「ベルゼフリート陛下はとても危険な状況です。そこでお伺いしたいのですが⋯⋯ミーシャ陛下は亡くなられていなかったのですか?」
「僕は気付いてなかったんですけど、何百年も前に肉体は死んじゃいましたね⋯⋯。現世に縛られていた魂もレオンさんのおかげで解き放たれました。今の僕は残留思念の一部です。複製された模造魂魄だとかなんとか⋯⋯」
ウィルヘルミナは限られた情報で、ある程度の事情を推測できてしまった。五〇〇年以上前に死んだ先帝が自分の死に無自覚だった。そして、魂は縛られていたという発言。先代の神官長ロゼティアか女官総長アトラクが何かをしたとしか思えなかった。
(そもそも死恐帝の残留思念が宝物庫に封じられていたのか? 扉を開くには皇帝だけでなく、帝国宰相か女官総長の協力が不可欠⋯⋯。死んだとされていた者達がこの世に存在していた証拠です)
英雄レオンハルトは知らされていたはずだ。しかし、仲間のカティアには伝えられていない。大神殿の人間には明かせない何かがあった。
「僕の残留思念は半日くらいで消えてしまいます。困ってしまいました。その様子だと何も聞かされていない⋯⋯ですよね⋯⋯?」
「宝物庫に先帝のミーシャ陛下がおられるとは聞かされておりません。初耳です。どのような事情があったのか教えていただけますか? ⋯⋯そして、ベルゼフリート陛下をお救いするため、お力添えをお願いできますか?」
「大変な事態に陥ってるようですね。もちろん、助けてはあげたいです。でも、まずはレオンさんと話がしたい。今は彼が帝国元帥なんですよね?」
「レオンハルト・アレキサンダー公爵は亡くなれています。現在、帝国元帥を務めているのは、同姓同名の孫娘です」
「え? 亡くなった⋯⋯!?」
「現在は大陸歴八紀九年です。救国の英雄レオンハルトが祖国を救うために旅立ったのが五十年前です」
「そっか。五十年も⋯⋯。僕らの予定が狂ってしまったみたいだ。レオンさんが亡くなったのはいつ? 新しい皇帝が現われる前に死んでしまったのですか?」
「はい。新帝捜索に力を尽くしておられましたが、残念ながら⋯⋯。病でこの世を去りました」
「病⋯⋯。そっか。意外です。病気とは無縁な人に思えたのに⋯⋯」
「救国の英雄としてアレキサンダー公爵の名は、今もなお帝国全土に勇名が轟いております」
「それは良かった。レオンさんの夢は叶ったんだ。ちゃんと約束を果たしてくれた。だからこそ、今度は僕の番だというのに⋯⋯」
「救国の英雄アレキサンダーは、多くの秘密を抱えたままこの世を去りました。なぜ後世に重要な情報を伝えず、口を閉ざしたのか⋯⋯。教えてくだされば対策を講じることもできたでしょう。いかなる理由があったのですか? メガラニカ帝国は大きな危難に陥っています」
「⋯⋯⋯⋯」
「英雄レオンハルトが苦難を共にした仲間にさえ話せなかった秘密。今までその理由は誰にも分かりませんでした。ミーシャ陛下はご存知なのですね?」
「ごめんなさい。それは僕のワガママのせいです。レオンさんに責任はありません。僕の魂が消えれば災禍は終わり、すぐに新しい皇帝が現われると思っていました。⋯⋯僕の想定が甘かったせいです。宝物庫の扉が開かれるのは、かかっても十年程度だと⋯⋯」
「ミーシャ陛下が口止めをなさった理由は⋯⋯。先代神官長のロゼティアが災禍を利用し――」
「――いいえ、災禍は破壊者ルティヤの器が引き起こすものです。神官長ロゼティアは関係ない。貴方が口走った予想は外れている」
「⋯⋯⋯⋯」
ウィルヘルミナは反論こそしなかったが怪訝な顔付きになった。しかし、ミーシャの断固たる態度は揺るがない。
「僕の暗殺に加担した者達も被害者です。メガラニカ帝国を災禍で苦しめた原因は僕にある」
「お待ちください。それはおかしい。裏切り者のせいでミーシャ陛下は殺さ――」
「――好きでもない男と無理やり政略結婚させられそうになったんだ。殺したくもなります。全てにおいて配慮に欠けていた。三皇后ではなく、皇帝に問題があった。これで、過去の話は終わりです」
一方的に会話を打ち切られてしまった。ミーシャの清廉潔白な人格は大神殿で育てられた影響である。道徳的であり、高潔であり、善良であった。しかし、君主に向いていない。ウィルヘルミナだけでなく、セラフィーナも死恐帝が謀殺された原因を悟った。
