった舞い散った。
「さようなら。新帝と平和な時代を築いてください」
満足げな笑みを作った死恐帝ミーシャの霊体は跡形もなく消滅した。