ルキディスが自宅の地下室で荷造りをしていると、シルヴィアが降りてきた。異空間化された地下への出入りをシルヴィアは許されている。
地下空間はいくつかの部屋に別れており、拘束椅子のある白い部屋や眷族化の性儀式を執り行う黒い部屋、そのほかに遊戯室などの娯楽部屋がある。
ルキディスは地下空間の奥にある研究工房で、忙しそうに作業を進めていた。二つの木箱に何かを詰め込み、封印魔術符を貼り付け、厳重に梱包する。
「ご主人様、その箱が何なのか私に教えてくれない?」
ほんの数日、家を留守にしていた間にシルヴィアの心境は大きな変化した。ルキディスを媚びた声で「ご主人様」と呼ぶようになった。
嬉しく思う反面、嫉み混じりの非難が込められているとルキディスは気付いた。
放置されていたシルヴィアは唇を噛んでいる。「従順な眷族になったのに、貴方は私を家に閉じ込めて放置してたわね?」と本音を吐露したりはしない。むくれた顔で睨めつけてくる。刺々しい態度を取られるくらいなら、文句を言ってくれたほうが気楽だった。
「こっちのはカトリーナ・アーケン。眷族化に失敗して、苗床になってしまった女だ。もう一つの箱はサムという少年の死体だ。どちらも明日の馬車で本国に輸送する。抱え込んでいた仕事は片付いた。そんな目で睨むな。シルヴィアの初産が近いからな。もう家を空けたりはしない」
「それはとっても嬉しいわね。実はご主人様にお願いがあるの。シェリオンやユファにお願いしても、許可がないと駄目っていうから……」
「分かった。言ってみろ。何が望みだ?」
望みは察しがついた。
「外に出たいわ」
「駄目だ。許可できない」
「……私はもう何週間も引きこもってるの。もう私が逃げたりしないのは分かってるでしょう? 外に出してほしいわ!」
「シルヴィア。自分の腹を見てみろ……?」
「お腹? まだ産まれないわ」
「そうじゃない……。貴様はつい最近まで警備兵だったんだぞ。少なからず、王都に知り合いがいるだろ」
「つい最近、誰かが私の代わりに辞表をだしてくれたわ」
「そうじゃなくてだな。普通の人間は数週間でそんな孕み腹にならない。巡回している元同僚が貴様の膨れ上がった腹部を見たらどう思う? ついこの前まで、警備兵の革鎧を着ていた細身の女が、出産間近の腹ボテ状態になっているんだぞ。あまりにも不自然だ」
「う〜ん。それは……その通りね……。この大きなお腹は隠しようがないわ……」
ルキディスの指摘は正論である。シルヴィアは言葉に詰まり、言い返せなかった。シルヴィアの妊婦腹は服装でごまかせるような膨れ方をしていない。
前部に出っ張った巨大な孕み腹。豊満な乳房は妊娠でサイズアップし、女体の艶態を際立たせている。
「……だが、外に出たいという気持ちはよく分かる。顔を隠すベール付きの婦人帽子を買ってきてやる。シルヴィアが逃げ出すなんて欠片も思わないが、眷族になったばかりだと魔物の本性を抑えきれない場合がある。外出するときは俺と一緒だぞ」
シルヴィアは喜びのあまり飛び跳ねる。ルキディスは慌ててシルヴィアの身体を掴む。危なっかしくて見ていられない。
「危ないぞ。転んだらどうする」
外出は許可するが、母親としての自覚を持ってくれと軽く注意した。
お腹の中に大切な赤子がいるのに、シルヴィアは活発に動き回ろうとする。人間の妊婦と違って、魔物のシルヴィアは身体が丈夫だ。流産ようなことはまずないが、父親は心配性だった。
「シルヴィア。頼むから腹の中に俺の子供がいると忘れるな……」
「ちゃんと元気に育っているわ。日に日にお腹も大きくなっているもの。オッパイも膨らんできたわ」
「そいつは良かったな。安産であることを祈る」
冥王は滅んだ魔王に代わって全ての魔物を統括する存在だ。人類を滅ぼす邪悪な魔物であるが、身内にはとことん甘い性格だった。
ルキディスは何の罪もない幸せな家庭を己の利益と欲望のために崩壊させた。自分に憧れていた純朴な少年を殺して、駆け落ちの濡れ衣を着せた。けれども、冥王の良心は痛まない。