自分を殺した裏切り者の皇后ですら赦す。生来の善人、ゆえに他人を疑わない。ベルゼフリートのように猜疑心を向けもしなかったのだろう。他人に犠牲を強いるくらいなら、喜んで自分を犠牲にしてしまう。
(ベルゼフリート陛下とは正反対⋯⋯。おそらくウィルヘルミナ閣下も私と同じ印象を抱いていますわ)
アルテナ王国の王族として生まれたセラフィーナは、心優しい君主だったが、無制限に寛容ではなかった。君主には統治者の責任がある。自己犠牲は美徳だが、国家の頂点に立つ者が実践するのは不可能だ。
君主は非情な決断を求められる。独善的な手段を選ばなければいけないときもある。政治に深く関わってこなかったセラフィーナですら、利己的な悪女に変貌した。二十年を共に過ごした家族を捨てさり、祖国を攻めた幼き皇帝の愛妾になった。直接的に手を下したわけではないにしろ、ベルゼフリートは息子のリュートを殺した仇敵。セラフィーナは情欲に絆され、そんな憎むべき少年を愛してしまった。しかし、大きな理由はもう一つある。
メガラニカ帝国の皇帝ベルゼフリートに取り入れば、敗亡したアルテナ王国の平和を維持できる。緩衝地帯の戦地になるくらいなら、併合されて帝国の属州となるのも選択肢だった。小国は強国に寄り添う。生き方が汚いと蔑まれようとも。
(この御方は汚れ一つないのだわ。平和な時代であれば、慈悲深い君主だったのでしょうけれど⋯⋯)
ミーシャは殺される前に、いくつもの選択肢があった。いくら共和主義者が台頭していたとはいえ、反逆の可能性があった宰相と元帥を排除する強硬手段を使えたはずだ。
しかし、当時七歳の幼児にそれを求めるのは酷かもしれない。
「君主には責任がある。実権や能力の有無にかかわらず⋯⋯。国が傾いて、大勢の民が死んだ。数え切れないほどの人が死んでしまった。誰のせいなのか⋯⋯。レオンさんと話し合って筋書きを決めました。全ての責任は僕、つまり死恐帝にあるべきです」
「⋯⋯⋯⋯」
現在の帝国史観とは相容れない。ウィルヘルミナが反論しないのは、先帝への礼節を守ったからに過ぎなかった。やりとりを側で見ていたセラフィーナは、微笑で頷く淫魔が内心では腹を立てていると察した。
ミーシャとて愚昧な皇帝ではなかった。優しすぎる性格は問題が多い。しかし、自分以外を守るためであれば絶対的な力に変じる。
「決めたことです。貴方が何者だろうと口は挟むことは許しません」
その言葉には一切の反論を撥ね除ける帝気が込められていた。女仙のウィルヘルミナとセラフィーナは畏怖で肌が震えてしまう。生前は破壊者を封じ込める封印の器だった。先帝の性格はベルゼフリートと大きく異なるが、本質は似通っていた。
「ミーシャ陛下のお気持ちは承知いたしました⋯⋯。今後、不躾な発言はいたしません。⋯⋯しかし、メガラニカ帝国は再び脅威に晒されております。我々が脅威を退けなければ災禍が起きてしまう」
ミーシャは身内の醜事を語らぬ気でいる。しかし、現役世代のウィルヘルミナ達はそれだと困る。
「そうだね。⋯⋯申し訳ないけれど、話したくないし、話せないことのほうが多い。でも、民を見捨てるほど薄情なわけではありません。だから、これから僕がする説明は、架空のたとえ話だと思って聞いてくれますか?」
「分かりました。記録には一切残しません」
「もし皇帝が不幸にも死んでしまったとます。女仙達は何を願いますか? 死んだ皇帝が女仙に好かれていればの話ですけどね⋯⋯。貴方が帝国宰相であるのなら、自分に置きかえて考えてほしい。きっと願ってしまうはずだ」
「それは⋯⋯。分かりかねます。私には⋯⋯」
「え? なぜですか? ウィルヘルミナ閣下⋯⋯!? 私なら皇帝陛下に蘇ってほしいと⋯⋯」
咎める口調でセラフィーナは言い放った。
「いけません。セラフィーナ⋯⋯。それは禁忌です」
「⋯⋯禁忌?」
「新帝は臣下に恵まれているね。帝国宰相は聡明であられる。皇帝が死んだとき、考えるべきは災禍への備えです。器が死ねば女仙もいずれ死ぬ。残された時間はわずか⋯⋯。嘆き悲しんでいる暇はありません。本来、女仙の役割は、失敗時の後始末にあります。災禍の犠牲を抑え込まなければ大勢の人間が死んでしまう」
