天空城アースガルズは、二通りの経路で入城できる。
もっとも安全な入城方法は昇降籠だ。天空城の内部でしか操作できず、昇降籠の数は限られているが、高い安全性を誇る。
もう一つは飛獣などに騎乗したり、飛行の術式を使って、直接入り込む経路である。しかし、天空城アースガルズの周囲は重力場が狂っている。平衡感覚を失った飛獣の墜落事故が起こりやすい。
原則として出入りは昇降籠が使用されている。セラフィーナとロレンシアは昇降籠に乗せられ、天空城に運ばれていった。
2人が抱える不安とは裏腹に淡々と物事が進んでいく。皇帝が絡まなければ、女官の口出しは少なかった。所持検査の際、身長や体重の測定が行われた。
体重計の上で、セラフィーナは目を細める。
(あら? 私の体重……こんなに? 前よりもちょっと……増えた……?)
心労で痩せたに決まっている。そう思い込んでいたセラフィーナは納得がいかず首を傾げた。
(天空城の重力場が狂いがちだと、先ほど女官から説明を受けたわ。だったら、ここでの体重測定は正確と言えないはずでしょう……?)
セラフィーナは長身な女性だ。大きな乳房は見た目以上の重量がある。しかし、それを考慮してもショックを受ける体重だった。
「あの⋯⋯。もう一度だけいいかしら……?」
「なぜ?」
「計り間違えているかもしれませんわ」
「⋯⋯体重計は正確です。何度やっても同じ。どうぞ、先にお進みください」
出入管理係の女官は、極めて冷淡な態度だった。
(ショックですわ。太ってしまいました。けれど、私は36歳になったのだから、体重が増えてしまうのは仕方ないのかも⋯⋯。若い頃と同じと思ってはいけないわ)
そんなことを思えるようになったのは、セラフィーナの心に余裕が出てきたからに違いない。別の意味で悶々とした気持ちになりながら、セラフィーナは応接間らしき部屋に通された。
ロレンシアのほかに、メイド服を着た女官が数人いた。立ち並ぶ女官の中で一人だけ服装の違う美女がいる。皇帝の仕える女仙は、選りすぐりの美女揃いだ。彼女はその中でも飛び抜けていた。
「ようこそ。天空城アースガルズへ。歓迎いたします」
雰囲気はセラフィーナと似ている。おっとりとした柔和な顔は、初対面の相手に根拠のない安心感を植え付けた。
「私は女官総長のヴァネッサと申します」
「女官総長……?」
「セラフィーナさんの御国では聞き慣れない役職かもしれませんね。全ての女官を統括し、皇帝陛下の補佐する側近とお考えください」
アルテナ王城にも女官のまとめ役はいた。セラフィーナの相談役だった上級女官リンジーがそれにあたる。リンジーは陰の実力者として、権力を動かしていた。しかし、あくまで裏側での話だ。
メガラニカ帝国の女官総長は、独自の権限を握っている。皇帝の側近である女官は特権的な地位を占め、その頂点に立つのがヴァネッサであった。
「おおよその話は聞いております。警務女官長のハスキーから報告を受けていました。ハスキーは警務女官の統括者、俗に侍女と呼ばれる警備部門の長です。女官には警務のほかに、執務、財務、医務、工務、庶務の部門があり、六人の女官長がおります」
ヴァネッサは六本の指を使って、6人いる女官長の役割を説明した。
数字を数えるとき、指の本数が増やしたり消したりする。ヴァネッサの癖らしく、変幻自在に手が変化する。
(不定形の肉体を持つショゴス族……。指を変えられるのなら、私が見ている顔や体型は本物なのかしら? 表情が作り物だとしたら、柔和なこの笑顔でさえ……)
