王都ムーンホワイトを脱出したヴィクトリカ王女が、バルカサロ王国でガイゼフ王と再会を果たしたのは4月10日のことである。
父子の再会は奇しくも、母のセラフィーナが皇帝ベルゼフリートの夜伽役を命じられた日であった。
久しぶりの邂逅を喜び合う父と娘は知らない。愛する母が皇帝の愛妾と成り果て、その胎には新しい命が宿っているおぞましい現実を。
幸いというべきか、セラフィーナの姦通を記録したフィルム・クリスタルは、ガイゼフ王のもとには届いていない。
夫婦の誓いを裏切り、痴態を晒して幼帝の肉棒に跨がる女王の姿を2人はまだ知らないのだ。
「お父様……っ!」
「ヴィクトリカ! よくぞ……っ! よくぞ、無事にっ……ッ!」
ガイゼフは愛娘を抱きしめる。王都ムーンホワイトが帝国軍の手に落ち、息子のリュートは処刑、セラフィーナは帝国本土に捕囚されたと伝え聞いていた。
かろうじて王都ムーンホワイトを脱出した愛娘の安否。ガイゼフずっとヴィクトリカの身を心配していた。
帝国軍の包囲網を潜り抜け、バルカサロ王国に辿り着いたが、ガイゼフとの再会までには日数を要した。
「お父様……。ごめんなさい。私はお母様とお兄様を残して……。そのせいで……!!」
「辛かっただろう。リュートが殺された⋯⋯。俺も辛い。ヴィクトリカは何も恥じなくていい。ヴィクトリカが王都に残っていたら、どんな目にあったか。メガラニカ帝国は王族殺しの大罪を犯した。俺の息子を! アルテナ王国の王子を惨たらしく殺した罪は必ず償わせてやる!」
「お父様……! お母様がメガラニカ帝国に連れて行かれた話は本当なのですか?」
「残念だが事実のようだ。しかし、セラフィーナは生きている」
ガイゼフは詳細を伏せた。伝聞や帝国軍の一方的な通告によるところが多く、その内容の大部分はガイゼフの精神を逆撫でするものだった。
メガラニカ帝国の要求は三つ。
一つ、ヴィクトリカ王女の身柄引き渡し。
二つ、セラフィーナ女王とガイゼフ王の離婚。
三つ、軍備削減および国境の非武装中立地帯化。
いずれの要求もバルカサロ王国は拒絶し、一時休戦の状態となっている。メガラニカ帝国に進軍の気配はない。バルカサロ王国も劣勢に陥り、講和を模索する動きが目立っていた。
(今の状況はアルテナ王国にとって好ましくない……)
婿入りしているガイゼフは、バルカサロ王家の出身者であり、父はバルカサロ王国の王だ。
ガイゼフはアルテナ王国の国王であるが、あくまでも王婿。王位はセラフィーナにある。
(バルカサロ王国では妥協案を主張する声が高まっている。メガラニカ帝国との講和に応じ、アルテナ王国を分割統治する。そうなれば俺の立場は……)
元を辿れば、メガラニカ帝国とバルカサロ王国の戦争が発端であった。しかし、アルテナ王国の肥沃な穀物地帯を欲するあまり、バルカサロ王国はメガラニカ帝国との妥協を狙うようになっていた。
(くそッ! 元々は父上や兄上がバルカサロ王国の都合で始めた戦争なのに! どうして俺が損な役回りを……っ!)
娘の手前、粗暴な振る舞いは隠すが、本国に対する憎悪は日に日に増していく。
そもそもの話をすれば、バルカサロ王国に協力してしまったのが元凶だ。
アルテナ王国は同盟国のバルカサロ王国軍に対し、軍事物資の融通と領土内の通過を認めた。この事実をもってメガラニカ帝国はアルテナ王国が参戦したと見做し、宣戦を布告したのである。
(あの時点で本国の要請を断れるはずがない。俺やアルテナ王国は捨て駒だったのか? くそっ! くそっ!)