ミーシャはセラフィーナに視線を向ける。
「人間的な答えなら、正解はセラフィーナさんだ。普通の人ならそう願う。親しい人、愛した人、敬愛した人。別れは悲しい。死者の復活を願ってしまう。もはや呪いだ。神官長は起こりえない奇跡に縋り付いてしまった⋯⋯」
沈痛な面持ちでミーシャは五百年前の真実を吐露した。
皇帝の杯に毒を盛って殺した首謀者は、当時の帝国宰相であった。そして、計画を知りながら止めようとせず、共犯者となった帝国元帥。帝政廃止を掲げる共和主義者によって、後に〈リバタリアの災禍〉と呼ばれる屍者の濃霧が発生した。
「罪のない民が犠牲になり⋯⋯不幸が撒き散らされ⋯⋯屍者の大軍が大陸を覆い尽くすとしても⋯⋯」
三皇后で暗殺計画に加担しなかった神官長ロゼティアは殉死している。死恐帝に尽くした唯一の皇后と美徳を褒め讃えられたが、ロゼティアの行動は身勝手な側面もあった。
皇帝が絶命し、封印の器は壊れた。神官長ロゼティアは残された人々を救うため、災禍の被害を食い止めるべき人物だった。ところが、愛情ゆえに真逆の行為に及んだ。
「⋯⋯愚かな選択でした」
名指しでの言及はしなかった。先帝は皇后の名誉を貶めたくなかったのだ。しかし、先代神官長の凶行を指しているのは、ウィルヘルミナのみならずセラフィーナでも分かった。
「破壊者の力は恐ろしい。不可能を可能に塗り替える災いだ。僕がこんな状態で存在できているのもそのおかげです。⋯⋯死者を蘇らせことはできたのかもしれない。けれど、それは悪業だ。けして許されはしない。だから、誤りを正す英雄がメガラニカ帝国には必要だった」
先代皇帝ミーシャは死者蘇生を強く否定する。誰よりも優しい君主だったからこそ、屍の山が積み上がり、荒廃した国土を見て、嘆き悲しんだ。
「僕は命じました。帝国を救うと約束してくれた騎士に、道を正してほしいと⋯⋯」
真実に気付いたミーシャは助けを求めた。自らの魂を鎮めるためではない。道を踏み外した神官長、大逆に手を染めて苦しみ続ける帝国宰相と帝国元帥、魔霧に囚われた屍者達。その全員を解放する。それこそが死恐帝の願いだった。
二度目の生を強く拒絶し、五〇〇年に及んだ災禍を終わらせたかった。
「レオンさんのおかげで僕に関する問題は解決した」
アレキサンダー公爵は最初にして最後の勅命を成し遂げた。
死恐帝の命令を完遂し、誰にも秘密を漏らさずにこの世を去った。
「⋯⋯だけど、元凶は取り除かれていません。破壊帝の時代から冥府魔道を彷徨う哀れな女仙。名前はレヴェチェリナ・ヴォワザン」
「大妖女レヴェチェリナ⋯⋯。あの魔物の正体をご存知なのですか?」
「哀帝に仕えた賢女アンネリーが正体を掴んでいました。レヴェチェリナ・ヴォワザンは魔物ではありません。破壊帝の女仙です。妻であり、娘であり、孫、曾孫⋯⋯。血はもっと濃いでしょう」
「⋯⋯? どういうことですか?」
「狂気に陥った破壊帝は血を濃くしていった。そのことはご存知ですか? 彼は自分の娘に子を産ませた。産まれた孫娘をさらに孕ませて⋯⋯近親相姦を繰り返し、最果ての魔女は誕生した⋯⋯。七選帝侯の一角であった大貴族ヴォワザン家が歴史から消された理由です」
「⋯⋯本当に⋯⋯そんなことが⋯⋯?」
「忌まわしき事実です。生き証人から僕は聞きました。僕の妻である神官長ロゼティアは破壊帝の血縁者だった。幸いにも母親が意図に気づき、二人の娘を逃がした」
「諡号文書にさえ残せなかった負の歴史⋯⋯」
「隠蔽ではなく、記録する者がいなかったのでしょう。それだけ酷い時代だったそうです。ロゼティアは幼い妹を連れて、逃げなければならなかった。黒鉄の勇者が破壊帝を弑逆しなければ、ヴォワザン家のように子々孫々まで血脈を穢されていたでしょう」
「近親相姦を繰り返したら⋯⋯。血が濃くなればさまざまな問題が生じます。それを憂慮した大宰相ガルネットは帝国憲法で近親婚を禁じたと聞いています⋯⋯」
「近親相姦を繰り返し、血が濃くすれば、いつしか自分自身に限りなく近い複製体が出来上がります。つまり、新たな器です。肉体を作った後は中身です。荒魂さえ手に入れば復活の可能性がある」
