べちょべちょに濡れたシーツの不快感でイシュチェルは目覚めた。
浅く深呼吸をする。嗅ぎ慣れてしまった淫臭が室内に充満している。精液と膣汁が混じった性交の残り香。陰毛を綺麗に剃られた自分の女陰から匂ってくる。
鉛のように重たい上半身を起こして、カーテンの切れ目から差し込む眩い朝陽で眠気を払い落とす。乳房の谷間が汗ばんでいる。乳輪には乾いた唾液と噛み跡が残されていた。弄ばれた乳首の性感は研ぎ澄まされ、過敏に反応してしまう。
(乳房が軽い⋯⋯。寝ている間、ずっと吸われていたのかしら?)
夜伽の只中、ベルゼフリートはしきりに母乳を吸ってくる。我が子アーロンに与えるべき母親の乳汁を搾取される。他人の子供に授乳し、母としても、女としても辱められていく。
(授乳だけなら⋯⋯。乳母のようなものだと思えば、許せるけれど⋯⋯。子宮が重たい。大量の精液が溜まってる)
イシュチェルは仕えてくれた乳母を懐かしむ。王子アーロンを預けた勇敢な女性だ。グウィストン川で船が沈没し、生死は分かっていない。けれど、イシュチェルがアーロンの生存を信じているのは、乳母の力強い言葉が耳に残り続けているからだ。
――何があろうとも、私はイシュチェル様とアーロン王子の味方です! 必ずお守りいたします!!
あの乳母が誓ってくれた。命を賭した忠誠は、弱り切ったイシュチェルを奮い立たせる。アーロンは生きている。船に乗っていた臣下達は身命を捧げた。
(私も捧げなければ⋯⋯。忠臣の献身に報いるため⋯⋯!)
この身を辱められたから何だというのか。皇帝に性奉仕することで民を救える。修道院を出て還俗したときも、愛国心で我が身を捧げた。後宮でも同様だ。
(幼帝のご機嫌取りは、どこかで役に立ちますわ。祖国を救うため⋯⋯。アーロンを守るために⋯⋯。大丈夫よ。教会の聖印がある限り、一線は超えない。踏み止まれるわ。私は妊娠いたしませんわ)
膣口から逆流した精液を睨む。ベルゼフリートの遺伝子が宿った精子は、イシュチェルの胎を満たしていた。
聖印はバルカサロ王家の血筋だけを残す祝福。効果に対する認識は正しい。けれど、イシュチェルは自分自身が王統の女だと知らない。
それ故に大きな食い違いが生じてしまった。こうしている今、聖印は排卵を促し、王統の血筋を残そうと卵巣を刺激する。精子の進撃を阻む壁は取り払われ、護りは無防備である。
「誰もいませんわね。皇帝陛下は⋯⋯。セラフィーナ様や女官達も⋯⋯」
黄葉離宮の主寝室は静寂だった。ベルゼフリートが近くにいれば警務女官の姿がある。女官の不在は、ベルゼフリートの不在を意味する。
「⋯⋯⋯⋯」
一人残されたイシュチェルは一糸纏わぬ姿で窓に近づいた。派手な柄の遮光カーテンを開けて、真夏の日光で室内を照らした。
「太陽が上がりきってる。私、寝坊してしまったのかしら」
窓枠に触れる。すぐ指先を離した。火で焙ったように熱い。
昼時には早いが、朝というには遅すぎる。深夜まで淫行に励んだイシュチェルは生活習慣が乱れ切っていた。修道院での規則正しい生活とは真逆だ。
「いっ⋯⋯痛いですわ⋯⋯。頭の奥が⋯⋯とても痛む⋯⋯」
イシュチェルはよろよろと歩いてベッドに戻った。シーツは染みだらけだったが構わず、うつ伏せで寝転んだ。どうせ身体は精液塗れで穢れている。乾いた体液は素肌どころか、髪の毛先に張り付いていた。
(酒臭い⋯⋯)
サイドテーブルに酒瓶とグラスが置いてあった。子供のベルゼフリートは飲酒をしない。妊娠中のセラフィーナは禁酒中。セックス中に酒を飲むのはイシュチェルだけだ。
