エリュクオン大陸の北東にあるラドフィリア王国は、東部地域で最も勢力を持つ大国であった。
隣国のサピナ小王国を越えると、対立関係にあるエヴァンズ王国が存在する。ラドフィリア王国とエヴァンズ王国の両大国は大陸東部を二分していた。
緩衝国のサピナ小王国で革命が起こったとき、ラドフィリア王国とエヴァンズ王国の両国は革命軍を支援した。
ラドフィリア王国の現国王は穏健派の賢君と知られている。戦争回避を望み、エヴァンズ王国に対して協力を呼びかけた。
当時、軍事力で劣っていたエヴァンズ王国はサピナ小王国の革命に深く干渉しなかった。
サピナ小王国を中立の緩衝国として維持する密約が結ばれ、両大国の折り合いがついた。
大国同士の協議がまとまった結果、サピナ小王国の革命は他国の軍事介入を受けずに成功した。
ラドフィリア王国とエヴァンズ王国は、東部地域の覇権を巡り、激しく競い合ってきた歴史がある。過去において両国の実力は互角であった。しかし、近年になってからはラドフィリア王国が優勢と見られている。
ラドフィリア王国の都ペイタナは、聡明な国王の治世によって輝かしい繁栄を築いていた。しかし、終わらない栄光はない。
歴史に名を残す大王といえども、老病には勝てなかった。
ヒュマ族の寿命は約百年。ラドフィリア王国の発展を支え続けた賢王は死病に冒され、王家の力は弱体化の一途を辿っていた。
一方で増長している勢力がいた。国王の補助機関に過ぎなかった元老院だ。
元老院が台頭し始めると、王権はますます弱まり、貴族は権勢をほしいままとした。
賢王の力はあくまで個人の才覚でしかなかった。優れた王が没すれば王国は荒れる。その徴候は現れ始めていた。
(――あのカバン。間違いねえや。絶対に大事なものが入ってるぞ。ひょっとして運んでるのは金か?)
貧民街育ちのカールは、盗みで生活費を稼いでいるコソ泥の不良少年だ。
ラドフィリア王国の国王は貧民街の改善に力を注いできた。しかし、元老院の声が強まるにつれて、貧困対策の予算は削減されていった。食糧の配給で治安回復が見込まれた貧民街も、かつてと同じ有様に戻ってしまった。
(無防備だ。あれなら盗めるぜ……!)
ローブを被った人間が、大事に抱えている黒革のカバン。カールは今日の獲物を決めた。
俊足のカールなら、鈍間な警備兵に追いかけられても捕まりはしない。厄介なのは憲兵だ。憲兵は疲労を軽減する鎧を装備してるので体力負けしてしまう。だが、それも創意工夫でどうにかできる。
憲兵に追いかけられているときは、曲がり角の多い路地に逃げ込んで、何処かに隠れてやり過ごせばいい。
(よし……! 今だ……っ!!)
カールは姿勢を前方に倒し、一気に駆け出した。標的は頭からフードを被っている。視界が狭い。音だって聞き取りにくい。背後から迫ってくるカールに気付かなかった。
「――っ!?」
カールは黒革カバンを引ったくる。振り返ることなく、全速力で路地に逃げ込んだ。
獲物を奪ったら、なり振り構わず足を使って距離を離す。それがひったくり犯の鉄則だ。相手が呆然として、何も出来ない間に遠くまで逃げてしまえば勝ちである。
「へへっ! いただきだぜっ!!」
「…………!!」
黒革のカバンを盗まれた人物は、慌ててカールを追いかけた。しかし、盗人の足には勝てなかった。本来であれば、カバンを盗まれた被害者は泣き寝入りするしかない。
「…………ちッ!」
肩が激しい怒りに震える。窃盗の被害者は懐に忍ばせていた小瓶を取り出した。
小瓶の中に入っているのは粘体の使役獣だ。逃げていった盗人の足跡を使役獣に覚えさせる。足跡を辿って、盗人を見つけ出すのは手間がかかる。しかし、何としてでも盗まれたカバンを取り返す必要があった。
「追え。あのクソガキを絶対に逃がすな……!」
カールの足跡を覚えた使役獣は、逃走経路をゆっくりと辿っていく。時間をかけなければならないが、確実にカールの居所を掴める。
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その日、ルキディスはシェリオンを連れて、サピナ小王国の大使館に来ていた。
面会相手は駐在大使のアベルト伯爵だ。
