——3月26日の早朝。皇帝ベルゼフリートの帰国日となった。皇帝の世話係である女官達は撤収作業に追われている。
白月王城を占領している帝国軍の動きが慌ただしい。
皇帝と共に本国に帰参するのは一部の帝国兵だけだ。彼らは手ぶらで本国に戻るわけではなかった。皇帝を無事に本国まで送り届けるのは無論であるが、来訪時と同様に重要な任務がある。
往路は占領軍に軍事物資を送り届けるのが目的だ。一方、帰路の目的はあるモノを持ち帰るにことある。
一つは前線で戦い続けていた帰還兵だ。皇帝の帰国に合わせ、約3000人の帝国兵が、家族のもとに帰る。復員者は占領軍の1割に満たない。傷病者を中心として、帰国させる必要性が高い兵士を選抜した。
もう一つの持ち帰るべきモノ。それはアルテナ王家が所有する国宝や公文書である。
白月王城の宝物庫に山積みとなっていた金銀や宝飾品など、金銭的な財宝に帝国軍は目もくれなかった。
メガラニカ帝国が欲していたのは、王権を象徴する国璽や王冠だ。アルテナ王国の王位は血統で受け継がれる。正統な王位を証明するレガリアは重要だった。
官僚達が記し公文書は実務上、大きな価値を持つ。帝国軍は国政に関する資料を根こそぎ掻き集めた。今後の占領政策で必要不可欠な情報だ。
「随分と手間取ったな。これがアルテナ王国の国璽。ご大層に純金製か……。なんとまぁ、派手に彩られた代物だな」
レオンハルト元帥の手に、黄金の印章が握られていた。国璽は王家の証。本来ならアルテナ王家の血縁者以外、触れてはならない御物だ。
「申し訳ございません。国璽に施されていた祝福儀礼術の解読に時間がかかりました」
帝国軍所属の老魔術師は深く頭を下げる。しかし、レオンハルト元帥は些かの不満も抱いていない。
国璽に重ね掛けされた祝福儀礼は強力だった。王族以外の者が国璽を使おうとすれば、触れた者を害し、強引に使い続ければ自壊する仕掛けとなっていた。
「頭を下げるな。貴公を責めているように聞こえたか? 私は貴公の仕事ぶりを高く評価しているのだぞ。国璽の件もそうだったが、宝物庫破りは貴公の専門外であったはず⋯⋯。苦労をかけたな」
「宮廷魔術師殿には及ばぬ小さき杖にございますが、皇帝陛下と元帥閣下のお役に立てて、無上の喜びを感じております」
「例の件はどうなった? 無理ならば本国から専門の術師を派遣させるが、そちらも何とかなりそうか?」
「宰相府から要請を受けていた公文書の件ですが、こちらは何ら細工が施されいませんでした。押収した書類の複写を終えております」
「仕事が早いな。公文書の複写は宰相府の文官どもに引き渡してやれ。情報は重要な武器だが、武官より文官に与えたほうが意味を持つ」
王冠や国璽は象徴的な国宝。メガラニカ帝国がもっとも優先したのは公文書だ。
これまでの税の記録、貴族の力関係、それらの情報を公文書から読み解ける。アルテナ王国の戦後統治を盤石とするため、内政に関わる資料を必ず入手せよと宰相府に求められていた。
「その件でございますが宰相府の手に委ねて、本当によろしいのですか?」
「貴公⋯⋯。どういう意図の質問だ……? 占領政策は宰相府の高等弁務官が行う。我々がアルテナ王国の内政事情に関する情報を独占して、帝国に何の利がある? 軍事情報は既に参謀本部が押さえているはずだ」
「⋯⋯聞くところによれば、ウィルヘルミナ宰相閣下を始めとする宰相派の妃達は査問会で、レオンハルト元帥閣下を糾弾すると息巻いておられるそうです」
「不愉快な話だ。どのような嫌疑で私を査問にかけるつもりなのか?」
「アルテナ王国の近衛騎士団が騒乱を起こした一件でございます。幸いにも皇帝陛下はご無事でしたが、軍務省は未然に防げなかった」
「⋯⋯それは事実だ」
「宰相府は軍務省の責任を追及する姿勢です」