「あぁ⋯⋯。そうだわ。思い出した。私、お酒を飲んじゃった⋯⋯。これ⋯⋯二日酔い⋯⋯しちゃってるんだわ⋯⋯」
昨晩の記憶が綺麗さっぱり抜け落ちるほどに飲んでしまった。イシュチェルが口にしたウイスキーは、メガラニカ帝国のドワーフ族が作った高級酒。度数は高い。二日酔いは当然の結果である。
「⋯⋯⋯⋯」
しばらくの間、イシュチェルは自己嫌悪で起き上がれなくなった。セックスと酒に溺れる淫女。教会で最も忌み嫌われる存在に堕ちている。
(セラフィーナ様に引っ張られていく⋯⋯私も罪深い淫女に⋯⋯)
セラフィーナの思惑は露骨だ。生来の価値観を砕き、踏み躙る。敬虔な教徒として育ったアルテナ王国の女王は、教会の道徳規範をよく知っている。
「イシュチェルさん。そろそろ起きられてはいかがですか? 昼には女官が掃除に来ると思います」
誰かが背中を優しく摩ってくれた。顔を上げるとマリエールが微笑んでいた。
「マリエールさん⋯⋯」
「本当は私がこの部屋を掃除をしたいです。けれど、女官達が許してくれません。何を怖がっているのでしょうね? 神術の発動を封じられた私に、出来ることなどありはしないのに⋯⋯。心外です」
マリエールは濡れたハンカチでイシュチェルの目元を拭ってくれた。
「ありがとう。あとは自分で⋯⋯。大丈夫ですわ」
顔を綺麗にした後、少し迷ってから乳房に付着した体液を拭き取る。自重で垂れた爆乳を持ち上げ、裏側にハンカチを差し込む。その時、汗を吸った紙切れが膝元に堕ちた。
「何か落ちましたね」
「⋯⋯何かしら? 紙?」
右の乳房に挟まれていた小さな紙切れは、ベルゼフリートの置き手紙だった。
――夜に戻るから全裸待機ね! 皇帝命令だから!! 勅命!
伝言は短い一文のみ。イシュチェルの乳汗で紙がふやけて文字が滲んでいた。ベルゼフリートはわざわざ手紙を乳房に挟んでいったようだ。
「⋯⋯⋯」
幼帝の悪戯にどう反応すべきか迷う。手紙を握り潰したり、引き裂いたら不敬にあたるかもしれない。
「皇帝陛下の置き手紙ですか?」
「マリエールさん。この手紙、どう思われます?」
イシュチェルは指先で摘まんだ手紙をマリエールに渡した。
「夜のお誘いでしょうか?」
「そうみたいですわ⋯⋯」
「こう考えましょう。日中は身体を休められます。皇帝陛下は黄葉離宮におられません」
「皇帝陛下は遠出されているの? 宰相派の離宮にお出かけ?」
「ご公務で外出中です。セラフィーナ様とロレンシアさんを連れて、地上に降りられています。珍しいですね」
「地上に? 後宮を離れておられるの?」
天空城アースガルズは帝都近郊を浮遊している。皇帝や女仙は滅多に下界に降りない。
「今朝方、軍務省から屈強な護衛官が迎えに来られました。帝国元帥レオンハルト閣下の姉君だとか⋯⋯。アマゾネス族の方々はとても大柄で驚いてしまいます。おっと、イシュチェルさんが知りたいのは、ご公務の内容についですね? 私が聞いた話では、グラシエル大宮殿にアルテナ王国の商人達が集められています」
「アルテナ王国の商人⋯⋯」
「私でも知っているくらい有名な商会の方々です。ベルゼフリート陛下とセラフィーナ様は西アルテナ王国の国王夫妻であられる。通商協定の制定に際し、謁見式が執り行われるようです。経済面の結びつきがさらに強まりそうです。⋯⋯イシュチェルさんは知らなかったのですか?」
マリエールの耳に入っている情報だ。秘密などではなく、公開情報である。ベルゼフリートと過ごす時間が多いイシュチェルは、どこかで耳にしているはずだった。