アベルト伯爵は革命に協力してくれた数少ない貴族。サピナ小王国の貴族とは、思えないほど良識的な人物であった。
「やあやあ、よく来てくれたルキディス君! 救国の英雄を待ちわびていたぞ」
「その言い方、恥ずかしいのでやめてくださいよ。アベルト伯爵」
「何を言う? 賞賛の言葉は素直に受け取りたまえよ。はっっははははは!」
アベルト伯爵の母親は、サピナ小王国で虐げられる獣人だった。幸いというべきか、アベルト伯爵は獣人の形質を遺伝しなかった。
伯爵家では他に世継ぎが産まれず、出生を隠して当主に据えられた。
ところが伯爵の弟と妹は、同じ父と母から産まれたのに獣人の形質を受け継いでいたため、他の貴族に面白半分で殺された。弟と妹の復讐を成し遂げるために、アベルト伯爵は革命に参加した。
アベルト伯爵が反旗を翻したのは、自暴自棄に近かった。革命が成功せずとも、弟妹の仇討ちできれば大満足だったと後に語っている。
ところが嬉しい誤算が起きた。内乱の火は広がり、サピナ小王国の革命は成し遂げられた。アベルト伯爵は仇討ちのみならず、解放戦争の英雄として新政権の中枢に関与する立場を得た。
友好国ラドフィリアの駐在大使に任命され、生まれ変わったサピナ小王国に尽くしている。
「問題は山積しているが、この一年でサピナ小王国の国情は安定した。まったく信じられないよ。ついこの前まで、国を転覆させようとしていた私達が、どうやって国を立て直すか真剣に悩んでいるというのだからね」
「我々だけではありません。民の力です」
「ああ、まったくだ。民の尽力なくして、国家は成り立たない」
「目の前にある問題を少しずつ解決していきましょう。幸いなことに周辺諸国も我が国の安定を望んでいます。余計な内政干渉はしてこないでしょう」
「最近は物騒な話を聞かなくなった。良い傾向だ」
「南方のエヴァンズ王国は軍部の改革でもめているそうですよ。しばらくはラドフィリア王国と戦えないでしょう。サピナ小王国という緩衝国を失いたくないはずです」
「戦ったところでラドフィリア王国の圧勝は目に見えている。負けると分かって戦争を仕掛けるほど、エヴァンズ王国は愚かとも思えん」
「今のラドフィリア王は平和主義者です。弱っているエヴァンズ王国を攻撃しようとは考えないでしょう。我が国にとって望ましい状況です」
「ルキディス君の言う通りだ。しかし、この状況がいつまで続くかは分からない。ラドフィリア王は高齢だ。次のラドフィリア王が平和主義者だと思うかね?」
「やはりラドフィリア王国の国王はそろそろ……」
「うむ。長くはないだろう。他国の次期国王について、とやかく言う気はないが、第一王子は性格に難があるらしい。今のうちにできる対策を講じておかねばな……」
アベルト伯爵は眉間に皺を寄せる。先代が偉大な王だと次は愚王となりがちだ。理由は簡単。より偉大な王になろうと無茶なことを始めるからだ。
「ところで、移住したイマノルさんはどうしていますか? 鍛冶職の教育者として活躍できる人材です。苦労して説得したのですが、現地での評判などは?」
「文句なしの職人だよ。ルキディス君は素晴らしい人材を見つけ出してくれた。我が国にいないのは職人の教育者だ。イマノルさんは鍛冶職人の大親方として、職人組合の弟子を育ててもらっているよ」
「それはよかった。我が国の暮らしに馴染んでくれるといいのですが……」
「彼を逃したくないな。ぜひともサピナ小王国に永住してほしい。現地で家庭でも築いてくれれば、我が国に根付くと思うのだがね」
「それはイマノルさん次第です。離婚されたばかりなので、こちらから何かするのはよしましょう」
「うむ。いらぬお節介かもしれぬしなぁ」
「案外、新しい恋はすぐ始まるかもしれませんよ。なにせ大親方なんですから、アプローチする女性は多いでしょう」
「役職と言えば、ルキディス君も何かしらの地位についたらどうかね……? 革命軍の創始者が何の役職も持たずに私ごときの使い走りというのは、どうなのかと思う。捨てた貴族籍くらい復活させては?」
「一度投げ捨てたものです。未練はありませんよ。元々の爵位といっても……田舎の男爵ですよ?」
革命軍の創始者はルキディスだった。
ルキディスはサピナ小王国で反王政の勢力を結集し、愚王を打倒した。