「それで? 貴公は何が言いたいのだ?」
「宰相府との取引材料として、公文書の写しを引き渡す時期、再考すべきと具申する次第で⋯⋯あります……」
老魔術師の提案は、帝国元帥の立場を思慮しての申し出だった。しかし、レオンハルトはあからさまに顔を顰め、鋭い眼光で老魔術師を睨んだ。
「っ……!」
老魔術師の背中に冷や汗が流れる。
「たとえ査問会の設置が事実であったとして、それは私の身に降りかかることだ。保身のために、国益を害せよと? ふざけるな。貴公は私を逆臣にしたいのか?」
「それは……、誤解であります! 宰相府はかねてからレオンハルト元帥閣下を害そうと画策を……」
「私はあの宰相を好ましく思っていないし、親しくしようとは思わぬ。あちらも同じだろう。しかし、はっきりと言っておくぞ。あの女が私利私欲で権力を振るったりはしない。それは私も同じだ」
三皇后の争いは、互いを牽制する政治システムだ。醜い足の引っ張り合いをする制度ではない。
行政、軍事、司法の三権力が相互に監視と抑制を行い、健全な国家運営を成す。それが三頭政治の本意である。
「私が今回の騒乱を未然に防げなかったのは事実。査問会を開く是非は別として、帝国宰相が責任を追求するのは、行政の統括者からすばれ至極真っ当だ。違うか?」
「その通りではありますが……」
「仮に査問会で過大な責任追求が行われれば、私がその場で反論すれば良い話だ。違うか?」
「……それは……その……。その通りでございます」
「そもそも帝国宰相が公権を濫用しているとしてもだ。帝国元帥たる私が不正な手段で対抗してどうする? 不正は正当な手段でのみ正せる。誤りがあるのなら、司法権を預かる神官長カティアに訴え出るのが道理。宰相府に渡すべき接収物を渡さない理由はどこに求める?」
「申し開きようもございません。先ほどの具申を撤回させていただきたく……」
「先ほどのような妄言は二度と口にするな。私は魔術師としての貴公を高く評価している。しかし、失言を繰り返す舌は、有能な魔術師であっても切り落とさねばならぬ」
「国益を顧みぬ愚行でありました。醜態を晒し、面目ございません」
「分かればよい。早急に公文書の写しを文官に引き渡せ。戦後の内政は肝要だ。宰相府の高等弁務官が占領地で圧政を敷き、暴動を誘発した挙げ句、その尻拭いを帝国軍が行う。そんなことにならぬ」
帝国軍はアルテナ王国の全領土を支配できていない。組織的な反乱を起こされ、それに呼応してガイゼフがバルカサロ王国から軍勢を率いて攻めてくる。
そうした最悪の事態を回避するために、戦後統治では宰相府と協力していかねばならなかった。
「忠誠心ゆえの提案だったと理解しているが、優先すべきは帝国の国益だ。アルテナ王国を円滑に支配するために、組織のわだかまりは忘れろ。もう下がってよい」
「はっ……!」
レオンハルトは老魔術師の提言を退けた。しかし、宰相府の要請で開かれるであろう査問会の対抗策は用意していない。
(⋯⋯部下は自制させているが⋯⋯不味い雰囲気だな)
ウィルヘルミナの矛先が帝国元帥であるレオンハルトに向けられているのなら、対処の方法がいくつもある。しかし、この査問会で吊し上げられる人物は別にいる。
(このタイミングで宰相府が私を糾弾すれば、軍務省との亀裂は決定的となる。それがメガラニカ帝国にとって、どれだけ無益であるか。ウィルヘルミナは理解しているはず……。ならば、矛先は⋯⋯)
戦闘の天才がレオンハルトであるとするなら、ウィルヘルミナは政略の鬼才。有能な宰相だからこそ、国益を害さないと信頼している。
(……査問会に立たされるのは、騒乱を起こした近衛騎士団の主。結局、女王セラフィーナに責任を取らせようとする)
レオンハルトの予測は概ね正しい。宰相府はセラフィーナを王妃とする計画に大反対していた。