「もうすぐ母親になる気分はどうだ?」
「とても不思議な気持ち。私は民を守る騎士になりたかった。でも、今はご主人様のために人間を殺したい。心が人間ではなくなってしまったから……? 魔物の赤ちゃんをたくさん産みたいっ♥︎」
「シルヴィアは美人だからな。可愛い魔物が産まれるぞ」
ルキディスが心を痛めるのは身内の不幸のみだ。眷族達は元人間である。だが、眷族と人間を同列に見たりはしない。家族同然の飼い犬と生ゴミを漁る野犬を同一視するようなものだからだ。
「母親似で胎児が元気を持て余してるな。腹を蹴ってる」
——ルキディスはシルヴィアの腹を優しく撫でてあげた。
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移住の日、天候は良好であった。
王都の上空は心地よい晴天の青が広がっている。
イマノルとジェイクが乗っている幌付きの馬車に、狐耳の女性が乗り込んだ。
「イマノルさん。彼女もサピナ小王国への移住者です。道中の天候次第ですが、一週間もすればサピナ小王国の王都に着きます」
同乗者がいるのは事前に聞かされていたが、獣人の若い女性だとは知らなかった。妻のことが頭にちらついて、イマノルはついジロリと見てしまった。
愛想笑いを浮かべるジュリエッタはペコリと頭を下げる。イマノルとジェイクに挨拶と自己紹介を済ませた。気まずくなったイマノルは話題を作ろうと一緒に運び込まれた二つの木箱を指差す。
「その木箱はなんだい……?」
二つの木箱は人間が入るくらいの大きさだ。厳重な封印がしてある。魔術符で箱の四隅が補強してあった。
イマノルは同じような木箱を見たことがある。高価な武具を運ぶときにもああいう箱が使われる。
「ちょっとした生体。実験動物ですよ」
「実験動物……? その箱に生き物を入れているのか?」
「ご安心ください。封をしてあります。絶対に開けないでくださいね。大人しいですが、高価な生き物なので逃げられると困ります」
「空気穴が見当たらないが……?」
「特別な木箱なので通気性は確保してあります。休眠中ですから、餌の心配もいりません。道中は触れたりしないようにだけお願いします。中にいる動物が驚いて起きてしまいます」
「…………分かった」
「大丈夫です。危険な生き物ではありませんよ」
ルキディスは三人の移住者を乗せた馬車を見送った。
笑顔で手を振るこの青年こそが、愛妻カトリーナを寝取った魔物とは夢にも思わない。ましてや、木箱の中に苗床化した妻や死体になった弟子が入っているとは考えもしないだろう。
「――それではお元気で」
一家を乗せた馬車が王都の並木通りを進んでいく。馬車の姿が見えなくなったとき、ルキディスは不敵に笑った。
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これから語るのは、ある一家の未来だ。
冥王がラドフィリア王国で暗躍している時期から、歳月が過ぎた未来の出来事である。
――イマノルとジェイクがサピナ小王国に移住してから約三年後。
「にぃにぃ! だっこ! ねえ、だっこ!!」
尻尾を左右に振って甘えてくる妹を抱き上げる。ジェイクは今年で9歳になった。
抱き上げたのは、今年で二歳になる可愛い妹ノージュだ。可愛い妹は父親のイマノルより七歳年上の兄に懐いている。
ノージュ曰く、父親はいつも汗臭いので近寄りたくないらしい。それを聞かされたイマノルは落ち込んでいたが、義母の励ましもあって心の傷は快方に向かっている。
「こっちに来て三年になるのか。月日が経つのは早いものだね……」
ジェイクが六歳だった頃、実母カトリーナは夫と我が子を捨てて家を出ていった。
母は事もあろうに、幼いジェイクに間男との性行為を見せつけ、夫の心をへし折る手紙を残し、何処かへ去ってしまった。しかも、母を寝取った間男は父の愛弟子であるサムだ。
ジェイクにとっては遊び相手をしてくれる兄のような存在だった。
