セラフィーナは通りがかった女官の助けを借りて、ユイファンのいる部屋に帰ることができた。
公文書館で働いている財務女官は、皇帝付きの女官に比べて地位が低い。しかし、愛想は悪くなかった。噂話でセラフィーナの境遇を知っていたのか、接し方が同情的だったように感じた。
「やはり体調が悪そうだね。大丈夫かい?」
ユイファンは紅茶を飲んでいた。持参した水筒とカップが机に並べてあった。
「やはり、そう見えますか……?」
「君の境遇を考えれば、精神的不調に陥るのは当然だよ。軍務省から碌でもない依頼を押しつけられたことも考えればね。水分を摂ったほうがいい。紅茶はいかがかな? 砂糖はほどほどにしているよ」
セラフィーナはユイファンの誘いを断る。
当人は加減したと言い張っている。だが、どれだけの糖分が仕込まれているか知れたものではない。
「ああ、それと、紅茶を持ち込んでる件は内密にね。公文書館の女官は口うるさい。私が本を汚したことは一度だってないのに……」
中庭などの一部の場所を除き、公文書館での飲食は禁止だ。ルール違反の常習犯はまったく悪びれていない。
その後、セラフィーナはユイファンの助けを借りながら、メガラニカ帝国の歴史を学んだ。ユイファンは良き教師であり、セラフィーナも良き生徒であろうとした。
特にセラフィーナが知ろうとしたのは、ベルゼフリートの即位後についてである。
新帝即位はウィルヘルミナ宰相、レオンハルト元帥、カティア神官長による三皇后制度の復活を意味した。天空城アースガルズの起動、妃達による評議会の開催宣言がなされた。
(これが8年前に帝国で起こった出来事……。隣国だというのに、私は何一つ知らなかったわ。帝国の政治体制が大きく変わったとしか……)
この当時、瓦解寸前であったメガラニカ帝国の動向を気にかける国家は少なかった。
帝国と国交を結んでいなかった事情もあり、アルテナ王国がもっぱら気にしていたのは、同盟を結んだバルカサロ王国との関係であった。
(やっぱり……皇帝本人に関する記述がほとんどないわ……)
歴史家の言及は必要最低限であった。測位したばかりのベルゼフリートは、評価が定まらない。何より、記すべき逸話がなかった。
5歳で即位した幼帝。紫色の瞳と小麦色の肌。出生は不詳とされ、孤児院の生まれと推定されていた。
メガラニカ帝国の皇帝は宗教的指導者の地位も占め、血筋は重要視されていない。究極的な話をすれば、人柄も評価対象とならないようだった。
(良くも悪くもお飾りであると、ユイファン少将は言うけれど……)
そのお飾りの登場によって、メガラニカ帝国は劇的に変化する。
皇帝を擁立した功績で、ナイトレイ公爵家の影響力は絶大なものとなり、現当主のウィルヘルミナ・フォン・ナイトレイは国民議会と評議会の議長職を兼任するに至った。
(軍事クーデター……?)
大陸歴8紀6年4月5日、副都ドルドレイで軍事クーデターが起きた。
ユイファンが運んできた歴史書は、軍事史ではなかったので、詳細は省かれていた。だが、とある人物の活躍が記されている。
「ドルドレイ騒乱。私が道を踏み外した元凶だよ。軍部の上層部はレオンハルト元帥に統帥権を渡さなかった。選挙によって選ばれた国民議会こそが、これからの国政を主導すべきと訴えた」
「それは……共和主義なのではないのですか?」
「いいや、クーデター派は皇帝を支持している。死恐帝の繰り返しはありえないからね。ただし、実権を持つべきは、あくまでも自分達だと主張したんだ」
軍事クーデターが起きたとき、レオンハルト元帥は妊娠中であった。また、軍部と近しい家門だったため、クーデター派に与さないまでも、協調する兆候があったという。
「軍部と国民議会の一部が、ウィルヘルミナ宰相を中心とする妃達に歯向かった。その気持ちは分からなくもない。帝政復古を理由に、今まで持っていた権限を取り上げるわけだから、そりゃ頭にくるさ……。相手が自分達の孫娘程度と同じくらいの若女達とくれば、なおさらだ……。まあ、見た目だけ若い妃はいたけれどね」
小気味よく笑うユイファンだが、彼女こそドルドレイ騒乱という物語の主人公であった。
賊軍討伐で多大な功績を残し、将官に昇進。立ち消えたが後宮に入内する際、王妃となる話もあったほどだった。