本来であれば国史に名が刻まれるべき偉人である。しかし、経験の浅い若者が指導者では、民が不安を感じるといってルキディスは表舞台には出なかった。革命後も裏方で国に尽くしている。
「革命軍幹部のなかには、君を新王に推していた者だっているのだぞ。女王陛下はルキディス君を嫌ってはいないだろう。……王城で密会してるとの噂はよく聞くぞ」
「勘弁してください。その手の噂が嘘っぱちだとアベルト伯爵は知っているでしょう」
「おや? そうなのかな?」
「はぁ。困ったものです。それが嫌で私はラドフィリア王国に来ているのですよ」
真相を誰よりも知っている者からすれば笑える話だ。全てを裏で操っているのは冥王ルキディスである。
会話に出てきたサピナ小王国の幼き女王は、ルキディスが〈変幻変貌〉で化けたもう一つの姿であった。
美しく可憐なハーフエルフの女王は民から絶大な人気がある。
(一人二役は気苦労が多い。はっきり言ってもう女王は演じたくない……)
愚王と奴隷エルフの間に出来た子供は、使い勝手のよい偶像だった。王家の血を継いでいるが、同時に王家の被害者でもある。
旧体制派の者達からは王の娘ということで支持される。革命に賛同した者達からは、奴隷の娘として開放の象徴と担ぎ上げられた。
ハーフエルフの女王は双方の陣営から愛される虚像となってくれた。だが、愛らしい女王の正体は、人類を滅ぼそうとしている冥王である。
「ラドフィリア王国の貴族は、パーティーが大好きでね。連日連夜遊び回っている。仕事人間の私は非常に辛いよ。大使という立場上、彼らの誘いを断ることができない。ぜひともルキディス君にもこの仕事を手伝ってほしい」
「いいじゃないですか。タダ飯を食い放題ですよ?」
「もうパーティーはうんざりだ。馬鹿な貴族の猥談に頷き返すのもな」
「はっははは。辛辣ですね。しかし、外交官の大切な仕事です。アベルト伯爵には耐えてもらうしかありません」
真相を知らないアベルトは、ルキディスに信頼を寄せている。裏でルキディスが何をやっているか、アベルトが知ることは永遠にない。ルキディスを真の国士と信じ切ったまま、幸福な人生を終える。
「今のラドフィリア王は賢明な御方だ。だが、老齢には勝てない。ついこの先日、王の右腕だった宰相が病で亡くなられた」
「その件は新聞で読みました。元老院が国葬に反対し、見送られてしまったとか」
「王の力はますます弱まり、締め付けられていた愚鈍な貴族は活気付いている。本当に嘆かわしい」
アベルト伯爵は錠剤の入った小瓶を机の上に置いた。
「その錠剤は? 風邪薬という感じではありませが……」
「国を蝕む病だよ。ある貴族のパーティーでこれを渡された。若い貴族達の間で流行っているそうだ」
アベルト大使は錠剤に憎しみを向けている。ルキディスはその錠剤が何なのかを悟り、アベルトの怒りに同調した。
「……麻薬ですか? 忌々しい」
ルキディスは麻薬が嫌いだった。麻薬のせいで、サピナ小王国が酷い目にあったからだ。革命で真っ先に行ったのは麻薬畑の壊滅だった。
現体制下では麻薬に関して厳しい処置をとっている。
「薬物汚染はラドフィリア王国でも深刻なのですか? この国だけは例外だと思っていました」
「王家の力が弱まり続ければ、堕落した貴族が何をするか……。我々はよく知っているだろう。ラドフィリア王国の問題だが、隣国のサピナ小王国にも影響が及ぶ。疫病は国境を越える……」
「麻薬が広く流通しているのなら売人の組織があるはず。どこまで入り込んでいるのですか?」
「まだ貧困街や遊び好きの貴族が使っている程度らしい。ラドフィリア王国の王立騎士団が撲滅に動き出したそうだ。彼らの働きに期待しているよ」
「王立騎士団? 国王直属の騎士ですよね? 王の騎士が動くのなら、王の耳に届いたと言うこと……。老齢とはいえ、さすが賢王と呼ばれた方だ」
「貧民街で魔女を名乗る売人どもが薬をばら撒いている。憲兵や警備兵が思ったように動かないから、王立騎士団に潰させるつもりらしい。上手くいけば麻薬組織を一網打尽にできる」
(憲兵と警備兵が動いていないのか……? まあ、わざわざ騎士を動かす理由はそれしかない。末端の兵士どもは何をしている? 売人から賄賂をもらっているのか……?)