「聞いたような⋯⋯気もしますわ⋯⋯。でも、昨夜のことは⋯⋯覚えてません。お酒のせいで抜け落ちてたのかも⋯⋯。お恥ずかしいわ」
イシュチェルは乱れた前髪を搔き上げる。淫臭に混じって酒の匂いが漂った。
「お風呂で身体を清めましょう。黄葉離宮に残った女官は少ないです。今なら側女用の共用浴室は自由に使えます。どうぞ、私の手を掴んでください」
「どこかに私の服が転がってないかしら? せめて下着だけでも⋯⋯」
マリエールの手を借りてイシュチェルは立ち上がった。
「見当たりません。片付けられたようです。裸のまま浴室まで行きましょう。廊下で女官とすれ違っても何も言われません」
「⋯⋯そうかしら?」
「セラフィーナ様だって服を着ずに歩いていることがあります。宮中諸法度によれば全裸徘徊は禁止事項ですが、ここは私達の離宮です。着替えを取ってくる時間がもったいない」
「確かに⋯⋯。取り繕っても⋯⋯。どうせこんなに汚れていますし⋯⋯。今さら⋯⋯ですわね」
イシュチェルは生乾き精液が張り付いた女陰を見下ろす。そして無垢なマリエールと見比べた。
(マリエールさんはまだ処女⋯⋯。辱めを受けずに⋯⋯。綺麗なまま⋯⋯)
穢れを知らぬ清い手の聖乙女が羨ましかった。酒池肉林の後宮に入内しながらも、教皇候補の元聖女は純潔を守っている。それに比べてバルカサロ王国の王妃は淫堕に漬かっていた。
「――私はイシュチェルさんが羨ましいです」
「え⋯⋯! 私⋯⋯。ごめんなさい。まさか口に出して⋯⋯喋ってしまったかしら⋯⋯? ごめんなさい。まだ酔いが⋯⋯残っていて⋯⋯」
最悪の失言を聞かれたと思った。イシュチェルは慌てふためく。心の奥底に本音は飲み込んだつもりだった。だが、マリエールは朗らかな表情で首を横に振った。
「いいえ。違います。イシュチェルさんは何も仰っていません。ですが、顔に出ていました」
「あぁ、なんて⋯⋯。本当にお恥ずかしいわ。とても⋯⋯」
「そのように恥じ入る必要なんてないです。イシュチェルさんの生還は外部に知られていません。グウィストン川で亡くなられたと思われています。バルカサロ王国だけでなく、おそらく教会も認知できていない。謂わば、死人です。メガラニカ帝国の後宮で新たな生活に順応しても、誰かに後ろ指を差されません」
「⋯⋯ここで新しい人生を歩めと?」
「セラフィーナ様やロレンシアさんは、そうしていますね。ここでの生活は不幸じゃなさそうです。皇帝陛下に忠愛を誓えば生活は保障されます」
「私は快楽が恐ろしいのです⋯⋯。自分自身の肉欲が夜を越すごとに強まっていく⋯⋯。再生させられた処女膜を破られてから、歯止めが掛からなくなって⋯⋯。欲望の波に抗う理性の城壁が崩壊しそうで⋯⋯。とても不安ですわ」
黙ってしまったイシュチェルは、子宮の聖印に両手を添える。どれだけの精子を注がれても、この聖なる御印さえあれば魂だけは守られている気になれた。
(聖なる御印は濃くなったわ。私の子宮は祝福で守られている。どれほど辱められても、魂が肉欲に飲み込まれようと⋯⋯。妊娠なんかいたしませんわ)
イシュチェルは扉に向かって歩き始める。ふとした拍子に視線が吸い寄せられる。木製のマガジンラックには一週間分の新聞が保管されている。
「祖国のことが気になりますか?」
マリエールが問いかける。イシュチェルの足は止まった。朝刊の一面ではバルカサロ王国の情勢を報じる記事が載っていた。
「帝都新聞⋯⋯。帝国の商人が発行している情報紙でしたわね」