失意のどん底だった父親と息子を救ってくれたのは、ルキディスという青年だ。ルキディスはサピナ小王国への移住を提案し、新しい人生を歩む機会を提供してくれた。
――そして、イマノルは新しい出会いに恵まれた。
サピナ小王国へ移住するとき、馬車に同席した女性がいた。彼女の名前はジュリエッタ。狐族のジュリエッタは元奴隷で、奴隷市場に娼婦として売り出されていたが、ルキディスに救ってもらった。
イマノルとジェイク、ジュリエッタの三人は同じ馬車でサピナ小王国へと向かった。その道中、荷馬車の木箱から呻き声が聞こえた。まるで自分を呼んでいるようだった。
木箱から聞こえる声が恐ろしくて、ジェイクは眠れなかった。
不安で泣き出しそうなジェイクをイマノルは宥めようとした。しかし、子育ては逃げられた妻に任せっきりだった。思うようにいかず、不器用な父親は頭を抱えてしまった。
父子の様子を見かねたジュリエッタは、ジェイクの母親代わりとなってくれたのだ。イマノルがジュリエッタを使用人として雇いたいと申し出たのは必然だった。
幼いジェイクには母親代わりとなる女性が必要だった。ちょうどサピナ小王国に帰ったら仕事を与えてもらう予定だったジュリエッタはイマノルの依頼を承諾した。
「ほーら。高い、高い!」
「にぃにぃ! ちからもち~!」
三人で暮らし始めた当初、ジュリエッタは使用人でしかなかった。
イマノルとジュリエッタには年の差があった。最初はお互いに結婚するつもりはなかった。あくまで雇用主と使用人の関係。しかし、サピナ小王国で暮らし初めて一年と経たぬうちに、家族が増えた。
イマノルとジュリエッタは惹かれ合い、相思相愛の男女となった。イマノルは再婚した。結婚したときのジュリエッタの腹には新しい生命が宿っていた。
ジュリエッタは生き別れた母親に再会できなかった。けれど、彼女自身が母親となり、幸せな家庭を築いた。
ジュリエッタは感謝する。全てはルキディスが手を差し伸べてくれたおかげだ。娼婦に身を落としかけていた。もし売りに出されていたら、こんな幸せは得られなかった。
これもまた運命なのだろうとジュリエッタは思う。イマノルが妻に捨てられ、傷心の身でなければきっと夫婦にはなれなかった。
ジュリエッタとイマノルの間には可愛い娘が生まれた。
父親が純種で母親が亜種の場合、子供に亜種の形質が遺伝する。父親が亜種で母親が純種だと、遺伝は半々であるらしい。
ともかく妹のノージュには母親と同じ狐の耳と尻尾が生えている。
ジェイクとジュリエッタの親子関係は悪くない。最初こそ父と義母は心配していた。しかし、ジェイクは父親が元気と自信を取り戻してくれたのを誰よりも喜んでいた。
ジェイクとジュリエッタは十歳ほどしか年齢が離れておらず、母親というよりは姉だった。だが、新しい母親と息子の家族仲は良好だ。
時折、ジェイクは三年前の悪夢を見てしまう。実母カトリーナに捨てられたあの陰惨な夜の出来事。けれど、あの事件がなければ、こうして妹のノージュと戯れる幸福な生活がなかった。そう思うと複雑だ。
今の幸福は、あのときの絶望を乗り越えなければ手にできなかった。
「はあ……。ノージュはお父さんより兄貴のほうが好きらしいな。お兄ちゃん子になるとは……」
腹違いの兄妹が仲良く遊んでいる様子をイマノルは眺めていた。
サピナ小王国での暮らしは順調だ。ルキディスの言葉に嘘はなく、王都の治安は保たれていた。自宅に王国軍の兵士を派遣してくれたものの、すぐに不要だと分かったので、護衛は最初の数ヶ月だけで終わらせた。
「仕事帰りに抱きついていたらそうなりますよ。フォクス族は嗅覚が鋭いんですから。工房から帰ってきたら、ちゃんとお風呂で汗を落してください。抱きつくのはそれからです。私だって同じですよ?」
「そうはいってもなぁ。風呂に入ったあとは眠たくなってしまう」
「もう、あなたったら! 眠る前にやることはやってるじゃないですか。次の子からも嫌われたくないでしょう。それだったら身奇麗になって、抱きついてくださいね。お父さん♪」