「出来ることなら、頭の悪い貴族も一緒に始末してもらいたい。外国の大使に薬物を渡す馬鹿な貴族など、生かしておく価値はない……! あの馬鹿がサピナ小王国の貴族だったのなら……、その場で首を刎ねていた……!!」
「気持ちはよく分かります。ですが、我が国は法治国家です。首を刎ねるのは裁判が終わってからですよ」
「うっ……! そうだな。気持ちが昂ぶっていた。先程の言葉は失言だった。忘れてくれ……。ともかく、そういう怪しい動きがあると、君に伝えておきたかった」
「サピナ小王国も麻薬を完全に根絶できたわけではありませんからね。この問題は根が深い」
「ラドフィリア王は病で寝室から出られないようだが、それでも王立騎士団を動かして、なんとかしようとしている。あの老王は苦労人だよ」
「寝室から出られない? 不謹慎ですが、そろそろ代替わりが起きそうですか?」
「今年中にあっても不思議じゃない。目聡い貴族は動き出している。元老院の議長はラドフィリア王の腹心だ。議長席を押さえているから、今まで元老院の暴走を抑え込めていた。だが、王が亡くなれば議長の交代を余儀なくされるだろう」
ラドフィリア王が死去し、葬儀になったとしたら、ルキディスはハーフエルフの女王に化けて、参列しなければならないだろう。
ルキディスがラドフィリア王国にいる間は、化けるのが上手い血族に女王役を演じさせている。しかし、血族の擬態は冥王より拙い。
血族は特殊な魔物である冥王や元人間の眷族と違って、純粋な魔物だ。完璧な人間を演じきれない。大衆の前に出る時は、ルキディスが女王を演じる必要があった。
「――王位を巡る争いが起きれば、サピナ小王国は少なからず影響を受けます。アベルト伯爵は引き続き情報収集に努めてください。大国の動き方次第で、小国は潰れてしまう。情報は生命線です」
「心得ている。ルキディス君のほうは、市井の声から情報を拾ってくれ。貴族の情報だけでは偏りが出る。特に商人達は有益な情報を握っているものだ。お互い、祖国のために力を尽くそう」
ルキディスとアベルトは、互いの意思を確認する。
分かり合っているように見えるが、実は分かり合っていない。
ルキディスはサピナ小王国のために働いているが、それが魔物の利益になるからやっているだけだ。サピナ小王国の民が利益を手にするのは、ある種の副作用でしかなかった。
――人類を滅ぼす。それが冥王の目的だった。
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――引ったくりを終えたカールは、がっかりしていた。
石橋の欄干に、奪い取った黒革のカバンが置いてある。カールの期待に反して、盗んだカバンの中に高価な物は入っていなかった。
カバンに入っていたのは古びた動物人形が数体、それと分厚い本が一冊。金の入った財布であるとか、高価な宝石はなかった。
古い人形は子供の玩具だ。貴族がコレクションしている高級人形ではない。子供部屋にありそうな粗末でボロい代物だった。
「嘘だろ……。売りようがねえよ。こんなの……」
カールは分厚い本を開いてみる。ページの間に銀貨が挟まっていたりもしなかった。普通の本だった。
分厚い本はヒュマ文字ではなく、神聖文字で書かれている。カールはヒュマ文字をある程度は読めた。だが、難解な神聖文字は読めない。
「……何の本なんだ? これ?」
まったくのお手上げだった。どんな内容が書いてある本なのかさっぱり分からない。
カールにとって、この本は奇妙な紋様が書いてあるガラクタ本でしかなかった。
「表紙はボロボロだし……。はぁ。絶対に売れないな」
本を売ろうかと思ったが、使い込まれた本はボロボロだった。今にもバラバラに千切れてしまいそうだった。しかも、変な匂いが染み付いている。大した値段はつかないと思った。
「ちぇ……! カバンはご立派なのに、中身は全部ゴミじゃん!」
カールが腹いせに、橋から本を投げようとした時だった。振り上げた右手を誰かが掴んだ。
「――少年、何をしようとしている?」
心臓の鼓動が跳ね上がる。カバンの持ち主に見つかったかと思った。
「この本を川に投げ捨てる気だったな? 罰当たりな小僧だ。この本が何なのか分かっているのか?」
男はカールの手を離さない。その声には静かな怒気が込められている。だが、カールが盗人だから怒っているようではなさそうだ。
川に物を投げ捨てようとしたから、それを注意しているような言い振りであった。
「えっと……、ご、ごめんなさい!!」
カールは男の手を振り払う。捕まった時のために、手を振り払う練習は何度もやってきた。
誰とも分からぬ男の手を振り払い、カールは盗んだカバンを持って駆け出す。
「待て! おい! 本を置いていってるぞ……!!」
背後で男が何か言っているが、カールは気にせず走った。
あの本はどうせ捨てるつもりだった。それならあの男にくれてやろう。あの男が引ったくりの罪を被ってくれるかもしれない。
黒革のカバンは、そこそこの値段で売れるだろう。とりあえずは、それで満足することにした。黒革のカバンを馴染みの盗品店に売るため、カールは王都の道を駆けていく。
――粘体の使役獣は、カールの足跡を辿る。ゆっくりとではあるが執念深くカールへを追い続けていた。