「ドルドレイ騒乱は半年で終結させたけれど、これが尾ひれを引いた。野心を見せたバルカサロ王国は、我が国の領土を侵犯するようになる。その後は知っての通り、アルテナ王国を巻き込んでの紛争となった」
ドルドレイ騒乱に加担した帝国軍人のうち、高級士官の数人がバルカサロ王国に亡命していた。
この件でバルカサロ王国はメガラニカ帝国の内部事情を知り、現在に至る戦争へと繋がる。
(私が内向きな政治をしていたせいで、判断を誤ってしまったのだわ。メガラニカ帝国をもっとよく知っていれば、バルカサロ王国に追従して戦争に加担したりはしなかった……)
バルカサロ王国はアルテナ王国を当て馬として使った。メガラニカ帝国の軍事力が、強大であると判明したからだ。
ベルゼフリートの即位は、災禍の終焉を意味する。死恐帝の亡者を駆逐するために動員していた全兵力が国防に再編されたのだ。
「あ! ここにいた! 探したよー。 あれ? 公文書館は飲食禁止なのに紅茶を飲んでる人がいる!」
ベルゼフリートの背後にいる女官達は渋い顔をしていたが、ユイファンを窘めなかった。彼女達は皇帝付きの女官。公文書館の管理は職務の範囲にない。
無論、快くは思わない。軍属のユイファンが規律を軽視する半端者なのだ。ハスキーは怪訝な視線を向ける。
「待ってくれよ。嘘だろ。ユイファン少将。その水筒は俺が離宮に置いてきたはずなのに……」
「残念。ネルティが没収したのはダミーだ。本命は腹の中に隠しておいた。こんな私でも参謀なのだよ」
「はぁ。頼むからさ、こんなしょうもないことに頭脳を使わないでくれ」
側女はげんなりとした表情で主人を叱る。
主従関係はあれども、上下関係は逆なのかもしれない。
(栗花の香りがするわ……。ネルティの膣内に放精された子胤の残り香……)
微かな甘さを感じさせる栗花の匂い。
性行為の後、セラフィーナの恥毛にこびり付いた精液から漂うのと同じ香りだった。
膣穴から精液が漏れないよう、下着にハンカチを挟んでいたが、淫臭までは防げていない。兎耳の中性的な美少女は、自分の股間から匂う雄臭さを自覚していなかった。
「お昼時だけど、どうする? ユイファンやネルティは時間ある? 帝城ペンタグラムの料理をご馳走しようか?」
「結構だ。女官の魔窟は居心地が悪い。あんなところじゃ、何を食べても味なんかしない。それにユイファン少将は午後から会議が入ってる。ほら、摘まみ出される前に行こう……」
「陛下の誘いをそんなふうに粗雑に断れるのは、ネルティくらいなものだろうね。ウィルヘルミナ宰相閣下ですら難しいと思うよ」
「ユイファンとも久しぶりにやりたいかな〜。いいでしょ?」
「陛下には申し訳ないのですが、軍議の予定は本当なので、失礼させていただきたく」
「そっか。残念。また今度ね。ネルティも結果が分かったら教えてね」
セラフィーナは3人の団欒に入れず、無言でやりとりを眺める。
率直な本音を吐露するのなら、ネルティはセラフィーナに気を使ったのだろう。
そのことにセラフィーナは不思議な不快感を覚えた。
セラフィーナの境遇を考えれば、ベルゼフリートに対して好意を抱くはずなどない。それにも関わらず、ネルティはセラフィーナに配慮を示した。
(ネルティさんは……この私が嫉妬するとでも思っているのかしら……?)
苛立ちを隠す。その感情が何を起因としているものであるのか、セラフィーナは考えたくなかった。
(今の私は皇帝の寵愛を狙う女の1人に見えるというの……? 私が愛しているのは生涯を誓った夫だけ……。私は祖国を守るために心を偽っているだけなのだから……。これは祖国のため……! 全て……国を守るためにやっているんだから……!!)
セラフィーナは強く言い聞かせる。言い訳に近しい偽りの感情だった。
バルコニーから目撃したネルティとベルゼフリートの濃厚なセックス。たった数分の短い性行為だった。けれど、なぜかセラフィーナの心臓は高鳴り、精神が乱れていた。
「じゃあ、行こう。セラフィーナ」
浅黒い肌の小さな手が、セラフィーナの指を握りしめる。
心が安らぎ、子宮の鈍痛が消えた。ベルゼフリートに手を引かれて、歩幅を合わせてセラフィーナはゆっくりと歩き出した。
夜伽役の仕事は始まったばかり。帝城ペンタグラムに連れて行かれたセラフィーナは、1人の愛妾として皇帝の情欲を受け止める。こうして後宮での日々は続いていくのだ。