鬱憤は溜まる一方だった。ガイゼフは無能と呼べないまでも、有能な男でもなかった。
凡庸凡夫の体現者。乱世に生まれた不運を呪うしかない常人なのだ。
「ガイゼフ王、ヴィクトリカ王女、よくぞ参られた」
軍師団の代表が頭を深々と下げる。
ガイゼフとヴィクトリカは、バルカサロ王国の軍都トロバキナに滞在していた。
「お父様、あの方達は……?」
「……彼らはバルカサロ王国軍の幕僚だ」
本国がガイゼフのために送った軍事の専門家。当初こそガイゼフは彼らを頼もしく思っていたが、その結果は目も当てられない。
イリヒム要塞での大敗北、さらには王都ムーンホワイトの失陥。その責任は彼らを重用した自身にあるとガイゼフは自覚している。彼ら能力に不信感を抱くのは無理からぬことだった。
「長ったらしい口上はいらない。必要なのはアルテナ王国を蹂躙し、我が妻を攫ったメガラニカ帝国軍を撃滅する方法だ! 今のところ、我々は帝国軍に完敗しているのだぞ!」
「我らの非力をお詫びするほかなく……。しかし、いつまでもメガラニカ帝国の思うがままとはいかせませぬ。セラフィーナ女王を救出する腹案がございます」
「帝国本土に連れ攫われた妻を救えるというのか? 弁明よりも、その腹案とやらを聞きたいな」
「メガラニカ帝国の軍事力は不明ですが、進軍の気配を見せないことから、攻勢限界点に達したと思われます。補給線を確保する観点からも、帝国軍はもう動けないでしょう」
その見立ては正鵠を射ている。レオンハルト元帥を筆頭とする軍務省が早期講和に動いたのは、軍事力の限界が間近に迫っていたからだ。
「しかしながら、我々も帝国本土に逆襲するだけの兵力は有しておりません」
「なぜだ? バルカサロ王国の軍勢をもってすれば、逆侵攻は可能だろう!?」
「恐れながらガイゼフ王よ。国家には背後の守りが必要なのです。バルカサロ王国の全軍を此度の戦に投入するのは難しいとお考えください」
「⋯⋯ならば、どうやってセラフィーナを救うつもりだ?」
「はい。メガラニカ帝国の皇帝ベルゼフリートは、セラフィーナ女王を己の妻とするため、帝国本土の後宮に軟禁しているようです」
別の軍師が前に進み出ると、説明を引き継ぐ。
「目的はアルテナ王家の簒奪。セラフィーナ女王に皇帝の子を生ませ、その子供に王冠を被せ、アルテナ王国を帝国の属領とする腹積もりでしょう」
夫のガイゼフ王は不快感から唇を噛み、娘のヴィクトリカ王女は意味を理解しきれない。
「な、何を言っているの? そんなの、おかしいじゃない! お母様が子を生むなんて……だって、夫婦以外に子供は……! そんなの許されないわ!」
「心中お察しいたします。しかしながら、野蛮な皇帝は創造主様の教えに背き、無数の妃を抱え、恥知らずな淫蕩を尽くしているのです。誠におぞましいことですが、帝国は卑しい考えを抱き、実行しております。我々に猶予は残されておりません。年内にもセラフィーナ女王を救出しなければ、アルテナ王家の災厄が産まれてしまう」
「一刻も早くセラフィーナを救出する必要がある。そんなことは分かりきっている! 早く策を話せ! そのための軍師団だろうが! 俺を苛立たせるために呼び出したのではないのならな!」
「先ほども説明したように、帝国本土に攻め入り、セラフィーナ女王をお助けするのは非現実的。残された手段は交渉です。古来において虜囚は武力ではなく、交渉で解放されるのが常でした」
「まさかお前ら! ヴィクトリカを差し出せというのではないだろうな!?」
凄まじい剣幕でガイゼフは軍師団の幕僚を怒鳴りつけた。
「いいえ、そのような考えは毛頭ございません。帝国がガイゼフ王の伴侶を攫ったのならば、こちらも同様のことをすれば良いのです。皇帝ベルゼフリートには3人の正妃がおります。そのうちの1人、帝国元帥レオンハルト・アレキサンダーは前線指揮官。彼女を捕虜とし、メガラニカ帝国との交渉に望むのです」
「不可能だ! あれは……あの怪物は……お前らはイリヒム要塞での戦いを知っているはずだろうが!! 殺すどころか生け捕りにするだと? 寝言は寝てから言え!」
「だからこそです。帝国元帥レオンハルトは陣頭の猛将。最高指揮官でありながら、前線で戦っています。猛獣であろうと、知謀をもってすれば、勝機はございます」
「ふざけるな! お前らの知謀とやらを暴力でねじ伏せられたのがイリヒム要塞での戦いだ! あの敗北でどれだけの兵力を失った!? あの敗北さえなければ、王都ムーンホワイトに攻め込まれなかった。……そうなっていればリュートやセラフィーナも……っ!」