「⋯⋯⋯⋯!」
「破壊帝は死を恐れていました。ヴォワザン家の女性達は計画の協力者だった。末裔のレヴェチェリナは破壊帝の遺志を継いでいるはずです」
「レヴェチェリナの目的は死者蘇生。復活させようとしているのは破壊帝ですか?」
「目的はおそらく産み直し。破壊帝の肉体情報がレヴェチェリナの血肉に宿っていると賢女アンネリーは見抜きました。⋯⋯死んだ皇帝を復活させるとき、障害となるのが何か分かります?」
「当代の皇帝⋯⋯」
「その通りです。皇帝は破壊者ルティヤの転生体。輪廻転生している都合上、一つの時代に一人しか存在できない」
「得心がいきました。破壊帝の崩御後、立て続けに新帝が身罷られたのは⋯⋯」
「破壊者ルティヤの転生体は一人。つまり、破壊帝の再誕には、既にいる器を完全に破壊し、新たな皇帝の出現をも防がねばなりません。しかし、レヴェチェリナは哀帝と僕の時代に失敗しています。転生体から荒魂を奪うだけでは不完全だったようです。古代から続いてきた封印のシステムを根本的に破壊する必要があった」
「ミーシャ陛下はレヴェチェリナを止める方法を考えていたのですね?」
「本当はレオンさんが新皇帝を宝物庫に連れてくるはずでした。いくつかの作戦を用意していました。だけど、この状況です。賢女アンネリーが残してくれた封印の首飾りはおそらく壊されている。レヴェチェリナの動きは想定以上に早く、こちらの計画は出遅れてしまった。もはや残された手段は一つでしょう」
深刻な面持ちでミーシャは告げた。ウィルヘルミナよりも先にセラフィーナが反応する。
「お待ちください! まさかベルゼフリート陛下を害するおつもりですか⋯⋯!?」
取り乱したセラフィーナが詰め寄る。
「大丈夫。僕が憑依した身体には傷一つ付けません。哀帝や僕のときは手遅れだったけど、策は残っています。レオンさんが秘密を漏らさず亡くなったのなら、下準備を一人で完遂してくれたはずです⋯⋯。レヴェチェリナの裏をかけます」
セラフィーナは胸を撫で下ろす。だが、ウィルヘルミナは警戒心を強めた。
(信じて良いのでしょうか。先帝のミーシャ陛下や救国の英雄アレキサンダーを⋯⋯。後世に秘密を明かさなかった理由が気になります)
救国の英雄アレキサンダーは滅びに瀕していたメガラニカ帝国を救った。その行動理念は疑わない。しかし、忠誠を誓った相手は先代皇帝である。
「ミーシャ陛下は現世に未練がないのですか?」
確かめる必要があった。アレキサンダーが秘密を守り続けたのは、先代皇帝ミーシャの勅命に従ったからだ。産まれてもいないベルゼフリートに忠誠は誓っていない。
(アレキサンダーは災禍で荒廃するメガラニカ帝国を救おうとした。だからこそ、帝国宰相の私は危険視してしまう。祖国を救おうとしていた騎士が、この死恐帝の亡霊と会っていたら⋯⋯。何を願う? そんなのは分かりきっています。蘇りを強く望んだはずです)
七歳でこの世を去ったミーシャの残留思念は、理知と善性を兼ね揃えている。メガラニカ帝国を滅亡の一歩手前まで追い込んだ死恐帝のおぞましいイメージとは正反対の存在。
仮に死者を蘇らせる方法があるのなら、英雄アレキサンダーは、死者蘇生を願わなかったのだろうか。その疑念は拭いきれない。
(アレキサンダーがミーシャ陛下の復活を目論んでいたら、踏み台にされるのはベルゼフリート陛下です⋯⋯)
仮にそうだったとしても反逆とは誹れなかった。過去の人物からすれば、ベルゼフリートは生まれてもいない存在。未来の可能性に過ぎない。
(選びかねない⋯⋯)
忠誠を誓う皇帝を蘇らせる生贄としては安い。ウィルヘルミナも同じ立場なら誘惑に負けてしまうかもしれない。
「お答えいただけませんか? ミーシャ陛下」
「疑り深いですね。僕は消えかけの残留思念。悔いも未練もなくこの世を去っています。宝物庫に意識を残したのは引き継ぎのため⋯⋯。それにね。後世に語り継がれる英雄譚を貶めるような蛇足は好ましくない。英雄アレキサンダーは死恐帝を退治し、メガラニカ帝国に夜明けをもたらす⋯⋯。物語の結末はハッピーエンドでなければね」