ヴァネッサはセラフィーナとロレンシアに後宮で暮らすうえでの常識を授けた。
メガラニカ帝国では多種多様な種族が暮らしている。ショゴス族は奉仕種族として有名だ。一流の使用人といえば、それはショゴス族である。名門貴族は専属のショゴス族を雇用している。
こうしてヴァネッサが丁寧な対応をしてくれているのは、ベルゼフリートが、気遣いをしてほしいと命じたからだ。
「ご丁寧にありがとうございます」
「私の親切心は皇帝陛下に『セラフィーナをよろしく』と申し付けられたからです。今後の暮らしについて、我々が責任を受け持つわけではありません。衣食住の環境は整えてあります。帝室年金が支給されるので、生活費には困らないでしょう」
「⋯⋯分かりましたわ。ここでの暮らしに馴染めるよう努めます」
王妃や公妃、妃に仕える側女は宮廷での仕事がある。しかし、セラフィーナは役職なしの愛妾だ。帝国年金の支給額はそれほど多くない。
「最後に、天空城アースガルズは4つのエリアがあると覚えておいてください。中心部の帝城ペンタグラムは、皇帝陛下の住まいです。我ら女官の許可なく立ち入ることは許されておりません」
宰相、元帥、神官長の三人は例外だ。皇后特権で自由に出入りしている。そのほか、女官総長から許可を得た者も同様だ。
「残りの3つは、宰相府、元帥府、神殿の統括エリアです。宰相派、軍閥派、長老派の妃達は、それぞれのエリアに離宮を構えています。セラフィーナさんは軍閥派所属です。貴女の後見人はレオンハルト元帥閣下となっています。本日中に元帥府から離宮が下賜されるでしょう」
聞いている限りでは好待遇だ。セラフィーナとロレンシアは安堵する反面、恐ろしさも感じていた。
外界と完全隔離された天空城アースガルズで、事実上の幽閉生活が始まったのだ。一切の情報が得られない中、どうやってアルテナ王国を守れるだろうか。
「慣れない生活で戸惑いは多いでしょう。ここから先は私のお節介ですが⋯⋯、よろしければ世話係の女官を一人お貸ししましょうか?」
「女官を与えてくださると……?」
「ええ、もちろん。ハスキーと違って素直な良いメイドです。宮廷の暮らしに慣れるまで、相談できる者が欲しいのでは?」
ヴァネッサの提案は魅力的だ。言動から感じるヴァネッサの印象は良識的な人物。信頼できるメイドに思えた。
断る理由は見当たらない。念のためにロレンシアの意見を確認しようとしたときだった。
「——それには及ばない! セラフィーナは元帥府所属の愛妾だ。噂好きの女官が軍閥派の縄張りに入ってくるのは、こちらも困ってしまうぞ!」
突然の乱入者。発言者の姿は室内になかった。
「ヘルガ妃殿下。なぜ窓から入ってくるのですか? 部屋に入ってくるのなら、廊下と扉を使ってほしいのですが……」
「私だって扉を使いたかった。しかし、頑固な警務女官が城内に入れてくれなかったのだよ。まったく貴女の部下は良識が欠けている」
「⋯⋯常識破りなヘルガ妃殿下が、女官の良識を問うおつもりですか」
「この私が所持品検査などを受けていたら、日が暮れてしまう! なぜそんなことも分からないのかね?」
「それはヘルガ妃殿下が危険物を所持しているからです。警務女官は職務を真面目にこなしているのですよ」
「おっとぉ! 大切なお客人を放置してしまった。非礼をお詫びし、まずは自己紹介からだ。私は宮廷主席魔術師ヘルガ・ケーデンバウアーっ! 軍務省の職位は上級大将、軍閥派所属の王妃だ。以後、よろしくぅ!」
突如として現れ、ヘルガ王妃と名乗った女性は全身鎧を装備した奇人だった。
(⋯⋯何なのでしょう。この方?)