不仲であっても、同じ帝国陣営に属する者達だ。
皇帝の臣下が対立し、不毛な争い続けるのは愚かしい。牽制や威嚇で済ませるのが宮廷の習わしだ。
かならず落とし所を作り、いつかは決着する。しかし、アルテナ王国の女王セラフィーナは敵国の人間。
(全ては宮廷での立ち回り次第……。宰相府は女王セラフィーナに利用価値を見いだしていない。女官総長と手を組んで勅命を使ったが、王妃即位は困難かもしれない。当人のセラフィーナも拒絶しているうえ、査問会まであるとなれば、ごり押しの限界と見るべきか……)
皇帝の帰還は、女王の強制移住を意味していた。セラフィーナは後宮の女となる。
(セラフィーナが女仙となった以上、いくらウィルヘルミナといえども排除はできまいが……。宮廷は宰相派の庭。どのような手段に出てくるか⋯⋯)
皇帝と妃達の住む花園、天空城アースガルズ。大陸で唯一、稼働している移動要塞である。
平時はメガラニカ帝国の帝都アヴァタール近郊に停留しているが、現在は国境のイリヒム要塞で皇帝の帰りを待っていた。
「あとは、この映像がどんな影響を与えるか……だな⋯⋯」
机上に転がるフィルム・クリスタル。つい先ほど、ハスキーの命令を受けた女官が届けてくれた。
「不愉快な心地だ。ハスキーもそうだが、女官どもはどうしてああも平然としているのやら……」
クリスタルに記録されたハメ撮り動画をレオンハルトは確認していない。しかし、ハスキーの報告で大体の内容は聞かされていた。
(普段から皇帝陛下と妃の情事を覗きをしていると、あのような精神になるのだろうか? 皇帝陛下が他の女を抱いているところなど、私は見たくもないぞ)
自分で依頼したにも関わらず、フィルム・クリスタルの起動に強い抵抗を覚えた。
レオンハルトは一夫多妻を受け入れている。だが、ベルゼフリートが他の女と楽しんでいる光景を見ると、陰鬱な気持ちになる。
「私まで心的ストレスを抱え込んでどうする⋯⋯。これはセラフィーナの夫に送り付ける映像だというのに⋯⋯まったく⋯⋯」
このフィルム・クリスタルの内容をガイゼフが見たとき、受ける衝撃は想像を絶するものとなるだろうか?
一男一女を産んだ愛する妻が、敵国の皇帝と淫行に耽り、子宮に精子を注ぎ込まれる様子が鮮明に記録されているのだ。
——絶望か、激怒か。
いずれの反応であれ、セラフィーナとの夫婦関係が破綻すれば万々歳だ。王婿にすぎないガイゼフをアルテナ王国と無関係な男にできる。
ガイゼフが妻を寝取られた哀れな男と嘲笑の対象となれば、軍の士気にも影響する。カリスマは根底から揺らぐだろう。
「精神的な揺さぶりとなれば良いか。ガイゼフ王も哀れな男だ。潔く国境の防衛戦で死んでおけば、生き恥を晒さずに済んだのにな……」
本来、最高指揮官は安全な後方で意思決定を行うべきである。
逃走を恥じる行為ではない。敗戦の責任は追及されるが、自身の安全を確保しつつ、敗残兵を再編する手腕は評価できる。優れた指揮官だ。
——だが、凡将の枠を出ない。
帝国元帥レオンハルトは常に前線に身を置いた。陣頭で指揮を取る勇猛さで、アレキサンダー公爵家は知られている。
その振る舞いに頭を抱える参謀達は「元帥は猪突が過ぎる」と諫めるほど。しかし、そうした危険を顧みない行為が、帝国軍の士気を高めているのも事実である。
皇帝ベルゼフリートは本国に帰国するが、レオンハルトは1カ月ほど王都ムーンホワイトの治安維持にあたる予定だ。郷愁の念を抱く前線の兵士を差し置いて、自分だけが本国に帰るのを憚った。
レオンハルトのように祖国へ帰れない者たちがいる。その一方で祖国から連れ攫われる者達。女王セラフィーナと従者ロレンシアの2人は、生まれ育ったアルテナ王国を離れ、自国を征服したメガラニカ帝国への旅路に就こうとしていた。