「ええ。官報や教会報みたいなものです。驚くべきことにメガラニカ帝国では検閲が行われず、自由な報道や出版活動が臣民の権利として認められています。新聞は貴重な情報源です」
「マリエールさんはあの新聞を読んだようですね。バルカサロ王国の情勢は? 教えてください。良い報せですか?」
「反乱を起こした第二王子ジルベールと第三王子ザトリシオは共倒れです。国軍が重い腰を上げました。軍師団が国軍を動かし、バルカサロ王国の秩序回復に乗り出しています」
「国王陛下を弑逆した者達が共倒れ⋯⋯!? 内乱は収束に向かっているのですね?」
「王子達の私兵は抵抗を続けているようですが、戦争帰りの職業軍人に勝てません。遠からず国軍が戦いを終わらせると思います。内乱に辟易している民衆は多い。国軍の出動を歓迎する声が挙がっています」
先の戦争でバルカサロ王国軍はメガラニカ帝国軍に大敗している。だが、それは相手が悪すぎただけだ。貴族が抱える騎士団や傭兵は容易に蹴散らせる。
「あぁ⋯⋯。これで戦いが終わるわ⋯⋯。けれど、国軍の挙兵が遅すぎます⋯⋯。もっと早く動いてくれれば⋯⋯。私とアーロンは国内に留まれたのに⋯⋯」
イシュチェルは悔しみで唇を噛む。腹立たしさが滲み湧く。国軍が即座に動いて王殺しの王子達を成敗してくれれば、バルカサロ王国の王妃は今も祖国に留まり、民衆と共に国難に立ち向かっていたはずだ。
「あぁ⋯⋯。そうであったなら⋯⋯」
涙がこぼれ落ちる。メガラニカ帝国の後宮に囚われ、辱めを受けることはなかった。アーロンと引き離されず、今も祖国で一緒にいられたはずなのだ。
「そうですね。国軍の出動は遅かったです」
マリエールは気遣ってくれる。声を聞くと落ち着く。やはり教会の聖職者なのだと感じた。
「⋯⋯⋯⋯」
イシュチェルは掻き乱れた感情を抑制し、冷静になって考えてみる。心地よい慰めの言葉に酔い痴れて、自己憐憫に浸るのは簡単だ。修道女であった頃を思い出す。荒ぶる気持ちを鎮めて、祖国の現状を客観的に考える。
「国軍に文句を口にする私は、卑怯な王妃でしょうか⋯⋯?」
「難しい質問です。それぞれの立場がありますから。国軍の政治干渉を抑制してきたのは、他ならぬバルカサロ王家です。軍師団にも言い分はあるでしょう」
「そう⋯⋯ですよね⋯⋯」
「もちろん、イシュチェルさんにも言い分はあります。それを口にする権利もあるはずです」
「私は祖国の平和と安寧を取り戻せるのなら⋯⋯」
「国軍は戒厳令を発し、王都を制圧しました。けれど、平和を取り戻せるかはまだ分かりません」
「なぜですか?」
「国王の後継が決まっていないからです。軍師団はアーロン王子の捜索に取り掛かるでしょう。亡くなられた先王が指名した正当な後継者はアーロン王子です」
「アーロン⋯⋯」
「奇跡が起こることを祈っています。イシュチェルさんも奇跡をお望みではありませんか?」
「ええ。私の子供は生きていますわ。絶対に⋯⋯!」
イシュチェルは両目には力強さがあった。しかし、我が子の生存を心から信じているのは母親だけだ。
メガラニカ帝国の三皇后はアーロンの死体を探している。生存の見込みはまずない。幸運に恵まれたイシュチェルですら、女仙化しなければ意識を取り戻せなかった。乳児が生き残れるとは考えにくい。
希望に縋りつくイシュチェルを責められる者はいない。三皇后であってもだ。安否不明となっている乳児が、ベルゼフリートとの間に作った御子であったのなら、死体が見つかる瞬間まで生存を信じて必死に探し続ける。
それが母親という生物なのだ。