面貌は兜で隠している。甲高い声や鎧の体型で、中身が女性であると分かった。
「おやおや、どうしたのかな? まずは自己紹介だ。初対面の相手には自分が誰なのかを説明しなければ。それが礼節ではないのかね?」
「あぁ、これは失礼いたしましたわ。私は名前はセラフィーナ・アルテ……」
「もちろん知っているとも! 貴女はセラフィーナ・アルテナ。アルテナ王国の女王だ! 夫はバルカサロ王国の王家からガイゼフを迎えた。子供は王子リュートと王女ヴィクトリカ。年齢は三十六歳。趣味はお菓子作り。違いないね?」
「えっと……、合っていますけれど……」
間違ってはいないが、セラフィーナは釈然としない。
(名乗っている途中だったのに⋯⋯)
そもそも個人的な趣味は教えるつもりはなかった。
「そこにいる赤毛の娘は誰かな? 是非とも教えてほしい。同じ軍閥派の仲間として、仲良くやっていくために! さあ、相互理解を深めよう!」
「……私? どうせ調べているのでは?」
ロレンシアは奇天烈なヘルガに疑心を向ける。相手は軍務省の上級大将。知ろうと思えば、何でも調べられる立場にいる。
「いやいや、買いかぶりだよ。貴女のことは本当に! 何一つとして! まったく知らない! セラフィーナが従者を一人連れてくるとは聞いていた。だがね! どこの誰かまでは、私の知識をもってしても皆目見当がつかないのだ。頼むよ。どうか私に貴女が誰なのか明かしてくれ」
「私はロレンシ……」
「もちろん知っているとも! 貴女はロレンシア・フォレスター。フォレスター辺境伯のご令嬢だ。近衛騎士団の所属。ヴィクトリカ王女の幼馴染みで、王家の側近中の側近。上級女官リンジー・アルドゥインの差し金で、従者として引っ付いてきた。違いないね?」
予想はしていたが、やはりヘルガは言葉を被せてきた。奇特な装いに相応しい奇想天外な王妃だった。
「何なんですか? この人……?」
セラフィーナが言いたかった台詞をロレンシアが代弁してくれた。
失礼な物言いだが、咎める者はいなかった。王妃のヘルガは失礼で迷惑な人物だと女官も思っていた。
「おやおやぁ? 先ほど自己紹介しただろう? 私は宮廷主席魔術師ヘルガ・ケーデンバウアー! 軍務省の職位は上級大将、軍閥派所属の王妃だ。以後、よろしく!」
「⋯⋯ヘルガ妃殿下は軍閥派のナンバー2です。帝国貴族の名門ケーデンバウアー侯爵家の当主様でもあられます」
見かねたヴァネッサが補足する。
「皇后レオンハルト閣下を筆頭とする軍閥派は、王妃が1人しかおりません。唯一の王妃がここにおられるヘルガ妃殿下なのです。——残念なことに」
軍閥派の全容は皇后1人、王妃1人、公妃8人。
帝国元帥レオンハルトの次ぐ実力者こそ、魔術の名家ケーデンバウアー侯爵家のヘルガ王妃だった。
宮廷主席魔術師は慣例で、上級大将の地位を与えられる。軍務省内において、巨大な権限を握っていた。
「そう警戒しないでくれたまえ。私はレオンハルト元帥閣下から、セラフィーナとロレンシアの世話してほしいと命じられたのだよ」
窓枠を乗り越えて室内に侵入したヘルガ王妃は、絨毯で靴底の汚れを拭う。
「ヘルガ妃殿下。その泥を誰が掃除するのか、ご存じですか?」
「そんなの私が知るわけないだろう? ヴァネッサは沢山の部下がいる。私は女官の仕事分担を熟知していない。ひょっとして掃除係はそこ立っている女官? あぁ、特に君は眉間の皺が酷いな。ひょっとして生理中?」
「…………」
女官総長ヴァネッサの糸目が開眼する。室内にいる女官達は怒気を察知し、室内に緊張が走る。
「女官総長ヴァネッサ。自身の縄張りに土足で入られるのはさずかし不快だろうね。誰にとってもそうだろう。私もそうだし、ヴァネッサを含む女官諸君も同じというわけだ」
「つまり、何が言いたいのです」
「自分がやられて嫌なことは他人にもするな。古い格言の通りではないかね。軍務省の管轄に女官を送り込むな。誤解を招く」
「セラフィーナさんに女官を貸そうとしたのは、皇帝陛下のご厚意です。ヘルガ妃殿下が勝手に誤解をされているだけでは?」
「国政に関する事項だ。皇帝陛下の意思は反映されない。我々の領分だ」
「……承知しました。セラフィーナさんに女官を貸す提案は取り下げましょう。しかし、セラフィーナさんとロレンシアさんだけでは、宮廷での暮らしに不便が多いと思われます。どのように取り計らうおつもりなのですか?」
「私が使用人を用意する。軍務省が招き入れたのだ。飼い主の責任は果たすとも。心配無用だ」
「そうですか。しかし、セラフィーナさんが女仙となれたのは、私の協力で皇帝陛下の勅命が下されたからです。女官の助力が不可欠であった。その事実はお忘れなきよう……」
「もちろんだ。軍務省はとても感謝している」
「帝城ペンタグラムの絨毯で泥を拭うのが返礼ですか? 今後の関係を考えなければなりませんね。本日はもうよろしいでしょう。セラフィーナさんとロレンシアさんを連れて、ご自分の縄張りにお帰りください」