ジュリエッタの腹は膨れていた。二人目の子供が宿っている。カトリーナのことがあったので、反省したイマノルは家庭で過ごす時間を増やしていた。当然、妻と夜の営みは欠かしていない。
「医術師の話だと、もうすぐらしいな」
「ええ。あと少しで会えますよ。賑やかな家族。私、すごく幸せです」
ジュリエッタはイマノルの頬にキスをする。二人は幸福な家庭を築いていた。
サピナ小王国の女王はとても優秀な統治者だ。国の経済は年々改善していっている。
農村部では混乱が残っているものの、王都では人々が活気に満ちた表情で働いている。かつての凄惨な記憶を忘れ去る日は近い。サピナ小王国の未来は明るく思えた。
(カトリーナはどうしているだろう? 私と同じように新しい人生を初めて幸せになっているだろうか? サムは才能のある弟子だった。どこかで仕事を見つけているだろうな。ひょっとしたら二人にも子供が……。まあいいさ。それでもいい)
駆け落ちカトリーナとサムは新天地で子供を育てているかもしれない。ジュリエッタと再婚する前なら、胃が潰れるような苦痛を覚えただろう。しかし、今のイマノルは清々しい気分だった。
二人が幸せなら、それで構わないと思えた。
(それにしても……、逃げられた前妻の幸福を祈ってしまうとはな。人生、何があるか分からないものだ。今の私を支えてくれている妻と子ども達に感謝しないとな)
生活が満ち足りている者の余裕があった。カトリーナに逃げられた三年前はそんな余裕がなく、暗い絶望の真っ只中にいた。
カトリーナに未練はない。今のイマノルが愛する妻はジュリエッタだ。
ジュリエッタが支えてくれたから立ち直れた。前妻のカトリーナが現れても心は動かないと断言できる。だが、カトリーナはジェイクと血の繋がっている実母だ。不幸になってほしくはない。
「お腹の中の子は女の子らしいです。そろそろ名前を考えておかないといけませんね」
「男子だったら恩人の名前を付けるんだが……。娘となるとまた家族会議だな」
男子が生まれるのなら、イマノルとジュリエッタは「ルキディス」と名付けるつもりだ。二人を救ってくれた恩人の名前である。
――幸いというべきか、イマノルとジュリエッタの間に男子は一人も産まれなかった。
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――サピナ小王国の王城には後宮が存在する。
秘匿されているが、後宮には地下階層がある。冥王に孕まされた苗床が魔物を産む生産工場。苗床化した繁殖母体は己の卵子が尽きる日まで、冥王の魔子を生み続ける。
苗床の寿命は約一年とされる。しかし、ある苗床は三年もの間、ずっと子供を生み続けていた。
「カトリーナ・アーケン。今回の出産で限界のようですね。三年もの間、よく働いてくれたと褒めるべきでしょうか?」
三番目の眷族サロメはカトリーナを延命させていた。
苗床となった繁殖母体を長持ちさせる技術を確立することで、下級魔物のさらなる増産が見込める。サロメはあらゆる手段でカトリーナの命を繋ぎ止めていた。しかし、ついに終わりの日が訪れた。
――卵子が尽きた。
カトリーナは最後の出産を終える。もはや母体に胎児を押し出す力はなく、胎児が自力で膣道から抜け出してきた。
「お疲れ様でした。カトリーナ。寵愛を授かり、陛下のために身命を捧げられたのですから、きっと幸せだったでしょう」
魔物達が母体から這いずり出てくる。胎盤から伸びる臍帯は母子の血縁を示す確かな証だ。産まれてきた魔物の子供は、ルキディスとカトリーナの血を受け継いだ下級魔物である。
「アァァアァ……。アァァアァ……」
絶命に至る最後の一刻、カトリーナはルキディスと愛し合った夜を思い出す。自我は崩壊し、人格の全てが失われていても、身体に刻まれたルキディスへの恋心は残っていた。
愛する男の子供を沢山産めたと悦んでいる。
「アゥ……♥︎」
ルキディスに抱かれた淫夜を追想しながら最後の絶頂を遂げた。苗床としての使命を終えたカトリーナは暗い地下の底で静かに息絶えた。