我慢の限界に達したガイゼフは机に拳を振り下ろす。
「このまま座して待ちますか? 皇帝の後宮に囚われたセラフィーナ女王を見捨てることにほかなりませぬが?」
「お父様……! 何もしないよりはお母様を救える可能性を信じて動きましょう……! レオンハルトって女を捕まえて、お母様を解放してもらう。それができるのなら賭けるべきなのでは……?」
「ヴィクトリカ……。俺だってそう思うさ。だが、レオンハルト・アレキサンダーは無理だ! あの化け物を捕らえる方法なんて、この世に存在するわけがない……。俺はイリヒム要塞で……アレと会った。あの殺戮の化身から逃げ延びた。だが、あれは奇跡だった……」
帝国最強の武人レオンハルト・アレキサンダー。その力をガイゼフは知っていた。
ガイゼフが殺されなかった理由は、運に恵まれた。その一点に尽きる。
「帝国軍に占領されたアルテナ王国では、地方部で混乱が生じています。ヒュバルト伯爵の東部独立宣言に加担する諸侯も現れ始め、刻々と状況は悪化しているのです」
「ああ、知っているとも。あの古狸め。人畜無害そうな顔でやってくれる。忠誠を示すべきこのタイミングで、王家を裏切るとはな」
「我々、軍師団の提案する作戦は、アルテナ王国の内紛を牽制するとともに、帝国元帥レオンハルトを捕らえ、セラフィーナ女王をお救いするものです」
「夢のような話だが、そんなことができるものか」
「ヴィクトリカ王女のお力によって可能となります」
「私の力……? 私が何をすればお母様をお救いできるの!? なんだってやってやるわ!」
「まて! ヴィクトリカ! 落ち着くんだ。お前らは俺の娘に何をやらせる気だ?」
「まずヴィクトリカ王女は精鋭部隊とともに、アルテナ王国に帰国してもらいます。ただし、密かにです。まずは地方部の諸侯を訪ね、王家への忠誠を示すよう、来たる反攻作戦に備えるよう訴えるのです」
「それでヒュバルト伯爵のような野心家への共信は牽制できるだろうが……、どうやってレオンハルト元帥を生け捕りにする気だ?」
「ヴィクトリカ王女の工作は内密に行います。しかし、時期を見て情報を流します。メガラニカ帝国はヴィクトリカ王女の引き渡しを要求し、身柄を欲しているのです。間違いなく食いつくでしょう」
「仮に上手くいったとして、レオンハルトは帝国元帥だぞ。最高指揮官が王都ムーンホワイトを離れるはずがない」
「逆でございます。レオンハルト・アレキサンダーは無双の武人。大軍を破るだけの力をもつ英傑です。しかし、大衆を治めるのは個人ではございませぬ。組織です。統治の観点に基づけば、人口の密集する王都ムーンホワイトから、大軍を地方に派遣することはできますまい」
「レオンハルト元帥が少数精鋭で、ヴィクトリカを捕らえにくると言いたいのか?」
「その可能性は高いと我々は分析したのです。王都ムーンホワイトの兵力を分散するより、最高戦力である自身が捜索隊を率いて出てくる。そうして出てきたところを捕らえるのです。捕縛の作戦案もすでに用意があります」
「成功の確率は低い。やるとしてもヴィクトリカではなく俺が……」
「お父様……。それは王女の私がやらないといけないわ。私はお母様とお兄様を残して……1人だけ逃げてきてしまった。お父様がイリヒム要塞で戦っている時だって何もできなかった。私は帝国が憎い。お兄様を殺した帝国から逃げ続けるなんて……絶対に嫌なの……!」
「ヴィクトリカ……」
「お願い! 私も戦いたい! お母様を助けたいの!」
ヴィクトリカの決意は固かった。
躊躇を見せるガイゼフは即答できない。しかし、アルテナ王家に婿入りしただけのガイゼフでは、レオンハルトを誘き寄せる餌としては不十分だ。
下手をすれば、野心家の地方貴族がガイゼフを捕らえて、メガラニカ帝国に売り渡す。
一方、ヴィクトリカならば、正当なアルテナ王家の王女。女王の地位を継ぐ者だ。ガイゼフを切り捨てる者でも、ヴィクトリカは裏切れない。
王家を裏切った者は後世の歴史家から、反逆者と誹られ続ける。
誇り高い貴族にとって、それは耐えきれない屈辱なのだ。
「少し、考えさせてくれ……」
「残念ながらガイゼフ王よ。刻々と状況は悪化しております。危険を顧みぬ選択が求められているのです」
軍師団の手には、メガラニカ帝国から送り付けられた例のフィルム・クリスタルが握られていた。